朝の大切な時間
5月8日 火曜日 曇り
「おはよう、東くん」
「ああ、おはよう古葉さん」
まだ静けさが勝る朝、人のまばらな教室で僕と古葉さんは挨拶を交わした。
「この前は進路希望、遅れてごめんね」
「ううん、気にしないで。ちゃんと期日までには出してくれたんだし」
彼女は慌てた様子でぱたぱたと小さく両手を振る。そのジェスチャーはどこか小動物のようで、可愛らしい。
「次はもっと早く出すよ……なんて、古葉さんが毎回何かを集めているような言い方だけれど」
「ふふっ、じゃあ東くんがちゃんと約束を守るかどうかを確かめる為に、また何か集めてみようかな」
何気ない朝の会話。いつものように少しだけ言葉を交わす。
──いつからか、彼女とこうして話すことは毎朝の日課のようになっていた。
あまり友人と呼べる間柄の人間がいない僕にとっては、数少ない話相手と言えるだろう。
たぶんクラスメイトというよりは親密で、けれどいつも自分を助けてくれる彼女を友人と呼ぶのはどこかためらわれる気がした。
ましてや恋心を抱くのは畏れ多いを通り越して罪深いことのようにさえ思われる。
上手く言えない距離感の、ちょっと歪な関係性。
そんな中途半端な距離感が、かえって僕には心地よかった。
だけどこの日はいつもとは少し様子が違った。古葉さんは会話を終えても自分の席には戻らず、何かを言いたげに僕の顔をじっと見つめている。
言い出しにくいことなのだろうか。僕は普段のお礼も兼ねて助け船を出すことにした。
「何か話しにくいことなら、放課後にでも時間を作るよ?」
「え? あ、ううん、大したことじゃないの、真庭さんの様子はどうかなって」
「真庭さん?」
意外な名前の登場に少し動揺を覚える。
先日の僕と彼女の大立ち回りを見られていたのだろうか。
「特に思うところは無いし、普通だと思うけれど。どうして?」
努めて冷静を装い言葉を返す。けれど頭の中は、もしもの場合にどう言い訳をするのかで一杯だった。
「ほら、真庭さんって転校してまだ間もないから。もう学校には慣れたのかな、って思って」
どうやら僕の心配は杞憂だったようだ。古葉さんは単に真庭さんのことを気に掛けているだけらしい。
僕にはクラスメイトのことを心配するという発想すら無かったのだから、やっぱり彼女には敵わないなと思う。
「ああ、それなら問題ないと思うよ。少し人を近づけないような雰囲気はあるけれど、彼女、いい人だから」
それが彼女に対する素直な印象だった。真庭さんは表面的には取っつきにくいところがあるけれど、その内面は真面目で芯の通った人のように思う。
何より彼女には、赤の他人が命を危険に晒した時にそれを本気で心配するような慈悲がある。それは多分、目の前の少女が持つ優しさと同種の美しさなのだろう。
真庭さんは大丈夫だと聞いて心底安心するような表情を見せた古葉さんを見ながら、そんなことを考えていた。
「けど、どうして僕に? 真庭さんの様子を気にしてる男子は多そうだけれど」
「だって真庭さんと一番仲が良いのは東くんだから」
「そうかな? そうだと良いのだけれど……」
少し気恥ずかしくなって頭を掻く。
下心があると勘ぐられたのかと思い、少し意地悪に返したのだけれど、古葉さんにはそんなつもりはなかったようだ。
こういうとき、僕は彼女の善良さと、相対的に自分の小ささを実感する。反省しよう。
そんなことを考えていると、真庭が教室に入ってくるのが見えた。
彼女の隣でする話でもないだろう。古葉さんも彼女の存在に気付いたようで、それとなく話は終わる。
「でも良かった」
席に戻ろうとする古葉さんが僕のほうを振り返り、そう言った。
さきほどよりも嬉しそうな彼女の表情に、思わず僕も笑みを浮かべて問い返す。
「何がだい?」
「東くん、進路希望が書けなくてずっと悩み込んでたみたいだったから」
そう優しく語る彼女とは対象的に、僕は突然のことに驚いて咄嗟に声が出なかった。
きっと間の抜けた顔をしているのだろう。
「でも今は元気になって、ちょっと安心しちゃった」
そんな僕に優しく微笑む古葉さんの顔。
そこでようやく、彼女は真庭さんではなく僕を気遣うために声を掛けたのだと気が付いた。
本当に、彼女には敵わない。