第八章 南から来た少年、東から来た少女 第一話
街道を照らす夕陽が次第に傾いて来た。野宿する場所を探さなければいけないと少年は考えていた。
昨夜はいい木が見つからず、夜中に落ちそうになって何度も目が覚めた。今日は寝不足で昼寝をした為に、あまり距離を稼ぐ事が出来なかった。急ぐ旅では無かったが、懐具合を考えれば、さっさとトランセリアに辿り着いて、ひと稼ぎした方がいいだろうと思っていた。
道から少し奥に入った場所に大振りの木を見つける。いい具合に太い枝が広く張り出し、獣の爪痕なども見当たらない。春が近いとはいえ、この時期危険な野獣に出会う事は滅多に無かったが、冬眠から目を覚ました熊に出くわさないとも限らなかった。この街道なら野党の類いが出没しない事は分かっていたし、真冬に木登りなどする馬鹿も居ないだろうと思った。
少年はするすると幹をよじ登る。木の上に腰を落ち着けると、荷物から水筒と簡単な夕食を取り出し、固いパンとチーズを齧る。味はどうでも良かったが、もう少し量が欲しいと考えながら、粗末な食事を終えた彼は、念のためにロープでゆったりと身体を固定する。毛皮の内張りを施した大きな革のコートをしっかりと合わせ、毛布にすっぽりとくるまって寒さをしのぐと、次第に眠気が訪れた。うとうととしながら、少年は国の事を思い出していた。
手足を丸めて眠る少年、十一歳のハルト・カッシーニは、東方の都市国家ジョルートの海沿いの町に暮らしていた。ハルトは産まれて間もなく両親を亡くし、父母の顔も記憶に留めぬ幼い頃に、軽業師の一座の親方に引き取られる。物心が付く以前より修行を積んでナイフ使いの曲芸を身につけ、一座と共に各地を旅して回った。
浅黒い肌に深い蒼の瞳、長い金髪を首の後ろで一つに括ったハルトの風貌は、おそらく西国の出身だろうと思われたが、それを証明する物は何も無かった。
まだ小さな身体は驚く程軽く俊敏で、ナイフ投げの他に玉乗りや一輪車など、様々な曲芸を見事にこなしては多くの喝采を浴びた。一座は遠く外国まで旅をしてはあちこちで興行を繰り返し、数々の経験を積んだハルトは、年齢にそぐわぬ世慣れた少年に成長していた。
幼い顔立ちに似合わぬ鋭い瞳とエキゾチックなその容貌は、かなり年上の女性までをも惹き付けたが、公演先での色恋沙汰は親方にきつく戒められていた為に、さすがに女性経験はまだ無かった。
前年、年老いた親方は皆を集め、一座の解散を口にした。彼自身は以前から足腰が弱まり、もう何年も前に現役から退いており、いずれはこうなる事を皆覚悟していた。
親方は一座の一人一人に紹介状を書き、他の同業者へと仕事先を世話すると、最後に残ったハルトにこう言った。
「おめえだけは俺の身内みたいなもんだから、一緒に暮らしてもいいと思ってる…。この町なら仕事を回してくれる知り合いも何人かいるし、どうするハルト。おめえが軽業を続けたいって言うんなら、みんなと同じように紹介状を用意するが…」
ハルトは悩んだ。育ててくれた恩のある親方の面倒を見てやりたいとも思ったし、修行には厳しかったが、確かに彼のたった一人の身内も同然だった。ただ、軽業師の仕事にも未練があった。興行であちこちの町や村、そして外国を旅する暮らしは彼の性に合っていた。いつか大陸中をこの目で見て回ってやろうと、ハルトは漠然とした夢を思い描いていたのだ。
正直に自分の考えを告白したハルトに、親方は皺深い笑顔で告げた。
「なんだそうか、それを先に言えよ。……俺も若い頃は世界中を旅して回ろうと思ったもんさ。世界全部は無理だったが、大陸のほとんどの国へは行った事があるさね。…そうか、お前がなぁ。……もうそんな事を考える歳か。……そうか」
少し淋しそうに微笑む親方は心良く彼を送り出す。仕事に使っていた投げナイフを餞別に差し出し、一座に居た事を証明する手形も用意してくれた。それがあればあちこちのそういった興行主に話を通す事が出来る。何度も礼を繰り返し、新たな旅立ちと広がる夢に、少年の心は大きくふくらんだ。
親方の見送りを受け、旅立つハルトは町を出る前に馴染みの宿屋に顔を出した。食堂で働く顔見知りの料理人に、親方の事を気に掛けてくれるよう頼む為だった。
若いその料理人は少年の優しさに感じ入り、二つ返事で承知すると、彼からも手紙を書いて手渡してくれた。
「もしトランセリアに寄るんなら俺の父親を訪ねるといいだろう。今じゃ将軍にまでなっちまったが、出は田舎の百姓だから、きっと歓迎してくれる筈だ」
その言葉にハルトは驚く。何年も付き合いのある男だったが、そんな事は今まで知らなかったのだ。
「もっとも血は繋がっていないけどな」
笑ってそう言う彼は、名をフリッツ・ディクスンといった。彼の養父はトランセリア第一軍司令官、クレイグ・ディクスン将軍である。
◆
ディクスン将軍がトランセリアの国民となったのは、やむを得ない事情からだった。今から二十年以上の昔、彼はセリア山脈の南の自由開拓地で農地を開墾する農民だった。まだ二十歳になったばかりの彼は、歳若い妻と二歳になる娘と三人で、毎日畑を耕し暮らしていた。
真っ黒に日焼けした逞しい彼は、農地の区画割りや様々な作物の知識などに詳しく、周囲の同じような農民達のリーダー的存在になっていた。豆や芋といった荒れ地に強い作物を植え、一家が食う分には困らなかったが、金になる作物となるとなかなか物にはならなかった。
皆が協力して知恵を出し合い、日々工夫を繰り返す彼等の元に、戦の噂が広まる。その後数年に渡って大陸を巻き込む大戦の、最初の小競り合いが既に始まっていたのだ。
どの国もぴりぴりとした雰囲気に包まれ、斥候や密書を持った騎士が頻繁に街道を往来する。ある日、たまたまその中の一人が水を求めてディクスンの元を訪れた。柔和な風貌の彼が、水の礼にと小声でそっと教えてくれた。
「この辺りは戦場になる。あんた達も早く他の場所に逃げた方がいい」そう言ってその若い騎士は足早に立ち去る。彼を見送ったディクスンらはただ戸惑い、呆然と立ちすくんで互いに顔を見合わせるばかりだった。
悩み抜いた末、やっと実りが形になりかけた田畑を捨てる苦渋の選択を彼等は選ぶ。命には変えられず、幼い娘の事を何よりもディクスンは気に掛けた。
森の中の集落へと身を隠し、数日をそこで過ごした。小さなその村は同じように土地を捨てて逃げて来た人々で溢れ、彼等は互いに情報を交換しつつ、不安な日々を送った。
やがて、ひとまず戦が終ったという噂を聞き付けたディクスンは、注意深く自分の土地へと戻ってみる。そこには何も無かった。田畑は馬の蹄に踏みにじられ、小さな家は焼け落ちて残骸だけが黒く残されていた。
本当にここが自分の土地なのかと疑うほど変わり果てた我が家を見つめ、呆然と立ちすくむ彼の袖を、一人娘の小さな手が引っ張った。抱き上げられた幼子は父親の首にしがみつき、小さく言った。
「……おとうさん、おうちにかえろうよ。…もうおうちにかえろう」
その言葉にディクスンの両目から涙が溢れ出る。ここが自分達の家なのだと伝える事も出来ず、すがりつく娘を抱き締め、泣きじゃくる妻の手を引き、彼は集落へと戻った。もう帰る家など何処にも無かった。
ディクスンは他国への移住を決意する。もう一度あの地を開墾する気力など彼には残されておらず、戦はまだ続いており、再び同じ事が起こる危険はまだあるだろうと思われた。
セリア山脈を越え、トランセリアへと向かう事を妻と話し合った。彼の国も戦の只中ではあったが、戦場は領土の西北に広がっており、国の内部は比較的平穏だという話だった。
季節は晩秋を過ぎ、山脈はすっかり雪に覆われて、そこを越える危険は大きかったが、街道は各国の軍隊が往来する一触即発の状態であり、とてもそのただ中を通る事は出来なかった。トランセリアの南東に弧を描いて連なるセリア山脈は天然の要害であり、冬にその地を越えて進軍出来る騎士団は存在しなかった。
財産のほとんど全てを失ったディクスンの唯一の救いは、収穫を終えた後に被害に遭った事だった。手元に残された作物を売り捌いていくばくかの金に変え、同じようにトランセリアへ向かう人々と共に、一家はセリア山脈越えへと歩き出す。その中に幼いフリッツの姿もあった。
彼は腰の曲がった老人の手を取って黙々と歩みを進め、言葉を交わしたディクスンは、六歳だと言う彼が驚く程しっかりとした少年である事を感心した。フリッツの両親は結婚後数年で離婚しており、母親と二人で祖父の元へ出戻って来ていた。その母親も出稼ぎに出てしまい、年老いた祖父と二人きりの少年を、ディクスンは何かと気に掛けてやった。
険しい山道を登り、高度が上がるに連れ、雪が次第に深くなる。若いディクスンや彼の妻でも足を取られるその雪山を、祖父の手を引きフリッツは懸命に着いて来ていた。
辿り着いた山小屋で疲れ果てて一夜を明かす彼等を残し、老人は一人姿を消す。夜が明け、祖父が居ない事に気付いたフリッツの胸元に、一枚の走り書きが残されている。そこにはこう書かれていた。
『足手まといになる、探すな。孫を頼む』
事情を察したディクスンらは山小屋の周囲を探し歩くが、やがてすぐに彼等は戻って来た。かすかに残った老人の足跡が、深い谷へと消えていたからである。人々は彼が自ら命を断った事を悟った。
恨み言も泣き言も口にせず、ただ黙々とフリッツは雪山を登る。やがて道は下りへと変わり、人々はトランセリアの粗末な避難所へと辿り着いた。フリッツの祖父以外は命を落とす事は無かったが、皆凍傷に手足をやられ、ディクスンの妻も足の指を何本か失った。
役所に移民の申請をする時に、ディクスンはフリッツを自分の養子として登録した。そうしなければ彼は孤児院に送られてしまうとの事であり、家族を失ったばかりの少年に、それはあまりにもむごい事に思われた。
この時に彼の姓は変わり、フリッツはその後産まれた男の子を含める三人の兄弟として、ディクスンの元育てられる。
自分の息子になった事を告げるディクスンの前で、フリッツは初めて涙をこぼした。声を上げて泣き続ける少年を抱き締め、彼は妻と娘に言った。
「これからは四人家族だ。俺が精一杯働いてお前達を食わせてやるから、心配するな」
その言葉で、新しい家族にやっと笑顔が戻った。
首都近くに家を借り、ディクスンは仕事を見つけて働き始める。戦の真只中にあるトランセリアで見つかる職といえば、軍隊の下働きなどしか無かったが、彼はどんな仕事でも躊躇わず引き受けた。
馬の世話をし、馬具や甲冑を手入れし、兵に届ける糧食を運んだ。妻も働きに出、フリッツは一人で小さな妹の面倒を良く見た。
やがて戦は下火になり、国内も次第に安定し、二人の子供達も学校へと通えるようになる。ディクスンはそのまま騎士団の宿舎で働いていた。
日々熱心に働く彼に軍隊への誘いが掛かる。騎士団に入隊しないかと薦めたのは、ディクスンに逃げるように伝えてくれた、あの斥候の若い騎士だった。
再会した彼は一度話をしただけの農夫の顔など覚えておらず、逆にディクスンが自分の顔を記憶していた事に驚いていた。小隊長に昇進していたその騎士は、それ以来親しくディクスンと言葉を交わすようになり、彼の様々に優れた特技を知って上官に進言したのである。
ディクスンは記憶力に優れ、人の名前や顔を一度で必ず覚えた。一万いる師団の騎士それぞれの馬具を全て記憶しており、間違えずに馬装を施した。広大な宿舎の構造を正確に把握し、騎士達ですら迷う複雑な建物を案内して回った。既に下働きの者達の長として仕事をしており、人を使う事にも長けているらしく、人望も厚かった。
彼は農夫の時代から、必要な知識は独学で学ぶ習慣を身に付けており、広く浅い見識を持ち、数学や工学にも詳しかった。後に将軍となったディクスンを、当時の国王アンドリュー・リーベンバーグはこう称える。
「もしユーストが居なかったら、宰相には間違い無くディクスンを選んだだろう。軍人にしとくのは勿体無い」
軍隊に入る事をディクスンは迷った。確かに給料は比べ物にならぬ程上がり、家族に楽な暮らしをさせてやれるだろう。末の息子も生まれ、何かと入り用ではあったが、自分の土地を奪い、フリッツの祖父に死を選ばせたのも戦のせいだと彼は思っていた。軍人になれば自分がその戦をする立場になる。
悩む彼を決心させたのはフリッツの一言だった。歳に似合わず大人びたこの少年は、おずおずとこう言った。
「父さんが悩むのは良く分かるけれど、……でも父さんならきっといい軍人になってくれると思う。みんなをちゃんと守ってやれると思う」
その言葉に、ディクスンは騎士としての人生を歩む決意を固める。学ぶ環境の整った中で、彼は人の何倍も努力を積み重ね、みるみる頭角を現わす。武人として剣技や馬術も研鑽を重ねたが、何よりもその記憶力が人々の賞賛を浴びた。
その才覚はやがて第一軍司令官である、将軍グレン・ルバレスの目に止まる。先代国王アーロン・リーベンバーグの懐刀と称されたその将軍は、鋼の肉体と精神、豪快な気性を持つ片目の大男であり、敵兵からは蛇蝎のごとく忌み嫌われ、味方からはこれ以上無い程の信頼を得て来た百戦錬磨の戦士であった。四十を越えたばかりであったが、次期軍務長官は確実だとされている男であり、ディクスンを知った彼は自らの副官へと彼を抜擢する。
時が流れ、グレンが元帥位に昇り、軍務長官の地位に就いた後、ディクスンは第一軍司令官を拝命する。入隊から十数年で将軍位を得た事は破格の出世であり、後の軍務長官シルヴァ・バーンスタインがこの記録を破る迄、トランセリア全軍での昇進の最短記録であった。
将軍になった彼の隣に立つ副官は、ディクスンを軍隊に誘ったあの騎士であり、二十年近くを共に過ごした彼はディクスンの部下である以上に親友となっていた。
酒を酌み交わしては昔話に花を咲かせる度に、彼はこう言う。
「俺が紹介したのにどんどん先に昇進して行きやがって、全く恩知らずにも程がある」
笑ってそう話す彼も、二年も経たぬ内に第三軍司令官へと昇進する。彼の名は、オーランド・メレディスと言う。
ディクスンが将軍となる少し前、長男フリッツが思いも掛けぬ事を言い出した。行方知れずの両親を探しに行きたいと彼は申し出たのだ。離ればなれのままになっていた彼の母親の居所を、ディクスンも気に掛けて調べてはいたが、結局今に至る迄見つけ出す事が出来ずにいた。
フリッツももうすぐ二十歳になる。暮らし向きも豊かになり、幼い頃から家計を支えて働いて来た彼にも、何か思う所があるのだろう。そう考えたディクスンはこれを承知し、妻は淋しげに瞳を潤ませながら旅支度を手伝った。
彼女は十七歳になる娘がフリッツに淡い恋心を抱いている事に薄々感付いており、もし二人が互いを想っているのなら、一度フリッツの養子縁組を解消し、その上で二人を夫婦として結婚させてもいいのではないかと考えていた。フリッツが家を出る決心をした理由に、その事が含まれているのかどうかは彼にしか分からないが、その後、娘が独り身を守っている事が夫婦には不憫に感じられた。
見送る家族に何度も手を振り、フリッツは父親の故郷であるジョルートへと旅立つ。
尋ね当てた家は既に他の家族が暮らしており、父親は十年以上前に海へ漁に出たまま帰らぬ人となっていた。母親の遠縁の人物を見つけ出し、居所を尋ねるが、彼女も離婚して国を出たまま何の音沙汰も無い事が分かった。
海岸で水平線を見つめ、吹き抜ける故郷の風に言い知れぬ懐かしさを感じたフリッツは、しばらくこの町で暮らす事を決める。宿屋の料理人の職を見つけ、仕事の合間に、知り合った漁師達と海に出た。
海辺の町での生活が性に合っている事を実感する彼は、トランセリアの家族の元へはもう帰れぬ事を日毎に悟っていった。
◆
フリッツの紹介もあり、ハルトは最初に目指す国をトランセリアに決めた。セリア山脈はまだ雪で真っ白に包まれ、元々交通の難所であるその地を真冬に旅するのは、山に慣れた地元の遊牧民達であっても命の危険を伴うものであった。
一旦南下して山脈沿いに海側を回り、グローリンドとの国境いを北上してトランセリア入りしようと計画を立てた。時間は掛かるが無理をして命を落とすのもばかばかしい事だし、下手に凍傷などになって指を無くそうものなら、これから先軽業師として食って行く事もままならなくなるだろう。旅暮らしで先を急ぐとろくな目に会わない事を、ハルトは経験から学んでいた。
時々宿屋に泊まり、風呂と食事を得るとまたしばらくは野宿をして旅を続ける。木の上に眠るのにもすっかり慣れた頃、その人物は現れた。
ぱきぱきと小枝を踏む音に、木の上のハルトは目を覚ます。薄暗がりの中、何かがこちらに近付いて来ていた。日はまだ昇ってはいなかったが、東の空が白み始めており、夜明けが近い事が分かった。音を立てぬようそっと身体を固定したロープをほどき、毛布を静かにたたむ。護身用の短剣を取り出し、油断なく息を潜め音のする方向に目を凝らす。獣では無く、人間のようだった。一人で歩いているようであり、他に物音はしなかった。
自分の昇った木の真下を通りすぎようとする瞬間、ぱっと上を向いたその人物とハルトの目が真っ向から合った。二人は同時に叫ぶ。
「わあっ!」
「きゃあっ!」
慌てふためいてバランスを崩し、ハルトは木から滑り落ちる。積もった枯れ葉がクッションとなって何処にも怪我などしなかったが、地面に尻餅をついた彼の頭に毛布がばさりと落ちて来る。軽業師を生業とする彼にとって有りうべからざる失態であったが、驚いて彼の目の前に立ちすくんでいるのは、それ程意外な人物であった。
ハルトと同じ年頃の少女がそこに立って居た。高価そうな黒い毛皮のコートに身を包み、やはり毛皮の黒い帽子を被り、真直ぐな長い黒髪が艶やかに顔の両側に流れている。暗闇の中で少女の白い顔だけがくっきりと浮かび上がり、ハルトの目はその美しさに釘付けになった。
薄い茶色の大きな瞳はきつそうな性格を表わすように吊り上がってはいたが、鼻筋は正確に垂直に通り、小さな唇が愛らしくピンク色に煌めき、寒さで赤く染まった頬は柔らかそうな質感と共に滑らかな曲線を描いていた。
ハルトは一瞬森の物の怪か何かに化かされているのかと考えたが、目の前の美少女は懐から何かの小さな入れ物を取り出すと、中から眼鏡を取り出し、度の強そうなそれを掛けてまじまじと少年を見つめ、口を開いた。
「……なんだ子供か、びっくりするじゃない。…あんたこんな所でなにしてるの?」
子供に子供と言われてハルトはむっと唇を尖らせ、言った。
「お前だって子供じゃないか。俺は旅の途中にここで野宿してたんだよ。……お前こそなんなんだよ、子供が一人で歩くような場所じゃないぜ」
眼鏡の奥の少女の目が、尚一層きりきりと吊り上がる。
「子供扱いしないでちょうだい、わたしだって旅の途中だわ。トランセリアへ行くの。…あんたは何処まで行くのよ」
「……お、俺もトランセリアだけど。……まさかお前ホントに一人じゃないだろうな。大人の人や荷物はどうしたんだ?だいたいその格好じゃ寒いだろう」
毛皮のコートを身に纏ってはいたが、膝上丈の黒いスカートの下から覗く彼女のすらりとした両脚は、薄いタイツ一枚を履いているだけのようであり、見るからに寒そうな出で立ちだった。そのタイツも花飾りの付いた革の靴も御丁寧に黒色であり、ハルトの目には最初顔だけが空中に浮かんでいるようにすら見えた。
無遠慮にじろじろと上から下まで見るハルトに、少女は不機嫌そうに言い放つ。
「じろじろ見ないで、えっち。そう思うんならその上着を貸しなさい。…それからわたしの事を『お前』とか呼ばないように。カリン様とお呼びなさい」
「自分だって『あんた』呼ばわりしてたじゃねぇかよ…俺はハルト。ハルト・カッシーニってんだよカ・リ・ン。…ほら」
そう言いながらハルトは身体に付いた木の葉を払い、手早く荷物をまとめると彼女に毛布を差し出した。迷う素振りを見せていたカリンだったが、寒さに耐え切れなくなったのだろう、黙ってそれを受け取ると不器用にくるまって言った。
「………くっさ~い。こんな物しかないの?しょうがないわねぇ…」
いちいち反応するのも面倒になったハルトは、用件だけを切り出した。
「こっちから来たんだよな?送ってってやるから着いて来なよ」
ハルトはすっかり落ち着いて考えを巡らしていた。口の聞き方や見た目から貴族のお嬢さんか何かだろうと踏み、送って行けば礼の一つももらえるかもしれないと考えたのだ。しかしカリンは彼の思惑とは正反対の行動を取る。
「あ、そっちじゃないの。こっちこっち」
来た道とは逆方向にすたすたと歩き始めるカリンを、ハルトは慌てて追い掛ける。掛けていた眼鏡を大事そうにケースに入れて懐にしまい込むと、彼女は話し始めた。
「わたしはカリン・クリカ・デラルク。わずか十歳にして大陸にその名を轟かす天才音楽家よ。…あなたもちろんデラルク侯爵家の誇る偉大なわたくしの噂は知っているわよね?」
「知らねぇ。どこの国の話だよ。…だいたい自分から『天才』だの『偉大』だの言うかよ。……そうか、お前、ちょっと頭の弱いヤツなんだな。…そうかそうか、それなら仕方がないな。俺がちゃんと家まで送ってやるか…」
「しししししししし失礼なっ!何という無礼な事をぬかす小僧か!事もあろうにこのわたしを!百年に一人と言われる作曲家にして、天才ヴァイオリニストこのわたしをっ!ピアノもハープもフルートも、古今東西ありとあらゆる楽器を誰よりも完璧に弾きこなす、天才演奏家のこのわたしをっ!よりによって『頭が弱い』だとぉ~っ!そこになおれ!成敗してくれるっ!」
真っ赤になって怒り、そうまくしたてて地面を指差すカリンを、ハルトは呆れ顔で眺め、ため息を一つつくと言った。
「……よく口の回る女だなぁ。やれやれ、とんでもないのに引っ掛かっちゃったな。……あ、そうだ。たった今思い出したんだけど、俺ホントはグローリンドに行く用事があったんだよ。残念だなぁ…、それじゃあこれで。毛布はあげるからさ…」
説得力のない口上で立ち去ろうとするハルトの襟首をむんずと掴み、カリンは低い声で告げる。
「逃~げ~る~な~」
「………はいはいはいはい。……はぁ。そんでどうすんだよ。トランセリアなら街道に出て南回りするか、やっぱり街道を北上して山脈の切れ目を抜けないと行けないぜ。なんで反対方向に歩いてるんだよ。ここから北回りじゃあ倍以上時間が掛かっちまうから、街道を西に向かってグローリンドとの国境いまで行かなきゃ…」
「街道はダメ」
「ダメって……何言ってんだよお前」
「ダメなものはダメ」
「………お前、………まさか」
「………そう」
「馬鹿」
「しっつれいねぇ!」
「馬鹿は馬鹿だ。セリア山脈を越えるつもりだろう。死にに行くのもおんなじだ」
「毛布を貸してくれたお礼にひとつだけ教えてあげる。セリア山脈にはトンネルが通っているから、山越えなんかしなくてもいいの。よ~く覚えておきなさい」
口に手の甲を当てておほほほと高笑いするカリンに、ハルトは遠慮なく指を突き付けて言った。
「やっぱり馬鹿だ。今年は雪が多くて、あのトンネルは今工事が止まってるんだよ。開通は夏まで伸びたんだ」
「………うそ」
旅暮らしに慣れたハルトは各国の道路事情には精通していた。宿屋に泊まる毎に情報を集め、山賊などに襲われる危険や、通れない道を行く無駄足を回避してきた。
カリンは両親の交わす隣国の結婚式の話題を耳にし、その時にセリア山脈のトンネルが開通する予定を知ったのである。折悪く、それはまだ工事が中断する前の事であった。ハルトは得意げに告げる。
「ホ~ン~ト。……な、悪い事言わねぇから今から街道に戻ろう。お付きの人とかいるんだろう?探してるんじゃないのか。送ってってやるから」
立ち止まったカリンにようやくハルトは安堵する。今迄とはうって変わった真面目な顔で彼を見つめ、口籠るカリンを前に、ハルトの顔が赤黒く染まる。やがて少女ははっきりと言った。
「……ダメ。どうしてもそっちには行けないの。………毛布、ありがとうハルト。……さよなら」
初めて彼の名を呼び、カリンは再び歩き出す。その後ろ姿を呆然と見つめ、ハルトはさんざん迷った挙げ句、彼女の後を追って走り出す。
「なんだってんだちくしょう。……これじゃ俺が一番馬鹿野郎だ」
森の中にカリンの小さな後ろ姿を見つけ、ハルトは声を掛ける。
「おい、カリン、待てよ。……お、俺が一緒に行ってやるよ。…待てって」
立ち止まり、振り向いた彼女は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「……確かに聞いたわよその台詞、あんたってお人好しねぇ。まぁお姫さまには従者が付き物だから、仕方がないわよね」
「…………お前………はめやがったな」
「何の事だかわからなぁ~い。…さぁ行くわよ、着いておいで従者ハルト」
「…………本当に俺が一番馬鹿だ」
がっくりとうなだれ、とぼとぼとカリンの後ろを歩くハルト。国を出てから半月と経たぬ間に、彼の旅は大きく様変わりしてしまった。