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どうかこの願いを  作者: ドラム缶
4月27日 月曜日 快晴
1/6

憂鬱な朝

 あの日、僕はこの世界の隣には、まるで物語のような世界が存在すると知った。

 常識というものが脆く崩れ去る音を聞きながら、目の前に突き付けられた現実を、むしろどこか望んで受け入れていた。

 それは、僕が神様に何度も願った、冒険の世界の入口だった。



  どうかこの願いを





4月27日 月曜日 快晴




 16歳の春、僕は期せずして自分自身と向き合うことになっていた。

 自分が果たして何者で、何のためにこの場所に生まれ、そして何を成し遂げることを望むのか。

 天が自分に与えた才能はどのような形で花開き、そしてこの世界に対してどのような影響を与えるのか。

 それはこれまでの人生において一度たりとも真面目に取り組んで来なかった遠い過去からの宿題であり、思考の片隅に置くことさえ避けてきた命題への挑戦でもあった。


 僕は今、真っ白な進路希望調査用紙を前に、酷く頭を悩ませていた。




 桜舞う4月、高校二年生になってすぐに進路希望調査が行われた。

 調査用紙に現時点での希望を第三志望まで記入するというものだったのだが、未だどの欄も空欄のままだ。

 高校卒業後については特に理由も無く、きっとどこかの大学に進学するのだろうなという程度に考えていた。それがどこの大学になるのかは全く決めていないけれど、きっと人並みに大学を出て、人並みに就職して、そして人並みに社会人になるのだろうと思っていた。

 これは中学の時も同じで、そもそも今の高校に入ったのだって「なんとなく、人並みに」という理由に過ぎない。中卒では働き口が限られるからとりあえず高校に。一流大を目指すほどの熱意は無いから進学校は避けて、それでも底辺高では進学に障るだろうから並の学力の高校に。

 言うなれば僕にとって高校進学とは、自分の人生についての決断を先延ばしにするためのものだった。

 そして先延ばしにした決断は今再び自分の目の前に立ちはだかり、そして今度は明確な答えを持って具体的な自分の将来の姿を決めなければならない。

 理系か文転か。どんな学部を目指すのか。場所はどこで、偏差値はいくつぐらいが良いのか。あるいは就職? 海外留学?


「東くん、進路希望は……まだ書けてないみたいだね」


 自分を呼ぶ声に机上の調査用紙から視線を上げる。するとそこには見知った顔の少女が立っていた。


「ああ、古葉さん……残念ながら」


 古葉(コバ) 文乃(アヤノ)。僕に限らず、困っている人を見ては気に掛けてくれている優しい子だ。中学の時からずっと同じクラスで、何かと助けられてきた。

 やや大きめの眼鏡を着けて、長い髪は左右でおさげに束ねている。校則を守ってスカートは膝丈、アクセサリーの類いも着けていない。総じて大人しい外見をしており、少し茶色がかった髪色だけが唯一彼女に華やかさを添えているようだった。とはいえこの髪も自分で染めているわけではなく、生まれつきこうなのだという話をいつだったか聞いたことがある。

 体つきも小柄で華奢な少女だけれど、その見た目によらず芯は強い。普段はよく一人で本を読んでいるから内向的な人物であると勘違いされがちだが、実際は交友関係は広く、僕のように彼女に頭が上がらない人は多いだろう。


「他の人はもう提出したの?」

「うん、あとは東くんだけ……あ、でも、期限は今週中だから。ゆっくり考えて大丈夫だよ」


 古葉さんは優しく微笑んでそう告げた。それはつまり、僕が提出すれば彼女は仕事を終えられるということだろう。だというのに彼女はそれを急かす様子もない。そしてそれ故に余計に申し訳なく思う。


「ごめん、期限までには必ず」

「うん、お願いね」


 笑顔を絶やさない彼女に軽く頭を下げてから、しかし僕は一つ気になっていたことを口に出さずにはいられなかった。


「……ところで、どうして古葉さんが進路希望の取りまとめを?」

「えーっと、たまたま先生から頼まれちゃって……」

「それはお気の毒に。手間を掛けさせている僕が言うのもなんだけど、時には断っても良いんじゃ無いかな」

「えー、あはは、そうだね」


 そう答える彼女の表情は笑顔のままだったが、どこか困ったような、あるいは恥ずかしそうに見える。

 彼女は頼まれごとを断るのが苦手で、何でも引き受けてしまうところがある。そして彼女自身にもその自覚があって、それが自分の短所であると認識しているに違いない。僕からすれば彼女の優しさは長所でしかないのだけれど、どう捉えるかは当人の自由だろう。


 と、そこで朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。

 いつの間にか教室には多くの生徒が居て、賑やかな雰囲気で談笑し、自分の席へと移動している。いつも通りの朝の風景だ。


「それじゃあ、今週中には必ず」

「うん、お願いね」


 古葉さんが席へと戻るのを見送りながら調査用紙を机の奥深くへと押し込む。これもまた問題の先送りに他ならず、きっとそれが僕の気質なのだろうと気が重くなった。

 今日もまた罪悪感を抱えて授業を受けて、放課後には遅くまで教室に残っては進路を考え、そして何の答えも出せずに帰路に着くのだ。

 変わらない一日、変わらない自分。

 その変化の無さに嫌気が差すと思いながら──


 けれどその日の朝は、いつもの朝とは少し違っていた。


「あー皆、今日からこのクラスに転校生が来る。入ってくれ」


 転校生という聞き慣れない言葉。僕は担任の言葉を聞き流すのを止めると、机の上から視線を上げた。

 視線の先では一人の少女が壇上に上がり、クラスメイトの方を向いた。

 女性にしては高い背丈にすらりと伸びた手足。モデル体型、というのだろうか。ポニーテールにまとめられた長い黒髪と白く透き通る肌の対比が美しい。鼻筋が通り整った顔つきは可愛いというより格好良いという言葉が似合う。くっきりと引かれた眉は自ら整えているのだろうか、やや釣り目気味の眼、黒曜石のような瞳と合わさり意思の強さを感じさせた。

 綺麗な人だな、というのが彼女の第一印象だった。


「それじゃあ適当に自己紹介を頼む」

「はい。真庭(マニワ) 鈴花(スズカ)と言います。よろしくお願いします」


 姿勢正しく、流れるような美しい仕草でお辞儀をする彼女に、クラス中が──主に男子が──ざわついた。


「席は東の隣が空いてる、あそこだ」

「はい」


 歩く姿も背筋が伸びて重心移動に淀みが無い。きっと武道かスポーツを──今なんて言った?

 周囲の視線が僕と、その隣に集まる。

 僕の席の隣、見ればそこには新たな机が増えていた。おそらく今朝の段階ではもうここにあったのだろうけれど、僕にはそんなことに気付く余裕さえなかったらしい。

 そしてそんなことを考えている内に、視線の先では転校生の少女、真庭さんが静かに席へと着いていた。


 横顔を見ても、どこか人間離れしていると感じるほどに整った顔立ちをしている。あまり詳しいわけではないけれど、芸能人やアイドルと比べたとしても決して劣っていないだろう。それに彼女の顔はどこか──


「……私の顔に、何かついていますか?」


 気付けば彼女の艶やかな黒の瞳がこちらを見据えていた。

 思わずまじまじと観察してしまったらしく、訝しむような視線が肌に痛い。


「ううん、なんでもないよ。ただ、美しい女性だと思って……いや、ホントになんでもない」


 咄嗟に口を突いて出た言葉を慌てて否定するが、遅かった。眼前の少女の表情がみるみる険しくなっていく。


「私は軽薄な人は好きではありません」

「そういうつもりじゃないんだ。けれど気に障ったなら謝るよ、ごめんなさい」


 軽く頭を下げて非礼を詫びても、彼女の表情は変わらない。完全に軽薄で変な奴だと思われただろう。

 クラス内での自分の評判も心配だが、彼女の学園生活の出鼻を挫いてしまったのではないかと不安になる。

 一限目の授業の準備をしながら、また一つ罪悪感の種が増えてしまったことに溜め息が出た。




 しかし意外にも、失態を挽回するチャンスはすぐに訪れた。

 鞄から教科書とノート、筆記用具を取り出した所で、真庭さんが何か困ったような様子を見せていることに気付いた。

 机の上には教科書だけ、ノートも筆箱も無い。小説の登場人物か何かみたく、ノートを取る必要もない秀才、という可能性は低いだろう。どうやら忘れ物をしたようだ。


 僕は鞄の中からルーズリーフの袋を取り出すと、その上にシャープペンシルを1本乗せて彼女の机の上に差し出した。

 先ほどの件もあり、あまりこちらからお節介を焼くべきでは無いのだろうが、この程度なら許されるだろうと判断してのことだ。

 あるいは美しい少女を相手に、僕にも自覚のない下心が働いたのかもしれないが。


 彼女は驚いた表情で僕の顔を見たあと、恥ずかしそうに俯いた。白い肌が少し赤く染まっているようにも見える。

 軽薄だ、と言った相手に情けを掛けられることを恥じているのだろう。あるいは僕を親切な人間だと見直して、軽薄だと評した自分を軽率だったと恥じているのかもしれない。どちらにせよ真面目な性格なのだろう。


「……ありがとうございます、えっと」


 彼女はルーズリーフとシャープペンシルを受け取りながら、小さくそう呟く。


「東、(アズマ) 勇助(ユウスケ)。気にしなくて良いよ、忘れ物ぐらいは誰にでもあるから」

「忘れたわけではありません。ペンと紙が必要だということを知らなかっただけです」


 負けず嫌いなのだろうか、彼女はよく分からない言い訳を口にしている。

 いや、きっと単に相当恥ずかしかったのだろう。耳まで赤くなった彼女の様子を見るに、相当混乱しているらしい。


 どこか自分とは離れた雰囲気を持つように思えた彼女だったけれど、こうして見るとどこにでもいる普通の女の子だ。

 今後仲良くなれるかどうかは分からないけれど、とりあえずは最初の悪印象を払拭ぐらいは出来ただろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、授業開始のチャイムが鳴るのを聞いていた。


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