上
不意に、ぼんやりとだけど明るくなって、私はそっと顔を上げた。垂直。すでに首が痛い。
雨が多いわけではなく、曇りばかりというほどでもないのがここら一帯の特徴だから、別に珍しいことが起こったわけではない。丸一日お日様を目にすることのなかった昨日までの空模様を鑑みると、小鳥のさえずり程度の風が吹き、分厚い雲がのそのそ動いたというぐらいのこと。朝になったら晴れるだろう。
呆れるぐらい長い時を、ここでこうして過ごしているのだから、ちょっと考えなくてもわかってるのに、なぜだかそこにそれがあることを、つい確かめてしまう。
天窓のずっと先、はるか彼方に月が浮かんでいるのだ。向かって左側がえぐれて、もうちょっとで上と下の半分ずつに分かれてしまいそうなほどスリムな三日月。とてもその面積からとは思えないレモン色の光を私の目に狙い済まして放ってきている。
私はまぶしさとそれに由来する鬱陶しさから顔をしかめ、その表情をも利用して三日月を睨む。もっともそんなことされたところでお月様は泰然としたもの。どっしり構えて平気の平左。落ち着き払って輝いて、いつもの務めを果たしている。それにしても平気の平左か。私なんでこんな言い回し知ってるんだろ。いつどこで覚えたんだか。
しかし首が痛い。常に真下へ引っ張られているような独特の両手が起因しているに違いないだけにタチが悪い。
不遇な身の上を呪いながらごっきんごっきん首をぐるぐる回していたが、ん? と思って変なところで止めてしまった。筋がピキっとイったが、幸いにして痛みはなかった。ほんの一瞬、月が真っ二つになったように見えたのだ。
身を乗り出し、よーく見ると、そんなはずない。もう一度言うけど、ちょっとした弾みで断裂しそうなほど、今宵の月は頼りない。あまりにも痩せ細っているものを骨と皮だけなんて言い方をすることがあるけど、あれはもう皮だけ。肉はおろか骨もない。でもだからっていくらなんでも本当に割れるわけがあれー?
確かだった。月は右から左に切れて、切れたそばから元に戻っていった。でもさっきは逆からだったはず。およ? 今度は上から下へと縦に裂けて、ん? 斜め? ん? ん? 今、左下から右上のほうにいかなかった? 雲? じゃないよね?
「ひゃんっ!」
出した自分が驚くほどの、大きくも艶かしい声を上げたとき、私はそのままもげてしまっても諦めるしかなかったというぐらい思い切りのいい勢いで、左上から右下って具合に頭を振り下ろしていた。
嬌声を含めてそんなことをした理由は、月が割れたり戻ったりするのを訝り、少しでも近くで見ようと背筋を伸ばしたところで、何の前触れもなく甲高い羽音が耳たぶに触れたためだ。
慌てて前を見たが気配はない。どうやらリーパーは私の悲鳴には気づかず夢の中を漂っているらしい。ちょっとだけほっとする。別に気ィ使う必要なんて、本来はこれっぽっちもないはずなんだけどね。
リーパーを確かめた反射の分だけ遅れて私は音の正体を悟り、月を幾度も分断させた犯人までをも見抜いていた。それは私がこの世で最も忌み嫌う生き物である。名を蚊という。
まだこの目で確かめたわけではないけれど、私は早くも癪に障っていた。今に限らず、何度も不愉快な思いをし、それとほぼ同数、痛い目を見ているのだ。両腕に力を込める。そのときをじっと待つ。いざ、積年の恨みを晴らさんと。
なかったら困るんだろうけどなくても変わんないんじゃないってぐらいの月以外に辺りを照らすものがないから、圧倒的に光量が乏しく、よって視界が狭い。暗くぼやけた空間では、とてもじゃないけどいてもいなくてもわからないような彼奴の姿を捉えるのは困難。
私は上目遣いに月を見て、それだけでは彼(彼女にしようか。月って基本女だもんね)の下半分も確認できないので首にがんばってもらうことにした。痛いなんて言ってられない。そりゃ痛いわよ? でもこれでいい。あいつがもう一度彼女の前を横切るとき、私は思い切り腕を振り上げて、あいつの体を切り裂いてやる。見てなさい。
………。
………。
………。
………あっ。
………。
あーゆう決意をしてすぐにそのときが来れば私としてもありがたいってわけ。すぐとは言わないまでも、意志が揺るがない間だったらそれでよい。なのに、蚊め。蚊の分際で。ちょーっとだけ、ほんのちょーっとだけ集中途切れた途端にサッと現れやがってコンチキショウ。
一つには首のせいもある。重力に逆らい続けてるのって辛いのよ。さすってやれないのがなお辛い。そんで気なんか抜いちゃってグキグキ鳴らしてる最中に来たりするのよね。ンまアそこまで世の中うまくいかないか。悪くっていうの? あっ…。
………。
………いっちゃったよ。
………。
蚊ーめー…。
こー…のー…やー…ろ、おらっ!
………。
………。
手ごたえなし…ちぇっ。
心象描写だけが八行も続いちゃなんのことかわからないよね。ゴメンネ。その内の半分は点だしね。専門用語でこれをリーダーと言います。私は、おらっ! で、利き腕でもある左手を振り上げたのだ。
でも、空振りだった。空気を下から上に薙いだだけだった。
けれどもコツはつかんだ。
姿を見せたそのときじゃあ、チト遅い。その少し先に手が来るようにして、そこにあいつがやってくる具合にしないといけない。そうすれば自ずと真っ二つにうおりゃ!
………。
………。
………。
声も出ないというのはこういうのを言うのよね。
絶対逃さないって決意が強すぎて、つい両手振り上げちゃったもんだから、鉄と鉄が衝突し合ってその衝撃が腕から全身に、頭と言わず、体と言わず、足のつま先にまでもガチーーーーーンと伝わって、私、じんじん痺れてるの。ちっとも動けないぐらいに。
ぁん? 蚊はどうしたかって? ヒラリと逃げおおせましたけど? んでもってここが千載一遇のチャンスとばかりにこれ見よがしに私の目の前を飛び回ってくれていますわよ? どうやら相当に元気いっぱいらしい。憎たらしい。あんた覚えてなさいよ、ちょっと後にどうなるか。
!
野郎。今完璧に私のこと意識しやがった。バーカとか書いていきやがった。漢字で! 最後にハートなんかつけてたし。私は私でなんで余裕ぶっこいてじっとそれ見てたんだろうね。とっくに自由取り戻してたのにね。『馬』が終わって『ー』挟んで(専門用語でこれを音引きと言います)『鹿』に差し掛かるときにはピンピンしてたわよ。実を言うと何書くのかなあって少しだけ期待してた。なんか笑わせてくれるのかなって。わくわく。
私、ちょっとだけこのコのこと、好きになれそうな気がしたの。
そんで『鹿』が出てきたときに絶句して、ハートマークのときにやっとこさ理解した。
私、見下されてる。
もう許さん。さっきまでだって許す気はなかったけど、それにも増して許さん。私は椅子から降り、両手を上段に構えた。ちょっとよろめいてしまったので、ひとまず右手を床に置いて堪える。それから正面をじっと見据える。
さて、敵は本気になった私に恐れをなしたらしい。自分の体より大きい汗の粒を散らしながら全速力で私から離れようとする奴の醜態がバッチリ見えるわ。うわははは。幻覚かしら?
私は右足を一歩だけ前に出し、踏ん張れるように下準備をしてから、右手を胸の高さに持ち上げる。もうよろめかないわよ。そして左手を下段に構え、腰を落とす。
こうなると蚊なんて気の毒なものね。逃げようがないじゃない。右往左往してるわ。うおーとかさおーとか喚いてるわ。すいません今のは幻聴です。ついでに訂正しますさっきのも幻覚です。てーかただのウソです。
そろそろ真面目にいくわよ。月明かりのおかげで私も大分暗闇を見通せるようになっていたので、蚊の姿は結構見えてる。これホント。あからさまに手の届かないところとか、手は届くけど、届かせるにはちょいと色んな意味での勇気がいるなあってところを行ったり来たりしてる。なんで戻るんだろ。いっそずっといろよそこに。虫ケラってほんとに嫌ですね。
そんなわけで臨戦態勢を整えた私は、蚊が視界に入ってくるたびに手を振った。もうさっきみたいなドジ踏まないように、片手ずつ。利き腕の左から、次は右、お次は左、フェイントかけてもう一度左。あらら慣性がつきすぎて半回転しちゃったわ。ええいこのまま回ってやれ。くるりんくるりん。おほほほほ。こんな対戦格闘ゲームのキャラクターがいたような気がするようなしないような。ああ。やばい。余計なことして見失った。
「ぷぁっ!」
野郎。また私のこと意識しやがった。口に触れていきやがった。意識の意味が違うだろうコラ。何が悲しくてあんな虫ケラに唇奪われなきゃならんのだ!
それ以上に何が気にくわなかったって、その後のあいつの行動よね。月に昇っていくかのように天窓に張り付いたのだ。かわいそうなお月さん。きったねえデキモノができたみたい。かわいそうな私。あれではどんなに手を伸ばしても届かない。完全にもてあそばれてるじゃないのさ。
ようやく本気になった私は(さっきも本気になったじゃんとか言わないよーに)膝を曲げ、ぴょんと跳ぶ。気分はまるでウサギさん。で、普通に座ってても足が床に着かないという、肩ぐらいまである真後ろの椅子の上に着地。どんなウサギじゃ。ま、実を言うと後半は両手で床を押し付けて体を持ち上げただけなんだけど。
さて、これで届くのかというと、実はそうでもない。背伸びをしてバンザイしてもただでさえ狭い足場の上でよろめくばかりで下手すりゃ頭から落下する。もっと下手すりゃ私の体が真っ二つになる。
そこで私は両手を前に揺らしていくことにした。後ろの壁に刺さらないように注意しながら、ゆっくり、ゆっくり。軌道は徐々に大きくなっていき、首の疼痛を犠牲に確保している視界の一番下に見え隠れしていたかと思うと、やがては私の頭の上までやってきた。
後ろの壁(上のほうのね)に当たって跳ね返って勢いよく戻ってきて後ろの壁(下のほうのよ)に刺さるのをやっとのことでようやく制することができるという状況になった頃、私は自分が人形にでもなったつもりで全身から力を抜いた。直前に振り上げた両手の重量に引っ張られる形で、私の体は椅子から離れて室内に浮く。
念のため私の作戦を説明しておくと、このように素晴らしき慣性の協力によって仰向けになり真っ逆様になりうつ伏せになり頭の位置が元通りになり、という具合にくるりんりんと縦回転しつつ天窓のそばまでやってきたところで、右手を天井に突き刺して体を固定。そして自由の利く左手でおもむろに潰してやろうという感じ。
………。
………。
…………………………………。
…。
計画の実際が青写真ほど伴わないのは仕方ないよね。
世の中そこまでうまく(悪く?)いかないって。
慣性に裏切られた私の体は『くるりんりん』どころか『くる』ぐらいで止まってしまい、うつ伏せになったところでウンともスンとも言わなくなった。
で、ちらっと見えたんだけど、蚊、もう、天窓にいなかったよ?
これじゃどんなにうまくいっても仕留めることなんてできなかったよね。
白状すると、動くものって苦手なのよ。
基本的に私、ほとんど動かないものしか相手にしてないし。
私はせめて被害を出さないために両手を広げ、あとは運に任せることにした。
任せようもないな。
あと数センチってところだもんな。
ごめんねリーパー。
そういえばいつかの啓蟄に冬眠から目覚めてすぐに10tトラックに轢死させられたヒキガエルがこんな感じの声出してたなあという醜い音が、私のお腹の下から飛び出した。あえて文字にするなら「ぐゲばぼッ!」
私の体は弾むように腰から上が反り返り、そのあとで両脇を持ち上げられて座らされた。リーパーが上半身を跳ね起きさせ、大の字になってへばりついている私を腰の上にまたがらせたわけである。
茶色いパーマに顎髭を蓄えた、中の下の下といった男のしかめっ面が、月に照らされて私の正面に浮かんでいる。ノンレム睡眠(多分ね)から手荒く覚醒させられただけあって、さっきベッドに潜り込んでいく前より二回りは眠たそう。その一回り目の眠たいと二回り目の眠たいに挟まれて、叩き起こされた憤懣は爆発しそうになっている。さながら本能と感情のサンドイッチ。自分で考えながら意味不明。
必然性はともあれ、私がダイビングしてきたということだけは何となく把握している模様。んまア、これじゃどうにも言い訳のしようがないよね。リーパーは寝起きのせいだけとは言えないくぐもった声で聞いてくる。
「何事だ」
「蚊がいたの」
それだけではワケがわからないらしい。アニメだったらアレグロで半音ずつ上がりながら無数のクエスチョンマークが顔の周りをライオンのたてがみのように覆っていっているに違いない。逆の立場だったら私もそうだろう。これでは伝わるものも伝わるまい。そこで一部始終を説明することにした。
私をじっと見つめるリーパーの?製のたてがみは少しずつ消えていく。代わりに寝起きでいかにも気だるい表情に変化が起こってきた。見た目こそまばたきのためにまぶたを閉じるとそのままカクッと落ちてしまいそうなままだけど、その意味合いはどんどん殺伐としてきている。憎悪と敵意が紙一重で、判別するのが難しいほど。どっちもロクなものじゃない。
私としてはこの状況に至ってしまった正当性を主張し、釈明をよりよいものにするために身振り手振りを交えたくなるが、そんなことしたらますます立場が悪くなるのは火を見るより明らか。
でも熱中してしまうとつい体を動かしそうになってしまう。
でも堪える。そんなことしたらもっと窮地になっちゃうわよと自分をたしなめて。
でもでもでもでもだめだった。一瞬リーパーの瞳が動いたと思ったら、たちまち腕を鷲づかみされていた。いつの間に手を振り回そうとしていたの私。
ああ。ヤバイ。
リーパーの顔から完全に眠気が消えた。もう怒りしかそこにない。
なので私は全てを話し終える前だったけどすかさず言った。
「耳塞いで」
リーパーは私の左右の耳を押さえてくれる。それから肩書きに恥じない形相を恋人かお前と言いたいぐらいの距離まで近づけてきた。いやーんリーパーにもチュウされちゃいそ。
心にもないノロケをかましてる場合ではない。神妙に項垂れて反省しなきゃ。目線がちょうど歯ぁ食いしばった口元に向く。
口の動きから放送禁止レベルの悪口雑言を言っているのはわかるけど、それをまくし立てている他でもない本人の大きくて逞しい両手のおかげでそれらはほとんど聞こえてこない。そのことには気がついていないらしいから、頭はまだ眠っているのだろう。これならしばらくは付き合ってやっていいわ。
目を合わせようとしないのが気に入らないのだろう、たまに揺すられるのでそのときは申し訳程度に見上げてやることにした。けれども威圧的な顔面なんかを見つめていても一文の得にもならないので、できるだけ早くしょんぼりと顔を下げる。しばらくするとまた揺すられて顔を上げる。顔を下げる。顔を上げる。顔を下げる。上げる。下げる。上げる。下げる。なんかわらべ歌が作れそう。せっせっせーのよいよいよい。シックルちゃんがさーげる。リーパーちゃんがあーげる。なんて。そんな動作の応酬の何度目かで、私は思わず目を剥いた。蚊がいたのだ。
反射的に手を振りかざしていたことに、私はまたもリーパーに両手をつかまれて気がついた。てめぇなぁ…という声が地の底から響いてきたように、あらわになった耳に届く。でも今はそんなこと気に留めていられない。
「言ってるそばから何しやがる…」
「おでこに止まってるの! あっ!」
飛んだ。かと思ったらリーパーの右のほっぺに止まった。私の利き腕のほうである。いい度胸してンじゃない。私はすかさず左腕を動かしたが、リーパーに物凄い力を入れられたので、左手は蚊に届くどころかその場で軽く暴れただけ。
「刺されちゃうよ!」
「そっちのほうがよっぽどマシだ!」
リーパーは私の腕から手を離すや、川で鮭を獲るヒグマ顔負けの敏捷さでほっぺたの蚊をむしり取った。すぐさま天井に赴き天窓を開け、軽く握った拳を開いて中のものを放り投げる。
「逃がしちゃうのお?」
私の不満にリーパーは答えない。窓を閉め、手をはたきながら戻ってきた。私はなおも言う。
「潰しちゃえばいいのに」
「たかが蚊ごときで大人気ねえぞ」
「子供だもん」
「お前に歳があるとは知らなかったな」
「私は特別。七歳なんでしょ?」
「それぐらいならわかるだろう。蚊も精一杯生きてるんだ」
リーパーはやおら私を抱え上げ、椅子のところまで運んだ。肩を押し付けるように腰を下ろさせ、うなじが見えるほど頭を垂れて情けなく懇願する。
「頼むよシックル。俺疲れてんだ」
いつになく弱々しい姿を前に何も言えないでいる私に、さらに続けてくる。
「こんなことで騒がないでくれ」
「こんなことってことはないよ。刺されたら痒いじゃん」
「知るか!」
目の前で持ち上がった顔は再び高圧色に染まっている。こうなると私だって黙ってられない。
「蚊取り線香買ってきてよ。あれがないからこんなことになるんでしょ」
「わかったわかった、また明日な」
前々から要望しているにもかかわらず、いつもいつも忘れている引け目があるため、こう言ってしまえばこっちのものだ。リーパーは唐突にトーンダウンしてベッドに戻っていった。
リーパーは概して眠りにつくまでが遅い。どんなに仕事が長引いても、しばらくはどたんばたんと寝返りが聞かれ、たまに私が話し相手になる。それでも今夜の場合は不測の起床だったため、意地でもとっとと寝ようという意思表示がいやに規則的な呼吸音からも感じ取れ、果たしてそれは成功した。速くなったり遅くなったり、たまにつっかかったりする不自然でない寝息が、ものの二十秒で私のところまで聞かれるようになったのだ。何の話題を振ってくるのかなあと、少し期待した矢先だった。
ため息とともに肩を落とした私は、おとなしく身を縮め、一時間がせめて十分ぐらいの長さになればいいのにと、叶いっこない想像で頭の中を満たした。そうすればせめて、あーんと、それでどれぐらいなんだろう。五十分ぐらい? それぐらいならいい子で待つよ、私。そうしたらリーパーが起きてきて、ちょっと支度して、仕事に出かけられる。あんな退屈な作業でも、何もしてないよりは百倍マシ。
ほんの一粒の砂糖でも、塩ばかり舐めていた舌に落ちてくれば、体がとろけるような甘露をお腹いっぱい飲み干したのと変わらないほど甘みを感じるもの。いやまあ私も経験したことないから保証できないけど、なんかそんな感じしない? とにかく私はそれぐらい甘美に、大したことのない近い未来に酔っていた。しかも空想。
だから空想だっつてんだろ! それすらぶち壊して現実に引き戻しやがって! 蚊! もう一匹いたわけではない。リーパーに逃がされた奴がオリジナルの侵入経路から戻ってきたわけでもない。しかしそれらのほうがどれだけ都合が良かったか!
私の左のほっぺが激烈に痒くなってきたのだ。場から消えてもなお存在を顕示できる彼奴等の習性にはほとほと頭が下がる。いくらでも下げるからもう来ないでください。
リーパーが起きているときなら、掻いてもらうなり薬塗ってもらうなりできるけど、これでは手も足も出ない。出るには出るけど、どうせ無駄だもの。無駄手? そんな言葉ないね。無駄足? 意味違うね。
とはいえ痒いという感覚は、耐えよう忍ぼう我慢せねばと思ったところで、果たせるようなものではない。私は慎重に慎重を期して手を持ち上げ、重みと恐れで震えそうになるのを肉体的にも精神的にもなだめすかし、ゆっくりと患部を掻いた。
痒いのを掻くとどうして心地よい気持ちになるのだろう。痒くないのが一番いいはずなのに、こっちのほうが幸せになってしまうなんて、なんだかいけないことみたい。体を壊すからこそ健康のありがたみがわかるっていう、あのノリなのかな。イタっ。
どうでもいいことを考えていたせいか、あんまり気持ちいいから調子に乗っていたせいか、おそらく両方だろう。氷が横切ったような痛みがほっぺたに走り、たちまちそれは灼熱を伴う激痛に変わっていく。
見るともなしに見た私の左手には、月明かりだけでは真っ黒にしか映らないどろりとした液体がわだかまっていた。その少ない全量が切っ先に結集する様に、私は慌てて角度を平行にしたが、それにもかかわらず、液はちぎれ、滴となってぽとんと落ちた。
溶けた暗闇たちはその後を追うように月明かりの底を侵していく。なんて無力な私。あまりにも重いせいで、自分の手すら完全な平行にはできないのだ。
「リーパー…リーパー…」
そんな抑揚のない呟きを十回近く繰り返している間に、向かいのベッドで衣擦れの音が発してくる。
やがてリーパーは顔だけを覗かせ、力を込めた薄目に聞こえてきているのが空耳か実際の声かの判別を託し、程なく後者であると悟るや、その姿勢のまま問いただした。
「今度は何だ」
「切っちゃった」
「あん?」
「ほっぺ」
鋭い舌打ちが私に刺さった。
「お前バカだろ。何で我慢しないわけ? 何度同じことやってんだよ。そうなることぐらいわかってんだろ。そこまでして俺の睡眠を妨げたいか」
リーパーはそう言うと、聞えよがしなため息をついてベッドから這い出し、救急箱を取り出してから私のそばに寄ってきて、その中身をまさぐった。ガーゼで血を拭き、薬を染み込ませた脱脂綿で傷口をなぞる。一連がどうにも乱暴なのは、二度も叩き起こされたからというわけではなさそう。でも私にだって言い分はある。
「そんなに言うなら今からでもいいから蚊取り線香買ってきてよ」
「そんな時間ねえよ」
精一杯絞り出した文句を一蹴され、私は黙り込む。
「明日もはええんだ」
「えっ! 今何時?」
「三時五分」
「なあんだ…じゃあ今日だよ」
「ああそうかい」
そう投げやりに言われても困る。リーパーにとってはどうでもいいのだろうけど、私にとっては重要なのだ。朝までの時間が長ければ長いほど、私の拷問はどんどん苛烈を極めるのだから。
リーパーは最後に絆創膏をぴっと伸ばし、頬の上に押し込んでくる。必要以上の力でぐっぐっぐっ。何かしら。これはさっきの仕返しかしら。
「もう起こすんじゃねえぞ」
そんな風に釘を刺してさっさと背中を向けてしまったが、その颯爽とした動作による風圧のせいで、本人にも予想外の事態が起こってしまった。見なくても触らなくてもわかる。絆創膏がめくれてきたのだ。というより今まさに視界の↙に見えた。ぽろりと行くのも時間の問題。
「ちゃんと貼ってよ。剥がれちゃうよ」
ちょうど横になったところだったリーパーは、無遠慮な唸り怒声を追い抜く勢いで起き上がった。イライラを隠そうともしない歩調で目の前まで来ると、すでに浮いている絆創膏の片端をつまみ、手首を利かせる。平手打ちの乾いた音がほんの一時、暗い静寂を支配した。
リーパーは言葉も発さず、私と目も合わせようとしないで、スイングの軌道すら利用したように、素早く身を翻した。前髪をはためかせるほど強い風が起きたが、絆創膏は私の体の一部になったみたいに、めくれることもない。
ほっぺはもう、痒くなくなった。けど、たっぷり痛い。しばらくはじんじんしているだろう。
でもそれ以上に痛い場所がある。こっちのほうが深刻で、一度癒えたと思っても、何かの拍子で簡単にかさぶたが剥がれてしまうに違いない。
リーパーはそんなこと知る由もない。知ろうともしない。とっととベッドの中に潜り込む。そのうち眠ってる。朝になればほとんど忘れてる。明日になればもっと忘れてる。私はきっと、ずっと忘れない。忘れられない。
私は肩をすぼめ、前屈みになり、せめて自分の体積を小さくしようと心がけた。痛みが和らぐわけでもない。けれどもやらないよりはましかなと、無意味じゃないよと思いたくて、意地を張って、このほうが少しはいいんだと、自分を騙す。
ぼろぼろになった胸を押さえてあげられないのが、ただただもどかしかった。
*
今更だけど、私は鎌。
リーパーは死神で、私はその鎌。
元々は長ーい木の柄の先に湾曲してるでっかい刃のついたベーシックな死神の鎌だったんだけど、あるときリーパーに命を吹き込まれて、今の姿になったの。
外見及び身体的特徴は人間の少女。真っ黒の長い髪。眠たげな薄い目。生意気そうに膨れた口元。臙脂のトレンチコート。黒いローファー。身長百二十センチ。体重四十キロ。年齢は七歳だそうです。何をモデルにしたのかねぇ(遠い目)。
寿命があるわけでもなく、物を食べたり出したりすることもできないのに、どういうわけだかこんな風に血は通ってる。AB型。なんで? 別にOならハッピーってわけじゃないわよ? 一体これに何の意味があるのかわからないってこと。役に立つのは蚊に吸われたりして痒くなり、掻き損なって肌を裂いてしまったときに流れたりするぐらい。いらん。
血が通ってるのはまあいいや。何の役にも立たないけど大したことじゃない。一番厄介なのは――私は自分の腕を持ち上げてみる。相変わらず重てぇなあコイツら。やっとのことで頭の上までやってきたコイツらは、月明かりを浴びて暗闇の中に攻撃的に光った。それとは直接関係ないが重かった。ああ重力の恐ろしさ。とてもじゃないけどいつまでも見つめていられそうにないので力を抜く。今夜の月と同じフォルムの二つの手は、そのもの自体の相当な重みで落下し、床にぶつかってどしんと音を立てる。体が少し浮いた気がした。でもリーパーはぐっすりのまま。それでいい。また目を覚まされたら何言われるか――私の手が両方とも鎌ということだろう。
ただの鎌ではない。死神の鎌だ。毎日毎日生き物の命を刈らなければいけないので、一日と欠かさず手入れをされてるから、切れ味がハンパねぇ。これがなければ掻き損なうこともないし、あんな風に悪態つかれながら手当てしてもらうこともない。根本的に、もっと簡単に蚊を仕留められる。
もちろんここが普通の人間の手みたいだったら、私が鎌である理由がなくなっちゃうわけだけど、これほど不便なものはない。さっきの絆創膏にしてもそう。身の回りの世話は全部リーパーにやってもらわないといけない。もちろん手を磨くのも。七歳女児の平均体重を大幅に越えてしまっているのもこれが原因なのだ。片方十キロ。二つで二十。手だけで二十。はーあうんざり。
手とは関係ないけれど、眠れないというのも酷。
そりゃ鎌がいびきかいたり寝言言ったりしたら一大事だよ。たまには稲でも刈りたいわあとか? この世の終わりだわ。あな恐ろしや。だからなんで私こんな言葉知ってるの? リーパー的には寝相のほうが恐ろしいんだろうけどね。それは自分でもわかる。もし私が眠ることのできる体質だったら、寝てる間にそっと連れ出して、ライ麦畑に運んでみるといい。私が目を覚ました頃にはミステリーサークルよろしく不思議な模様ができてるはずだから。私にはそういう癖があると思う。同じようにこんな狭いところで寝たら、リーパーなんて五秒でミンチになるに決まってる。リーパーが百人いたとしても、五百秒で百人分のミンチになるに決まってる。うん。悪くないね。グラム四十八円でいいわ。これがホントの出血大サービス。うひひ。
だから別に眠りたいってわけじゃないけど、夜になってリーパーが寝ちゃってから、じーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(百字。秒にすると十秒。もういい。疲れた)っと何もしないで朝まで椅子に座ってるって、すっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ(五十で止めてみる。それでも五秒)ごく退屈。
あでもちょっとだけ暇潰し思いついた。
早く朝になれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(十秒)でも疲れるかなあ。でもほかにやることないしなあ。
では今一度。
早く朝になれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(十秒。こうして私はお月様がお日様とバトンタッチするまでの時間を過ごすのか。無駄無駄無駄無駄)あこっちのほうがいいかも。
無駄無駄無駄無駄――
八時を少し回った朝の光が、正方形の天窓を通り抜け、宙を舞うほこりを照らすことで、その軌道を示している。
あえて数を言うなら八畳一間。形式を言うならフローリング。必要がないために使う者がいないことから、キッチンもトイレもバスルームもないこの立方体の部屋には、他に窓がなければ扉もない。
目安とするべきものが劇的に乏しいから、前後左右の定め方は難しいけど、天窓の真下から四時間弱西側にずれた光の位置で、方角だけはうかがえる。
まず東。ここには木製の簡素なシングルベッドが、サングラス置きと名前を変えてもいいようなサイドテーブルと一緒に置かれている。通常はベッドって壁に横向きに据え付けるものだけど、この室内では縦長に構えている。朝日を目覚まし時計の代わりにしようという、怠惰な主の横着な発想がなせる業。私の体が熟睡中のリーパーめがけてダイビングするという思いもよらぬことを巻き起こした責任の一端はここにもあるのだ。でもってリーパーがいつでもお行儀よくお日様と一緒に行動を開始するのかというと、そうではない。天気が悪い日なら寝坊することもあるし、今日みたいなギンギラギンには立ち上がったと思ったらすかさずこちら向きに倒れ、義務と権利のように二度寝にスライドすることもある。おかげで私はわざわざ見たくもない茶パ天パの頭頂部を見つめながら、一旦終了しかけた無駄無駄無駄無駄を再開することができた。結局完璧にリーパーが覚醒するまで、私はざっと四十万回「無駄」という言葉を繰り返すことになった。本当に無駄な作業だった。これが夜毎続いていき、これまでも続いてきたのである。眠れない苦労、少しはわかってくれたかしら?
西は私の居場所。小さな丸椅子に壁を背もたれにして腰掛けている。私の背丈より若干高いので、足をぶらぶらさせても床には届かない。その代わりだらしなく両腕を垂らすとちょうどいい位置に木目がある。鎌の峰が溝にはまって落ち着くという、おそらく私にしかわかりえないマニアックな心地よさ。というよりこうしておかないと腕が疲れるのだ。
南。キッチンもトイレもお風呂もないのに、ここには流し台がある。蛇口は二つ。水とお湯が出る。昨日リーパーが閉めそこねたまま今なお開け放たれている観音開きの棚の中には、リーパーが使う整髪料とブラシと茶色のヘアカラー(白髪染めでしょ? って言うと怒るの変なの)、それにハサミとバリカンとカミソリが一つずつと、救急箱。それに私の両手のお手入れをするための砥石やら研磨剤やらワックスやらが、専門店開けるぐらい多種多様に取り揃えられて並んでいる。綺麗にしてもらうのはやはり気持ちいい。水や薬液に目では見えない金属の穴を埋められていく感じがたまらなくいいのだ。またマニアックな話でゴメンネ。
最後は北。ここには私たちにとって究極的に不必要なものがでーんと控えている。巨大な姿見だ。何のためにあるのかというと、リーパーが身だしなみを整えるため。今日も二度寝を終えたリーパーはベッドから降りて靴を履くと、すぐにこの前に立ちはだかった。まずは寝癖のチェック。首を前後左右に振り回し、てっぺんから奥まで覗き込むようにして、気になるところを手櫛で軽く梳く。手強いときは整髪料とブラシにも応援を頼むが、今日は必要ないみたい。私にはどこまでが髪型でどこからが寝癖なんだかちっとも区別つかないけど。続いて髭のお手入れ。顎に広く薄く短く生やすのが好みらしい。伸びが遅いからたまに剃るぐらいでよく、今日はいつものようにへばりついているのを確認するだけ。剃るときはハサミとバリカンとカミソリとを駆使して一㍉の狂いもなく刈り取るのだ。その都度いっつもやってあげようかと言っているが、いっつも無視されている。わざと手元を狂わせるとでも思ってるんだろうね。正解。最後に服を整える。しわを伸ばしてほこりを払い、足元までを覆う黒いローブは新品さながらにパリッとする。それでもリーパーはご不満らしい。今もなお、フードをかぶってみたり、外してみたり、首をかしげてまたかぶってみたり、外してみたり、サイドテーブルのサングラスをかけたり、外してみたり。〽無ー駄無駄無ー駄無ー駄無ーと動作に合わせて数えていてみたら、八回で終わった。今日はノーフードでいくらしい。それからがまた長い。ニヤけてみたりポーズをとってみたり、ニヤけながらポーズをとってみたり。無駄無駄がいくらあっても足りないぐらい。中の下の下がやることじゃない。
これを見てると猫に小判とか豚に真珠とかと同じニュアンスの良くできたことわざが思いつきそうなんだけど、思いつきそうで思いつかないでいる幾年月。いくら凝っても足りそうにないので納得できるものが遠いのだ。
やっぱり死神って単語は欠かせないわよねえ、なんて思ってると、リーパーが体ごと顔を向けてきた。
「どうだ」
「うん、素敵よ」
「こっち見て言え」
「バッチリ決まってる」
「目え開けろ」
「まぶしすぎて見てられないの」
「まあいい。事実だからな」
「殴ったろか」
「お前の手じゃ無理だ。行くぞ」
私はお尻を滑らせる要領で椅子から降りる。あなたがこれまでのところをちゃんと読んできていて、算数でいうところの長さに人並みに強いなら、椅子に座って足ぶらぶらのくだりでわかってるだろうけど、そうじゃない場合やそうじゃない人のために断っておく。私の腕はそれほど長くない。でも鎌の手先は地面に足をつけているときに腕を真下に伸ばすことができないぐらい大きい。なので私の手はずるずると音を立てて私の後についてくる。
天窓の真下に私が止まったのを見計らい、リーパーは浮く。文字通りね。そうなのよ浮いたのよ。背中や肩に翼や羽根があるわけじゃないのに、死神ってのはチートレベルのスキルをほしいままにしてるの。そりゃあ、たまに車でやってくることを考えたら、こっちのほうがいいだろうけどね。
摩訶不思議の揚力で膝の高さまで浮いたリーパーは、ゆっくり移動して私の後ろに回り込むと、私のお腹を両手で抱え、さらに高く上がっていく。
私の両手の二振りの鎌も、私の体、私の足に続いて浮かんでいき、リーパーの左右の足の外側を触れるか触れないかぐらいの幅で、ゆうらゆうらと前後に動く。日を反射する光も、尖った刃先と広い弧の内側が上に向いているわけだから、心なしか鋭くて自分でも怖い。
ここでリーパーは足元をそよぐ危険な光を、足のサイズ(26.5㎝)の分だけ闇に包み込むべく踏み付ける。
すぱっ。
ぎゃー。
ウソウソ。
リーパーが履いている革の靴は、底が私の鎌の素材より頑丈なのだ。切れるわけがない。チッ。
すぱっ。どころか、がきっ。といい音がして、猛獣さながらな私の一部は支配下に置かれてしまったのだ。チッ。
「あ、ちょっと待て」
そこから少しだけ高く上がったところで、リーパーは左に旋回する。割と大柄なリーパーよりものっぽな姿見は、左のほっぺにかっきり四十五度の角度で斜めに絆創膏を貼り付けた私とそれを抱きかかえるリーパーを、正面からしっかり映している。リーパーは難しい顔でうーんと唸りつつ、片手でフードをかぶり、また脱いだ。
「無駄無駄」
「あ? なんか言ったか?」
「なんでもなーい」
その後私が十回ほど心の中で無駄無駄を繰り返したところで、リーパーはやっと納得がいったらしい。天窓を押し開け、先立って頭から外へ出る。私の目線もようやく上へ上へとスムーズに進んでいき、八畳一間の部屋が下に下にと遠ざかる。
私たちの仕事について、この辺りで実例を交えつつ、軽く触れておこう。簡単に言えば殺すだけ。難しく言っても殺すだけ。その対象は人であったり動物であったり虫であったりして、基本的に選り好みはしない。ここポイント。基本的に、だからね。
「今日はどのくらい?」
「昨日と同じか、それより多いか少ないか」
「うん。全部当てはまるね」
「あえて言えばまあまあってところだ」
リーパーは私のお腹から片手を離し、一舐めした指を突き立てた。そうして風向きを見るや伏せるように体を寝かせ、向かい風の出所を目指すように私を連れて飛んでいく。
死神は自分の近くにいる全ての生き物の今際を感じ取ることができるので、その場に駆け付けて鎌を振る。今にも死にそうに弱っている生き物には、死神の鎌に耐えうる力が文字通り致命的に欠乏しているので、これによって完全に絶命する。物質的な行為ではないので、血が飛んだり肉が散ったりするわけではない。私とリーパーに限って言えば、このプロセスを分担して行っているというわけ。
逆に言えば死神が鎌を振らない限り、その生き物は傍から見てどんなに常識外だとしても、いつまでだって生き続けるのである。苦しんで悶えているのになおその生き物がなかなか死ねずにいるとき、そのそばでは決まってサディスティックな死神が狂喜しているのだ。
あるいは鎌を振ったとしても、鎌の手入れをおざなりにしている死神の場合、致死を免れることもある。九分九厘死ぬだろうと予想されていながら奇跡としか言いようがない具合に復活した生き物は、その直前まで自分の怠慢を悔いたり恥じたりしつつなまくらな鎌を盲滅法に振り回していた死神から生還した証明であるのだ。
つまり別の言い方をすれば、死神はその気になりさえすれば、寿命でもなんでもない生き物を、故意や過失や好悪によって死なせることができるのである。飛行中に物の弾みでよく切れる鎌を落としてしまい、死の影が露ほどもなかった健康な生き物を無下に死に至らしめてしまううっかりさんもいる。別の死神だったら致死には届いていないという理由で見過ごすところに、サービスを施す者もいる。蚊に刺されたことを理由に報復がてら腕を振る死神の鎌も約一挺いる。突然死なるものの多くは、当事者にとってはこんな風にバカバカしかったり腹立たしかったりショボかったりする事情が主な原因なのだ。
その点リーパーは、自分と同じぐらい鏡が大好きという癖は、まあそれは人格的な要素だからご愛嬌と見なしてあげるとして、真面目な死神だと思う。
まずサドでは(おそらくマゾでも)ない。一日一回と決めている鎌のお手入れを欠かしたことも(少なくても私が今の姿になってからは)一度もない。ふとしたきっかけで鎌を落としてしまうなんていうくだらないミスをしたことだって、両手で「ぎゅっ」としてくれているからやっぱりない。というより、あったら間違いなく私が壊れてしまってこの場にいない。他の死神は大概片手でぶら下げているから落としちゃうのよね。致死判断はというと、これも可もなく不可もない。どの死神が見てもまずまず妥当に違いない。そして絶対に好き嫌いを挟まない。蜂に刺されても(実はリーパーの見てないところで私がちょちょっと巣に触って遊んでたら飛び出してきたの)犬に噛まれても(彼にしてみれば直前に死なされた母親の敵討ちだったのだろう。私に来ないところが素敵)ふとあくびをしたときに鳩の糞が口の中に入って吐き出す間もなく飲み込んでしまっても(全くの偶然。ビルの屋上で休んでたときの素晴らしい奇跡。私はお腹抱えられない代わりに身を折り曲げて笑い転げてた)絶対に果たせる復讐を遂げようとはしない。
本音はどうか知らないよ。蜂のときは死神に喧嘩売るたぁいい度胸だとわめき、犬のときはこの野郎お前もお袋の後追わせるぞと怒鳴り散らし、鳩のときは私を置き去りにしてまで追いかけていったわけだから。ちなみに鳩のときの私は他の死神が偶然見つけてくれたんで一人で家に帰ってました。
もっともリーパーの場合、実際に鎌を振るのは私なんだけどね。だから好悪によって生き物を死なせるのは、リーパーではなく私の独壇場。それは一番やってはいけないことだと口しげくリーパーが言うし、私もそう思うのだけど、わかっていてもやめられるわけではない。だって、蚊って鬱陶しいじゃない。
風向きが変わるたびに、リーパーの目的地もちょこちょこ変わる。髪型が乱れるのが嫌なので、常に向かい風のほうへ進んでいくためだ。これがフードをかぶっているときなら、フードがめくれるのが嫌なので、追い風を背にして飛んでいく。でもあんまりそれではただの風見鶏になってしまう。時には髪がばたついてもフードが外れてもお構いなしになることもあ。ほらね。
横殴りの風にもかかわらず、リーパーは加速さえして一目散にどこかへ急ぎ始めた。前髪がばたばたと音を立ててサングラスの隙間から目に刺さるほど暴れているのに見えてすらいないみたい。近いところに死の寸前の生き物が発している独特の臭気を嗅いだのだ。特殊な嗅覚を持たないただの鎌の私にも、程なくしてそれが見えた。
一軒家や小さいアパートが連なった住宅街。そのとある二階建ての家の赤茶色の瓦屋根に、一羽の鴉が佇んでいる。表情さえ確かめられそうなところまで近づくと、鴉はやおらこちらを仰ぎ、憎らしく映るぐらいに誇らしげに微笑んできた。くちばしの先端に何か、黄緑色の物体が挟まっており、それはその身を前後に左右に上下にくねらせしきりに暴れている。揚羽蝶の幼虫だ。
「待ってましたよ死神さん、頼みます」
私たちが着地するのを待って、鴉は悠然と言ってくる。拘束を緩めないように留意しつつうまく喋ったつもりだったのだろうが、青虫はわずかに生じたくちばしの隙間から全身を弾ませ、屋根の上に落下した。私のダイブを食らったときのリーパーのにも似た、小さく短いくぐもった悲鳴に続き、悲痛な声が響く。
「助けて死神さん、私を見捨てないで!」
青虫は身を反らせ、私たちのほうへと顔を向けた。そこにある表情を窺い知るのは困難だが、ただ一つだけ先端に埋まっている黒い二つの目は、心なしか潤んでいるように見えた。
「私はもうすぐ蛹になって、羽化して、大空へ羽ばたいていくのよ。甘くて美味しい蜜をたくさん吸って、素敵な相手と結ばれて、いっぱい子どもを産むのよ。こんなところで、こんな風に死んじゃうんじゃ、何のために生まれてきたのかわからないわ!」
それが生きるということなのよ、と、私は胸の中で呟いた。歓喜。憤怒。悲哀。愉楽。憎悪。絶望。感情や状況を表す言葉の数だけ、生は多様に彩られる。幸福のまま終われるか、不幸で締めくくられるかは、万物の因果によって決まるのだ。当人の努力なんて、その中の一因に過ぎない。改めて言おう。それが生きるということなのよ。
「この死神さんがやらなくても、すぐに別の死神がやってくるさ」
的を射たことを言って、鴉が閉じたくちばしを振り下ろす。私の手の先ほど鋭くなくても、幼虫の柔肌を貫くにはおつりが来るほど十分。青虫は断末魔の悲鳴で反り返り、次の瞬間には背中から二つに断裂した。後ろの半分は力なく転倒していったが、前半分は直立したように留まっている。一対の瞳は、同じように私たちの姿を反射していた。
「死…神…さん…おね………が…」
よく見ると、口元はまだ動いていた。でも、何を言っているのかは、もうこれっぽっちも聞こえない。
鴉は獲物の半分を食べ終えて、残りの半分にもくちばしを下ろす。頭をくわえるや首を振り上げて真上に投げ飛ばし、くちばしを広げて落ちてくるのを待つ。何とも陰険な食事の作法。
「行け」
リーパーの合図を受けて、私は右手を振りかざし、落下してくる青虫を斜め上に薙いだ。
一見すると、それまでと何も変わらず回転しながら降りてくる青虫は、しかしすでに息絶えている。程なく鴉の口の中へ吸い込まれ、姿さえもこの世から隠れてしまう。
「しかし珍しいな、あんたらは死神と鎌が別々に行動してるのか。俺もこれまでに色んな死神を見てきたが、そんな奴は初めてだぜ」
絶命した青虫をこれ見よがしに口の中で転がしながら、鴉はそんなことを言った。一方的な世間話も程々に嚥下すると、満足そうに息を一つつく。
「さあてと、俺はもうちょい腹ごしらえするが、死神さんも来るかい?」
リーパーは首を振った。にもかかわらずこの場から去ろうとしないので、私はここでもう一仕事あるのだということを知る。
「俺が生まれたときからそばについてくれてた死神がいるんだけどよ、どういうわけだか、今日はそいつが来ないんだ。よかったらそいつの代わりをしてくれよ。俺もそいつがいるのに慣れちまったからな、死神がやってくるまで待つのは面倒なんだよ」
さて、私とリーパーは今、太陽を背にして佇んでいる。二つの影が鴉の全身を覆い隠す具合に伸びているため、鴉が自身の背後からやってくるものを、影によって知ることはできない。
即死は楽だというような言い方をすることが割とよくあると思うけど、本当に即死がいいのかどうかは私にはわからない。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、死の瞬間を感じられるほうが、生きたという実感を得られるのではないかと、私は思うのだ。それとも多くの生き物にとっては、生きたという実感など一度も持たないで、漫然と生き、そして死んでいくほうが、幸せなのだろうか。
そして、今回における私の見立ては、見事に外れていた。リーパーは合図を出さない。即死ではなかったのだ。
「おい、何とか言えよ。待つのは嫌いだって言ってんだろ」
じっと黙って展開を見守っているリーパーに、業を煮やした鴉がそう怒鳴りつける。直後に鴉は、直前に背後から飛び掛ってきていた大きな錆猫に押し潰され、翼を広げた形でくずおれた。黒い羽根が数本飛び散る。
その身に何が起きたのかを理解できずに声さえ上げられなかった鴉は、いきなり野太い絶叫を轟かせた。さすがに状況が飲み込めたようだ。両翼に鉤爪が食い込み、黒い体が血で赤く滲んでいくのを感じているのだろう、見る見るうちに顔が強張っていった。
「そうか、だからあいつ、あいつ、今日に限って、やってこなかったんだな。もう、俺には用なしだから、俺がこうなるって、わかってたから、畜生。そんな大事なこと、どうして言ってくれなかった」
「そりゃあ別の死神がやってくるからよ。こんな風に」
錆猫が鴉を押さえ付けているのとは別の前足でリーパーを指した。リーパーを見遣った鴉は「そうか!」と目を見開いた。
「お前もそうだったんだな! 俺がこうやって死んでいくってことがわかってたんだな! なのに黙ってやがったんだな! クソ! 何て奴だ!」
「それが普通でしょ。気をつけろ、もうすぐ君を襲う奴がいるぞ、なんて? そんなこと言うわけないじゃない。死神が自分の好き嫌いで特定の生き物を守ったり見捨てたりしてたら、世の中メチャクチャになっちゃうわ」
なくもないのよねえ、と、私は胸の中で呟いた。それにしてもみんなよく弁えているものだ。相手をたしなめる言葉が確実に真理をついている。でもこの錆猫も、自分が逆の立場になったらそんな冷静な達観はできず、ただただ激情するのだろうか。さっきまで余裕綽々だったこの鴉が、今まさにそうであるように。
「恨んでやる! 憎んでやる! 呪い殺してやる!」
首を持ち上げてリーパーにまくし立てた鴉だったが、もはやその体勢を維持することはできないらしく、力なく頭の位置が下がっていく。だがその途中で私と目が合うや、最後の力を振り絞ったように、その目をひん剥くのだった。
「手前もだぞ! そこの鎌! 絶対許さねえからな! 手前がいなけりゃ俺は死なねえんだ! 手前のせいだ!」
死神でも鎌でもないあんたにそれができるわけないじゃない、と、私は胸の中で呟いた。そもそも私たちには、あなたたちみたいな命はないのよ。
「行け」
私が鴉目がけて腕を振り払うのと同時に、錆猫が鉤爪で首をえぐった。続いて錆猫は死にたての骸をひっくり返し、比較的肥った鳥類の部位である胸から腹にかけての辺りに牙を突き立てる。
これとは状況が少しだけ異なるかなと考えながらも、漁夫の利という言葉を思い出しつつ、私はリーパーに抱き上げられて次の現場へ向かっていく。
青虫と鴉を連続で死に至らしめた今のくだりや、その前に簡単に触れたリーパーがかつて蜂に刺され犬に噛まれ鳩の糞を嚥下した災難(笑い話)のくだりでわかってるだろうけど、死神や鎌にはその姿を見えないようにしておく能力は備わっていない。多くの生き物には今みたいな感じで私たちの姿なんてバレバレだし、生まれてから命日まであの鴉にはべっていたという死神にしてもそう、深浅はあるものの交流を持つことも珍しくないのだ。
唯一の例外は人間。人間には私たちの姿が確認できないらしい。
この事実に対する明確な理由は知らないが、あらゆる生き物の中で人間が最も生に恵まれているからだろうというのが私の推測である。一方のリーパーは別の見解を示す。人間ほど様々な手段で死を遠ざけて生きている生き物は他にいないからというのがその持論。手持ち無沙汰にたまに交わすそれらの意見は、なるほどとお互いに言い合うのが定番である。
そんなわけでたどり着いた今日の一人目は、どっかの病院のちっぽけな室内のベッドの上で、大掛かりな機械から伸びたチューブを全身に取り付けられて、周りの医者とか看護師とか家族とかにその瞬間の来訪を見守られていた、なんやリーパーが言ってくれて聞くともなしに聞いたけど忘れちゃった腹膜だか硬膜だかを患っていたとかいう七十だか八十だかの老人。幸か不幸か、もう意識はなくなっているらしい。男………かな? まあどっちでもいいけど。
私はリーパーの手によって、彼(彼女?)の体をまたぐようにベッドの上に下ろされた。そしたら私の後ろでリーパーなんか合図でも出したんじゃないのってタイミングで機械が鳴り始めた。
場の空気が途端に慌ただしくなり、医者と看護師は動き出し家族は寄り添い合う。恐れたり怯えたり憎んだり悲しんだりして、その瞬間を迎えよう、やり過ごそうとするのは、どの生き物も変わらない。死は平等。死だけは無差別。サドな死神はここでじらしたりもするのだけど、リーパーは最適な辺りで私に告げる。
「行け」
長いことリーパーと一緒にいるのだ。言われる前に私は利き手を上げていた。
楽っちゃあ楽よ? 死神が自分たちを死に至らしめてるなんて考えもしない、考えていても口に出しはしない、口に出しても見えもしない死神に対してはっきりと言葉をなげうってこないのが人間だから、私たちへの懇願もなければ怨嗟もない。よってのびのびと仕事ができる。
私は勢いをつけて限界まで持ち上げた手を振り下ろす。老人の首に鎌が近づく。すぱっ。
死神の仕事は九時五時というように就業時間が定まっているわけでもなければ、一日いくつというノルマがあるわけでもない。気が向いたら行き、向かなきゃ行かない。一日の半分以上を飢えた獣みたいにさまよっている死神がいれば、一日一つと決めて出勤する死神もいる。現場も全くの任意で、町を専門にしている死神がいれば、エラ呼吸でも体得した如く海底にはいつくばっている死神もいる。地域による寿命の長短って、最終的にはその近辺の死神の多寡に比例してるのよ。
しかしいつまでもねぐらに閉じこもってじっとしている死神はいない。死神が命を刈るのは生き物が生きているのと同じ意味合いがあるため、それをしていないのはそうね、あなたにとって一時間も呼吸ができないでいることや、一週間も飲まず食わずでいるようなものだと言えばわかってくれるかしら?
リーパーは時間で動いている。数は決めていないので日によって変わる。場所はその日の服装と風向きの兼ね合いによってまちまち。大体朝と昼の間ぐらいにのっそり出て行って、日が暮れる前には戻れるようにする。戻ってきたときにまだ日があるぐらいのところにしか行かないということ。
というわけで私たちが帰宅したのは、時間にしたら午後四時を少し回ったぐらい。今日の総数は人間五人と犬二匹と鴉一羽と蛾三匹と青虫八匹と蟻二十五匹と金魚四匹。確かにまあまあだった。
時間的にさあこれからってところでリーパーが仕事を切り上げたのは、もうわかってる人はわかってるわよね? わざわざ東西南北でこの家の構造と調度についてだらだら言ってたんだから。
この家には電気が通じてない。よって灯火もなく、窓も天井に一つあるだけなので、月のない夜には真っ暗になる。月のある夜でもそこまで明るくはならない。要するに天窓から明かりが届いている間に素早く鎌のお手入れをしないといけない、つまり私の手を磨かないといけないのだ。
天窓をくぐり抜けて床に降り立ったリーパーは、まず私を椅子に座らせる。西に傾いたお日ぃさんがピカー! もうね、眩しいの眩しくないのって。とてもじゃないけど目なんて開けてらんない。それでも気配だけでリーパーの行動はわかる。流しの下の棚からタオルと砥石と研磨剤とワックスを取り出したのだ。蛇口の水が流しに跳ね返る音がする。ちょっとは規則的だったそれもタオルに染みたり跳ね返されたりするとたちまち聞き苦しくなる。まあそれもすぐ終わる。びちょびちょにしてもしょうがないのだ。
鎌を二振り磨くだけなら楽なものだけど、あくまでこれは私の手。特有のコツがあって、初めの頃はリーパーも苦戦していたものだ。両手をぱっくり切ってしばらく外に出られなかったこともある。いい気味だった。
日々の鍛錬で今ではマイスターになっているリーパーは、道具一式を持ってまず私の右腕をつかむ。腕を伸ばさせて先端の刃を濡れタオルで濡らし、砥石を当ててごしごしごしごし。頃合を見て研磨剤を塗りごしごしごしごし。最後にワックスごしごしごしごし。一連の作業を終えると左に移る。似合わないサングラスのおかげで西日を防ぐことができているので、作業は滞らない。
大体日が完全に没するまで続けてから、余韻みたいな光の中で後片付け。そしてようやく待ちに待った自由時間。とは言うものの、起き抜けに鏡の中の自分と見つめ合うほかに趣味のない男だから、早くもベッドに横たわるのが常。うたた寝をしたり、思い出したように私と話したりして、気がつくと寝息を立てている。
そして私は一人、長い夜を過ごすのだ。




