第八章 南から来た少年、東から来た少女 第五話
第一軍司令官ディクスン将軍は、執務室の窓の向うに広がる景色から日に日に雪が少なくなっている事を感じ、安堵していた。今年は特に雪が多く、例年よりも凍死や雪の事故が多くなる事が懸念されていたが、幸い死者の数は昨年を下回りそうであり、閣僚は国王の結婚式にさい先のいい事だと話し合った。
毎年セリア山脈が雪化粧を纏う時期になると、将軍は自分がこの国にやってきた辛い逃避行の事を思い出し、南の国に行ったきりの息子のフリッツに思いを馳せる。年に数度手紙をやりとりしてはいるものの、妻と残された二人の兄弟は淋しさを募らせていた。特に娘のフィーナは、手紙が届いた時は明るい顔を見せるが、必ずその後の数日間は悲しげな表情で沈み込んでいた。
忙しく働くディクスンの元に、副官が良く知った人物の来訪を告げる。妻のエミリが王宮を訪れて面会を申し入れて来たと言うのだ。彼女は普段滅多にそのような表立った行動をする事は無く、いくら忙しいディクスンでも夜には屋敷に戻るのだから、予程の急用だろうと彼は思い、執務室に彼女を招き入れた。
彼の妻は意外な同行者を連れて来た。小さな男の子と女の子であり、片方は目に包帯を巻いていた。フリッツの手紙を手に、ディクスンの屋敷を探し当てたハルトとカリンであった。
「初めまして将軍閣下。メルヴィング王国デラルク侯爵家の第三女、カリン・クリカ・デラルクと申します。国王陛下へのお目通りをお許し頂きたく、ここにお願い申し上げます」
優雅な一礼と共にそう告げるカリンに、冷静な将軍も驚きを隠せなかった。
ハルトの手を引き、ディクスン家を訪れたカリンは、いぶかしむ護衛の騎士達を説き伏せ、エミリとフィーナに対面する事が出来た。
手紙を読み終え、故郷のフリッツの様子をハルトから聞いた彼女達は大変に喜び、二人を大切な客人としてもてなす事を約束した。だが、カリンは一息入れる間も無く、王宮に上って国王に目通りしたいと言い出す。ハルトもこれには驚いた。てっきり、やれ風呂だやれ新しい着替えだの言い出すに違い無いと思っていたからだ。
カリンは最初に着ていた服に着替え、自分の身分を明かしてエミリに懇願した。防寒用の地味なコートやズボンを脱いだ少女は、雪焼けで頬は赤くなっていたが、確かに身なりは大変に良く気品もあり、貴族と言っても不思議では無かった。
迷ったエミリは夫に相談する事を決める。いくら将軍の夫人といえど、いきなり国王への面会など許される筈が無いと(恐らくアルフリートになら難無く会う事が出来たと予想されるが)彼女は思っていたのだ。
カリンはハルトを置いて行こうとしたが、エミリは少年も一緒に連れて行く事にした。目の具合はそれ程気を使うものでは無く、よくよく話を聞けば、カリン自身はフリッツと何の面識も無い事が分かったからだ。ハルトが居なければ事情を分かってもらえないかも知れないと彼女は考え、三人で王宮へと向かう馬車に乗り込んだ。
デスクでフリッツの手紙を読み終えたディクスンは、ここ数年デスクワークの時に使い始めた老眼鏡を外し、ソファーに腰掛けた二人に向かって顔を上げた。色の黒い精悍な相貌の中、聡明さを伺わせる瞳が優しげな光を湛えている。ひと呼吸置くと将軍は静かに言った。
「ハルト君。手紙を届けてくれてありがとう、感謝している。フリッツの様子を聞きたいが、先に君の連れの用件を片付けてしまおうと思う」
うまく返事の出来なかったハルトはうんうんと頷き、カリンは背筋を伸ばす。
「カリン様、まずお聞きします。あなたの御身分を証明する物を何かお持ちですか?」
ハルトは将軍がカリンをきちんと高位の人物として扱っている事に驚いた。カリンは「はい、ございます」と答え、懐から眼鏡を取り出すとディクスンに手渡し、言った。
「そのつるの内側にわたしの名前と祖母の名前が彫ってあります。ご確認下さい」
ディクスンは再び老眼鏡を手にすると、何やら目を近付けたり遠ざけたりして、細いつるに彫り込まれた小さな文字を読んだ。片側にカリンのフルネームが、そしてもう片方には『愛するカリンへ』の言葉と共に、彼女の祖母の名が刻み込まれていた。将軍は頷き、カリンに眼鏡を返すと続けて言った。
「宜しいと存じます。それでは、もう一つ質問を致します。陛下にお目通りを望まれる理由はなんですか?」
真直ぐに将軍を見つめたカリンはきっぱりと告げる。
「わたくしはトランセリアに亡命を希望致します」
沈黙が支配した執務室を、ディクスンの声が破る。彼は副官を呼ぶと、アルフリートに緊急の用件で伺うと伝言を命じた。
留学への旅の途中、身一つで逃げ出したカリンは、ついにトランセリア国王に面会する所まで漕ぎ着けたのである。
カリンの目論みは、国王の結婚式に正式な招待を受けた賓客として出席する事だった。その為に危険な雪山越えをしてまで、スケジュールに間に合わせたのだ。
最初に亡命を表明したのは、公の形で自分の存在を認めさせる目的があった。結婚式には当然カリンの国の使節も訪れる訳であるから、単身うろうろしていたら見つかって連れ戻されてしまうだろう。トランセリアの庇護を得る為に、まずその意志を告げ、もし亡命が認められなくとも、各国の王族や貴族が大挙して訪れる式典の間に、自分を売り込もうと考えていたのである。
国王の執務室で、ハルトはきょろきょろと辺りを見回していた。アルフリートに面会出来ると聞いた彼は、止めるカリンの言う事など聞かず、自分の手で包帯をほどいた。もう目の痛みはほとんど無く、世界中をこの目で見てやろうと夢を抱く彼にとって、こんなチャンスは二度と訪れないだろうと思ったからだ。
ハルトの無茶な行為におかんむりのカリンだったが、アルフリートの質問に落ち着いて行儀良く答え、同席したエミリを感心させていた。
ディクスンは二人を送り届け、国王に簡単な説明をすると、後を妻に任せてせわしなく仕事に戻って行った。入れ替わりにヴィンセントが小走りで執務室に訪れる。普段はお洒落な彼も随分と髪は乱れ、目の下には薄くクマが出来、日頃より何割かは男前が下がっていた。
「陛下遅くなりまして申し訳ございません。ああっとエミリ様、ご無沙汰を致しております」
将軍夫人と挨拶を交わした彼はカリンをじっと見つめ、言った。
「メルヴィング王国デラルク侯爵家のご息女、カリン・クリカ・デラルク様に間違いございません。カリン様、外務長官を拝命致しますヴィンセント・ペルジーニにございます。以前お国の舞踏会で一度姿をお見掛けした事がございます。確か…ヴァイオリンを演奏なさいましたか?」
カリンはにっこりと微笑んで答える。
「おっしゃる通りでございますペルジーニ外務長官閣下。八歳の時だったと記憶しております」
そのやり取りにアルフリートは頷き、カリンに言った。
「カリン様、これで確かにあなたの御身分は証明されました。正式な亡命は閣僚の承認を得なければなりませんし、あなたはまだ十歳でいらっしゃいますから、即答は致しかねます。ただ、国賓として迎え入れる事は私の名に置いてお約束致します。まずはご安心を」
「陛下の御厚情有難く御礼申し上げます」
うやうやしく頭を垂れ、礼を告げたカリンは振り返ってハルトに頷き掛けた。話を聞いていても何の事だか分からなかった彼は、カリンのその仕種でうまく事が運んだのだと思い、やれやれと肩の荷を下ろした。アルフリートが口を開く。
「カリン、後でもう一つ確認をしたいんだけど……、あ、ヴィンセントありがとう。もういいよ、ごめんね忙しい時に呼び出しちゃって。……アイリーン、その辺に宮内局の人間誰か居ないかなぁ」
部屋の隅にソファーを置き、ゆったりと腰掛けていたアイリーンは一瞬首を傾けると「少々お待ちを」と言い、滑らかな足取りで執務室を出て行く。一旦は戻り掛けたヴィンセントも何故かその場に留まり、カリンはいきなり口調の変わった国王に驚いている。
やがて戻って来たアイリーンは、しっかりと宮内局のスタッフを捕まえていた。彼女は王宮で働くほぼ全ての人物を、足音で認識しているのである。忙しく走り回っていたその彼も、アイリーンに呼び止められては断る訳にもいかず、アルフリートに尋ねる。
「どうなさいました陛下?何か火急のご用でしょうか」
「忙しいのにごめん。宮廷楽士のリハーサルって、今何処でやってるか分かる?」
「この時間なら第二小広間で行っている筈ですが、まだ夜まで掛かると存じますよ。楽士長をお呼び致しますか?……あっ!ももも申し訳ありません陛下、すぐ行かないとまずい事に」
執務室の時計を見た彼はその場で足踏みを始める。アルフリートは慌てて言った。
「あ、もういいよ。ごめんねー、サンキュー」
国王がその言葉を言い終わらぬ内に、彼は走り出す。「失礼致しま……」の声だけが部屋に残った。
アルフリートは苦笑いと共に「みんな大変だなぁ」とのんきにつぶやき、カリンに向かって言った。
「今からあなたの腕前をちょっと確かめたいんだけど、いいかな?」
宮廷楽士と何か話をしているカリンの小さな姿が見える。広間の隅の椅子に腰を下ろしたハルトが、心配そうにそれを見つめている。彼もカリンの演奏を聞くのはこれが初めてだった。口を開けば『天才』の二文字を付けて自分を評価する彼女の腕前が、果たして実際はどれほどの物なのか、人がたくさん詰め掛けている前で、きちんといつも通りやれるのか、ハルトは不安な気持ちを隠せなかった。
並んで隣に座ったエミリは、その様子を見て微笑み、彼に話し掛ける。
「ハルト君、きっと大丈夫よ。…それよりあなた目は平気?痛く無い?」
「あ、はい。すいません大丈夫です奥様。もう痛くもなんとも無いですから。…すいません」
「エミリでいいわよ。それにそんなに緊張しないで、フリッツに聞かなかった?今は将軍夫人なんかになっちゃってるけど、わたしも元は農家の嫁だもの。……無理しないのよ、目は大切だからね」
「はい、エミリ…さん」
編み込んだ淡い栗色の髪を揺らし、くすくすと笑うエミリと何故か照れて赤くなっているハルト。三人の子供がいるとは思えぬ若々しい笑顔のエミリは、本人の言葉に相反して柔らかな物腰の品の良い婦人で、ハルトがあまり接した事の無いタイプの女性だった。母親というものを知らぬ少年にとって、小さな憧憬の気持ちがあったのかもしれない。二人のその会話を、少し離れた椅子に腰掛けたアイリーンが微笑ましく聞いていた。
小広間には忙しい筈のヴィンセントも同行し、噂を聞き付けた侍女や騎士、閣僚らも姿を見せていた。その中にメレディスの姿まであり、ヴィンセントと目が合ってお互いに苦笑していた。洒落者で名高い彼は音楽にも興味が向いているらしく、古い付き合いのディクスン夫人と親しげに言葉を交わす。
「やぁエミリ、なんだか大騒ぎになってるみたいじゃないか」
「あらオーランド。そうなのよ、突然のお客様はなんだかすごい子みたいなの。……あなた忙しいんじゃないの?」
「まぁね。でもこんな面白そうな事は見逃せないな」
「相変わらず趣味が広いわねぇ…。ウチの人なんか全然興味無いみたい」
「クレイグはそうだろうさ。あいつは仕事の虫だからな」
「そこがいい所なんですのよ」
「はいはいごちそうさま。…お、始まるのかな」
準備が整ったのか、カリンがヴァイオリンを持って壇上に上った。ハルトはその表情にかすかな違和感を覚え、目を凝らして彼女を見る。
静まりかえった広間に、カリンの演奏するヴァイオリンの音色が響き渡った。ハルトは驚いて先程の不安を打ち消した。彼も旅芸人として何人もの楽師の演奏を聞いて来たが、カリンのそれは抜きん出ているように思えたからだ。
透き通った音が人々の間をすり抜け、周囲の人々から小さく感嘆の声が漏れる。ハルトは少し誇らしげな気分になって相棒を見守っていた。
やがて曲が終り、深々と一礼してカリンは壇上から下りる。一斉に拍手が沸き起こり、人々は口々に少女を褒め称えた。しかし、室内に居る人間の内の一割程が、小さく首を傾げた。例えばアイリーンがそうであり、ヴィンセントとメレディスも同様に複雑な表情を浮かべていた。そして、演奏を終えたカリン自身が、最も苦々しい顔をしていた。彼女は瞳を潤ませ、アルフリートに言った。
「陛下、申し訳ございません。…もう一度チャンスをお与え下さい。……指が…うまく」
両手を握り締めて立ちすくむ彼女に、慌ててハルトが駆け寄る。アルフリートはきょとんとして言った。
「え?そうなの?……上手いと思ったけど。…アイリーン、どうだった?」
実を言えばアルフリート自身はそれ程音楽に造詣が深くなかった。彼はカリンの技術が歳に比べれば十分に秀でていると感じ、嬉しそうに拍手をしていたのである。自らも楽器を嗜むアイリーンは、その問い掛けに一瞬迷いを見せ、言葉を選んで言った。
「……大変にお上手でございましたが、…少し、体調がお悪いのではございませんでしょうか。わずかですが音が外れた箇所がございました。けれど、お歳を考えれば素晴らしい演奏であったと存じ上げます」
彼女のその言葉に、ヴィンセントとメレディスも同意見らしく頷いていた。外交の経験が多い二人は、各国の式典で一流といえる楽士の演奏を耳にする機会が何度もあり、耳は肥えていた。アルフリートは続いて楽士長にも意見を求めた。年老いた彼は優しく微笑みを浮かべて答える。
「わたくしもアイリーン様と同じ意見でございます。お噂以上の優れたお耳をお持ちでいらっしゃると感服致しました。カリン様、ちょっとお手を拝見してもよろしゅうございますか。……ああ、やはり」
ハルトに支えられるように立つカリンがおずおずと差し出したその手は、所々が赤く腫れ上がっていた。
「しもやけでございますね。弦が痛かったのではありませんか?無理を為さってはなりませんよ、指を守るのも、演奏家の務めでございます故」
「そうか。…ああ、ごめんねカリン、無理をさせちゃったね。言ってくれれば良かったのに」
少女の前に膝を付いて優しくそう告げるアルフリートに、カリンは涙声で言った。
「…いいえ、これぐらいの事で、…音を乱したわたしが未熟だったのです。演奏家として失格です……機会を与えてくださった陛下に、申し訳なく…」
肩を震わせてそう告げるカリンを、アルフリートもハルトも、見守る宮廷楽士達も皆が感嘆の思いで見つめる。わずか十歳の少女が音楽に掛けるプライドは、彼等の想像を遥かに超える物であった。
結局、カリンの腕前を確かめるのはまた後日という事になった。指のしもやけもそうだったが、少女はここ数日の旅暮らしの間、全く楽器に触れる事無く過ごして来た。事情を聞いた楽士長は練習不足もたたったのだろうと、カリンに予備のヴァイオリンを貸し与えてくれた。自分の不甲斐無さと、人々が優しく接してくれた両方の理由から、溢れそうになる涙を必死で堪えるカリンの手を引き、帰ろうとしたハルトにアルフリートが声を掛ける。
「えーと……ハルト…君?だっけ?……軽業師なんだってね。トランセリアで興行はやるのかい?」
いきなり国王に話し掛けられたハルトは驚いて立ちすくみ、しばらく口をぱくぱくとやっていたが、なんとかこう答えた。
「は、はいっ!……あの……その、やります。…あ、いえ、興行主を探さないと。……あ、でも手形があるし、……えーと、やると思います。……たぶん、…すいません」
その様子を面白そうに眺めていたアルフリートは、ハルトに近付くと小声で囁いた。
「なるべく時間を作って見に行くことにするよ。……俺、堅い音楽よりそっちの方が好きなんだよ」
ぽんぽんとハルトの肩を叩いて立ち去る国王を、少年が呆然と見送る。隣に立つカリンには聞こえてしまったらしく「……変な王様」と、鼻をすすりながら小さく呟いていた。
アルフリートは忙しい楽士達に時間を取らせてしまった事を詫び、集まった一同に仕事に戻るように命じる。かなりの人数が見物に訪れた事を、彼は(忙しい最中にまずかったなぁ…)と、少し反省していた。アルフリートは十歳のカリンが、国や家族を捨ててまで執着したその音楽の才を、是非とも確かめたかったのである。結果として彼女の真の腕前を見る事は出来なかったが、その熱意だけは確かに凄まじい物を感じた。
エミリに二人の世話を頼むと、アルフリートも閣僚も慌ただしくそれぞれの持ち場へと戻って行く。走り回る人々で繁雑する王宮の廊下を、シンを伴ったアイリーンだけが、ゆっくりと優雅に歩いていた。
式典まで残りあと一週間を切っている。主役である国王に、はたしてハルトの興行を見に行く時間などあるのか、本人にすら分かる筈も無かった。
馬車に揺られてディクスン邸へと戻る車中で、カリンはハルトにすがって泣きじゃくっていた。
広間からここへと至る道のりの間、少女は今にも溢れ出しそうな涙を押し留め、馬車の扉が閉まるなり、声を上げて泣き出した。カリンの黒髪を撫でてやりながら、ハルトは彼なりに慰めの言葉を掛ける。
「…泣くなよ、しょうがねぇなぁ。しもやけが出来てたんだし、練習だってしてなかったんだろ。…また次に頑張りゃいいさ。……王様だってあの…じいさんだってそう言ってたじゃないか」
しゃくり上げながらも、カリンはハルトの胸で左右に首を振り、ようやく顔を上げて言った。
「……うっ、……ぐっ、……違うの、…そんなんじゃないの。……ううっ」
「……なんなんだよ」
「…人前で…演奏するっていうのは、…そういう事じゃないの。……音楽に…二度目は無いの。……その時に最高の音を出せなくちゃ意味が無いのっ!……うぇーん」
一度は泣き止むかに見えたカリンが再び声を上げて泣き出し、ハルトにしがみつく。その頭を抱え込んでやりながら、彼にも少女の言う意味がおぼろげに分かった。
あの場に居た人間が、再びカリンの演奏を聞く機会があるとは限らない。生涯で只一度の出会いだった可能性もあるのだ。その人物には、あの時の曲がカリンの演奏の記憶として最初で最後の物となってしまうだろう。ハルトにもそれに近い経験があった。
旅から旅への暮らしでは、その街で一度きりの興行の方が多いかもしれない。たまたまその時だけ体調が悪くて、ナイフが的をわずかに外れたとしても、見ている側にはそれが全てである。例えそれが千回の中の一回だったとしてもだ。
少女の悔しさを自分の仕事に重ね合わせて思いを巡らせ、ハルトはぎゅっとカリンの細い身体を抱き締めて囁いた。
「そうか……そうだな、……分かるよ。……お前の言う通りだ」
優しく二人を見つめるエミリは、目の前の子供達が既にそれぞれの領分での『プロ』としての矜持を持っている事に驚く。そして彼女はいつしか、二人の手助けをしてやりたいと思い始めていた。
赤くなった鼻と泣き腫らした目で、ディクスン邸に戻って来たカリンをひと目見るなり、フィーナは彼女に風呂に入るよう奨める。
明るく清潔な浴室でゆっくりと湯に浸かり、服も下着も新しい物に着替えたカリンは随分と落ち着き、さっぱりとした表情でハルトの前に現れる。
それ迄身に付けていた黒一色の出で立ちから、フィーナの小さい頃の明るい色合いの服を借り、身に着けた少女は少し幼く、そして愛らしく見えた。ハルトはまじまじとそれを見つめ、ぼそりと言った。
「そうしてれば外見だけは普通に可愛いく見えるじゃないか。……なんであんな真っ黒けな格好をしてたんだ」
身綺麗になって元気を取り戻したカリンは、いつもの生意気な口調で反論する。
「外見だけはってどういう意味よ。それに黒は『大人の女』の色なのよ、…あんたには分かんないでしょうけど」
ハルトが小さく呟く。
「どこが『大人の女』なんだよ。棒っきれみたいな身体して……」
「なんか言った!」
二人のその様子をエミリとフィーナが面白そうに眺めている事に気付き、ハルトは舌戦を切り上げ、自分も風呂に入る事にした。浴室へと向かう彼に、カリンはすれ違い様「…ありがと」と小さく言った。
暖かな夕食を振る舞われ、すっかり気分の良くなった二人は、これ迄の旅の様子をエミリとフィーナに話して聞かせる。セリア山脈を二人で越えて来たという段になって、案の定エミリにお説教をされるのだった。彼女も、遠い昔の山越えで足の指を失った経験を持っていた。
やがてうとうととし始めたカリンに、ハルトは自分の鞄から軟膏を取り出して言った。
「眠いんならもう寝ろ。…寝る前にこれを手足に塗っておけよ、しもやけなら効くだろう」
カリンは素直に彼の言う事を聞き、大きなあくびをしながらも手当を済ませると、与えられた寝室へ去って行った。後に残ったハルトに、エミリが感心して告げる。
「しっかりしてるわねぇ…ハルト君。カリンちゃんもあなたには相当懐いてるみたいだし…本当のお兄ちゃんみたいね」
「そ…そんな事ないです。……それにあんな妹がいたら、うるさいしめんどくさいし、手が掛かって仕方がないです」
照れくさそうに言ったその言葉にくすくすと笑うエミリは、ますますこの二人を好きになっていった。
ハルトはそのまま眠らずにディクスンを待った。遅くに帰って来た将軍に、自分が知っている限りのフリッツの話を伝え、家族の皆から感謝をされて恐縮していた。ディクスンは静かに言った。
「ありがとう、ハルト君。…手紙はやり取りしているのだが、なかなか細かい暮らしの事迄は書いて寄越さなくてね…。元気にやっている様で安心したよ」
しばらくの沈黙の後、フィーナがぽつりと尋ねる。
「……兄さんは、…もうここに戻る気は…無いのかしら」
「……分かりません。そういう話はした事がないし、トランセリアの人だって事も、手紙を預かる迄知らなかったんです…。ごめんなさい」
淋しげな表情の彼女に、ハルトはそれだけしか言ってあげる事が出来なかった。
同じ頃、王宮の外務長官執務室で、ヴィンセントが残った仕事の片付けに追われている。いつの間にか部屋の一角を占領して、デスクに書類を山積みにしている前外務長官ドワイトと、副官のリサが居残って働いていた。
静かな室内にペンの走る音だけが響く。ふいにヴィンセントが顔を上げ、ドワイトに問い掛けた。
「…おやっさん、ちょっといいすか?」
書類の山から顔を半分覗かせ、掛けていた老眼鏡をちょっとずらして、レンズの上から彼を見るドワイト。
「なんじゃい」
「メルヴィングのデラルク家って、なんかカード無いっすかねぇ?」
「…お前は何年外務庁勤めをしとるんじゃ、それぐらい常に頭に入れとかんか」
これまた積み上がった書類の向うから、リサも顔を覗かせ、耳をそばだてる。ヴィンセントがドワイトを拝み倒す。
「ここんとこプロタリアやらイグナートやらの騒ぎで、あっちの方はちょっとチェック入れて無いんですよ。お願いしますよ~」
「ふん、しょうがないのぉ。…あのお嬢ちゃんかい、確かにウチには居んタイプの楽士じゃが、陛下が言うとったか?」
「いや、まだっすけど。絶対欲しがると思うんですよね…、なんか変わり種だし。……っておやっさん見てたんですか?」
「……ちっと覗きにな」
「なんだよ、どおりで遅くまで仕事してると思ったんだよ」
「やかましいわ、わしはもうじき終るぞ。予定の範囲内じゃ。……そんな口きいてお前、デラルクの件はいいんかい」
「いやいやいやいや、お願いしまっす、ドワイト閣下。……ね?」
「……ふん、まあいいか。……ウチのトンネルが使えるじゃろ、あれは東方諸国には相当でかい交渉材料になるはずじゃぞ。特にデラルクは結構な広さの領地を持っとる。…木材やら干し肉やら魚やら、売りたいもんはいっくらでもある筈じゃ」
メルヴィング王国はセリア山脈を挟んで、トランセリアの東に位置する国家である。トランセリアだけでなく、グローリンドやイグナート等の大陸中央の国との貿易に、セリア山脈は大きな障害になっていた。
雪で道が閉ざされる冬はもちろん、険しい山道ではそうそう大きな馬車は使えず、かといって山脈を迂回すれば倍以上の時間が掛かってしまい、日持ちのしない野菜や果物の中には輸出出来ない品物もあった。例えトンネルの通行税を支払っても、トランセリアの国内を通過する方が利益になる(当然主計局長リカルドはその辺りを読んで税の設定をしている)計算であり、危険のある自由国境地帯の街道を行くよりも、治安のいいトランセリアを通るルートを選ぶ商人は多いだろうと予想された。彼等が国内に落とす外貨もばかにならない収入であり、もちろんトランセリアの商人の旅程も大幅に短縮されるのである。そういった事情があるからこそ、二十年の歳月を費やし、数々の犠牲を払ってでも、トンネルの工事は続けられたのであった。
セリア山脈の積雪も日を追うごとに少なくなっている。国王の結婚式が終わり次第、工事はすぐにでも再開されるであろう。
ヴィンセントは大きな伸びを一つすると、天井を見上げて呟いた。
「あれかぁ……。俺も考えたっすけど、そう上手くいきますかねぇ…?」
「そこをなんとか口八丁手八丁で持ってくのがわしらの仕事じゃろうが。……お前外務長官の癖にそんな弱気でどうするんじゃ、もう一回わしと代わるか?」
「はいはいやりますから。……うーん、もう一丁なんか欲しいんだよなぁ……」
「煮え切らんのぉ……そんなんだからいつまでもリサを待たせとくんじゃろ。そうじゃお前もう三十になるのと違うか?指輪まで贈っといて……早く嫁さんにもらってやらんかい!」
意外な話の展開に(やっべ、そう来たか)と焦るヴィンセント。書類の山の向こうで、リサの眼鏡がきらりと光る。
椅子に沈み込んで、二人掛かりの攻撃から身を交わし、彼は執務室内部での外交交渉も同時進行で対応しなければならなくなった。
ヴィンセントは故郷の家族と離れ、単身セリアノートで宮廷勤めをしている。若くして才能を認められ、十代の半ばから外務庁に勤務する彼を、ドワイトは首都での親代わりとしてあれこれと面倒を見て来た。外交官としてのノウハウを一から十まで教え込み、各国への訪問にも良くヴィンセントを伴っては経験を積ませていった。
大所帯の内務庁と違い、普段は十数人のスタッフしか居ない外務庁は、ドワイトを『親父』とする家族の様な雰囲気があり、仲間内だけの場では皆『おやっさん』と彼を呼んでいた。二十代で外務長官となったヴィンセントはさすがにまだそのように呼ばれる事は無いが、ドワイトの事を口うるさい身内と認識しているのは確かである。ただ、彼に言わせれば「『親代わり』じゃなくて『じじい代わり』だろう」と、悪態を吐いたりもしているようではあった。
深夜、久し振りの柔らかなベッドでぐっすりと眠るハルトは、突然揺り起こされて目が覚める。目の前にカリンの顔があって驚き、言った。
「……わっ!な…なんだよ。びっくりしたなぁ」
ハルトの顔を覗き込んでいたカリンは、おずおずと小声で切り出した。
「ハルトぉ…ごめん。……お、おトイレに…付き合って」
「どうしたのかと思ったら便所かよ、一人で行けないのか?」
「だってぇ…、知らない家だし、なんか怖くて。……ねぇねぇお願いぃ~」
「夜の便所を怖がる『大人の女』なんて聞いた事もねぇぞ……。やれやれ」
ハルトはぶつぶつ言いながらベッドから下り、カリンの手を引いてトイレに連れて行ってやった。ドアの向うから「そこにいてよ、絶対にいてよ」と繰り返すカリンに、ため息をつくハルト。
やがて寝室に戻った二人はすっかり目が冴えてしまっていた。セリアノートに向かう馬車の中で、昼も夜も無くうつらうつらと半端に睡眠を取ってしまった彼等は、生活のリズムがめちゃくちゃになってしまったようだ。ベッドに並んで腰掛けた二人は、しばらく所在なげに黙り込んでいたが、やがてカリンが小さく言った。
「……ありがとね、ハルト」
「ああ、今度から便所は寝る前に行っとけよ」
「そうじゃなくて!…今までの事や、それから…馬車の中で言ってくれた事……」
ハルトにもようやくカリンの言っている意味が分かった。彼はぽつりと答える。
「ああ…あれか。……あれは俺にも分かるよ。…親方にも何度も言われたし。……俺たちにとってはいつもの仕事だけど、見ているお客さんには一回きりの事だ、決して気を抜くな……って」
「そう…、そうなのよね。……すごいね、ハルトは。…本当に何でも知ってるんだね」
「そ、そんなでもないけど…。お前だってすごいじゃないか、これで王宮に出入り出来るようになったんだから」
「たぶんね。…まだ決まったわけじゃないけど。ちゃんと演奏出来なかったし……」
「カリン、…なんであの時断らなかったんだ。しもやけが出来てるって分かってたんだろ?」
俯き、両足をぶらぶらさせながら答えるカリン。
「うん…、でも、時間が無かったし。もう二、三日もすれば、わたしの国からもお客が来ちゃうもの。…それに、せっかく陛下がチャンスをくれたのに、それをふいにする事なんか出来ないわよ。……もっと、…もっと上手くやれるつもりだったんだけど…」
「そうか。……けどお前はすごく上手だったよ。俺が今まで聞いた中で一番うまい演奏だと思った。…よく知らないけど、きれいな曲だったし」
小さな声でそう告げたハルトのその言葉に、カリンは顔を上げ、じっと彼の横顔を見つめて囁いた。
「……ありがとう、…うれしい。…ここまで来れたのもみんなハルトのおかげよ、本当にありがとう……」
「わっ!」
カリンの唇が一瞬ハルトの頬に触れた。やわらかな感触とふわりと漂ういい香りに、少年が呆然として身動きが取れなくなっている間に、頬を染めたカリンは「おやすみ」と言って自分の寝室へ駆け出した。
その後のハルトは夜明け近く迄なかなか眠りに付く事が出来ず、ベッドの上で何度も寝返りを繰り返した。
翌朝、朝食前に中庭に出たハルトは、いつもの修練を再開していた。入念に柔軟体操をして身体をほぐすと、とんぼ返りをしたり、逆立ちで歩いたりと一通りの練習を行った。
ナイフを取り出して、立ち木に小さく目印を付けると、それを的に投げナイフの訓練を始める。目の具合も問題無く、数十回それを行って勘を取り戻せたと感じた彼は、今度は目隠しをして同じ事を繰り返した。彼の放つナイフは次第に正確さを増し、やがて全くと言っていい程的を外さなくなった。
興味深げにそれを眺めていた衛兵達から、拍手と歓声が沸き起こる。ハルトはにっこりと笑って照れくさそうに頭を下げた。目を覚ましたカリンが二階の寝室の窓からそれを見ており、彼女は自分の事のように誇らしげに感じていた。
身体が回復した事を確認したハルトは、朝食を済ませると、早速興行主を探しに大通りへと向かった。カリンは一人残り、借りて来たヴァイオリンで練習を始める。まだ指は腫れて痛痒かったが、彼女は一日でも早くアルフリートに自分の腕前を聞かせようと、少しずつ指を慣らしていった。フィーナから屋敷にピアノがある事を聞き、そちらも合わせて練習を繰り返した。
食事以外はほとんどの時間を楽器の演奏に費やすカリンを、エミリとフィーナは驚きを通り越して呆れて見ていた。終日ディクスン邸に流れる彼女の演奏に、侍女も衛兵もなにやら楽しげに耳を傾けていた。
夕刻、戻って来たハルトは既に二回の公演を行って来たと語る。探し当てた興行主の男は彼の親方と交友があり、幼い頃のハルトを記憶に留めていた。手形を見せる必要も無く、さっそく技を披露した少年の腕前に男は満足し、その日から彼の一座と共に興行に参加した。
首都セリアノートは大層な人出で、あちらこちらの広場でそのような旅芸人が技を競い合い、彼等もいい稼ぎを得る事が出来た。ハルトは手にした金でエミリに二人分の食費を支払おうとしたのだが、もちろん彼女がそれを受け取る事は無く、反対に子供達が小さい頃に着ていた服などをハルトとカリンにいくつも用意していた。
ここに居る間はお金の心配をしなくていいからしっかり稼ぎなさいとエミリは言い、カリンとの旅でほとんどの旅費を使い果たしてしまっていた彼は、その言葉に甘える事にした。
ハルトは預かっていた金貨も両替えし、服代をさっ引いてカリンに返そうと考えていた。夕食を終えて二人きりになった時、金を渡そうとするハルトにカリンは言った。
「い、いらないわよ、色々迷惑掛けちゃったし…。それにわたしはこれから世界中に名を轟かす音楽家になるのよ、いくらでもがっぽり稼げるんだから」
相変わらずの大言壮語に、ハルトはぼそりとつぶやく。
「……でもお前、トランセリアってすげぇ貧乏なんだぞ…」
「う……、そうだったかしら。……だ、大丈夫よ、……たぶん」
結局カリンがその金を受け取る事は無く、彼女は今の所無一文の居候という身分であった。
自分の寝室へ戻り掛けたカリンが、何を思ったか急に振り向き、頬を染めて言う。
「それから!……言っておくけど昨日の…あ、あれはお礼だからね。勘違いしないで頂戴。分かった?」
何の事を言っているのか思い当たらず、きょとんとするハルトも数秒の後に気付く。
「あ、……わ、分かってるよ!いちいち言わなくてもいいだろ。…何言ってるのかと思ったよ」
ハルトの顔も赤くなる。どすどすと床を踏みならして去って行くカリンの後ろ姿に、彼は言った。
「…今日はちゃんと便所に行っておけよ」
「うるさいわよっ!」
振り向いて叫ぶカリンの顔は、耳まで赤くなっていた。