エピローグ
みんなで幸せでいるために、人は道理を求める。
ならば、道理を求めない人間は、自分のことしか考えていないのだろうか。
萱愛自身、望まない未来に至ったことも、傷つけるとわかっていて成したいことを成す人間を見たことがある。
ならば、彼が選んだ答えは、どういう答えなのか。
萱愛はいまだ自分の判断に迷っている。
「萱愛氏。いけませんねえ、一緒にいるときに心あらずとは」
「あっ……すみません」
恋人である閂に咎められ、意識を現実に戻す。
閂は季節に奪われた熱を奪い返すように萱愛の指に自分のそれを絡ませる。
空は分厚い鉛色の雲に覆われている。
肌寒い風が二人の髪を揺らす。
今年は異様に熱さが長続きしたが、それでも冬はやってきた。
十二月。水月 年季の事件から、六か月が経過していた。
「あと数週間もすればクリスマスですか。早いものです」
「本当ですね。この調子じゃああっという間に卒業してしまうかも……のんびりできませんね」
「おや、のんびりしたいのですか? それは大変喜ばしいことで」
ちくりと嫌味が混じる。今日の閂は機嫌が悪い。
いや、別の部分ではとても機嫌がいいのだが。機嫌がいいのに悪い。別ベクトルの感情を綺麗に分けて使いこなすという器用な真似を披露されていた。
「そんなに嫌?」
「嫌ですねえ。ヒヒッ」
一緒に過ごせるのは嬉しい。でもこれから行くところは嫌。
歯に衣着せない閂に苦笑する。
喋りながらも歩みはとめない。
「水月氏、お身体の方は大丈夫でしょうか? 胃を痛めていそうです」
「はは……」
罪を犯した水月の胃は、確かにつらいことになっていそうだが。今の彼ならそれなりにしたたかにやっているのではなかろうか。曖昧な笑みで答えをはぐらかす。
人の家に通うのは得意だ。萱愛の足は迷うことなく目的地にたどり着く。
いつも通りインターホンを押せば、以前より随分明るくなった声が返ってくる。
『はい、水月です』
「萱愛です」
『あれ、萱愛? 今日も来てくれたのか、悪いな……』
休みになる度訪ねるのを彼なりに気遣っているらしい。
快く玄関を開けて、水月は二人を迎え入れた。閂の存在を認めると、かすかに表情を曇らせた。
「大丈夫? 岩尾いるけど」
「ああ、本人が一緒に来たいっていったから」
「ヒヒヒッ」
「まあ、それなら」
二階の水月の自室にいくと、そこには当たり前のように岩尾が座っていた。
萱愛には穏やかな笑顔で手を振り、閂には軽く親指を突き立てる。何があったか知らないが、二人の間には深い溝があるようだ。
椅子に腰をかけ、鞄から教科書を取り出して広げていく。
「それじゃあ、今日はこれと、この教科をやろう。ノートとペンがあれば十分だよ」
「わかった」
生徒を殴った事件ではたかだか数週間の謹慎であったが、今の水月は法律的に縛られている。
運転過失建造物損壊罪。車両等の運転者が業務上必要な注意を怠り、又は重大な過失により他人の建造物を損壊したときは、六月以下の禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
岩尾の家を破壊した一件はそういうことになっていた。
危うく退学になりかけたところをギリギリ踏みとどまったのは、萱愛の水月に対する説得。そして水月が事件以前は真面目過ぎるほど真面目な生活をしていたおかげだろう。
現在は学校の指示でカウンセリングに通いつつカウンセラーを目指す……という状態。
勉強の方は萱愛が教えているが、彼が卒業するのは早くとも萱愛の一年後になる。
それでも何も勉強しないと怠けている気がして、逆に気が滅入るのだという。
萱愛が手を差し伸べるのも半ば当然だった。
「閂さん、相変わらず姿勢がお悪いのね? せっかくの綺麗な黒髪がくすんでみえるわ~」
「ヒヒ、そのとってつけたような口調、虫唾が走る。黙って笑っていれば壁の花ぐらいにはなれるものを」
岩尾も平常運転だ。
あの事件も嘘のように――されどこの平穏こそが、あの事件の結果なのだ。
「平和、だな」
水月が一人ごちる。
これからの彼は、社会に出るにあたって様々なハンデを抱えることになる。
それでも、一人の命を奪わずに済んだ。自分の選択の結果を噛みしめるようだった。
表情は晴れ晴れとして、しかし嬉しそうではない。
「水月氏、もう少し嬉しそうになさったらどうなのです?」
「いやあ、はは。別に正しいことをしたわけじゃあないからね」
鋭く見抜く閂にも乾いた笑い声を返す。
岩尾の命を奪わない。奪おうともしない。それが水月が選んだ答えだった。
一見正しいように見えて、その意味はかつての彼とは異なる。
水月は岩尾の罪を暴かなかった。
何の悪も抱えていない少女であると偽装し続けることを選んだ。
それはかつて「みんな」を考えた彼を裏切り、水月が一線を越えて倫理から解放されることを望んだ岩尾をも裏切る選択だった。
岩尾と一緒にいたい。
だから悪に目をつぶる。誰の願いもかなえない。
その時、道理を信じた水月 年季は死んだ。
何もしようとせず周りが行うままに流され、自分は何もしなくていいと甘えていた彼は。
誰よりも憎んでいた彼は。
水月 年季の理想的な殺し方。
それがこれだ。
「もし萱愛がいなかったら。柳端がいたら、きっと岩尾を殺していたと思う」
ぽつりと、萱愛にだけ聞こえる声量で独白する。
「あの時、柳端が大事な人間を失ったら後悔するって言った時。何かする前から諦めるなと言われていなかったら。オレはオレのまま、岩尾の望みを叶えていた。ありがとう」
萱愛は答えられない。
何かを守るために何かを失う。今までもあった。だがこの平和の美しさをどうやって測ればいいのだろう。
水月の勝手な都合で、罪を罪としない。
情をとる。
もしかしたら、許されないことなのかもしれない。
だからもろ手をあげて喜べない――一見矛盾した水月の内面はわかった。
萱愛のなかに渦巻くなんともいえない想い。喜びか、不満か、あるいは戸惑い。
「それでも、これでいい。この結果がいい」
誰の命も終わらない。
歪んだ夢だけが殺され続ける。
水月は満足そうに微笑む。
萱愛には、わからない。
ただ支え、見守ることだけが、人としてできることだった。