第八章 南から来た少年、東から来た少女 第六話
式典前日、王宮では最終準備の為に人々が慌ただしく走り回っていた。宮廷で働くありとあらゆる職業の人物が、最早歩いている余裕も無い程に、忙しく廊下や広間を駆け抜けていく。その中で、カリンがヴァイオリンを手に、アルフリートに演奏を披露していた。
さしもののんきな国王陛下も、明日が本番とあってはぼけっとしている時間がある訳も無く、カリンが彼をつかまえて腕前を見せる機会を得られたのは奇跡に近い所行であった。エミリとアイリーンの計らいで、婚礼衣装の最後の着付けをしているアルフリートの横で、カリンはようやく自らの納得する演奏を聞かせる事が出来た。アルフリート自身は、先日のテストでもう充分だと考えていたのだが、カリンの方がそれを良しとしなかったのである。
宮内局スタッフや侍女の言うままに手を上げ下げし、次から次へと着替えをさせられているアルフリートは、それでも熱心にカリンの演奏する曲に耳を傾けた。曲が終り、拍手をしようとして袖を調整していた侍女を慌てさせる。指のしもやけもほとんど回復し、練習を積み重ねて勘を取り戻したカリンの技術は、アイリーンや急遽駆け付けた楽士長の耳を満足させるに足る物であった。
アルフリートはにこにこと頷き、アイリーンは優しげに微笑みかける。その場に居た全員の耳を納得させる演奏が出来た事を、カリン自身が最も良く理解しており、深々と一礼すると頬を紅潮させて嬉しそうに笑った。それはあどけない十歳の少女そのままの、邪気の無い笑顔だった。
アイリーンのリクエストした曲を奏でるカリンを見つめながら、アルフリートは今後の少女の扱いを考えていた。閣僚にも彼女の事情は報告してあり、メルヴィング王室とカリンの実家であるデラルク侯爵家へは使者を送っていた。
式典前日とあってメルヴィングからは既に来賓が到着しており、ヴィンセントを通してカリンの希望や事の子細、トランセリアの方針もおおよそ伝えてある。カリンが亡命の意志を表明した事に、デラルク家はショックを隠せないようであった。国王自らがカリンの保護を申し出た上に、忙しい式典の前とあってメルヴィング側もそうそう強くは出られないのか、今の所大人しくトランセリアの意向を承諾するより他は無かった。
子供だけで雪のセリア山脈を越えて来た無謀とも言える勇気や、即座にアルフリートへ面会を求めて動いた十歳とは思えぬ行動力に、アルフリートを始めトランセリアの閣僚達も少女に一目置いていた。また、カリンを手助けして彼女を無事セリアノートへと送り届けたハルトの機智も、ディクスンやシルヴァら、主に武人達に気に入られたようであった。
いずれにせよアルフリートは、カリンをトランセリアに留め置きたいと考えていた。音楽などの芸術面が弱いという国の事情もあったし、宮廷楽士は揃っているものの、こと作曲となると全くの人材不足であった。トランセリアには今だに国歌すら無く、外国の高名な作曲家に依頼する金銭の余裕も無かった。カリンが優れた演奏家であると同時に、作曲もする音楽家であるということは、ディクスン邸に滞在しているわずか数日の間に、少女がピアノを前に即興で二、三曲作ってみせたというエミリの話が証明していた。
アルフリートは式典が終ったら自らデラルク家と会談の場を持つつもりであり、場合によっては元王族であるアイリーンの手も借りて、カリンを留学といった形で王宮に迎え入れられないか、話を持ちかける腹積もりでいた。そして何よりも、こんな面白い人材を、アルフリートに流れるリーベンバーグ家の血が、放っておける訳が無かったのである。まさにそれはヴィンセントの読み通りの展開であった。
王宮の正面玄関では訪れた各国の来賓を、ヴィンセントら外務庁スタッフが総出で出迎えていた。この日の為に帰国した大使や外交官らも加わり、それでも手が足りずに内務庁の人員まで借り出して応対に当っている。
昨夜までヴィンセントを手助けしていたドワイトには、元老院としての職務があり、ぎりぎりまで軍務長官代行の仕事をこなしていたグレン元帥と共に法務庁に出仕していた。彼等は明日の結婚式に立ち会い、シルヴァの王妃への戴冠式を執り行わなければならないのである。
大陸諸国の王族や貴族、閣僚の重鎮達に外交官らが、きらびやかな衣装に身を包んで続々と詰め掛け、中央広間には華やかな外交の輪が咲き乱れる。そんな表舞台とは対照的に、王宮の裏方を勤める人々は繁雑を極め、文官も武官も、侍女や侍従、料理人に楽士に庭師までもが、気も狂わんばかりの忙しさに駆けずり回っていた。
今夜は徹夜での準備が予想され、宮廷の食堂ではスタッフの為の料理も大量に用意されていた。慌ただしく食事を済ませては出て行く人々の間を縫って、アルフリートも何か軽く腹に入れておこうと、本番の衣装のままふらりと食堂に立ち寄る。それに気付いた年かさの侍女が、大事な礼装に染みでも付けられてはかなわないと、有無を言わせず上着を脱がせ、大きなナプキンを彼の首に巻き付けた。
幼い子供の様な出で立ちで椅子に腰掛けた国王に構いもせず、周囲を忙しく人々が行き交う。その時厨房の奥からアルフリートに大きな声が届いた。
「アルフ!ごはんかい?今持ってくからたんとお食べよ!」
「うわぁっ!……ば、ばあちゃん」
そこには自前の割烹着を着て片手に巨大なお玉を持った彼の祖母、シャーロットが立っていた。彼女は宮廷の人々の忙しさを耳にすると、邪魔になるだけだからよせと夫が止めるのも聞かず、『みんなにごはんを食べさせる』為に王宮にやって来ていたのだった。
アルフリートはその時になってやっと気付いた。食事をする周囲のスタッフ達の目の前には、てんこ盛りにされたパンだのシチューだのの皿がいくつも置かれているのである。逃げ出そうとした彼をつかまえ、シャーロットはどんどんと音を立てて、次々とテーブルに皿を並べていく。
「今夜は遅くなるんだろ、いっぱい食べておいき。あんたは主役なんだから、式の間に腹の虫なんか鳴らしちゃだめだからね」
「……ばあちゃん、こんなに食ったら衣装が入らなくなっちまうから…」
「若いもんが何言ってるんだい!いいから食った食った、まだお代りあるからね!」
たまたま近くに居た主計局長リカルドが、食べ過ぎてベルトの穴を三つも弛めたお腹をさすりながらアルフリートにささやく。
「…陛下、ひと通り胃に収めなければ帰してもらえません。頑張って下さい」
「しまったなぁ…、いつもみたいに執務室で食べるんだったよ」
普段の昼食はアイリーンらと執務室で取る事が多いアルフリートも、忙しい料理人に気を使ってここ数日は食堂で済ませていた。
再び両手に料理の皿を持って近付くシャーロットを見てリカルドは逃げ出し、アルフリートは慌ててナイフとフォークを手に取る。シャーロットは大きな声で嬉しそうに言った。
「みんな小食だねぇ…。そうそう、さっきグレン坊やが来たから久し振りにたんとご馳走してあげたよ。あんたもあれぐらい食べればもっとおっきくなったのに」
『坊や』呼ばわりされているグレンは、法務庁に向かう前に食堂に立ち寄り、シャーロットにつかまって三人分も食事を平らげて行ったのである。
結局アルフリートもいつもの倍の量の昼食を腹に詰め込み、ふうふう言いながら次の仕事へと向かって行った。閣僚でこの難を逃れたのは、忙しくて昼食の取れなかったシルヴァと、何かを察して食堂に近寄らなかったユースト、そして式典責任者としての徹夜仕事に備え、三食分の愛妻弁当を手に出勤した、内務長官フランクの三人だけであった。
大広間での最終リハーサルに立ち会うアルフリートの元に、シルヴァが大勢の侍女と共に駆け付ける。真っ白なウェディングドレスに身を包み、本番同様に髪の毛もきちんと結い上げ、薄く透けるヴェールまで被っている彼女は大変に華やかで美しかった。
ここまで走って来たのだろうシルヴァは、息を弾ませてアルフリートの隣に並び、頬をうっすらと紅潮させて彼に微笑み掛ける。すらりとしたシルエットのドレスは彼女のスマートな体型に良く似合い、むき出しになった肩には幾らか筋肉が盛り上がってはいたが、艶やかな婚約者のその姿を見て、アルフリートはつい小さく口笛を吹いてしまう。「こら」と囁いてその行儀の悪さを嗜めるシルヴァだったが、すぐに笑顔に戻って明日から夫となる国王の腕に遠慮がちに手を添えた。
侍女達の手によって念入りに化粧が施されたシルヴァは、眉間の傷もきれいに隠されており、数カ月前からあれやこれやと白粉を品定めし、試行錯誤を繰り返して来た彼女達は、自らのあるじの美しさを自慢するように誇らしげに胸を張った。
祭壇の前で式の手順を確認する二人を見つめる人々の中には、リハーサルだというのに感極まって涙ぐむ女官などもおり、全ての段取りを統括するフランクも、胸の奥から込み上げる熱い思いに瞳を潤ませていた。
大広間には宮廷楽士達も本番同様に揃っており、その中にヴァイオリンを手にしたカリンの姿もあった。腕前を認められた彼女は、式典や舞踏会などで何曲か演奏を披露する予定になっていた。目の前で繰り広げられる結婚式の様子から、うっとりと目が離せないカリンを、エミリが微笑ましく見つめている。
ディクスン邸では娘のフィーナが家族全員分の礼装の準備に追われ、自分の子供の頃の物を手直ししてカリンにもドレスを用意して待っていた。
さすがにハルトは式に出席する事は無かったが、彼にしてみても一番の稼ぎ時である式典当日に、王宮でのんびりしている気などさらさら無かった。一回でも多く公演を行う為に、ハルトは今日もエミリの作った弁当を手に、朝早くから市街へと出掛けている。
地方の工学校で寮生活をしている末の息子も帰省し、ディクスン家はひと時の賑やかな雰囲気に包まれていたが、それ故にフィーナはフリッツが居ない事をことさら寂しく感じていた。
深夜になっても王宮はいっこうに眠る気配を見せず、大会議室に設営された式典本部の一番奥のデスクに、愛妻弁当を傍らに陣取ったフランクは、途切れる事無く訪れるスタッフを相手にてきぱきと指示を繰り返す。宮廷中の廊下をひっきりなしに人々が走り抜け、各局の局長達も宮廷騎士団の隊長達も、とうに今夜は眠る暇など無い物と腹を括っていた。
閣僚が最後の準備や来賓の世話に追われる中、明日の主役の一人であるアルフリートは既にベッドの中でぐっすりと眠っている。片やシルヴァは侍女に追い立てられるようにベッドに入ったものの、緊張からか目が冴えてなかなか寝つけずに、暗闇の中幾度も寝返りを繰り返していた。
ディクスン邸は明かりも消され、ひっそりと静まり返っている。屋敷の主人である将軍は当然のように王宮から帰宅する事など出来ず、彼以外の家族は明日に備えて早々と寝室に向かった。
ハルトも正念場とも言える明日の公演の為に、さっさとベッドにもぐり込んだ。昼間の疲れもあり、瞬く間に眠りに落ちた彼であったが、夜半になって何か動く物の気配にふと目が覚める。暗闇の中、もぞもぞと毛布の中にもぐり込んで来たカリンの白い顔が目の前にあってハルトは仰天し、大声を上げてしまう。
「わぁっ!…かかかかカリンっ!なにしてんだお前っ!」
じっとハルトを見つめ、おずおずと小さな声で告げるカリン。
「……眠れない」
「……眠れないって、だからなんだよ」
「……一緒に寝て」
「な…何言ってんだよ…うわっ!こらっ!」
ハルトの背中に腕を回し、胸にしがみついて来るカリンを慌てて振り払い、逃げ腰のハルトはベッドから落っこちそうになってしまう。カリンは上目遣いで普段とは大違いの情けない声を上げる。
「緊張して眠れないのよぉ~。お願いぃ、一緒に寝てぇ~」
カリンはベッドに横になってから、明日に備えて演奏する曲を一通り頭の中でおさらいした。それが逆効果となり、次から次へと考えなくていい事まで思い巡らし、いつもはあまり感じない不安や、自分の国からやって来ている来賓達の事までも心配になってしまう。アルフリートの前で一度失敗した事も影響したのだろう、眠ろうとすればする程様々な考えが心の中に浮かび上がり、目が冴える一方になってしまったのである。
半べそを掻いているカリンの様子に、ハルトも少しは可哀相に思ったのか、背中を向けて毛布を被るとぶっきらぼうに言った。
「……仕方ねぇなぁ。寝相が悪かったらベッドから蹴り落とすぞ」
「……ごめんねぇハルト」
そうつぶやいて背中にすがり付くカリン。背中から伝わる少女の体温を感じながら、ハルトはカリンの性格が大方掴めて来ていた。昼間は勝ち気で自信過剰なこの少女は、夜一人になると訳も無く心細くなるのだろう、妙にしおらしくなったり、幼児の様に甘えてきたりするのである。夜中に一人でトイレに行くのを怖がったりするのがその証拠だった。
ハルトにぴったりと寄り添って眠るカリンの仕種から、彼はもう一つ予想を立て、少女に小さく問い掛ける。
「……カリン、お前ひょっとして、国じゃぬいぐるみかなんか抱いて寝てたんじゃないのか?」
ぴくりと身体を震わせたカリンは、しばらくの沈黙の後歯切れ悪く答える。
「………う…ん。…そうだけど。…でもでも、だから眠れないっていうんじゃないのよ。明日でわたしの運命が決まっちゃうんだから、それで緊張してるのよ。…きっとそうよ」
「そうかぁ~?……まぁいいや、そういう事にしとこう」
「そうだってば、もう……。……なんでハルトには分かっちゃうのかなぁ」
ぶつぶつとハルトの背中に呟きながら、いつもの調子のやり取りにカリンの緊張も少しはほぐれたのか、やがて少女の寝息が小さくハルトの耳に聞こえて来る。首筋に感じるカリンのかすかな吐息と、ふわりと漂う石鹸のいい香りに、今度はハルトがなかなか寝つけずにいたが、次第に彼にも眠けが訪れた。
後日、カリンのすぐ上の姉の気遣いによって、大きな熊のぬいぐるみが、カリンの両親には内緒でディクスン邸へと送り届けられるのである。それを知ったハルトが、たっぷりとカリンをからかうのは言うまでもなかった。
十数年振りにトランセリアに訪れた、国を上げての大騒動の夜もやがて明ける。様々な人々の興奮と不安と緊張を抱え、国王アルフリートと軍務長官シルヴァの結婚式当日がついにやって来た。
よく晴れた首都セリアノートの空に、色とりどりの煙りがいくつもいくつもたなびく。王立工匠の職人達によってこの日の為に用意されたお祝いの花火が、ぽんぽんと威勢良く打ち上げられている。
市街は朝早くから大変な人出でごった返し、物売りの声やはしゃいで走り回る子供達の歓声が響く。国中から式典を見る為に人々が押し寄せ、それを当て込んだ行商人や旅芸人が遠く外国からも詰め掛ける。各国の来賓が馬車を何台も連ねて到着し、見慣れぬ服装の騎士やお付きの供も数多く訪れ、大通りはいつもとはがらりと違う雰囲気に沸き返っていた。
トランセリアの騎士達も、普段とは異なる礼装を身に着け、幾分誇らしげにしかし随分と緊張した面持ちで、それぞれの任務に忙しく行き交う。王宮前の広場では祝いの酒の樽が開かれ、次々と市民に振る舞われていた。
新郎新婦の顔見せが行われるバルコニー前や、パレードが通る道の両側では、昨夜から場所取りをしていた者もおり、皆イベントの始まりを今か今かと待ち望んでいた。
早起きして朝食を済ませたハルトが出掛けにカリンに告げる。
「今日は中央広場で大きな公演をやるんだ。あっちこっちの国からいっぱい芸人が集まって技を競い合うんだぜ、お前も時間があったら見に来いよ」
起きたばかりのカリンはまだ少し眠たそうに、寝巻き姿のまま答える。
「うん、分かった。…午後なら時間が開くから行けると思う。…がんばってねハルト、行ってらっしゃい」
元気良く手を振って出掛けたハルトを見送り、振り返ったカリンにフィーナがにやにやとからかいの声を掛ける。
「旦那様のお見送りご苦労様カリン。でも奥様もあんまりのんびりはしてられないわよ」
「そんなんじゃありませんー。もう、フィーナったら……」
かすかに顔を赤らめて頬を膨らませる少女の背を押し、フィーナは着替えを急かした。彼女等も式典に出席する為に王宮に向かわなければならない。
侍女の手を借りて支度を整え、慌ただしく食事を詰め込むと、カリンはヴァイオリンのケースを手に馬車に飛び乗った。
シルヴァはいつも以上に緊張した面持ちで、アルフリートの元へと現れる。既に支度を整え、真っ白な新郎のタキシードに身を包んだ国王は、普段の朝と何も変らず、にこにこと彼女を迎えた。
昨日のリハーサルよりも遥かに気合いの入った侍女達の手により、シルヴァの化粧もドレスの着付けも完璧な迄に仕上げられ、子供の頃から彼女を見慣れたアルフリートでさえ、輝かんばかりのその美しさに一瞬言葉を失い掛けた。その表情から婚約者の不安を察したアルフリートは、そっとシルヴァの背中に手を回すと耳に囁く。
「…すっげぇ美人、惚れ直す」
「……ばか」
恥ずかしそうに微笑むシルヴァにキスしようとした国王に、周囲の侍女達がすかさず待ったを掛ける。化粧が落ちるから誓いのキスまで我慢して下さいと注意され、アルフリートは不承不承それに従うのであった。
シルヴァの緊張にはもちろん理由がある。アルフリートは元々どんな大きな式典や外交でも、変らぬリラックスした態度を取る事が出来るが、シルヴァはこういった華やかな場は本来苦手なようであった。軍務長官としての兵を前にした演説なら、例え何万人居ようとも顔色一つ変えずにこなしていたし、戦場とあらばあらゆる局面で鬼神のごとき力を発揮する戦の女神も、長いドレスの裾を引き摺って、ひたすらおしとやかに、にこにこと笑顔を保ち続けなければならない式典の主役には、不安を隠せぬようであった。
その上シルヴァはアルフリートとは立場が違う。彼には明日からも、国王の職務を続ける今迄と変らぬ毎日が待っているだけだが、シルヴァは今日より王妃になるのである。幼い頃から一緒に居るアルフリートとの暮らしには、何の心配もしていなかったが、王妃の責務と軍務長官の仕事とを掛け持ちでこなす日々が、明日から彼女の身に課せられるのである。ましてやトランセリアの王族は法律上では彼等二人だけであり、他国の王妃とは違う激務が待ち構えているのであった。
シルヴァは当面は元帥位を持つ軍務長官としての王妃という、大陸の歴史上でも類を見ない異例の地位に就く事になるが、早々に長官の役職を譲るべきだと考えていた。彼女は兄弟の居なかったアルフリートの為に、子供をたくさん産んであげたいとの望みを持っており、お腹に子供を宿した状態での掛け持ちは到底無理だと思っていた。その事は三人の将軍にも内々に打診してあり、シュバルカとメレディスは迷わずディクスンを次期軍務長官に推薦した。
経験と人望を理由に、頑に筆頭将軍を推す寡黙な第一軍司令官であったが、シュバルカはその薄くなった頭を、縦に振ろうとはしなかった。恐らくあと数年で一線を退くことになるであろう彼は、将軍位を自分の最後の地位だと決めていたし、これ以上出世して現場から遠くなる事を最も忌避していた。長官ともなれば政治家としての一面も要求され、それもまたシュバルカは自分には向かぬ職だと考えていた。
この後、文官の閣僚も交えた御前会議の席で、変則的なシステムが採択される事になる。ディクスンには元帥位が与えられ、シルヴァの妊娠中は彼が軍務長官代行に就き、三軍を統括する。しかし宮廷騎士団はシルヴァの直属に置かれ、変らずに王室直轄の任をこなす事になった。シルヴァが妊娠し、大きなお腹を抱えて身動きが取れなくなるまで騎士団を指揮するという、またしても破天荒で且つ貧乏性な人事が行われるのである。
元々トランセリアには軍務長官という地位は存在せず、初めてその職務に就いたのがグレンの前任の元帥バイロンである。シルヴァは三代目の長官であり、それ以前は国王が直接軍を束ねていた。初代国王アルザスの時代にはそこまで騎士団が整備されておらず、そもそも必要が無かったし、アーロンは突出した軍人肌で、自ら元帥位を有し、全軍を強固な一枚岩にまとめあげていた。文人王アンドリューの時代にその必要性から、軍務長官が置かれる事になったのである。
トランセリアの武の象徴とも言える宮廷騎士団を、『双刀の魔女』の揺るぎないカリスマ性で牽引する、シルヴァの才を惜しんだ結果の策であった。文官の長ユースト宰相と共に、常にアルフリートの左に立つ王妃シルヴァ・リーベンバーグは、今後も永くトランセリアの武門の要と有り続けるのである。
王宮前の広場は集まった市民達でぎっしりと埋まり、新しい国王夫妻がバルコニーに姿を現わすと大きな歓声が沸き上がった。口々に祝いの言葉を叫び、アルフリートとシルヴァの名を呼ぶ彼等に、二人はにこにこと微笑んで手を振り応える。
背丈のほとんど違わない新郎と新婦は、シルヴァがハイヒールを履いてしまうとアルフリートよりも背が高くなってしまう為に、ドレスには合わなかったが踵の低い靴を履き、逆にアルフリートにはいつもより底の厚い靴が用意されていた。彼自身はシルヴァとの身長差を全く気にしてはいなかったが、来賓を前にした祝いの席での見栄えと言う物を、閣僚は意識したのである。
アルフリートに踏み台に乗ってもらったらどうかという案まで出たが、そこまでするのは逆効果だろうと思われた。昨日、衣装合わせの間を縫って行われた、宮廷画家による肖像画のスケッチの際も、椅子に腰掛けたシルヴァの後ろにアルフリートが立つという構図が、当り前の様に決められていた。実際の所、アルフリートは平均より少し身長が低いだけであり、シルヴァが女性にしては背が高いという事であったのだが。
バルコニーには閣僚も勢揃いし、隣に並ぶユーストやアイリーン、将軍達も、にこやかに市民に手を振っている。朝から機嫌の良いアルフリートは、収まらぬ歓声にさらに応えようと、バルコニーの手摺に足を掛けてその上に立とうとする。すかさず後ろに控えるシンが国王の服の裾を掴み、両隣りに立つユーストとシルヴァの蹴りが入る。前を向いたまま、笑顔もそのままに呟く二人。
「調子に乗るな」
「余計な事しないの」
慣れない靴でバランスを崩す恐れがあると見たユーストは、前もってシンにアルフリートのこの癖を伝えておいたのである。宰相にからかわれているのかと半信半疑だったシンも、目の前で手摺によじ登ろうとしたアルフリートに驚き、素晴らしい反応で彼の行動を阻止した。
アイリーンはそっと国王の背後に近寄ると、小さく囁いた。
「…陛下、今日からはもうお一人の身ではございませんので、自重下さいませ」
周囲から一斉に嗜められたアルフリートは、手を振りながらも小さく独り言ちた。
「目出たい日なんだからいいじゃねぇか。結構みんな期待してると思うんだけどな……」
その言葉を聞いて尚も身構える、シンとアイリーンであった。
市民への顔見せを終え、アルフリートとシルヴァは中央教会へと急ぐ。この後もスケジュールは詰まっており、式を終え次第パレードが行われる。王宮に戻り、昼食を挟んでシルヴァの戴冠式、そして晩餐会の後は舞踏会が控え、目も回る忙しさであった。
教会の祭壇へと続く階段を、先王アンドリューにエスコートされたシルヴァが一歩づつ昇って行く。父バーンスタイン将軍を亡くしている彼女は、結婚式での父親役を当初はグレンかシュバルカに頼もうと考えていた。亡き父の事を良く知る二人であったし、若くして騎士になったシルヴァを、娘の様に可愛がってくれていたのも彼等だった。
しかし、シルヴァから依頼された二人はすまなそうにそれを断った。グレンは足を悪くして杖を使っている事を理由に、大事な式に向かう階段で転びでもしたら陛下に顔向け出来ないと告げ、シュバルカは随分と迷った挙げ句に真っ赤な顔でこう言った。
「……身に余る光栄だとは存じますし、自分を選んで頂き大変嬉しくもあるのですが、……自分は、…きっと、その……泣いてしまうと思うのです。大勢の来賓方や部下の前で涙を見せるなどあってはならん事ですが……。いや、やはり誰か他の方に…。申し訳ござらぬが」
その言葉にシルヴァは思い出した。数年前に出席したシュバルカの娘の結婚式で、彼は最初から最後まで大泣きしていたのであった。シュバルカは今の妻マリーとの間に授かった、一歳にもならぬ娘のフランソワの嫁入りの事まで脳裏をよぎるらしく、確かに泣かずに済ませるのは無理な事のようであった。
グレンとシュバルカを差し置いて、メレディスやディクスンはうんとは言わぬだろうし、かといってユーストやヴィンセントでは歳が近過ぎる。フランクなら心良く引き受けてくれるであろうが、シルヴァは彼とはそれ程親しい間柄では無く、閣僚中最も多忙な式典責任者に、これ以上役目を増やすのも気が引けた。また、フランクこそ涙脆い事ではシュバルカに引けは取らぬだろうとも思われた。
国王の結婚式であるからそれなりに格といった物も必要であり、悩むシルヴァの様子を見ていたアルフリートは、最悪ユーストに頼めばいいだろうと失礼な発言をし、副官セリカはアンドリューに相談を持ち掛けた。それを聞いた彼は自分から立候補して来たのである。
アンドリューは本来リーベンバーグ家に嫁ぐシルヴァを迎え入れる立場であったが、一度『娘を花嫁に送り出す父親』を体験してみたいと彼は正直に告げた。セリカとの間に授かったアリアの、来たるべきその時に備えて予行演習をしておく腹積もりなのか、実父を亡くしたシルヴァを不憫に思ってか、理由は分からないが確かに何処からも文句の出ない人選であったし、幼い頃からシルヴァを良く知っている事は確かだった。
「忙しい閣僚に頼むよりはヒマな親父の方がいいかも…」と、ずけずけと言うアルフリートの意見もあり、シルヴァはアンドリューのエスコートで教会に入場することになった。
真っ白な長いベールの裾を持つ二人の少女は、七歳になったアリアと、十一歳になるフランクの一人娘ローラである。
色鮮やかな可愛らしいドレスを身に着け、緊張で頬を真っ赤にして階段をしずしずと昇る二人の様子を、列席したフランクも彼の妻も、そして歳の離れた二人の兄も心配そうに見つめている。歳を取ってから授かった末の娘を、フランク一家は宝物の様に溺愛しており、感動して目を潤ませている彼等の様子から、少女が大人になって嫁ぐ時はさぞかし涙にくれるのだろうと今から予想されるのである。
片やアリアの母であるセリカは、宮廷騎士団の幕僚としての役目があるのだが、剣の主であるシルヴァと一人娘のどちらも気になって仕方ないらしく、気もそぞろになってきょときょとと視線が落ち着かない。シルヴァに腕を取られたアンドリューも、振り返ってアリアの様子を確かめたいのだが、そんな行儀の悪い真似はもちろん出来ず、表面上はひたすらにこにこと嬉しそうにしていた。
パイプオルガンの荘厳な音色が流れる中、壇上で待つアルフリートの元へと、ゆっくりと歩を進める二人。新郎の傍らには、滅多に見られない正装したアーロンとシャーロットが並び、そして亡父バーンスタイン将軍の肖像画を胸に抱えたシルヴァの母が、二人の息子と共に彼女を見守る。
ずらりと通路の両側に揃った各国の来賓の視線を一身に浴びながら、シルヴァは自分でも意外な程冷静だった。確かに緊張もしていたし、胸に熱い物が込み上げそうにはなるのだが、涙が溢れ出す迄には至らなかった。
やがてアンドリューの手からアルフリートの手へとシルヴァが送り届けられ、司祭がおごそかに聖句を読み上げる。滞り無く式は進行し、誓いの言葉を交わし、ベールを持ち上げた新郎が、そっと彼女の唇にキスをする。
人々の拍手と歓声の中、プロポーズから九年の時を経て、シルヴァは二十一歳になったアルフリートの妻になったのである。