大切をきずくもの
大切なものは、いつだって傍に……
入院先で祖父ちゃんが死んだという電話があったのは、今朝のことだった。
一昨日、中学の卒業式を終え、少し早い春休みを迎えていた僕が電話を受けた。今朝早く容態が急変して、あっという間のことだったらしい。病院に泊り込んでた母さんは泣きながら「ハルキ、お祖父ちゃんの最期に立ち合わせてあげられなくて御免ね」と言ってた。
祖父ちゃんが入院したのは去年の秋頃のこと。一週間ほど体調がすぐれなくて、検査をしてみることになった。健康自慢の祖父ちゃんのことだから大丈夫、と家族全員思ってたのに……。検査結果は癌と診断された。医者から余命半年と宣告され、家族で話し合って祖父ちゃんには告知しないって決めた。
――僕は一度しか、祖父ちゃんのお見舞いに行かなかった。
電話の後、居間のこたつでぼんやりしていると玄関の開く乾いた音がした。
「ハル、いるか」
その声で、隣の家に住む四つ年上の雄兄ぃと分かり、
「いるよ」
とだけ返した。「お邪魔します」の大きな声に続き、ぎっぎっ、と廊下の鳴る音が近づいてくる。襖が開けられると、背の高い雄兄ぃが鴨居をくぐるようにして居間に入ってきた。
「よぉ」
僕も同じように「よぉ」と挨拶を返した。
「おい、ちょっと寒いぞ、この部屋」
雄兄ぃは厚手のダウンを脱ぎながら部屋の隅に置かれたストーブの傍まで行き、灯油の残量を確かめる。
「……そうかな?」
「そうかな、じゃない。ハルは昔から風邪引きやすいんだから。ストーブつけるぞ。あと、なんか温かいの淹れてくる」
面倒見のいい雄兄ぃらしく、手早くストーブに火をいれ、台所で僕が好きなカフェオレを作ってきてくれた。小さい頃、まだコーヒーが飲めなくて、でも雄兄ぃの真似をして飲みたいと言ったら作ってくれた、牛乳たっぷりで甘めに作ったやつ。それがマグカップになみなみと注いである。「熱いから、フーフーして飲めよ」と言ってそれを渡してくれた。
「……雄兄ぃ、大学は?」
僕は手の中の熱いカフェオレを、言われた通りフーフーと冷ます。
「そんなの、とっくに春休みだよ。ハルが泣いてる顔を見てやろうと思って来たんだ」
向かいに座って頬杖をつきながら、八重歯の覗く悪戯っぽい表情で、そう言った。灯されたストーブがじんわり部屋を温めていく。
――母さんが様子を見てやってと頼んだのかな。
「なにそれ。じゃあ残念だったね」
僕は泣いてなかった。
悲しくないわけじゃない。生まれたときから一緒に暮らしてた祖父ちゃんだ、悲しくないわけがない。
でも、涙は流さなかった。自分は泣いちゃいけない気がしていた。
「みたいだな、残念」
肩を竦めて、雄兄ぃが自分のカップからコーヒーをすする。
ふと目の端に、天井近くの壁に飾ってある写真が映った。僕のお宮参りの写真だ。小さい頃に死んじゃったお祖母ちゃんが赤ちゃんの僕を抱いて、その隣には『春木』と紙いっぱいに大書された命名書を掲げた祖父ちゃんが写ってる。母さんたちは書道の先生をしてたお祖母ちゃんに命名書を書いて貰うつもりだったのに、祖父ちゃんは自分が書くと言って、頑として譲らなかったらしい。
その写真に残る家族は、もう誰も僕の傍にいない。笑顔の二人を写真だけが色褪せることなく見せてくれる。
まだ少し湯気の立つマグに息を吹くと、滑らかな水面に波紋が広がった。
「……ねぇ、雄兄ぃ」
「ん?」
「僕の名前の『ハルキ』って、春の木って書くでしょ? これ反対に並べてみて」
「えっと、春と木を反対にしたら……『椿』か」
雄兄ぃは手の平に指でその字を書きながら答えた。
「そう。ほら、知ってるだろ? 母さんオペラの椿姫の大ファンなの。だから子供の名前は絶対『椿』って付けたかったんだって。僕さ、男だよ? 勘弁してよって感じだよね」
そう言って口に含んだカフェオレは甘くて懐かしい味がした。昔よく飲んだのと同じ味。いつもと同じ味なのに、今日はとても安心できた。
「どうして、春木になったんだ」
話の先を促してくれる。真っ直ぐに僕を見据える鳶色の瞳には、いつもそうであるように雄兄ぃの優しさが宿ってる。
「祖父ちゃんが、椿の花は首が落ちるイメージで不吉だからって猛反対したんだ。……年寄りらしく迷信深いよね」
実際、祖父ちゃんは凄かったらしい。姓名判断の先生に何人も相談したり、名前に付ける漢字を選ぶのに、ぶ厚い字典と首引きになって一字一字の意味を調べたりしてたと聞いた。
何でも大袈裟ではり切り屋の祖父ちゃんだったと思う。
いきなり、ぽん、と頭に雄兄ぃの大きな手が置かれた。
「ハル、よかったな」
そう言いながら力まかせに僕の頭を撫でた。
「な、何が?」
訳が分からず混乱してる僕の隣で、笑窪を浮かんだ顔で雄兄ぃが笑っている。
「『春木』って名前を貰えて」
「え、椿にならなくて済んだってこと?」
そりゃ、そうならなくて良かったけど……。
「違うよ。凄ぇ孫思いの祖父ちゃんを持って、よかったなってこと。きっとさ、迷信でもなんでも少しでもこの子が幸せであって欲しいって思ったんだろうな、祖父ちゃん」
その言葉を聞いて、少し恥ずかしくなった。何だか自分が至らない人間に思えて、雄兄ぃから顔を逸らせてしまう。
――どうして、そんな風に思えるんだろう?
こんなの何でもない話に思ってた。でも、雄兄ぃは優しい理由や秘められた想いを見つけてくれた。
いつだって僕は、そこにある大切な想いや大事な言葉を見落として、後になって誰かに気づかされる。それは僕がまだ子供だからなのか、雄兄ぃや周りの人が聡いからなのかは分からない。ただ、もし自分もそう出来たなら、色んなこと後悔しないで済んだんじゃないかって思うんだ。祖父ちゃんとのことも……。
僕は雄兄ぃの言葉に、小さく「うん」とだけ返した。
それから、とりとめもない話をして時間を過ごした。春から通う高校の話とか、人気のテレビ番組の話とか。気づいたら、居間の鳩時計が十四時を報せていた。
「ああ、もうこんな時間か。何か食うか、ハル?」
そう言って雄兄ぃが立った時に、玄関でチャイムが鳴った。
「僕が出るから」
居間から寒い廊下に出て玄関を見ると、嵌ったすりガラス越しに人が立っていた。渋い色味の生地やシルエットで着物を着ている感じがした。
「どちら様ですか」
玄関越しに尋ねてみる。
「修二郎さんはご在宅ですか」
少ししゃがれた老人の声が返ってきた。
――祖父ちゃんの名前だ。この人、まだ知らないんだ。
僅かに心臓の音が大きくなった気がした。浮かない気持ちで玄関を開けたところに、祖父ちゃんと同じくらいの年恰好の男性がいた。細められた目元から、人の良さそうな瞳が覗いている。
「突然すいません。ちょっと近くまで寄ったものですから、久々に顔でも、と」
老人はニコニコと嬉しそうな笑みを向けてくれた。
「あの祖父は、その……」
言葉を見失ってしまった。ひどく口にするのが、怖かった。言うべきことは頭にあるのに、喉につかえて上手く出てきてくれない。握り締めてる拳には、現実の手ごたえが感じられなかった。
――ちゃんと、言わなくちゃ。
そう自分に言い聞かせ、乾いた口を一生懸命に動かした。
「祖父は、今朝亡くなりました」
言った。でも、もう心が飽和状態で、これ以上は何も言いたくない。唇をきつく引き結んで、僕はそのまま俯いてしまう。
「……そうですか。それは、大変間の悪いときにお邪魔してしまいました」
丁寧な声だけど、その顔には言葉にならない哀しみが滲んでたかもしれない。俯く僕の瞳には老人の着物の裾と履物だけしか映らなかったけれど。
――早く帰って下さい。
勝手な思いに駆られる。でも、それしか頭にはなかった。
「君はもしかして、春木くんかい?」
急に自分の名前を言われて、反射的に僕は顔をあげた。老人の顔に笑みはもうなかったけど、穏やかな表情をしている。
「そうか。お祖父さんは会えば君の話ばかりしていたよ。春木が歩いたとか、今度中学に上がるとか」
老人のする話は、僕の心をざわざわと落ち着かないものにしていく。
目元に刻まれた皺が、祖父ちゃんのそれと同じに見えた。
「はじめて喋った言葉は『じぃじ』だといつも自慢しとった。心の優しい子じゃと。
はぁー、そうか。修二郎がなぁ……」
話を終えると、老人は寂しそうな顔で帰って行った。その後ろ姿に、黙って一礼をした。そうしなきゃいけない気がしたから。
居間に戻ると、雄兄ぃがカップ麺を作って待っててくれた。
「誰だった?」
「祖父ちゃんの友達。死んだこと知らなかったみたい」
まだ心の中はざわざわと騒いで、溢れそうな想いが出口を求めている。誰かにこの気持ちを打ち明けて楽になりたい。そう、思った。
「……僕、祖父ちゃんのお見舞いに一回しか行かなかったんだ」
立ったまま、突然喋りだした僕に、雄兄ぃは黙って顔だけを向けた。
雄兄ぃに全部聞いて欲しい。行き場のない両手同士を組み合わせた。
「嫌いだったわけじゃないんだ。ただ、どうしていいか分かんなかった。もう病気で長くないって聞かされてて、祖父ちゃんの前で母さん達みたいに上手く笑えないんだ。話してても表情に出てんじゃないかって……祖父ちゃんに、ばれるんじゃないかって」
母さん達が悲しくなかったはずない。母さんにとっては実の父親なんだから。本当は僕なんかより、ずっと悲しい思いだったはずなのに。でも、母さんは最期まで傍に居続けた。僕はそんな風には出来なかった。最期まで一緒に笑い合える強さも、傍に居る優しさも持てなかった。ただ、不安な自分や病気のことを祖父ちゃんに知られる恐怖に負けたんだ。
「祖父ちゃんの友達が言ってた。祖父ちゃん、僕のことばかり話してたって。心の優しい子だって」
嬉しそうな顔で話す祖父ちゃんの顔が、ありありと脳裏に浮かぶ。
「そんな子じゃないよ、僕。病院に行くのが怖くて塾が忙しいって言ったり、受験が終わったら行くよって、後回しにしたり」
――時間なんかないって知ってたのに。いつも、心の中で引っかかってたのに。
それでも、もう会えなくなるってことより『今』会うことのほうが怖かった。
「最低だよ……」
耳鳴りがするほど強く歯を食いしばっても、少しも自分を責める気持ちは無くなってくれなくて。自分を恥じたり詰ったりする言葉ばかりが頭の中でこだまする。大切なことだった。逃げたりしちゃいけないことだった。だから――今こうして後悔ばかりが胸を噛むんじゃないか。
そんな僕の頭を雄兄ぃが優しく撫でてくれた。
「だから泣いてなかったんだな」
「僕に泣く資格なんかないよ」
本当は泣きたかった。死ぬのは悲しいから、会えなくなるのは寂しいから、何よりも祖父ちゃんのことが大好きだから。だけど、そうするには僕はあまりに何もしなさ過ぎた。
「泣けばいい。みんな知ってたさ。おじさんもおばさんも祖父ちゃんも。
ハルが素直じゃなくて、祖父ちゃんが大好きで、優しいから会うことを怖がってるってことくらい」
慰めの言葉は、いっそ僕の心を逆撫でした。優しい声が、今は激しく苛立たしかった。
「嘘だ! 祖父ちゃん、薄情な孫だって思ってた。あんなに可愛がったのにって。絶対そう思ってた」
僕はその場にしゃがみ込んだ。祖父ちゃんに嫌われたんじゃないかと思うと、もう……。
雄兄ぃが肩膝をついて、穏やかに語りかけてくる。
「嘘じゃない。俺が見舞いに行ったとき祖父ちゃんと約束したんだ。自分が死んだら、ハルキの傍に居てやってくれって。祖父ちゃん言ってた『ハルキは人一倍優しくて、泣き虫な子だから誰か傍に居てやらないと』って」
雄兄ぃの瞳に映る自分が見えた。その揺ぎ無い鳶色の瞳は、弱い僕を包んでくれてるようで。もう、我慢できなかった。僕は雄兄ぃにしがみ付いて、声をあげて泣いた。幼い子みたいに。
「大好きだった、死んで欲しくなんかなかった。ずっと、ずっと一緒にいたかったよ」
嗚咽と涙に咽ぶ声で、祖父ちゃんに言えなかった言葉をぶつけ、繰言のように「ごめんなさい」を連呼した。その間、雄兄ぃは固く僕を抱きしめててくれた。それは昔、やっぱり僕が泣いたとき祖父ちゃんがそうしてくれたのと同じ温もりだった――……。
空が高く澄んだ日に、祖父ちゃんの火葬は行われた。お別れのときに見た祖父ちゃんは、僕の知ってる姿より大分痩せていたけれど、穏やかな表情をしていてくれた。
白い煙が空に還っていくのを見つめていたら、母さんに呼ばれた。
「これ、お祖父ちゃんの病室から出てきたの」
渡された白い封筒の表には『春木へ』と書かれてある。ゆっくり慎重に開けると、中に白い簡素な便箋が入っていた。
春木へ
この手紙を読んでる頃は、もう儂は祖母さんのとこに行ってるじゃろ。
自分のことだから良く分かる。
もっと一緒にいたいが、こればっかりは順番だから仕方ない。
春木――大切なものをたくさん築けよ。そして、愛すべき人も同じくらい見つけろ。
父さんや母さん、隣の雄坊……これから出会う友人や恋人。
そんな人たちを大切にしなさい。
春の若木に人が喜びと命を見つけるように、人々の幸いにお前もなりなさい。
そういう想いで名前も付けた。
成長した春木を儂は見られんが、優しいお前ならきっとなれると信じとる。
ただ、お前は泣き虫だから今も泣いてないか心配だな。
いつまでも泣いとると、心配でおちおち天国にも行っとれんぞ。
じゃあな、春木。
達筆とは言いがたい祖父ちゃんの筆文字は、それでも僕の中でひどく響いた。泣き虫――そう祖父ちゃんが言ったとおり零した涙で文字が滲んだけれど、大切な想いが鮮やかに心を彩ってくれた。
――大切なもの。
それが何かを知ることは子供の僕には難しい。ただ、この手紙はこれから僕が築いていく大切なものたちの一つなんだということだけは、今もはっきり分かってる。
薄れゆく最期の煙を見つめながら、
「ありがとう、祖父ちゃん」
そう笑顔をおくった。心配しないで、という想いをこめて。
こんにちは、ユエです。
今回は初めて恋愛ではない話を投稿しました。
大切な人の喪失はとても悲しいです。
でも誰もが体験する普遍的なものだけに描いてみたくなりました。
よろしければ、ご意見ご感想をお聞かせください。