中
蚊ぁ来るな蚊ぁ来るなは約二十九万回だった。
開始時間は刺されて掻いて切って起こして怒られて絆創膏貼ってもらったあとの午前四時ジャストだったから、無駄無駄よりは全然少ないけど、余程意気込みがあったのだろう、思いのほかに多い数。
おかげでその後は蚊ぁを目にすることは一回もありませんでした。とういうことはまだ家の中にいるということですか。蚊ぁ消えろ蚊ぁ消えろを二十九万回繰り返してたほうがよかったのかなあ。
今日もリーパーは頭をどうするか決めあぐねているみたいで、ノーフードで私を抱き締め鎌の上に乗ってもう行けますという体勢になってから鏡に向き直り、無駄無駄無駄無駄。
それにしても私もヒドイ。両方のほっぺに絆創膏が貼ってあるって、なんというか、おてんばよね。今時どんな方法で遊んでもここまで顔を傷つけることはないはず。ヒドイヒドスギル。
無駄無駄様が二十回降臨したところでリーパーはノーフードに決めた。まだ変えてくれるのならば止まる甲斐もある気がするが、これでは本格的に無駄。が、天窓を持ち上げかけたリーパーは落下に近い勢いで降下した。姿見の中には百点満点で赤点ぎりぎりの男と、それに抱えられたヒドスギル女が再び登場。
ええっ、ウソお。呆気に取られて思わず無駄無駄を忘れていると、私の両手がぐっと軽くなった。同時にヒドスギル女の真後ろで赤点顔面男がそそくさと背中を向けているのが見えた。見えるものはほとんど変わらないのに、反射した光景ってあんまり大切にされないよね。そんなことに気づいたときには私はとっくに振り向いていたわけで。
私の手から飛び降りたリーパーは流しの棚の前にしゃがみ込み、取り出した救急箱に両手を入れてなにやらごそごそやりだした。リーパーにとっては重要なのだろうが、私にとってはまったくもって意味不明。得体の知れない不安さえ喚起させられ二の句を継げない。
「俺も刺されたみたいだ。クソ」
私の雰囲気を感じ取ったのか、リーパーが真意を明かした。なるほど薬ねと頷くより先に、私は胸の前まで持ち上げた両手をがっちんがっちん叩き合わせていた。拍手です。念のため。重いからすぐやめたけど。
「おめでとう」
「ありがとう」
「どういたしまして」
無言のリーパー。どういたしましてに返すべき適当な言葉がこの世に存在しないから、という理由で答えなかったに違いない。薬もまだ見つからないらしい。私はどんどん嬉しくなる。蚊ぁ来るな蚊ぁ来るなが功を奏したのだ。ざまみろざまみろ。
「どこどこ? どこ刺されたの?」
「嬉しそうだな」
「気のせいじゃないよ。で、どこ?」
「首だ」
「首? 大変だね。掻いてあげようか」
「殺す気か?」
「うん」
「気持ちだけでいい」
「そんな遠慮しないでよ水臭い」
「自分のときのために取っておけ」
「私はいい。二日で二回切ったから」
「おめでとう」
詰まる。
「どういたしまして」
ありがとうも言ってないのに返された。なんだろうこの敗北感。
薬を見つけたリーパーはフードを伸ばして襟を広げ、うなじの辺りにそれを塗る。いいなあ。あれがよく効くのだ。うまくいっていれば私もあの恩恵によってこんなヒドスギルことにはならなくて、というよりもっとうまくいっていれば、あの薬の手を煩わせることもなかったのだ。
「今日こそ蚊取り線香買いなさいよ」
「ああ。覚えておくよ」
リーパーは真摯に答え、素直に頷いた。これで身に染みたことだろう。今夜こそは蚊に悩まされずに済みそうだ。
リーパーが救急箱を棚に戻して立ち上がったのを見計らい、私は姿見に向き直る。自分の相手に対する気持ちって、それだけで評価を上下させるものよね。おめでとうとどういたしましては気に入らなかったけど、それでも悔いていることが項垂れた姿からも見受けられるリーパーは、いつもの一割はハンサムに見える。赤点一割分だから大したことないけどさ。
リーパーは私の手の上に乗り、お腹を抱き締めてくる。こういうときに拳一つ分ってよくいうけど、私にはどうにもその感覚がわからないので、刃一枚分としておく。とにかくそれぐらい浮かんだところで、リーパーは止まった。
「え、ウソん」
さしもの私も声が漏れるのと顔を歪めるのを抑えられなかった。あごを見上げる代わりに文句なしの赤点に落ち込んだ顔面を姿見で見遣る。その持ち主はというと、私の冷眼などお構いなし、というより気づいてもいないらしく、私のお腹から片方の手を外した。向こうの私がわずかに反った。いや、向こうの私だけが、わずかに反った。リーパーが向こうのリーパーと手を合わせたのだ。
「なに?」
状況にもよるだろうが、突如姿見を押さえつけるというのは奇行以外の何物でもない。この状況はまさにそれで、しかし理由さえ説明されれば、その誤解も解けるというもの。一分もしないうちに、私は納得したのだ。
その寸前にリーパーは傾いた姿見の中のもう一人の自分と睨み合ったまま、私の質問に対する答えを、あまり適当とは言えないながらも返してくれた。
「今日は忙しくなるぞ」
リーパーが押さえていたから、姿見が倒れたり割れたりすることはなかったけど、救急箱や薬剤は一度棚からこぼれた後で、ビデオの逆再生をかけたみたいにひとりでに戻っていった。いやマジだからこれ。
震源地は相当近かったに違いない。マグニチュードは二桁を越したろう。揺れてる時間も長かった。次第に慣れてその震動の只中で一服できそうなほどに。
地震は火事なんかの二次災害のほうが危険だというけれど、今の揺れだけで多くの建物が倒壊し、人間だけで何万人も死んだはず。他の生き物を合わせたら何百万は下るまい。救急箱や薬剤の位置が偶然とはいえ元通りになるのとは違い、減っていくことはないのだから、その数は劇的に増えていくことだろう。
もう髪やフードのことなんかを気にかける余裕はなくなっていて、むしろ追い風なのがこれ幸いとばかりに、リーパーは全力で現場に向かっている。というより、地上はすでに惨憺たるものなんだけど、これ、どこから現場に数えたらいいの?
昨日までは毎日見下ろしていたために、どこに何があるのかを容易に思い描くことができていた鳥瞰図は、もはや答え合わせをできなくなっている。地面より高い建造物はことごとく倒壊しており、その地面はどうやら陥没したり隆起したりしているらしい。あちこちに生えていた高層ビルが跡形もなくなっているのに、瓦礫の山が地下に潜るほど低いとか、逆に前より高くなっているのである。私は等高線ごと変えてしまった今回の鳴動にただただ驚嘆していた。ついでに付け加えるけど至るところから煙が上がっている。爆発音も断続的にズドンボカン。
こういうときにはパニックになるなんていう定説があるけど、思いのほか平和。もちろんそれは、それさえ起きないほどの有様ということで、肝心の生き物の姿は無機物の群に見事に遮断されていた。たまに見えるのは断裂されまくった人体であり、肉片であり、血である。生きていると自信を持って言ってやれるだけの姿は揺れずに済んだ上空にしかいない。多くの鳥たちが異口同音に憐れむ言葉を発しながら下界を眺めて飛んでいた。あんたらはいいよね。この後どこにでも行けるもんね。私たちなんてこれからだっていうのにさ。
リーパーが今日の仕事場として選んだのは、元が住宅街だった、比較的被害の軽微なところ。それでも持ちこたえている建物は一つもなく、半壊ならば立派なものというぐらいの体たらく。瓦礫ばかりで埋め尽くされ、その端っこや奇跡的に空いた隙間から、わずかに人体がはみ出ているのが散見できる。人間以外にもペットだったらしい動物たちが横臥している姿が生活の痕跡を際立たせていた。
小高い瓦礫の山の頂に私を下ろしたリーパーは、私のお腹から両手を外すやそのまま一人で浮いていき、見上げた私に理由を説いた。
「他のところの様子を見てくる。適当にやっててくれ」
僥倖。指示があろうとなかろうと、鎌を振るタイミングが変わりはしないとはいえ、自分だけで仕事ができるというのはやはり気楽でいい。私は返事の代わりに片方の鎌を持ち上げて左右に揺らした。リーパーは顔の真ん中以外にある鼻をひくひくさせて匂いの濃いほうへ飛んでいく。
リーパーが見えなくなったところで腕を大きく旋回させ、その勢いで正面に向き直った私は、早速狙いを定めて手を振り下ろした。梁の下敷きになって生きる上ではありえない形に折れ曲がっているためにこちらを向き、それでもなお慈悲を求めるように私を見つめていた錆猫は、声もなく果てた。殺すためだけに邂逅する一期一会とは何かが異なっている瞳であったということは、視線を交わしたときから気づいていたが、ああ、昨日の。と悟ったのは、大分経ってからだ。それさえ長くは続かない。命の不確かさにゆっくり思いを馳せてやるには、今日の量はいささか多すぎた。
どれぐらいの時間が過ぎたろう。人も動物もそれ以外の生き物も、全てが平等に分け隔てなく、水を掻く習性みたいに無感情に動く私の両手に薙がれていく。たまに動く気配を感じるようになり、それらはほぼ例外なく死神で、その数は次第に多くなってきた。それでもバッティングしないように気を使うことが杞憂になるほど、死を待つ命は多かった。
パシャリパシャリと妙な音が聞こえてきたのはその頃だ。
初めて聞く音だったけど、それで私は誰がいるのかがわかった。
音は少しずつ私に近づいてきていて、程なく私の真横にぴたりとついていた。全く知らない相手じゃないけど別に友達じゃないから放っておこうかなーと思うか思わないかのうちに、向こうから声をかけてきた。
「久し振りね」
名を崎という、死神のリーダー格の美女だ。どのぐらいの美女かというと、考えることもなく上の上の上。背が高くてスタイル抜群で、手厳しいけれど面倒見がいい。百点満点で文句なしに二百点。首から下げたコンパクトカメラで自分が死なせたばかりの生き物の死体を撮影するという猟奇的な蒐集癖が、かえってその魅力を増している。やはり美しいというのは無条件に得なのだ。
「シックルだったわね」
「シックルだったわよ」
「鳩の糞以来ね」
「鳩の糞以来ね」
「相変わらず一人なの」
「相変わらず一人なの」
「真似なんてしないでいいの」
「真似なんてしてないの」
「………」
「………」
「それどうしたの」
「それってどれ」
「ほっぺ」
「どっちの」
「どっちも」
「切った」
「またどうして」
「蚊に刺された」
「刺されただけでそれ?」
「掻いたら切れた」
「かわいそうにね」
「かわいそうにね」
「リーパーに掻いてもらえばいいじゃない」
「寝てたから」
「起こしなさいよ」
「怒られるから」
「じゃあ誰がそれ貼ったの」
「リーパー」
「どうやって」
「起こした」
「怒られなかったの?」
「怒られた」
私が崎の立場だったら、この禅問答みたいな言葉のキャッチボールにいい加減嫌気がさしてくるだろう。手品みたいに二球返ってきたり前触れもなく後ろから飛んできたりプロでも打てやしないキレのあるツーシームが放られてきたりしているようなものだ。でも悪いのは崎のほう。両手が鎌という私にボールをよこすなんてどうかしてる。まともに返ってくるはずないじゃない。
やはり崎も似たようなものらしく、それからは黙々と鎌を振り、シャッターを切っていた。心なしかさっきより雑に映るのは気のせいだろうか。気のせいじゃないだろうね。しばらくしてから再び口を開く。
「リーパーのこと、どう思ってる?」
「死神」
「そういうことじゃなくて、好きか嫌いか」
「死神」
「別に好きなわけじゃないでしょ?」
「死神だって言ってんじゃない」
「わかんないわよ。どういう意味?」
「私もわかんない」
「質問変えるわ」
崎は辟易って具合にそう言うと、思い切り息を吸い込んだところで止めた。深呼吸を中断させて、息を吐く代わりに言葉にする。
「リーパーを捨てる気はない?」
「リーパーは私の持ち物じゃない。むしろ私がリーパーの持ち物だもの。だからあんな風に置いていかれたり」
「リーパーの前からいなくなる気はないかって聞いてんのよ」
倍増して語調が鋭くなった。皮膚に刺さってくるような声のみならず、そこに乗せられた内容に気圧されてボールを返せないでいるうちに、崎はもう一球放ってくる。
「リーパーは死神として失格なの。原因はあなた。とはいえあなたが悪いわけじゃないわよ」
「なんか言葉の使い方間違ってない?」
「つまり、リーパーが鎌であるあなたに命を与え、名前までつけて、一緒に暮らしているということが問題なの」
「別居なら特に問題ないと?」
「くだらない揚げ足取るのやめなさい!」
本気でキレた怒鳴り声。上から怒られるというのはそれだけで萎縮してしまうもの。振り上げた鎌をうまく下ろせなくて、かえってそれが気を良くしたのだろう、崎は私が切ろうとした黒焦げの人間を代わりに仕留めてシャッターを切ると、私の腕を優しく取って自分のほうへ向かせた。ゆっくり下ろしてからも手だけは放さない。
「もし望んでくれるなら、これからは私があなたの世話をしてあげる。といっても私にも鎌はあるから、あなたに仕事をさせるわけじゃない。でも望むなら毎日お手入れもしてあげるし、好きな服も着せてあげる。いつもそんな一張羅じゃ、おもしろくないでしょう? ましてこんな時期じゃ、暑いだけでしょう」
「鎌は着るものなんかにこだわらないわ」
私は崎の鎌をあごでしゃくる。
「そんなものに執着してたら腹立つでしょ。今日は寒いからセーター着せて、とか? そっちじゃなくて手編みのよー、とか? 仕事できないっての」
「リーパーと暮らしてて楽しい?」
今の私のボールを取る気は微塵もないらしい。私もどうでもいい。
「あなたの話だけ聞いてると、ひどく横暴だし、鳩の糞ぐらいで置いてきぼりにするし、死神として最低じゃない」
「そうかもね。でも持ち主によって鎌が喜んだり嘆いたりしてたら、死神だってやってらんないでしょう。私はリーパーに興味ないから」
「だったら私と暮らしてても別にいいってことよね」
「それはちょっと」
「何よそれ。話違うじゃない」
「また誰かと新しく生活始めるなんて、考えただけでめんどくさいもん」
私はもう一度崎の鎌をしゃくった。
「その鎌、今更別の奴に替えたくないでしょう? それと同じ。私もわざわざ死神を替えたくない」
「それならいっそ、普通の鎌に戻してあげようか?」
時が止まり、音が消えたような感覚。初めて崎の申し出を真剣に考えようと思い、というよりすでに考えていて、私は言葉に詰まっていた。
普通の鎌には思考力も想像力も記憶力もない。崎などの他の死神の鎌に話しかけても返事がもらえないように、会話力すらない。なんでそんなこと言い切れるかって? 経験則。私も普通の鎌だったときの自分を覚えていないから。
しかし今、こうして普通じゃない鎌になっている私には、普通の鎌にはない多くのものが備わっている。思考力、想像力、記憶力、会話力。そんなとこかな。ああ、それとあれ、血。一番いらんわ。一番いらんのに一番初めに思いつかず一番最後に思い至るというのはどういうことなのか。重要度高いやら低いやら。
それらを総動員して、普通の鎌になった自分を思い描く。細長い木の柄。でっかい刃。今だったら左右に一枚ずつ絆創膏の貼ってある鎌になるのかなあ。顔って鎌のどの部分にあたるんだろう。刃ではないだろうから、当然柄なんだろうけど、だとしてもどの辺なんだろう。端っこ? 根元? それとも真ん中? まあいいや。なったらわかる。なったときにはわからない。今みたいな顔も体もなく、思考力想像力記憶力会話力の全てが欠如しているのだ。ああ、血も。
悪くないと思った。元が生き物じゃないんだから、命を吹き込まれたところで何の感銘もなかった。それを失うとしても、怖くもなければ恐ろしくもない。痛くもなければ痒くもない。むしろ掻き損ねて痛い思いをすることもないしハナから痒くなることすらない。それでも二つ返事でOKしなかったのには理由がある。血を含めた多くのものと一緒に私に生まれてしまった自我という観念が、躊躇に繫がる疑問を看過させてくれないのだ。
「一つ聞いてもいい?」
「二つでも三つでもいいわよ」
脈があると見たらしい崎は、意気込んで頷いた。無闇な倍増三倍増に気色ばんだ私だが、眉をひそめつつも聞いていた。
「私がいなくなったら、リーパーはどうなるの?」
「テストをするわ」
「テスト?」
「テスト」
崎は頷いた。
「死神適性試験とでも言おうかしら」
「何そのずっと前からあったみたいな」
「ないわよ。ないけどこの際作るわよ」
「何なのそれ」
「死神に適しているかどうかを判別する試験」
「それで調理師に適しているかどうかを判別する試験だったら詐欺よね」
「誇大広告もいいとこね」
崎は私とのやり取りのコツをつかんだらしい。いとも簡単にツーシームをキャッチし投げ返してくるようになっている。何か悔しい。
「それに合格すれば、リーパーは死神として認められる」
「不合格だったら?」
「死神として認められない」
「認められれば?」
「今までどおり死神としてやっていく。ただし、新しい鎌を使ってね」
テスト自体、私がリーパーの元からいなくなってからの措置なのだから、そうなるわな。
「認められなければ?」
「死神を辞めてもらう」
そりゃそうだ。やっぱり話の流れ上、当然そうなるわな。
「死神を辞めたらリーパーは生きていけるの?」
「生きていけないでしょうね。誰かが首を切らなくちゃいけない――文字通りね」
「……そう」
微妙な間を置いてからの剛速球に、私は崎の言うところの辞めてもらうというのが解雇ではないのだと悟り、クソボールすら投げ返せずただ無様に言い淀んだ。年を取らない分、生き物と平等とはいえないが、死神の命もこの世に存在する以上、あまねく有限だったのか。その新事実がさらに私を悩ませる。
「……何て言って出て行けばいいのよ」
「何も言わなくていい。そのつもりなら連れて行ってあげる。今すぐにでもね」
崎は私の腕を軽く持ち上げた。私は同じぐらいの力で腕を引くことでそれに答えた。崎は潔く手を離し、一言だけ残して立ち去っていった。
「気が向いたら、いつでも来なさいね」
今は決められないという心の声を、崎は私の態度からしっかり聞きつけていたようだ。
気が向いたら、いつでも。
無期限の猶予を認めるそれらの言葉は、私がはっきりこっちと自分の進路をどちらかに決めるまで、この密談を私の中にこびりつかせているだろう。けしておざなりにはしないぞと。やるなあ崎、やるなあ。他人事のように思えるのはその感想だけ。
「何ボサっとしてるんだ」
背中に叱責の声が飛んできて、私は我に返る。立て続けに鎌を振り上げては間髪入れずに振り下ろす。その繰り返し。
*
私はほぼノンストップで両腕を振り回していた。ほぼというのは場所を変えるために時折リーパーが私を後ろから抱き上げるので、自ずと止めざるをえないからだ。それでも大災害というのは私も何度か経験しているけれど、あっちでもこっちでも死が群を成しているものであり、移動にさしたる時間はかからない。だから、ほぼ。
リーパーがようやく作業に見切りをつけたのは、空が茜色に染まった頃だった。珍しく遅い。できるだけ長くこの場にいて少しでも多くの命を奪うため、私の手を磨くことができるぎりぎりの時間まで粘ってそうなったのだろう。
リーパーに空高く連れて行かれたときには、今日一日の量と種類の多さと、崎のことがどうにも頭から離れなかったために、久々に数え切れていなくて、何をどれだけ死なせたのかを全く覚えていなかった。錆猫一匹ということだけはありえないのだが、もはや内訳は闇の中。
それでも眼下にはオレンジに色づいた以外は朝とほとんど変わらない瓦礫の山があって、生きてたり死んでたりする人間があちらこちらに見受けられる。もちろん他にも生き物はいるだろう。でも象や麒麟なんていやしないから、一番大きな生き物である人間の姿は目立つのだ。もっとも前者と後者の違いは死神に殺されていないか殺されたかの違いで、元気に動いている人影があったらそれは例外なく死神である。難航なんて言葉が恐れ多いぐらい、救助は進捗していないのだ。
死神だって様々。今から仕事に取り掛かる死神もいれば、私たちと同様にそろそろ切り上げようかという死神もいる。昼前に到着したのを見かけて今なお疲労を感じさせずに鎌をブンブンさせている死神もいるし、仕事のためか趣味のためか知らないが徹夜ぐらいはするだろう崎もいる。
そんな崎はどんな鋭敏な感覚で悟ったのか、鎌を振ってシャッターを切る直前、ずっと静止していたものを確かめるようにレンズ越しにこちらを仰ぎ、露になっているほうの目でウインクしてきた。漫然と下界を眺めていた私もそれでそこに崎がいることを知ったぐらいだ。凄まじい眼力。もっともリーパーは見てなかったみたいだけど。
私は反射的に逃れるように目線を上げ、鎌に色目使うなんてなんちゅう性癖、変態、などと心の中だけでもトボけてみようとしたが、それすらうまくいかない。その目配せに込められた想いをおそらく当人の期待値を上回るほどにビシバシ感じ取ってしまったためだ。気が向いたらいつでも。
そもそもリーパーが崎に目をつけられ、妙ちくりんなテストの対象にされているのは、私がいるからとのこと。さっきのやり取りは、傍目だったらおちょくってるみたいに映ってただろうけど、崎の言いたいことはよくわかってる。死神は鎌に命を与えてはいけないのだ。鎌を擬人させ奴隷のように扱い仕事に使うなんて、他の死神は誰一人としてやっていない。それが死神間で問題になっているのだろう。
私だってどうなのかとは思う。自分が他の死神の鎌と違って命を吹き込まれていることへの違和。そのくせこき使われているような気がして理不尽を感じる瞬間瞬間にはたまらなく沈鬱になる――やったことないけど、身動きの取れない森の中で、道を切り拓いているような感じ。私が歯を食いしばって木を切り倒し枝葉を掻き分け進んでいき、通りやすくなったところをリーパーが泰然と着いてくるような不公平。茨を切るのはいつも私。切り損なって傷を負うのはやはり私。その傷を治すのはリーパーだけど、かいがいしい治療を施してくれるわけではない。私の両頬に貼られた絆創膏とその下にある裂傷の間で残像のようにわだかまっている平手の事実が、そのヤブ医者ぶりを喧しく物語っている――その蓄積がどこかで私に普通の鎌に戻りたいと考えさせるのだ。けれど。
私は試すように体から力を抜いてみた。リーパーはうおっとか言って、急に重くなった私を取りこぼしてしまわないように腕を締める。なに遊んでんだと叱られたが、私は聞こえてすらいないみたいに答えなかった。
改めて私は自分の立場を知る。私は鎌だ。死神の鎌だ。自負でも矜持でもいわんや意地でもなく、ただそれだけのもの。普通の鎌が持ち主のために枝葉を切るのは当然だし、死神の鎌が持ち主のために生き物を切るのもまた当然。そして私はその死神の鎌。リーパーが私に命を与えたようには、私はリーパーとの縁を切れない。それが死神の鎌ってものじゃないのかな。
命を吹き込まれてからかなり長い年月日が過ぎている。便宜的にそれを生まれたときだと言うならば、私は今、生まれて初めて自分のことを幸せだと感じたことになる。私は幸せだ。あてもなく長い夜にどうしようもないぐらいの孤独と同様に襲い掛かってきた、自分は何なのかという不安が解消されて、今私は幸せだ。私は死神の鎌だ。これまでもこれからもずっと死神の鎌だ。これまでもこれからもずっと、幸せだ。
「ねえねえリーパー、さっきさ、私のところにさ」
頭上で轟いた、あーっ! とかいう絶叫が、崎が来てさあ、と続けようとした私の口を結果的に封じることになった。どうしたのと問うより早く、私はリーパーの両腕による拘束を解かれていた。
「用事思い出した、ちょっと待ってろ」
よんどころない事情で私がその言葉を把握したのは、たっぷり十秒経ってから。ようやく返事ができたのは、その二秒後。
「どうしたのよ!」
用事思い出したっつってんだろ!
彼方に浮かぶ豆粒のような小さな影からリーパーの怒声が辛うじて届いた。私としてはその詳細を知りたかったし、それを尋ねたつもりだったのだけど、その真意は伝わらなかったらしい。用事って何よ! と改めて叫んだときには、もう豆さえ消えてその答えを得ることはできなかった。諦めて目先の難に当たることにする。
さて、今私がいるのは電信柱のてっぺんである。下から見ていたときの何倍も高度を感じる不思議なところ。よんどころない事情とか目先の難とかいうのはこれだ。いくら手近なところに他の高所がなかったとはいえ、用事などというほとんど何でも当てはまる理由でこんな狭い円形のコンクリートの上に残された私は、とてもじゃないけど安閑とはしていられない。詳細を知ったところで剣呑であることに変わりはないが。
幸いにして無風状態かつ、地震による影響が少なかったのか足場にさしたる傾斜も見られないので、両手をヤジロベーよろしく真横に広げることでどうにか落下を免れているが、私の体重の半分を有する両腕の鎌は、徐々に私の体力を奪っていき、いつしか風もないのに全身がぐらぐらするようになった。腕が疲れてしまってうまくバランスを取れない。鎌を左右に垂らして腰を曲げて重心を低くすることで堪えている。必死。
今風が吹いたら私は落ちる。風速一㌢でも余裕で落ちる。風向きの方向へと確実に落ちる。ううう。そうなったらどうなるんだろう。山ほど見てる人間の飛び降り死体みたいになるのかなあ。頭が粉々になったり、目が飛び出たり、手足が千切れたり、胴体もぐしゃグチャになったり、それから私の場合だと、うーん、鎌が腕からもげたりするのかなあ。ちょっと待って。だったら誰が私を仕留めるのよ。鎌が鎌を切るなんて聞いたことないよ。つーか私は壊れるだけか。生き物じゃないんだからね。あっ!
へっへーん。今、ドキッとしたでしょ? 落ちたー! とか思ったでしょ? 違うんだなっ、これがっ。
あっ! で気がついた私は早速それを実行に移したってわけ。鎌でバランスを取りながら少しだけ跳ねて足は前に投げ出しお尻から着地したの。思ったよりコンクリは固く、大分痛くて、しかもさすれないのが辛かったけど、それもすぐに戻っていく。
さっきまでの私なら、こんな厄介な場所に置き去りにする輩の神経を疑い、呪詛の一つも投げつけてやるところだけど、死神の鎌という肩書きを肩書き以上のものとして獲得できた今の私は、いつまでも待つよと見えないリーパーに言ってあげられる。どうせそれしかできないし、などという後に続きそうな言葉は、皮肉としてはもちろん、揶揄の役割を担うこともない。
意気込んで決めるような物事でもなく、時間の潰し方は自ずと定まった。足をぶらぶらさせてみる。無駄無駄無駄と呟くよりも、ずっと健康的。
いい風が吹いている。下界の惨状を全く無視しなければこうはならない心地良い空気。悪い風もたまに来る。死んで時間の経った生き物が特権のように装備する独特の臭気。風そのものの強さや角度はまちまちだけど、私を突き飛ばす悪意は孕んでいない。もっともちょっとぐらいの目論見ならば、鎌を的確に動かしてバランスを取ってやれば切り抜けられる。慣れたものだ。前にもそういうことをしたことがあるのだ。そしてそれよりはずっと楽だ。
あのときは、と、前にそういうことをしたときのことを思い出した。物凄い悪天候が到来した、とある昼下がり。ある高層ビルの屋上で、リーパーに一人取り残された私は、急遽発生した豪雨と強風に対抗するべく、鎌を振り回して落下を防いだのだった。ずぶ濡れの体と鎌に直接体当たりしてくる雨滴は、徐々に私の体力を奪っていった。あのときは他の死神が見つけてくれたから家に帰れたけど、もうちょっと遅かったら自然の力に打ち負けて、私はぶっ壊れていただろう。
ここだけを切り取って話せば、誰が聞いたってリーパーのアホウと言いたくなるだろうし、かく言う私もそうだった。でも物事には順序があるわけで、これだってそう。いきなりこの状況になったわけではなく、伏線がちゃんとあるわけだ。今になってみるとそのことがよくわかる。
あの日は朝からよく晴れた、けれども日差しの柔らかな、過ごしやすい気候だった。天窓の下でもそれを感じ取れるほど、あんまり素敵な日だったから、今日は仕事したくないなあなんて、独り言みたいに呟いたことを覚えてる。きっとそれを聞きつけていたのだろう、私を抱いて外に出たリーパーは、向かい風が前髪を乱すのも構わずに、あのビルへと直行したのだ。
私はいつものように、この近くに死が近づいているのだと思って構えていたけど、待てど暮らせど生き物の姿はなく、当然の如く死もやってこず、リーパーは両手を枕にして昼寝と洒落込んだ。眠ることのできない私は一人、神経を研ぎ澄まして鎌を構え、現れるわけもない死に備えていた。
思えばリーパーはちょっと変わったことをするときには、決まって私に何も言わない。髪型が崩れるのを承知で日向ぼっこの名スポットに連れて行ってくれたのだろうが、黙っているから私はのんびりすることもできなかった。
昼を過ぎたぐらいにリーパーは起き、気持ち良さそうにくあ~っとあくびをしたところ、頭上から鳩の糞が落下してきた。糞は無防備に大きく開いたリーパーの口の中に落下し、一気に喉を通過する。身に降りかかった災難を悟ったリーパーは、たちまち怒り狂って鳩を追っていき、私は置いていかれた。雨と風が手を組んでやってきたのはその直後。
でももしかしたら、リーパーは笑い転げている私が気に入らなかったのかもしれない。とんでもない不幸に見舞われているのに、そばにいた私は身をよじってひいひい言っているのだから、嬉しくはないだろう。慰めや励ましの言葉の一つでもかけてあげれば、私を置き去りにすることなどなかったのではないか。
言ってくれれば鳩の一匹ぐらい、サービスしてあげたのに。
まあ、私も何も言わなかったしな。反省反省。
夜の退屈を持て余しているのとは違った気持ちで、私の足はその動きの多寡によって揚力を得られるかどうかが決定するとでもいうように激しく前後する。こうして一緒にいないときのほうが珍しいにもかかわらず、早くリーパーに会いたかった。再会によってこのわくわくはすぐにも収まってしまうだろうけど、この高揚した気持ちは記憶として残るだろう。その心地良い思い出は私とリーパーの関係をかけがえのないものにしていく工程に大きく寄与するはず。リーパー早く。
そのとき、向かって右斜めの辺りに「ガクン」という擬音をつけてやりたいぐらいの勢いで、私の体が傾いた。調子に乗って足を前後させすぎたと悔いるのも束の間、そんなことでバランスを崩すほど私は愚図じゃないと誰にともなく否定する。現に私が固化してもなお、私の体は傾いていてその上弾むように揺れているじゃない。
揺れている? そうか。これは余震だ。本震の壮大さに倣った、相当に大きな。
俄然私は脳漿を散らし眼球を放ち鎌が吹っ飛び、つまるところ壊れた後の私の姿をそういう経験があったみたいに想起した。飛び降り自殺の既遂者や不幸にもそれと変わらぬ最期を迎えた事件や事故の被害者がモデルになっている模様。そしてその予想図は程なく実現する。天変地異に抵抗する術などあるわけもない。私はずり落ちてしまうだろう。
死神の来訪によって死を悟った多くの生き物がそうだったように、それ以外の要素でやはり死を悟った人間の多くがそうだったように、私は早くも目を閉じていた。どうしてだろう、何かが変わる気がするのだ。それにしても、私はどのように終わるのか。誰か死神がやってきてくれるのだろうか。そこで私ははたと気がつく。自分で自分を刈ればいい。
確実性を増すために、私は両手を振り上げる。万に一つの可能性に賭けて、揺れが収まるのを待ち、あえなく無駄に終わったその瞬間、私は自分の首に目がけて鎌を下ろした。できなかった。
まず私が感じたのは、触れるか触れないかというほど刃に近いところを握り締められている感触。落下していない自分に気がつくのがそれに続き、恐る恐る目を開いてみて、全身が伸び切っているけどどうにか静止している状況を視覚的に確認する。そして同時に、懐かしいとは思わないけど、確かな既知感を獲得する。前にもこんなことがあった。
「鳩のときと同じね」
それは以前の経験の客観的証明であり、もう一方からの主観的証明でもある。ほっとするあまり私は脱力してしまい、取りこぼしそうになるのを防いだために私の両腕の拘束はやや強まった。私の中では早くもいつもの減らず口が回復していた。
「鳩のときじゃよくわかんないよ。鳩の糞のときだよ」
「しっかりわかってるじゃないの」
崎は軽く吹き出して、私もつられて微笑んだ。
「リーパーが一人で飛び去っていくのが見えたから、もしやと思ってやってきたの。大正解だったわ。今度はどうしたの。鶴の糞でも落ちてきたの?」
「用事思い出したって」
崎は無反応。私はまばたき二回。同じ感じで繰り返してみる。
「用事思い出し」
「死神に生き物を死なせる以外の用事があるとは知らなかったわ。鎌差し置いてまでしなくちゃいけない用事ってなんなのよ。だったらなおさら、鎌に命なんて与えなきゃいいじゃないの!」
私のリピートが終わるのを待たずして一気にそこまでまくし立てた崎は、やおら私の両脇を担ぎ上げて飛び立った。物凄いスピードだった。どこに向かうのかは定かでないけど、私の住処とリーパーの行き先ではないところを目標としていることだけはわかった。
「私が一番気に入らないのはあの態度。あいつほど鎌を大切にしてない死神を私は他に知らない。私たち死神にとって、鎌は最も信頼しなければならないパートナーなのよ。ほっぽらかしにするなんて、言語道断だわ」
言うだけのことはある。崎はパートナーの指定席であるはずの手を両方とも他の死神の鎌に費やしているにもかかわらず、肝心の自分の相棒は柄の横腹を噛み締めることで確実に保持し、その上で利己的な同僚をとことん非難する主旨のこれだけの量の言葉を見事な滑舌で喋ったのだ。それはリーパーに隷属しているだけの、それしか許されない私には、吐露するどころか発想すらも不可能な、本音だった。
撤回する。ちょっと前に幸せだと思ったのは、誤りだった。自分が何であるかという手応えを確保するためについた、しょうもない嘘。
あまり大切にしてくれない相手と、それでも一緒にいなくてはならないから、自分のために使ってもらうわずかな行動を厚意のように感得することで、充足を味わっていたのだ。いつの間にか皮膚みたいに全身に張り付いていた処世術が、胸が痛くなるほど憐れだった。なのに私はその胸を押さえることもできない。惨め。
そして私は初めて知った。鎌って泣けるんだ。
崎の家には、やはり玄関がない。広く突き出したベランダがリーパーの家の天窓のようなものだ。リーパーの家の、ね。
宙ぶらりんから解放された私は重力に任せるままに鎌を下ろし、ようやく人心地をつける。背後に降り立った崎は自分の鎌を手に持ち替え、私の背に手を添えて薄暗い室内に入っていくと、そこで何がしかの操作を行ったらしい。覆いの被せられた蛍光灯が天井で照り、たちまち部屋が明るくなった。
広いんだか狭いんだかよくわからないというのが、その空間を目にした私の第一印象。中央に、リーパーのと比較すると性差によるものなのだろうか、ホテルみたいによく整えられたベッドが構えていて、そのベッドを中心にしてこちら側、つまり窓を除く三方は、スリムな崎ならすんなり通れそうな隙間を隔てただけのところに、天井に接するぐらいに巨大な本棚が屹立しているのだ。それぞれは密着はしておらず、やはりウエスト四十台なら阻まれずに行き来できそうな通路が設けられていて、その先にも本棚が整然と立ち並んでいるらしかった。
私は崎に誘導されてベッドの足元へ進む。そこで四半回転させられて肩を下に押され、ふかふかのクッションの上に腰かける。崎は本棚に挟まれた狭い道を風のように通り抜けた。
改めて周囲を見てみると、本棚にみっちり詰め込まれているのは、全て茶色い革張りの背表紙だ。どれもこれも結構厚い。死骸を収めた写真が網羅されているアルバムなのだろう。リーパーの言によれば、カメラが発明される以前の崎は、スケッチブックにポートレートを描いていたということだ。奥のほうの棚にはそれがあるに違いない。
「軽蔑する?」
鎌を脇に挟み、コンパクトカメラに新しいフィルムを挿入しながら、崎が戻ってきた。
「目的を知らないからわかんない」
私は正直なところを答える。崎は頷いて、手近な一冊を手に取った。適当にめくりがら言う。
「私はいつも、仕事から帰って鎌の手入れをした後は、寝るまでこれを見返して、自分が殺した生き物を確かめるの」
目的を知って、また正直に答える。
「変わった趣味ね」
「趣味じゃないわ」
崎は否定の現れのように音を立ててアルバムを閉じると、一瞥くれて告げてきた。
「ライフワークよ」
「軽蔑する」
そう言い放って後ろに倒れ込む。ついでにもう一言。
「悪趣味」
「趣味じゃないっての」
もはや顔を見るのも嫌だった。視界を手で遮ることができない代わりに、これでもかというほど固く目を閉じる。すかさず影に覆われたので、眉の間に力を入れてせめてもの嫌悪を示してやった。
「私は仕事に戻るけど、それまで待っててね」
そう聞こえたのとほぼ同時に、私は抱き上げられる形で両脇を支えられていた。思わず目を開いたが崎が何をしようとしているのかはわからず、投げ出した足がベッドの上に移っていくのが感じられるだけ。
一連の作業は如何を問いただす前に終わった。崎は私を枕元まで運んでくれたのだ。その後も早くて、私が半身を起き上がらせたときにはもうすでに、夜の闇に紛れて見えなくなってしまっていた。
お礼を言いそびれたことへの後味の悪さと一緒に、私は再び後ろに倒れる。腰を浮かせて枕の中心に頭が来るように調整する。いつもリーパーが占領してるから、こうしてベッドに横になるなんて、初めてかもしれない。
当たり前だ。私は鎌だ。いくらパートナーとはいえ、鎌と同衾する死神なんているものか。ベッドであろうとなかろうと、鎌が寝そべってるってだけで異常なのに。
鼻の奥が熱を帯びてきたことで我に帰り、卑屈になってしまったなあ、と思った。反省なのか、単なる感慨なのかは、よくわからない。ふと、普通の鎌に戻りたいなという、ある種の自殺願望が、あまりにも実体を伴わずに頭をもたげてきた。こんな私に未練はない。
息絶えた瞬間の人間がそうなるように、顔を横に倒してみる。眠りに落ちたときのリーパーによく似ていることに、急に気がついた。崎も毎夜、あんな風になっているのだろうか。
考えようとして、目線を上のほうへ傾けてみる。
優しいってのは、何なんだろう。
何かに優しくするためには、結果として、何かを蔑ろにしなくてはいけない。
もちろんこの場合、生き物を見下す必要はないはずだけど。
私は目を閉じ、さらに首まで戻すことで、崎の手によって果てさせられた無数の命から逃れた。都合の悪いものは、一度見えなくなると、記憶としての事実だけが残って、その悪辣が希釈される。
崎は優しい。性癖はあんなだが、リーパーが鏡に映る自分に恋してるのと同じだと思えば、何てことない。
とにかく、崎は優しい。リーパーとは大違い。他の死神の鎌にまでこんなに手厚くしてくれるぐらいだから、ここにいれば二度と嫌な思いはしないで済むだろう。いや、今の私が嫌だと感じるような思いは、と言うべきか。
覚えず微笑を浮かべていた私は、えいやっと両手を持ち上げて、お腹の上で拍手した。程なく私でなくなる私への、私からのお祝い。重いのに耐えかねて手が疲れるまでそうしてやるつもりで。
でも、がっちんがっちんの連続は、あまりにも中途半端に終了した。がっちんがっちんがっ…といったところ。まだ腕も痺れてないし息も切れてない。だったら戻らなくてもいいかと考えたのだ。
もし私がここで悠久の時を過ごすことになったら、こんな感じでずっと瞑目していればいい。そうすれば、山ほどあるアルバムやスケッチブックはもちろん、夜になるたびそれらを紐解いて悦に入る所有者の姿をも、隠匿してしまえる。
けれども私の思考は、やっぱり戻してもらおうという結論に近づいていた。
感情なんて、鎌には必要ない。
血とか涙とか、私には必要ない。
一度だけ、こういうのを無念無想というのだろうなと感じた以外には、何も考えなかった時間が果てるともなく過ぎていったあるとき、私の体に異変があった。ゆさゆさと左右に揺すられている感覚。
私は崎の帰還を疑わず、「鎌は眠らないのよ」などと言って目を開いたのだった。しかしそこに崎はおらず、まだ私の体は揺れていた。体格差のために振幅こそ違えど、私と同じ動きをしている輪形の電灯やアルバムを見るまでもない。しかし相手のほうが速かった。
余震の再来を悟ったときにはもう遅く、窓側を除いた三方の本棚から、一気呵成にアルバムが雪崩れてきた。ワタシハザキデモナケレバザキノカマデモナイノヨ! と胸の奥で早口で口走ってしまうほどに、命を奪われたものたちの報復にも感じられる現象に怯んでしまっていたせいで、少しでも身を縮めて両腕で顔を隠すぐらいの防護しかできない。
落盤みたいな音を伴って連続であちこちに落ちてくる衝撃と痛みを何で痛覚なんかがあるのよと自分を苛みながらしのぎつつ、崎のやってきた行為の量を重みで知る。実際はこの何万倍分もあるのだろう。私も今の私になる前から換算していけば、勝るとも劣らないぐらいの数を死なせてきたはずである。彼らもまた、私にこうしたいのかもしれない。
徐々に余震が収まり、前後して死者たちの反撃も終了した。痛くない場所はないというぐらいに全身が痛くて、服の下は痣だらけだろうと確信する。私が普通の鎌だったら柄が折れて刃が曲がってるかもしれない。二度と鎌として用いられることはなかったろう。それでも痛くはないからそっちのほうがよかったかも。
私は体勢を戻そうとして諦めた。こぼれ落ちたそばから山積していきベッドを埋めるぐらいにうずたかくなったアルバムのせいで足を伸ばすこともできないので、いっそ半身を起こしてしまう。そこで決めた。戻ろう。もう理由らしい理由を列挙する必要はない。戻ろう。
おかしいな、と思った。私には今の自分への執着なんてなかったはずなのに、そう決めてしまった途端、早くも全てを失った気がした。失ったらイヤでもわからなくなるのに、わかっているうちから失うなんて、割に合わないよ。
目頭が熱くなってきて、そんな自分がおかしくて、吹き出すみたいに笑って、鼻を吸い込んで、その動きを利用して天を仰いだ。タイミングを見計らっていたのだろうか、時間差で落下してきた最後の一つが接着するように表紙から顔面に直撃したのは同時だった。
鎌で患部をさするわけにはいかないということは、頭でわかっていても体がついていくわけではない。だからこそ私の左右の頬で絆創膏が頑張っているのだ。それでも条件反射を押さえ込んだのは、もはや意地だった。激痛より恥辱のほうが勝った感じ。首を思い切り振って顔にへばり付いたアルバムを投げ飛ばす。横の本棚に当たって跳ね返って落ちたのを音で確認。いい気味。
自尊心というのはたいしたもので、感傷なんかよりもなお、切実に未練を失わせる。が、これを理由にこの世とオサラバというのは、何か無性に腹立たしくなった。勝ち負けで言うと圧倒的な敗北。考えてみれば死んだ奴らに苦しめられるなんて、とてつもない屈辱。生殺与奪をほしいままにする立場から見ても、私は上なのだ。
けれど今の私は、そんな敵愾心さえ、惨めさに吸い込まれる形で早々と収斂してしまう。鎌に勝敗なんてないはずだわ、なんて。
ニヒルに笑った私はすぐに歪んだ口元を引き締め、謝意を込めた目でたった今投げ飛ばした死者たちを見遣る。だが、喉元まで昇ってきていた謝辞は、それ以上進むことなく、かといって戻ることもなく、幻のように消滅した。
弾みでそうなったらしく、アルバムは開かれていた。そこには虫魚禽獣の亡骸を捉えた写真が秒単位まで仔細に刻まれた日時とともに等間隔で丁寧に並べられているのだが、その中に一つだけ、毎日鏡越しに見ている顔が写っていた。人間が息絶えた瞬間特有の、横に倒れた具合で。
乱れてるせいで長さはわからないけどやっぱり真っ黒の髪。痛そうに閉じられてはいるけどやっぱり眠たそうな目。苦しげに半開きになっているけどやっぱり生意気そうな口。服はどうやらパジャマみたい。白地にピンクの水玉がばら撒かれている。顔を中心に撮られているから足元は見えない。まあ黒いローファーってこともなければ赤いハイヒールってこともないだろう。服装から推測することだけど、顔の周りにあるのは枕だろうから。でも私が目を逸らせなかったのは、顔の両側で力なく寝そべるパジャマの長袖。肩から肘の辺りまでは膨らんでいるが、そこから先は平らになり、閉じられた袖から先は何もない。あるべき腕がそこにないのだ。もちろん刃なんてなければ柄さえもない。けれどもその顔は。
「うわあ、ちょっと、大丈夫だった?」
いたく心配してくれているのが察させられる声で、私は振り返る。ベランダに降り立った崎が鎌の柄を口にくわえたところで、迅速かつ丁寧に散乱したアルバムをどけていく。
「また揺れたみたいね。最初や二回目のときはこっちは平気だったのに。どんどん範囲が広がってるわ」
どうにか獣道みたいな通路を設けたところで、ため息混じりに鎌を口から離し、こちらを見遣る。
「リーパーが見つかった。これから死神適性試験をやるわ。よかったら来る?」
私ははっきり二回まばたきをした。崎は続ける。
「これがリーパーの最期になろうが、あなたが普通の鎌に戻ろうが、あなたたちが出会うことは、これから先に二度とないからね」
私は返事すらせずに力なく首を戻し、話題を大きく逸らした。
「これは何」
崎の気配が近づいてきて、程なく頭の形をした影が、私の顔を接写した一枚を覆った。影はほんの一瞬の間にのけ反るような動きを見せ、すかさず鎌を口に戻す。
その刃に刈られたものたちという奇妙な連帯感。そして、殺された生き物に死後また生きる時間が与えられるならば、きっとこんな気持ちを抱くのだろうという憎悪が、私の深奥に同時に萌芽した。しかしそれらとは少し離れたところで、もう一つ別の、私にしか得られない感情が芽吹き、私はその噴出を抑えきれない。
「私は何だったの?」
自分でも驚くぐらいの強い語気が私の口をつんざいていた。崎は後ろから私の両脇を抱え、先の質問に対する是非すら明らかにしていないにもかかわらず、闇に染まった外へと私を連れ出した。
ようやく訪れた崎の返答は、ある意味正解だった。
「そんなのリーパーにしかわからないわ」