夕暮れの空と転校生
それからは特に変わったことは何も無かった。
最初こそは転校生というイレギュラーがあったものの、すぐにいつも通りの日常へと戻ることになった。
つまりはそう、将来の自分、成りたい自分、進みたい道、進むべき道、答えの出ない問いを前に無為な時間を過ごしていた。
それは学生で賑わう昼食時の食堂でも変わらない。僕にとっては今日の昼食を何にするかという差し迫った問いよりも、一層大きく頭の中を占めている重大な問題だった。
だけど──
「あれ、真庭さんどうしたの?」
食券の券売機の前で立ち尽くす真庭さんの姿を見た時、僕の頭の中にあった考え事は全て消え失せていた。
「東さん、ですか。いえ、なんでもありません」
そう答える彼女は、しかし見るからに困った様子を見せていた。
「食券を買うのは初めて? ジュースの自動販売機と同じだよ、お金を入れて食べたいメニューのボタンを押す。券が出たらあそこの受付で渡せばいいから」
財布からお金を取り出し、実際に食券を買ってみせる。発行された食券を見ると、適当に押したボタンはみそラーメンだったようだ。
「何か食べたいものはある? ここの親子丼は卵がふわふわで結構美味しいし、きつねうどんは揚げが2枚乗っててお得感があるよ。カツカレーはとんかつが大きくて値段の割にボリュームがある」
「カツ、カレー、ですか?」
「そう。とんかつが乗ってるカレー。美味しいよ」
「なっ……ただでさえ美味しいカレーにカツを乗せるのですか、そんなのすごく美味しいに決まっています……この料理を考えた人は天才ですか……?」
今朝もそうだったけれど、彼女はなんだか不思議な反応を見せる人だ。もしかすると海外から日本へ来たばかりの帰国子女というものなのかもしれない。
とはいえ僕もカツカレーが誰の手によって生まれた料理なのかは知らないし、その美味しさについても疑う余地は無い。
再び財布からお金を取り出して、券売機のボタンを押す。発行されたカツカレーの食券を手に取ると、それを真庭さんへと手渡した。
「じゃあ説明はこのぐらいにして、お昼ご飯を食べようか」
昼食を食べながらも、頭の中は進路についてどうするかで一杯だった。
やはり普通に大学に行って、普通に就職するのが僕の人生なのだろうけれど、だけど特にこれと言ってやりたいことも思いつかない。そもそも大学に入って勉強するということに対しての明確なビジョンも見えず、ただ周りの期待に応えるためだけの、あるいは就職のためだけの進学だ。
自分が知りたいと思うこと、学びたいと思うこと、目指したい職業というものがなんなのか考えたところで、曖昧な輪郭さえも浮かばない。
僕は何がしたいのだろうか。僕は自分が生まれてきた意味を、どこに見出したいのだろうか。
ぼんやりとした考えはまとまらず、結局また答えは出ない。
「難しい顔をしていますが、悩み事ですか」
「ああ、ちょっと、ね」
カツカレーを美味しそうに食べる真庭さんが、特に気にした風も無さそうに僕に声を掛けてきた。
周りから見ても分かるくらいに、僕は思い詰めた表情をしていたらしい。
「詩的な表現を使うなら、どう生きるべきかについて迷っているんだ。端的に言うと高校卒業後の進路について悩んでいる。真庭さんは進路について何か考えてる?」
「進路、ですか。具体的な考えはありませんが、自分の持てる能力を最大限に発揮して、誰かのために貢献できる道を選ぶだけでしょう。というか、それ以外に無いのではありませんか?」
「誰かのために貢献、ね」
彼女が迷わず即答したそれは、非の打ち所のない優等生の答えだ。僕には耳が痛いくらいに。
今の時代に自分のためではなく、周囲の為に貢献したいという人間がどれほどいるだろう。
世間ずれしていないし、理想を抱き続けられるくらいの温室育ちのお嬢様なのだろうか。それともやはり彼女は日本以外の土地の出なのか。僕はふと、そんなことが気になった。
「最近じゃ珍しいくらい立派な考え方だよ。真庭さんはこの辺の出身じゃないのかな?」
「出身地、ですか」
その問いに彼女は少し困ったような顔を見せ、視線を遠くへ送る。
「そうですね、とても遠いところから来ました」
「ああ、やっぱり海外? 少し日本人の感覚とは違う気がしたんだ」
「はい、そのようなものです」
歯切れの悪い表現で言葉を濁す彼女。何か彼女にも事情がありそうだ。気にならないと言えば嘘にはなるけど、わざわざ明言を避けたところに踏み込むのは失礼だろう。
結局会話はそれで終わり、僕の悩みには答えが出ないままだった。
退屈な午後の授業が過ぎていく。
今日もいつものように授業には集中できず、窓の外の青空に浮かぶ白い雲だけが、僕の視界をゆっくりと流れていった。
ただ、意外なことに真庭さんは勉強があまり得意では無いようで、授業中は随分と苦戦していたようだった。
特に英語と世界史はかなり苦手な様子で、僕が「文系科目はあまり得意ではないのかな?」と指摘すると、少し苦い顔をしながら「これまでの人生であまり縁が無かったので」と返した。
やはり彼女は海外に住む日本人家庭で育ったのかもしれない。
そうして無為な時間を過ごす内に今日の授業は終わり、僕は教室を後にした。
向かった先は学校の屋上だ。本来は施錠されて入れないのだけれど、鍵が腐食したのか一ヶ所だけ扉が開くことを少し前に発見した。
それ以来ここは僕だけの秘密の場所となっている。
屋上に仰向けに寝そべって見る空は僕のお気に入りだった。
ここで青空を見ている時は心が穏やかになる気がするから。
そして空を見上げたまま、進路調査の用紙に書き込むべき「自分の人生」について考えを馳せる。
彼女は、真庭さんは言った。自分の持てる能力を最大限に発揮して、誰かのために貢献できる道を選ぶべきだと。だけど。
「そんなものは見つからなかったんだ。僕が充実感を得られる進路なんて、この世界のどこにも見つからなかったんだよ」
日々が無意味に過ぎていって、訪れる未来に何の希望も抱けない。
僕の能力を最大限に発揮できる仕事はきっとこの世界のどこかにあるだろう。だけどそれが誰かの幸せに繋がるようにはどうしても思えない。
僕には生まれてきた意味が本当にあるのか。その答えを出せずに拳で眼を擦る。
屋上に仰向けに寝そべって見る空は僕のお気に入りだった。
ここで夕焼けを見ている時は心が穏やかになる気がするから。
空は、空だけはどこで誰が見上げても同じだ。全ての人に平等なのだと信じられた。
──けれど、そんな時間も長くは続かない。
日は落ち、空はオレンジから紫へと変わる。世界で最も美しい時間が過ぎれば夜が来て、その前には家に帰らないといけない。
ゆっくりと立ち上がり服の埃を払う。鞄を拾い上げて屋上から踏み出そうとした瞬間、校舎内から異音が響いた。
「え?」
続けてもう一度音が響く。地響きのような低い轟音。
今度は先ほどよりも大きく、近い。
慌てて屋上から続く階段を駆け下りると、普段ならまばらに残った学生や教師の声がする校舎内を、異様な静寂が支配していた。
窓の外のグラウンドも、まだ部活動の後片付けをしている人がいても良い時間だというのに誰一人として見当たらない。
まるでこの夕暮れ時の紫色の世界に、自分一人だけが取り残されたような感覚。誰も居ない世界へと飛ばされてしまったかのような表現のしようのない焦燥感。
鼓動が早まり口が渇く感覚に背中を押されるように駆け下りた階段、ほんの十数段の階段が、四階しかない校舎が果てしなく思える。
そうしていくつかの階を下った僕の目の前に、僕が永遠にも思える数秒の間に渇望したもの、廊下を走る真庭さんの姿が突然現れた。
「やあ真庭さん、良かった、少し安心した」
「なっ、東さん、どうしてここに!?」
自分以外の人間の姿を見つけて、僕はほっと胸をなで下ろした。
あの恐怖感はただの空虚な妄想だ。話せば小心者だと笑われるかもしれないが、それでもあの焦燥感よりはマシだろう。
「屋上でぼんやりしていたらこの時間になっていてね。でもこれから帰宅する──」
「飛んで!!」
息が届きそうなほどの距離に、切羽詰まった表情の真庭さんの顔があった。
身体の前面に感じる柔らかな重みと背中に走る衝撃。
押し倒された──より正確に言えば彼女が僕に覆い被さる形で突き飛ばした──と理解するより早く、ほんの数瞬前まで僕がいた場所が爆音と共に粉々に爆ぜ飛んだ。
世界がスローモーションに見える。
ゆっくりと舞い散る土埃の中で。
身の丈3メートルはある牛頭人身の化け物の。
真っ赤な双眸が爛々と。
紫に染まる世界で輝いていた。
「くっ……!」
素早く立ち上がる彼女の姿。
対峙する牛頭の怪物。
彼女が銀に輝く長剣を両手で構える。
怪物が重心を下げて突進の姿勢を作る。
目の前で起こる光景の何もかもが、日常とはかけ離れたものだった。
牛人の突進を真庭さんが剣で受け止める。
剣からは光が壁のように生まれては敵の攻撃を防いでいる。
返す刃で真庭さんが何度も牛の怪物を斬りつける。
輝く剣と振り乱れる黒い髪が、酷く幻想的で美しかった。
「これは……」
「何をしているんですか、逃げて下さい!」
悲鳴にも似た彼女の叫び声が響き渡る。
逡巡している暇は無い。
僕は全力で階段を駆け上がった──彼女の手を引きながら。
「な、何をしているんですか! 私は放っておいて下さい!」
「どう見ても劣勢だったじゃないか……その剣、アレの皮膚を貫け無いんだね?」
「それ、は……」
ちらりと怪物の方に視線を送る。
ファンタジーゲームならミノタウロスとでも名付けられそうなそれは、何度も剣を打ち込まれたにも関わらず傷一つ付いていないように見えた。
「状況はさっぱり分からないけれど、少なくともアレを倒さないとまずそうだというのは僕にも分かるよ」
「……はい。あの怪物はこの世界の生物ではありません、この世界に害を成すものです。信じられないとは思いますが……」
「そうだね、信じられない……けど信じるしかないんだろうな」
彼女の手を掴んだ方とは反対の手で踊り場の手すりを掴み、急速にターンをかける。
直後、突進を掛けた牛頭の怪物が目標を失い壁へと突っ込んだ。
「その剣は?」
更に階段を駆け上がりながら、彼女が持つ剣に視線を送る。
淡く銀に輝く長剣。白い翼のような装飾が施された煌びやかな剣。
「これは、護りの剣“アレクシア”。持ち主に対するあらゆる危害を防ぐ魔法の剣。ですが──」
「攻撃においてはただの鋼で出来たロングソード、というわけだ」
ただのロングソードでも鎧を着た人間を殺傷できる威力がある。
そう考えればあの怪物の身体はそれこそ鋼の塊のように硬いのだろう。
「はい。ですが剣が悪い訳ではありません。全て私の未熟ゆえのもので──」
悔しそうに歯がみする彼女。
だけど僕はそんな彼女の言葉を遮って、なんでもないことのようにこう言った。
「なるほど、それじゃあアレを倒すとしようか、僕と君で」
「はい?」
「もうすぐ着くよ」
にっこりと笑顔を浮かべて扉を開ける。紫だった空はもうほとんど漆黒に近い色合いに変わっていた。