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君のためでもあるんだ

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/06/19

 十九歳の誕生日に、婚約者が来ないことは、もう覚悟していた。

 だから、夕食の席に並んだ料理が冷めていくのを見ても、驚かなかった。

 窓の外では、王都の夜景が輝いている。


 今年は、ロレンツォが近衛騎士になって初めて迎える私の誕生日だった。

 三年前、彼と婚約した日のことを思い出す。

 まだ彼は、名もない若い騎士だった。

 男爵令嬢の私と平民出身の彼、周囲は皆、反対した。


「もっとふさわしい相手がいる」

「将来のない平民出の騎士などやめておきなさい」


 何度も言われた。


 それでも、私が彼を選んだ。

 彼はいつだって、私を一番にしてくれたから。

 雨の日、馬車が遅れて帰れなくなった時、自分の外套を私にかけ、自分は濡れながら屋敷まで送ってくれた。

 夜会で私が貴族達の噂話に疲れた時。


「無理して笑わなくていい」


 そう言って、人の少ない庭へ連れ出してくれた。

 私が風邪で寝込んだ時には、非番の時間を使って、何度も様子を見に来てくれた。

 身分も、地位も、何も持っていなかった。

 けれど、誰より優しい人だった。


 だから、父に反対されても、後悔したことは一度もなかった。

 彼が騎士として努力する姿を見ることが、私の誇りだったからだ。

 そんな彼が変わったのは、一年前。


 騎士団総長の一人娘、ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢と出会ってからだった。

 最初は、私も気にしていなかった。

 仕事の延長と考えれば、当然だと思っていた。


 近衛騎士である以上、貴族達と関わる機会はある。

 上役の総長の娘なら、なおさらだ。

 だから、ロレンツォが言った時も、笑って送り出した。


「すまない。ジュリア様が、庭園の散歩をしたいそうなんだ」

「上役のお嬢様ですものね」

「ああ。総長閣下の大切な娘だ。粗相があっては困る」


 その時は、本当にそう思った。

 それが、私達の未来のためになるのだと。

 ロレンツォが認められることが、嬉しかった。

 けれど、一度だったことは、二度になった。

 二度だったことは、十度になった。


 約束していた観劇、新居に置く家具を選ぶ時、婚約三周年の日。

 そのたびに、彼は困った顔をした。


「断れる相手じゃないんだ」

「分かっています」

「君は本当に優しいな」


 そう言って、私の額に口づけた。

 昔なら、その一つで幸せになれた。

 その言葉を、信じることができた。


 けれど、いつからだろう、彼の謝罪から、「次は必ず」という言葉が消えた。

 彼が、私に申し訳ないと言うより先に。


「君なら分かってくれる」


 と言うようになったのは。


 コンコン。

 扉を叩く音がした。思わず立ち上がる。

 ロレンツォだと思った。遅くなっても、来てくれたのだと。

 胸が少しだけ軽くなった。


「お嬢様」


 入ってきたのは、侍女だった。

 その手には、一通の手紙がある。

 嫌な予感がした。


「……ロレンツォ様からです」

「そう」


 受け取る指先が、少しだけ震える。

 手紙を開くと、そこには、彼の癖のある字が並んでいた。


『ベアトリーチェ。誕生日に行けなくなった。本当にすまない』


 そこまで読んで、少し目を細めた。

 まだ、謝ってくれるのだと思った。

 私の誕生日を大切に思ってくれているのだと。


 けれど、次の一文から、その気持ちは消えた。


『ジュリア様が、今夜開かれる私的な夜会に参加されることになった』

『総長閣下も出席される』

『ここで失礼をすることは、今後の騎士人生に関わる』

『だから、これは俺達の未来のためでもあるんだ』


 俺達の未来、何度も聞いた言葉だった。

 初めて言われた時は、嬉しかった。

 私との未来を考えて、努力してくれているのだと思った。

 けれど今は、その言葉を聞くたびに、胸の中の何かが、少しずつ削られていく。


 違う、違うのだ。

 私は、彼に出世してほしくないわけではない。

 総長に認められてほしくないわけでもない。

 ただ、一年に一度の誕生日くらい、私を優先してくれてもいいではないか。

 昔の彼なら、何を犠牲にしてでも来てくれた。

 そう思ってしまう。

 その考えが、間違っているのだろうか。


「お嬢様」


 侍女が心配そうに私を見る。

 慌てて、微笑んだ。


「大丈夫よ」


 嘘だった。

 大丈夫ではない。

 けれど、泣いてしまったら、彼を信じて待っていた三年間まで、間違いだったような気がした。

 だから、笑った。


「手紙を下げてもらえる?」

「……かしこまりました」


 侍女は何か言いたそうだった。

 けれど、何も言わず頭を下げた。

 一人になった食堂で、私はロウソクの火を見つめた。

 昔、ロレンツォは言った。


「来年も、その次も、ずっと一番に祝う」


 その時の彼に、嘘はなかったと思う。

 本当に、そう思っていたはずだ。

 だから、苦しい。

 嫌いになれたら、楽なのに。


 最低な男なら、怒れたのに。

 今でも、彼の優しかった頃を知っている。彼を愛している。

 だから、もうやめたいという気持ちを、認めることが怖かった。


 この恋を終わらせることは、ロレンツォを失うことではない。

 三年間、彼を愛してきた自分を失うような気がしたから。

 けれど、この夜、冷えた料理を前にして。

 私の中で、確かに何かが変わり始めていた。



 翌朝、ロレンツォが屋敷へ来た。

 いつもより早い時間だった。

 父はまだ朝食前で、使用人達も廊下を行き来している。そんな時間に訪ねてくるのは珍しい。

 私が応接室へ入ると、彼は立ち上がった。


「ベアトリーチェ」


 その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。

 眠っていないのか、目の下に薄く影がある。騎士服の襟も少し乱れていた。

 昔なら、心配で駆け寄っていた。

 今も、そうしたい気持ちはあった。

 けれど、足は動かなかった。


「昨日は、本当にすまなかった」


 ロレンツォは深く頭を下げた。

 その姿を見ると、怒る気持ちが鈍る。

 彼は悪い人ではない。

 分かっている。だから、余計につらい。


「お忙しかったのでしょう」

「違う。いや、忙しかったのは事実だが……君の誕生日だったのに」

「手紙はいただきました」

「あんなものでは足りない」


 彼は苦しそうに言った。

 その一言で、少しだけ救われた気がした。

 まだ、分かってくれているのだと、私を見てくれているのだと思った。

 けれど、ロレンツォは続けた。


「ジュリア様は、昨日の夜会で総長閣下に私のことをよく話してくださったらしい。おかげで、次の昇進候補に名を入れていただけるかもしれない」


 私は、自分の愛がさめるのを感じた。


「そうですか」

「ああ。だから、昨日は無駄ではなかった。君にも、きっと良い知らせが出来る」


 無駄ではなかった。

 私の誕生日に来なかったことが、冷めた料理を前に、ひとりで待っていた時間が。

 彼にとっては、無駄ではなかった。


「ロレンツォ様」

「何だ?」

「昨日、私がどう過ごしていたか、聞いてくださらないのですか」


 彼は一瞬、言葉に詰まった。


「……聞くまでもないだろう。寂しい思いをさせた。だから謝りに来たんだ」

「そうですね」

「ベアトリーチェ?」


 私は笑顔を作った。作れたと思う。


「昇進候補、おめでとうございます」


 ロレンツォはほっとしたような顔をした。


「ありがとう。君なら、そう言ってくれると思っていた」


 その言葉が、昨日の手紙より私を傷つけた。

 君なら、また、それだった。

 私が、どう思ったか分かっていない。

 彼が欲しい答えを、私なら返すと思っている。


「近いうちに、埋め合わせをする」

「いつですか」

「え?」

「いつ、埋め合わせをしてくださるのですか」


 ロレンツォは少し考えた。


「来週はどうだ。王立劇場で新しい芝居が始まる」

「来週の何日ですか」

「金曜の夜にしよう」

「約束ですね」

「ああ、約束だ」


 彼は迷いなく言った。

 昔の彼と同じ声だった。

 だから、私はまた信じてしまった。

 愚かだと思う。けれど、好きだった。

 まだ、その時は。


 金曜の夜、私は淡い青のドレスを着た。

 派手ではない。

 けれど、ロレンツォが以前好きだと言ってくれた色だった。

 鏡の前で髪に真珠の飾りをつけると、侍女が言った。


「よくお似合いです」

「ありがとう」

「今夜は、楽しい夜になるとよろしいですね」

「ええ」


 そう言いながら、心のどこかで恐れていた。

 また、何かが起きるのではないか、彼は来ないのではないか。

 そんな不安を抱くこと自体が、もう苦しかった。

 婚約者との約束を、楽しみより先に疑ってしまう。

 それは、恋人同士として悲しいことだった。


 馬車の音、窓の外を見る。ロレンツォだった。

 ほっとして、胸が熱くなる。

 やっぱり来てくれた、私を選んでくれた。

 そんな、当たり前のことに喜んでしまう自分が情けなかった。

 玄関広間で彼を迎えると、ロレンツォは少し照れたように笑った。


「綺麗だ」

「ありがとうございます」

「その色、昔から好きだ」


 覚えていてくれた。

 たったそれだけで、昨日までの寂しさが薄れていく。


 だが、馬車に乗り込もうとした時だった。

 屋敷の門前に、別の馬車が止まった。

 白い車体に、デ・サンティス侯爵家の紋章。


 嫌な予感がした。

 馬車から降りてきたのは、ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢だった。

 金色の髪を美しく結い、深緑のドレスを着ている。

 彼女は私達を見ると、花のように笑った。


「あら、ロレンツォ。ちょうどよかったわ」


 ロレンツォの肩がわずかに強張った。


「ジュリア様。なぜこちらへ」


「劇場へ行くのでしょう? お父様から聞きましたの。私も今夜、同じ劇場へ行く予定なのだけれど、護衛が急に来られなくなってしまって」


 彼女は困ったように頬へ手を添えた。


「お願いできないかしら」


 ロレンツォはすぐに答えなかった。

 私を見るその目に、迷いがあった。

 嫌だ、今夜だけは嫌だ。そう言いたかった。

 けれど、ジュリア様は続けた。


「もちろん、無理にとは言わないわ。あなたには婚約者様との大切な予定があるのでしょう? 私のことは気にしないで」


 その言い方は、優しかった。

 けれど、本当に引く気などないことは分かった。

 ロレンツォも分かっていたはずだ。

 ここで断れば、彼女は笑って許すかもしれない。

 しかし、その話は必ず騎士団総長の耳に入る。


 彼はそう考えたのだろう。


「……ベアトリーチェ」


 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が痛んだ。

 言わないで、その先を言わないで。


「劇場なら、三人でも構わないだろうか」


 息が止まりそうになった。

 三人……私がどれだけ楽しみにしていたか、彼は知らないのだろうか。

 いいえ、知っているはずだ。

 だからこそ、埋め合わせだと言ったのだから。


「ロレンツォ様」


 ジュリア様が笑う。


「婚約者様がお嫌なら、構いませんわ。私は一人で参りますから」

「そういうわけには」

「けれど、婚約者様のご機嫌を損ねるわけにはいきませんもの」


 彼女は私を見る。


「ベアトリーチェ様は、お優しい方なのでしょう?」


 それは、問いではなかった。

 そう答えろと、私に促していた。

 私は手袋のまま、強く拳を握りしめた。

 怒れば、心の狭い女と言われる。

 断れば、騎士の立場を分からない婚約者になる。


 また、同じだ。

 それを、また私に言わせようというのか。


「……構いません」


 その瞬間、ロレンツォが安心した顔をする。


「ありがとう、ベアトリーチェ」


 ジュリア様も笑った。


「よかったわ。では、ご一緒させていただきますね」


 劇場で、ジュリア様はロレンツォの隣に座った。

 私はジュリア様が用意していた離れた席にいた。

 本来なら、隣にいるはずだったのに。


 芝居の内容は、ほとんど覚えていない。

 ジュリア様が小声で笑い、ロレンツォがそれに返事をする。

 そのたびに、自分は邪魔者のように感じた。


 途中、ジュリア様が私を気にして一度だけ、こちらを見た。

 その顔に、申し訳なさはあった。

 けれど、席を替わろうとはしなかった。


 私の中で、何かがまた一つ消えた。

 帰りの馬車で、ロレンツォは言った。


「今日はすまなかった」

「ええ」

「だが、ジュリア様を一人にするわけにはいかなかった」

「分かっています」

「君には嫌な思いをさせた。でも、これも」


 その先を、聞きたくなかった。


「私達の未来のため、ですか」


 ロレンツォは少し黙った。


「ああ」


 私は窓の外を見た。王都の灯りが遠ざかる。

 その中に、昔の私達が消えていくような気がした。


「ベアトリーチェ」

「はい」

「怒っているのか」

「怒っていいのですか」


 彼は困った顔をした。


「そういう言い方は」

「怒ってもいいのなら、怒ります」

「……君らしくない」


 その一言で、胸の中に残っていた気持ちが、また冷めた。

 私らしさとは、何だろう。

 何をされても笑うことだろうか、寂しくても、理解あるふりをすることだろうか。

 彼にとっての私らしさは、いつからそんなものになったのだろう。


「ごめんなさい、疲れました」

「ああ、送るよ」


 馬車が男爵家に着いた時、ロレンツォは私の手を取ろうとした。

 私は一瞬だけ迷い、その手を避けた。

 彼が驚いた顔をする。


「ベアトリーチェ?」

「おやすみなさいませ」


 そう言って、馬車を降りた。

 背中に彼の視線を感じたが、振り返らなかった。

 振り返ったら、また許してしまう。

 そう思ったから。


 その夜、部屋に戻ると、髪飾りを外した。

 真珠が手のひらで冷たく感じた。

 昔、ロレンツォが褒めてくれたドレスの色、彼が選んでくれた髪飾り。

 思い出は、変らない。


 だから残酷だった。

 嫌いになれないまま、愛だけが消えていく。

 それがこんなに苦しいものだとは、知らなかった。



 王宮の大舞踏会の日は、雲ひとつない晴天だった。

 窓から差し込む朝の光を見ながら、鏡の前に座る。

 侍女が、丁寧に髪を結っていく。


「お嬢様、本日もお美しいです」

「ありがとう」


 鏡に映る私は、いつもと変わらない。

 白いドレス、胸元には、小さな真珠。

 ロレンツォが、昔言ってくれた。


「君は、飾り立てるより、そのままの方が綺麗だ」


 だから今日も、派手な宝石はつけなかった。

 馬鹿だと思う。

 こんな日になっても、まだ彼の言葉を大事にしている。

 もう、何度も傷ついたのに。

 それでも、ほんの少しだけ期待していた。

 今日だけは違うのではないか、私を選んでくれるのではないか。

 その期待が残っていることが、一番苦しかった。

 

 午前中、ロレンツォから花束が届いた。

 赤い薔薇だった。

 手紙も添えられている。


『今夜だけは、必ず君との約束を守る』


 短い手紙、けれど、その文字を何度も読んだ。

 昔の彼なら、こういう約束は絶対に破らなかった。

 だから、信じたいと思ってしまう。

 何度も失望しているのに。

 私はまだ、あの頃の彼を探している。



 夕刻、王宮の大広間は、華やかな衣装の貴族達で満ちていた。

 楽団の演奏、笑い声、色とりどりのドレス。

 その中を歩きながら、私はロレンツォを探す。


「ベアトリーチェ」


 声をかけられる。

 振り返ると、ロレンツォがいた。

 近衛騎士の正装、初めて会った頃より、ずっと立派になった姿。

 その姿を見るたびに、嬉しかった。

 私が愛した人が、努力して夢を叶えていく。

 それが誇らしかった。


 ――今までは。


「綺麗だ」

「ありがとうございます」

「待たせてしまったな」

「いいえ」


 少しだけ、ぎこちない会話。

 昔なら、こんな沈黙はなかった。

 何を話しても楽しかった、一緒に笑えた。

 それが、いつからこんなに心の距離が遠くなったのだろう。


「ベアトリーチェ」

「はい」

「今日は、必ず君と踊る」


 彼は真剣な顔で言った。


「約束する」


 その言葉に、胸が痛む。

 何故だろう、昔なら嬉しかった。

 でも今は、約束を守ることを、わざわざ宣言しなければならない関係になったのだと思った。

 その時だった。


「ロレンツォ」


 甘い声が響く。

 聞き慣れてしまった声。

 ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢だった。

 金色の髪を美しく飾り、鮮やかな青のドレスを身にまとっている。


「ジュリア様」


 ロレンツォの表情が固まる。

 その顔を見るだけで分かった。

 彼も分かっているのだ。

 今、この場に来てほしくなかったことを。


 でも、逃げない。

 いつものように、受け入れるしかない。


「今日は素敵な夜ですわね」

「ええ」

「私、最初の曲をあなたと踊りたいの」


 周囲の空気が変わった。


 近くの貴族達が、興味深そうにこちらを見る。

 婚約者との最初の曲。

 それは、恋人同士にとって特別な意味を持つ。

 誰でも知っている。

 ジュリアが知らないはずがない。


「ジュリア様」


 ロレンツォの声が、小さく響く。


「私は――」


 一瞬、本当に一瞬だけ、彼は断ろうとした。

 私は、それが分かってしまった。だから、余計につらかった。

 彼は、何が正しいか知っている。

 知っていて、いつも間違った方を選ぶ。


「もちろん、無理にとは申しません」


 ジュリアは微笑んだ。


「お父様にも、あなたはいつもよくしてくださるとお話ししておりますの」


 その言葉で、ロレンツォの視線が揺れる。


「あなたの将来が楽しみだ、と」


 終わったと私は思った。彼は、断れない。

 いいえ違う、選ぶのだ。

 いつもと同じように私ではない方を。


「ベアトリーチェ」


 彼が私を見る。

 申し訳なさそうな困った顔。

 昔なら、その顔を見るだけで許してしまった。

 でも、もう分かっている。

 彼が困っているのは、私を傷つけるからではない。

 自分が嫌われたくないからだ。


「すまない」


 「やめて」と心の中で呟く。その先だけは、言わないで。


「これも――」


 彼は、言った。


「君のためでもあるんだ」


 その瞬間、不思議なくらい、心が静かになった。

 怒りでもなく、悲しみでもなく、長い長い夢から、目が覚めたようだった。

 ああ、もう終わったのだ。

 私が愛していたロレンツォは、もういない。

 昔の彼なら、出世より、名誉より、私との約束を選んでくれた。


 私は、その思い出だけを愛していた。

 今、目の前にいる彼ではなく、思い出の中の人を。


「分かりました」


 私が言うと、ロレンツォは安心したように笑った。

 その笑顔を見て、最後の愛が終わった。

 彼は、まだ気づいていない。

 私が許したのではなく、諦めただけだということに。


「ありがとうございます、ベアトリーチェ様」


 ジュリアが微笑む。


「本当にお優しいのですね」

「ええ」


 私は苦笑した。


「私は、優しいのです」


 二人が少し驚いた顔をした。

 今までなら、言わなかった言葉だから。

 思わず皮肉めいたことを口にしていた。


「だから、何度でも待ちました」


 ロレンツォの表情が変わる。


「ベアトリーチェ?」

「あなたが忙しい時も、約束を忘れた時も、私より、彼女を優先した時全て」


 大広間の音楽が始まる。

 最初の曲。

 もうすぐダンスが始まる。


「でも、今日で終わりです」

「何を言っている」

「ロレンツォ・マルティーニ様」


 私は、彼の名を呼ぶ。

 婚約者としてではなく、他人として。


「私との婚約を、解消してください」


 初めてロレンツォの顔から血の気が引いた。


 その時、大広間から、音楽が消えた気がした。

 もちろん、楽団は演奏を続けている。

 貴族達の笑い声もある。


 けれど、私達の周囲だけ、時間が止まったようだった。


「……今、何と言った」


 ロレンツォが、信じられないという顔で私を見る。

 そんな顔を見るのは、初めてだった。

 彼はずっと、私が離れるとは思っていなかった。


 謝れば許され、理由を話せば理解する。

 二人の未来のためだと言えば、笑って送り出してくれる。

 そんな私しか、知らなかったのだ。


「婚約を解消してくださいと申し上げました」

「馬鹿なことを言うな」


 彼はすぐに答えた。

 怒りではなく、焦りだった。


「今は少し感情的になっているだけだ」

「いいえ」

「ベアトリーチェ」

「違います」


 私は首を横に振った。


「今日、急に決めたことではありません」


 ロレンツォは言葉を失った。


「あなたが約束を破るたび、私は考えていました」

「……」

「今日こそは、違うかもしれない」

「……」

「次こそ、私を選んでくれるかもしれない」


 胸が痛んだ。嫌いになったわけではない。

 だから苦しい。


「好きでした」


 ロレンツォの目が大きく開かれる。


「誰よりも」

「ベアトリーチェ」

「平民だからと反対されても、騎士として名もない頃でも、私はあなたを誇りに思っていました」


 昔の記憶が浮かぶ。

 小さな花束、安い贈り物。未来を語り合った夜。

 全部、本物だった。

 だから、悲しかった。


「あなたは、私にずっと、甘えていたのです」

「違う」


 初めて、ロレンツォが強い声を出した。


「俺は、君を愛している」


 その言葉に、胸が揺れた。

 ずっと欲しかった言葉だった。

 でも、遅かった。


「愛している人に、毎回こんなことをしますか」

「それは……」

「ジュリア様のことを大切にする理由は分かります」


 私はジュリアを見る。

 彼女は、初めて笑顔ではなくなっていた。


「総長閣下の娘ですもの。無下にできないこともあるでしょう」


 これは、本心だった。

 だからこそ、長い間、耐えてきたのだ。


「ですが」


 私は再びロレンツォを見る。


「あなたは、彼女が現れてから、一度も私を選びませんでした」

「そんなことは」

「誕生日も」


 彼の肩が震える。


「婚約記念日も」


 視線が泳ぐ。


「今日の最初の曲も」


 彼は何も言えない。


「あなたはいつも、私に理解を求めました」


 昔なら、泣いていたと思う。

 今までは責めることなどできなかった。

 でも、もう涙は出なかった。


「君なら分かってくれる、君のためでもある。全部、そうでした」

「ベアトリーチェ……」

「あなたの未来のために、私はいつも我慢を続けていました」


 大広間は、完全に私達に注目していた。

 噂になるだろう。

 男爵令嬢が、平民出身の近衛騎士との婚約を破棄したと。

 でも、もう構わなかった。


「私は、未来のためだけに生きているわけではありません」

「……」

「今日、隣にいてほしかったのです」


 その一言で、ロレンツォは苦しそうな表情になった。

 ようやく、彼は理解したようだった。


「俺は……」


 声が震える。


「そんなつもりでは」

「知っています」


 だから、残酷だった。

 悪意があったなら、もっと早く諦められた。


「あなたは、いつも善かれと思ってやっていたのでしょう」


 それが、一番苦しかった。


「ベアトリーチェ様」


 その時、ジュリアが口を開いた。


「少し大げさではありませんこと?」


 周囲の空気が変わる。

 彼女はいつもの笑顔を取り戻していた。


「ロレンツォは将来のために努力していただけですわ」

「……」

「愛しているなら、支えるべきではありませんの?」


 私は彼女を見た。

 初めて、怒りを覚えた。

 この人は、何も分かっていない。


「ジュリア様」

「何かしら」

「あなたは、ロレンツォ様に、私との約束があると知っていて声をかけましたね」

「それは……」


 初めて、彼女が言葉に詰まる。


「断っても構わないと、いつもおっしゃいました」

「ええ」

「ですが、本当に断れると思っていましたか」

「私は……」

「いいえ」


 答えは、いらなかった。


「あなたは知っていました」


 侯爵令嬢として育った彼女が、分からないはずがない。

 父の部下が、自分の頼みを断りにくいことなど。

 最初から、私に恥をかかせるつもりだったのだ。


「それでも、あなたは何度も彼に声をかけた」

「それは、ちょっと面白かっただけで……」


 そこで、彼女は口を閉じた。

 周囲の貴族達の表情が変わる。

 遊びだったのだ。

 父親の部下の騎士と、その婚約者の時間など何も考えていない。

 ただ、自分が面白かったから。


「やめましょう、ジュリア様」


 ロレンツォが、静かに言った。

 ジュリアが驚く。


「ロレンツォ?」

「もう、結構です」

「何が?」

「あなたの負けです。そして、俺は、間違えました」


 彼は私を見る。

 その目には、後悔があった。

 でも、もう遅い。


「ベアトリーチェ」

「はい」

「もう一度、やり直せないか」


 私は微笑んだ。

 昔のように彼が好きだった笑顔で。

 だからこそ、彼は理解したのだろう。

 本当に終わったことを。


「いいえ」


 その一言で、彼の顔から希望が消えた。


「私は、ずっとあなたを待っていました」

「……」

「ですが、もう待ちません」


 それが、私達の最後の別れだった。



 後日、ロレンツォは望んだ昇進を手に入れた。

 しかし、昇進式での彼の表情に満足感は無い。

 ただ、寂しげな平民出の騎士がいるだけだった。

 ジュリア様も、もう身分の低い彼を相手にしていないという。


 もう、彼を支える気はない。

 私達の関係が二度と戻ることもない。

 私は、誰かの未来のために今日を捨てたりしない。

 自分を大切に生きていく。

 それが、私が選んだ道だった。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると幸いです。


お時間があれば、前作もお読み下さい。

離縁されましたが、義理の息子が「いかないで」と泣くので困っています

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