第三話 友達の友達
人は忘れる。されどその残滓はきちんと脳味噌の隅に収まっているのだという。
一度経験は決して忘れない。本当は人の脳はそんなつくりをしているのだと聞いた覚えがある。
浮き上がらせられる記憶が選ばれて、限られてしまっているだけなのだと。
「じゃあ、どういう基準で選んでるんだと思う?」
たとえば繰り返し思い返して、忘れたくないと願った記憶。
あるいはくだらないけれど楽しく生きるには重要で、いつでも思い出したい記憶。
ひょっとすると。あまりに影響が強すぎて、自分のなかに残しておきたくない記憶。
そんな話を誰としたのだっけ。
恐らくわざわざ思い出すべくもない。
一見すればどうでもいい。笑うためでもなく、ただ話す為だけに話す相手といったら一人だけ。
――きっと彼女としたたわいない話のひとつ。
「あまりに影響が強すぎて、か」
きっとずっと覚えていたのだろう。
黛さんとの邂逅で思い出した過去の出来事。当時は気にも留めなかった。今思うと彼女なりの意図が込められていたのかもしれない。
いや、気まぐれだと思っていたとうとつな会話すべてに本当は意味があったのかもしれなかった。
「え、なに?」
独り言だったが隣にいる萱愛にはばっちり聞こえてしまう。
虚を突かれたように首を傾げる彼に、静かに頭を横に振った。
「岩尾と話したことを思い出していただけさ」
「それって思い出せって言われた?」
「申し訳ないがそれじゃあないね。ただ、忘れる記憶は思い出す必要もないか、影響が強すぎて忘れたいと願った記憶かだと話したことがある」
自分にとってはささいなことでも相手にとってはそうではない。
このようなことはよくある。
そこらへんにあったものを適当につまみ食いしたら、相手を怒らせてしまったとか。
しかし『自分を殺してみろ』とまでいう記憶がその程度だろうか?
あのマイペースで言葉が足りない――その分小さなことは気にしない岩尾が、ずっと覚えていた記憶。
そして我ながら神経質な自分が覚えていない記憶。
「正直、思い出さない方がいいとすら思うよ。多分オレにとってはいい記憶じゃないだろうから」
「君がそうしたいならそれでもいい、といいたいが。黛さんがあの調子じゃ難しいだろうな」
一見華奢な体躯から繰り出された鋭い蹴りを思いだし、震える。
あれこそ忘れたい記憶だ。
小動物ぐらいなら射殺せそうな眼光。見下すようでも正面から突き返すようでもある目つき。時間を忘れ、過去に呼吸をおいていってしまう圧迫感。
いっかいの女子大生がだしていいオーラではない。
なにより去り際に見えた服の内側。
軽くはおったUVカットのカーディガンを、彼女はちらりとはだけさせた。
すぐ近く、目の前にいた水月にしか見えなかった細い腰。
女性らしさを強調するベルトにくっついたホルダー、おさめられた黒い物体。
あれは……いったい……なんだ?
「黛さんって本当にカタギ?」
「心はヤクザかもしれないけれど身分はカタギだよ。どうして?」
「……あんまり君の友人を怪しみたくないが、こう、腰にホルスターらしきものがだね」
「ああー。大丈夫、銃じゃないよ。流石にそんなのはもっていないんじゃないかな、多分。きっと君が見たのはスタンガンだ」
神楽坂さんじゃあるまいし、と安心させるように微笑む萱愛。
彼の常識が大丈夫だろうか。
おかしな人間に囲まれて、セーフラインが大幅にひきさげられてはいまいか。
「君がいいならオレはなにもいわない」
「俺? えっと、とりあえず……どうしようか。君がすんなり思い出せるようならスタンガンの出番もないと思う。なにか手がかりとかないのか?」
場合によっては黛さんのスタンガンがうなるのか。
どうして温厚で真面目な彼がそんな危険人物と親しいのだろう。
深い疑問を覚えながらも、身の安全のために頭を動かす。
「手がかり、なあ。態度が急変したというわけでもないから、多分かなり昔の話だと思うんだが」
『殺してみろ』というのはある意味急変ではあるものの、思わせぶりな言動はそれこそ幼子の頃から。あの言動に隠した意味があったというのなら、少なくとも数日数か月という話ではあるまい。
さすがにそれぐらいのことであれば思い出せそうなものだし。
「やっぱり爺さんのことなのかな。萱愛くんが来る前に話してたいつもと違う話なんてそれぐらいだ」
「おじいさんとは何かあったの?」
「うーん……」
自分と祖父はそれなりに仲が良かったのを覚えている。
しかし肝心の記憶はそう掘り起こせない。当時の自分にとっては当たり前の日常であったから、過ぎた時間もあいまって風化してしまったのだろう。
鞄から懐中時計を取り出し、てのひらでもてあそぶ。
錆びた金色が日光を反射して鈍く輝く。燦然としつつもどこか鈍重。
カチ、カチと規則正しい秒針が心臓の鼓動を落ち着かせていく。
「ダメだ、さっぱり」
「そうか。そうだ、おじいさんが亡くなった時、今お世話になっている人たちに連れて帰られたんだよね」
「ああ。……もしかして家に何か残ってるかもって?」
「アルバムくらいはあるかもしれない」
「アルバムか。あちこち見て回れば何かあるかも。何もないよりマシかもな」
家を貸してもらった時、家は一通り見て回った。
しかし結局他人の家だ。時計を外した以外、さっと見ただけで終わらせた場所も少なくない。
親戚夫婦の寝室が最たるものだ。
他にも手を触れずとも生活できる箇所は、棚や本棚と手つかずで何かありそうな場所はアレコレある。
さすがに日記など個人的なものには手を出せないが。
他人のプライバシーな領域を探ろうという大前提は棚に上げ、心のうちに踏み込まないことで自分を許そうとする。
「帰ったら探してみる。今日は遅いから数日かかるかもしれないが、何かあったら連絡すればいいかい?」
「ありがとう。でも、あー、えっと。一人だと大変じゃないか? 結構広い家だろう」
「オレは違うが親戚はそこそこ稼いでるから、一人には広すぎるというのはそうだね」
「君のプライバシーに関わることだから、勿論断ってくれてもいい。でも大変なら手伝いに行くよ。巻き込んだようで申し訳ないし」
付け足された最後の一言には、首を横に振らざるを得ない。
巻き込んだといっても彼はこうなることを全く知らなかったではないか。
同じ大学だったから協力させようとしたのは黛さん。この騒動の原因になったのは岩尾。
彼に非はない。むしろ水月が巻き込んだようなもの。
「とんでもない。すごく助かるよ、是非頼む。触らないで欲しい場所は今夜にでも考えておく」
本当はそれを決めるのは自分ではなく親戚なのだろうが。
どうせ彼らはあずかり知らぬこと。無責任に水月は頷いた。
「本当か? よかった……じゃあ明日また来る」
「わかった。あ、連絡先、聞いておいた方がいいかな」
互いにスマートフォンを取り出す。
この光景だけ見たら友達になったばかりのようだろう。
少しだけ胸がはずむ。
なんとも寂しく、場違いな喜びだった。
○
家の見取り図を自分で作っていたら、すっかり寝坊してしまった。
気が付くと朝の十時。
謹慎という名の休みでよかったものの、いつもの彼と比べれば寝坊といっていい時間だ。
懐中時計の音でようやく目が覚める。時刻版を確認した途端まどろむ睡魔は吹き飛び、即座にスマートフォンを確認した。
みてみれば通信アプリに通知が来ている。
開いてみれば丁寧な朝の挨拶とともに、午後にたずねてよいか確認する旨が書かれていた。
受信時刻は九時。
間に合ったことに安堵しながら、落ち着いて連絡を確認し直す。
『おはよう。萱愛です。昨日は遅くまでつきあわせて悪い。
色々急で驚いたと思うけれど、俺も協力は惜しまないつもりです。本気で黛さんたちが迷惑だと思うなら俺が説得します。
黛さんは一見過激にも見えますが、本当は優しい人のはずです。ただ少し事情があって柏さんに関しては必死になるだけで』
最初はフレンドリーに接しようとしたのだろうが、考えるうちに敬語になってしまったのだろう。
そこまで気を遣わせてしまって悪いな、と少し気まずくなる。
だがきっと水月も逆の立場になれば同じことをするから、むやみなことは言わない。
黛さんをかばう内容から始まった連絡は、今日の予定にうつる。
『それで、今日の午後にまた訊ねさせてもらえばと思います。そちらの予定に問題はありませんか。時刻は一時半前後でどうでしょうか。持ち物は筆記用具と貴重品以外に何かあれば準備するのでいってください』
まるで遠足の準備のようだなあ。
まだ頭が動ききっていないのだろうか。くらだないからかいが浮かぶ。
『それと、とても申し訳ないのだけれど、俺の友人の柳端も同行したいそうです』
他の連絡より数分遅れて追加された一文。
時計と比べれば十数分前の連絡だ。
柳端。はて、聞いたことのない名だが。ディスプレイをタップして質問をなげかける。
『時間に関しては全く問題ありません。ありがとうございます。持ち物も特に必要ないと思います。あえていうなれば、大荷物を運ぶことはないでしょうが、心配なら軍手とタオルを持ってきてくださるといいかもしれません。
ご友人がいらっしゃることも構いませんが、そちらは大丈夫でしょうか。こちらの事情を知らなければ家探しのようで気分が悪くなられるかもしれません』
送信してから他人行儀過ぎないかと後悔する。
他人行儀もなにもまだ数回しか顔を合わせたことがないとはいえ、同い年なのに。
――これが癖なのだから仕方がない。
もう送ってしまったから手遅れ。なに、大事なのは内容さ。
己を鼓舞して返事を待つ。
元々返事を待っていたのだろうか、思ったよりすぐに既読マークがつく。
『柳端は別の大学に通っていますが、高校からの友人です。
不愛想かもしれませんが友達想いのいいやつです。今回のことについては黛さんの知り合いから聞いてしまったようで、事情は知っています。
彼にも彼の事情があってやや棘があるかもしれませんが、水月くんにあたることはないと思います。安心してください』
『わかりました。お手数でなければよろしくお伝えください。では、一時半にお待ちしております。手がかり探しについては集合後改めて相談しましょう』
『わかりました』
これは友達の会話ではないよなあ。
軽く肩をおとして電源を切る。
別に友人関係に飢えているわけではないけれど――そう思ってふと、自身に疑問を覚えた。
人見知りではあるが対人恐怖症というわけではない。愛想だってそこまで悪くないはずだ。
つまらない人間かもしれない。積極的に避けられなければいけないいわれがあるとも思わない、事実何度か遊びや勉強に誘われたこともある。
人並みに人間関係というものに憧れはあるのだ。
なのにどうして自分には、友達だとはっきり言える人物が岩尾しかいないのだろう。
「……なにかあった気がする」
キレやすい時があるとか、それもあるが、そうではなくて。
何かもっとはっきりした理由があった気がする。
思い出そうとしたが、手元の時計が止まっているのに気づく。
「またか!」
頭を抱え、自室の机から道具をひっぱりだす。
きっと思い出すべきなのだろう。だがこの時計はとても大切なもの。
――またあとで思い出せばいいさ。
水月はスマートフォンでアラームを設定した後、椅子に腰をかけた。
部屋の位置と扉を図にまとめただけの簡易な見取り図をベッドのうえに丁寧に乗せる。
何、修理には数分程度あればいい。
掃除やこちらの準備はそのあとでやればいいのだ。
決して水月は時計に詳しいわけではない。
この時計はいわば古い家電のようなものらしく、軽くいじるだけでまた元通りに動き出す。
叩けば動く、というあれだ。
とまる度にいじくっていたら、すっかりもとに戻すためのコツを身に着けてしまった。
歯車の位置をほんのちょっとだけ直して、時計は無事時を刻み始める。
いつものことながら再び動き出したのを見て、生理的といってもいい安堵の息をつく。
そうして軽く背を伸ばした。
図面が間違っていないか確認し、メモ帳から二枚紙をはがす。
萱愛と柳端の分。そこに触らないでほしい箇所を書き込む。
箇所といってもせいぜい親戚夫婦の私室ぐらい。
あとは自由に見て回っていい。冷蔵庫に麦茶を作っておいたからいつでも飲んでいいというメッセージもきっちり記しておく。
今日も今日とてとても暑い。いくら室内といえども、このなかを動き回ったら汗をかいてしまうかもしれない。
これぐらいはしなくては。水月は手伝ってもらう立場なのだから。
そうしているうちに十一時。
一、二時間。短い時間ではなくともあっという間に過ぎてしまう。
昼食をつくって、洗濯物を自室にしまう。
よく晴れているから干したい気持ちもあったが、今からでは約束の時刻までには間に合うまい。その時間の代わりに、軽い軽食をこしらえる。
人を喜ばせようという行動は楽しい。
「ひかれなきゃいいんだけどな」
一人暮らしだと色んなものを持て余して困る。
朝食を兼ねた昼食をとり、二人の到来に備える。
不愛想だという萱愛の友達。
黛が脳裏をよぎる。
――こわくない友人だといいなあ。
消したくても消えない記憶。
そういうのもある。どうして思い出したいことを思い出せなくて、こちらは簡単に思い出せるのか。
人間の頭は不便だ。そう思いつつ、彼は平穏を祈る。
時間になって現れた青年。
ひとのいう、いわゆるイケメン。
祈りも虚しく、整った相貌とそれだけに力のある目は決して好意的なものではなかった。