君のためでもあるんだ
十九歳の誕生日に、婚約者が来ないことは、もう覚悟していた。
だから、夕食の席に並んだ料理が冷めていくのを見ても、驚かなかった。
窓の外では、王都の夜景が輝いている。
今年は、ロレンツォが近衛騎士になって初めて迎える私の誕生日だった。
三年前、彼と婚約した日のことを思い出す。
まだ彼は、名もない若い騎士だった。
男爵令嬢の私と平民出身の彼、周囲は皆、反対した。
「もっとふさわしい相手がいる」
「将来のない平民出の騎士などやめておきなさい」
何度も言われた。
それでも、私が彼を選んだ。
彼はいつだって、私を一番にしてくれたから。
雨の日、馬車が遅れて帰れなくなった時、自分の外套を私にかけ、自分は濡れながら屋敷まで送ってくれた。
夜会で私が貴族達の噂話に疲れた時。
「無理して笑わなくていい」
そう言って、人の少ない庭へ連れ出してくれた。
私が風邪で寝込んだ時には、非番の時間を使って、何度も様子を見に来てくれた。
身分も、地位も、何も持っていなかった。
けれど、誰より優しい人だった。
だから、父に反対されても、後悔したことは一度もなかった。
彼が騎士として努力する姿を見ることが、私の誇りだったからだ。
そんな彼が変わったのは、一年前。
騎士団総長の一人娘、ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢と出会ってからだった。
最初は、私も気にしていなかった。
仕事の延長と考えれば、当然だと思っていた。
近衛騎士である以上、貴族達と関わる機会はある。
上役の総長の娘なら、なおさらだ。
だから、ロレンツォが言った時も、笑って送り出した。
「すまない。ジュリア様が、庭園の散歩をしたいそうなんだ」
「上役のお嬢様ですものね」
「ああ。総長閣下の大切な娘だ。粗相があっては困る」
その時は、本当にそう思った。
それが、私達の未来のためになるのだと。
ロレンツォが認められることが、嬉しかった。
けれど、一度だったことは、二度になった。
二度だったことは、十度になった。
約束していた観劇、新居に置く家具を選ぶ時、婚約三周年の日。
そのたびに、彼は困った顔をした。
「断れる相手じゃないんだ」
「分かっています」
「君は本当に優しいな」
そう言って、私の額に口づけた。
昔なら、その一つで幸せになれた。
その言葉を、信じることができた。
けれど、いつからだろう、彼の謝罪から、「次は必ず」という言葉が消えた。
彼が、私に申し訳ないと言うより先に。
「君なら分かってくれる」
と言うようになったのは。
コンコン。
扉を叩く音がした。思わず立ち上がる。
ロレンツォだと思った。遅くなっても、来てくれたのだと。
胸が少しだけ軽くなった。
「お嬢様」
入ってきたのは、侍女だった。
その手には、一通の手紙がある。
嫌な予感がした。
「……ロレンツォ様からです」
「そう」
受け取る指先が、少しだけ震える。
手紙を開くと、そこには、彼の癖のある字が並んでいた。
『ベアトリーチェ。誕生日に行けなくなった。本当にすまない』
そこまで読んで、少し目を細めた。
まだ、謝ってくれるのだと思った。
私の誕生日を大切に思ってくれているのだと。
けれど、次の一文から、その気持ちは消えた。
『ジュリア様が、今夜開かれる私的な夜会に参加されることになった』
『総長閣下も出席される』
『ここで失礼をすることは、今後の騎士人生に関わる』
『だから、これは俺達の未来のためでもあるんだ』
俺達の未来、何度も聞いた言葉だった。
初めて言われた時は、嬉しかった。
私との未来を考えて、努力してくれているのだと思った。
けれど今は、その言葉を聞くたびに、胸の中の何かが、少しずつ削られていく。
違う、違うのだ。
私は、彼に出世してほしくないわけではない。
総長に認められてほしくないわけでもない。
ただ、一年に一度の誕生日くらい、私を優先してくれてもいいではないか。
昔の彼なら、何を犠牲にしてでも来てくれた。
そう思ってしまう。
その考えが、間違っているのだろうか。
「お嬢様」
侍女が心配そうに私を見る。
慌てて、微笑んだ。
「大丈夫よ」
嘘だった。
大丈夫ではない。
けれど、泣いてしまったら、彼を信じて待っていた三年間まで、間違いだったような気がした。
だから、笑った。
「手紙を下げてもらえる?」
「……かしこまりました」
侍女は何か言いたそうだった。
けれど、何も言わず頭を下げた。
一人になった食堂で、私はロウソクの火を見つめた。
昔、ロレンツォは言った。
「来年も、その次も、ずっと一番に祝う」
その時の彼に、嘘はなかったと思う。
本当に、そう思っていたはずだ。
だから、苦しい。
嫌いになれたら、楽なのに。
最低な男なら、怒れたのに。
今でも、彼の優しかった頃を知っている。彼を愛している。
だから、もうやめたいという気持ちを、認めることが怖かった。
この恋を終わらせることは、ロレンツォを失うことではない。
三年間、彼を愛してきた自分を失うような気がしたから。
けれど、この夜、冷えた料理を前にして。
私の中で、確かに何かが変わり始めていた。
◇
翌朝、ロレンツォが屋敷へ来た。
いつもより早い時間だった。
父はまだ朝食前で、使用人達も廊下を行き来している。そんな時間に訪ねてくるのは珍しい。
私が応接室へ入ると、彼は立ち上がった。
「ベアトリーチェ」
その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。
眠っていないのか、目の下に薄く影がある。騎士服の襟も少し乱れていた。
昔なら、心配で駆け寄っていた。
今も、そうしたい気持ちはあった。
けれど、足は動かなかった。
「昨日は、本当にすまなかった」
ロレンツォは深く頭を下げた。
その姿を見ると、怒る気持ちが鈍る。
彼は悪い人ではない。
分かっている。だから、余計につらい。
「お忙しかったのでしょう」
「違う。いや、忙しかったのは事実だが……君の誕生日だったのに」
「手紙はいただきました」
「あんなものでは足りない」
彼は苦しそうに言った。
その一言で、少しだけ救われた気がした。
まだ、分かってくれているのだと、私を見てくれているのだと思った。
けれど、ロレンツォは続けた。
「ジュリア様は、昨日の夜会で総長閣下に私のことをよく話してくださったらしい。おかげで、次の昇進候補に名を入れていただけるかもしれない」
私は、自分の愛がさめるのを感じた。
「そうですか」
「ああ。だから、昨日は無駄ではなかった。君にも、きっと良い知らせが出来る」
無駄ではなかった。
私の誕生日に来なかったことが、冷めた料理を前に、ひとりで待っていた時間が。
彼にとっては、無駄ではなかった。
「ロレンツォ様」
「何だ?」
「昨日、私がどう過ごしていたか、聞いてくださらないのですか」
彼は一瞬、言葉に詰まった。
「……聞くまでもないだろう。寂しい思いをさせた。だから謝りに来たんだ」
「そうですね」
「ベアトリーチェ?」
私は笑顔を作った。作れたと思う。
「昇進候補、おめでとうございます」
ロレンツォはほっとしたような顔をした。
「ありがとう。君なら、そう言ってくれると思っていた」
その言葉が、昨日の手紙より私を傷つけた。
君なら、また、それだった。
私が、どう思ったか分かっていない。
彼が欲しい答えを、私なら返すと思っている。
「近いうちに、埋め合わせをする」
「いつですか」
「え?」
「いつ、埋め合わせをしてくださるのですか」
ロレンツォは少し考えた。
「来週はどうだ。王立劇場で新しい芝居が始まる」
「来週の何日ですか」
「金曜の夜にしよう」
「約束ですね」
「ああ、約束だ」
彼は迷いなく言った。
昔の彼と同じ声だった。
だから、私はまた信じてしまった。
愚かだと思う。けれど、好きだった。
まだ、その時は。
金曜の夜、私は淡い青のドレスを着た。
派手ではない。
けれど、ロレンツォが以前好きだと言ってくれた色だった。
鏡の前で髪に真珠の飾りをつけると、侍女が言った。
「よくお似合いです」
「ありがとう」
「今夜は、楽しい夜になるとよろしいですね」
「ええ」
そう言いながら、心のどこかで恐れていた。
また、何かが起きるのではないか、彼は来ないのではないか。
そんな不安を抱くこと自体が、もう苦しかった。
婚約者との約束を、楽しみより先に疑ってしまう。
それは、恋人同士として悲しいことだった。
馬車の音、窓の外を見る。ロレンツォだった。
ほっとして、胸が熱くなる。
やっぱり来てくれた、私を選んでくれた。
そんな、当たり前のことに喜んでしまう自分が情けなかった。
玄関広間で彼を迎えると、ロレンツォは少し照れたように笑った。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
「その色、昔から好きだ」
覚えていてくれた。
たったそれだけで、昨日までの寂しさが薄れていく。
だが、馬車に乗り込もうとした時だった。
屋敷の門前に、別の馬車が止まった。
白い車体に、デ・サンティス侯爵家の紋章。
嫌な予感がした。
馬車から降りてきたのは、ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢だった。
金色の髪を美しく結い、深緑のドレスを着ている。
彼女は私達を見ると、花のように笑った。
「あら、ロレンツォ。ちょうどよかったわ」
ロレンツォの肩がわずかに強張った。
「ジュリア様。なぜこちらへ」
「劇場へ行くのでしょう? お父様から聞きましたの。私も今夜、同じ劇場へ行く予定なのだけれど、護衛が急に来られなくなってしまって」
彼女は困ったように頬へ手を添えた。
「お願いできないかしら」
ロレンツォはすぐに答えなかった。
私を見るその目に、迷いがあった。
嫌だ、今夜だけは嫌だ。そう言いたかった。
けれど、ジュリア様は続けた。
「もちろん、無理にとは言わないわ。あなたには婚約者様との大切な予定があるのでしょう? 私のことは気にしないで」
その言い方は、優しかった。
けれど、本当に引く気などないことは分かった。
ロレンツォも分かっていたはずだ。
ここで断れば、彼女は笑って許すかもしれない。
しかし、その話は必ず騎士団総長の耳に入る。
彼はそう考えたのだろう。
「……ベアトリーチェ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が痛んだ。
言わないで、その先を言わないで。
「劇場なら、三人でも構わないだろうか」
息が止まりそうになった。
三人……私がどれだけ楽しみにしていたか、彼は知らないのだろうか。
いいえ、知っているはずだ。
だからこそ、埋め合わせだと言ったのだから。
「ロレンツォ様」
ジュリア様が笑う。
「婚約者様がお嫌なら、構いませんわ。私は一人で参りますから」
「そういうわけには」
「けれど、婚約者様のご機嫌を損ねるわけにはいきませんもの」
彼女は私を見る。
「ベアトリーチェ様は、お優しい方なのでしょう?」
それは、問いではなかった。
そう答えろと、私に促していた。
私は手袋のまま、強く拳を握りしめた。
怒れば、心の狭い女と言われる。
断れば、騎士の立場を分からない婚約者になる。
また、同じだ。
それを、また私に言わせようというのか。
「……構いません」
その瞬間、ロレンツォが安心した顔をする。
「ありがとう、ベアトリーチェ」
ジュリア様も笑った。
「よかったわ。では、ご一緒させていただきますね」
劇場で、ジュリア様はロレンツォの隣に座った。
私はジュリア様が用意していた離れた席にいた。
本来なら、隣にいるはずだったのに。
芝居の内容は、ほとんど覚えていない。
ジュリア様が小声で笑い、ロレンツォがそれに返事をする。
そのたびに、自分は邪魔者のように感じた。
途中、ジュリア様が私を気にして一度だけ、こちらを見た。
その顔に、申し訳なさはあった。
けれど、席を替わろうとはしなかった。
私の中で、何かがまた一つ消えた。
帰りの馬車で、ロレンツォは言った。
「今日はすまなかった」
「ええ」
「だが、ジュリア様を一人にするわけにはいかなかった」
「分かっています」
「君には嫌な思いをさせた。でも、これも」
その先を、聞きたくなかった。
「私達の未来のため、ですか」
ロレンツォは少し黙った。
「ああ」
私は窓の外を見た。王都の灯りが遠ざかる。
その中に、昔の私達が消えていくような気がした。
「ベアトリーチェ」
「はい」
「怒っているのか」
「怒っていいのですか」
彼は困った顔をした。
「そういう言い方は」
「怒ってもいいのなら、怒ります」
「……君らしくない」
その一言で、胸の中に残っていた気持ちが、また冷めた。
私らしさとは、何だろう。
何をされても笑うことだろうか、寂しくても、理解あるふりをすることだろうか。
彼にとっての私らしさは、いつからそんなものになったのだろう。
「ごめんなさい、疲れました」
「ああ、送るよ」
馬車が男爵家に着いた時、ロレンツォは私の手を取ろうとした。
私は一瞬だけ迷い、その手を避けた。
彼が驚いた顔をする。
「ベアトリーチェ?」
「おやすみなさいませ」
そう言って、馬車を降りた。
背中に彼の視線を感じたが、振り返らなかった。
振り返ったら、また許してしまう。
そう思ったから。
その夜、部屋に戻ると、髪飾りを外した。
真珠が手のひらで冷たく感じた。
昔、ロレンツォが褒めてくれたドレスの色、彼が選んでくれた髪飾り。
思い出は、変らない。
だから残酷だった。
嫌いになれないまま、愛だけが消えていく。
それがこんなに苦しいものだとは、知らなかった。
◇
王宮の大舞踏会の日は、雲ひとつない晴天だった。
窓から差し込む朝の光を見ながら、鏡の前に座る。
侍女が、丁寧に髪を結っていく。
「お嬢様、本日もお美しいです」
「ありがとう」
鏡に映る私は、いつもと変わらない。
白いドレス、胸元には、小さな真珠。
ロレンツォが、昔言ってくれた。
「君は、飾り立てるより、そのままの方が綺麗だ」
だから今日も、派手な宝石はつけなかった。
馬鹿だと思う。
こんな日になっても、まだ彼の言葉を大事にしている。
もう、何度も傷ついたのに。
それでも、ほんの少しだけ期待していた。
今日だけは違うのではないか、私を選んでくれるのではないか。
その期待が残っていることが、一番苦しかった。
午前中、ロレンツォから花束が届いた。
赤い薔薇だった。
手紙も添えられている。
『今夜だけは、必ず君との約束を守る』
短い手紙、けれど、その文字を何度も読んだ。
昔の彼なら、こういう約束は絶対に破らなかった。
だから、信じたいと思ってしまう。
何度も失望しているのに。
私はまだ、あの頃の彼を探している。
◇
夕刻、王宮の大広間は、華やかな衣装の貴族達で満ちていた。
楽団の演奏、笑い声、色とりどりのドレス。
その中を歩きながら、私はロレンツォを探す。
「ベアトリーチェ」
声をかけられる。
振り返ると、ロレンツォがいた。
近衛騎士の正装、初めて会った頃より、ずっと立派になった姿。
その姿を見るたびに、嬉しかった。
私が愛した人が、努力して夢を叶えていく。
それが誇らしかった。
――今までは。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
「待たせてしまったな」
「いいえ」
少しだけ、ぎこちない会話。
昔なら、こんな沈黙はなかった。
何を話しても楽しかった、一緒に笑えた。
それが、いつからこんなに心の距離が遠くなったのだろう。
「ベアトリーチェ」
「はい」
「今日は、必ず君と踊る」
彼は真剣な顔で言った。
「約束する」
その言葉に、胸が痛む。
何故だろう、昔なら嬉しかった。
でも今は、約束を守ることを、わざわざ宣言しなければならない関係になったのだと思った。
その時だった。
「ロレンツォ」
甘い声が響く。
聞き慣れてしまった声。
ジュリア・デ・サンティス侯爵令嬢だった。
金色の髪を美しく飾り、鮮やかな青のドレスを身にまとっている。
「ジュリア様」
ロレンツォの表情が固まる。
その顔を見るだけで分かった。
彼も分かっているのだ。
今、この場に来てほしくなかったことを。
でも、逃げない。
いつものように、受け入れるしかない。
「今日は素敵な夜ですわね」
「ええ」
「私、最初の曲をあなたと踊りたいの」
周囲の空気が変わった。
近くの貴族達が、興味深そうにこちらを見る。
婚約者との最初の曲。
それは、恋人同士にとって特別な意味を持つ。
誰でも知っている。
ジュリアが知らないはずがない。
「ジュリア様」
ロレンツォの声が、小さく響く。
「私は――」
一瞬、本当に一瞬だけ、彼は断ろうとした。
私は、それが分かってしまった。だから、余計につらかった。
彼は、何が正しいか知っている。
知っていて、いつも間違った方を選ぶ。
「もちろん、無理にとは申しません」
ジュリアは微笑んだ。
「お父様にも、あなたはいつもよくしてくださるとお話ししておりますの」
その言葉で、ロレンツォの視線が揺れる。
「あなたの将来が楽しみだ、と」
終わったと私は思った。彼は、断れない。
いいえ違う、選ぶのだ。
いつもと同じように私ではない方を。
「ベアトリーチェ」
彼が私を見る。
申し訳なさそうな困った顔。
昔なら、その顔を見るだけで許してしまった。
でも、もう分かっている。
彼が困っているのは、私を傷つけるからではない。
自分が嫌われたくないからだ。
「すまない」
「やめて」と心の中で呟く。その先だけは、言わないで。
「これも――」
彼は、言った。
「君のためでもあるんだ」
その瞬間、不思議なくらい、心が静かになった。
怒りでもなく、悲しみでもなく、長い長い夢から、目が覚めたようだった。
ああ、もう終わったのだ。
私が愛していたロレンツォは、もういない。
昔の彼なら、出世より、名誉より、私との約束を選んでくれた。
私は、その思い出だけを愛していた。
今、目の前にいる彼ではなく、思い出の中の人を。
「分かりました」
私が言うと、ロレンツォは安心したように笑った。
その笑顔を見て、最後の愛が終わった。
彼は、まだ気づいていない。
私が許したのではなく、諦めただけだということに。
「ありがとうございます、ベアトリーチェ様」
ジュリアが微笑む。
「本当にお優しいのですね」
「ええ」
私は苦笑した。
「私は、優しいのです」
二人が少し驚いた顔をした。
今までなら、言わなかった言葉だから。
思わず皮肉めいたことを口にしていた。
「だから、何度でも待ちました」
ロレンツォの表情が変わる。
「ベアトリーチェ?」
「あなたが忙しい時も、約束を忘れた時も、私より、彼女を優先した時全て」
大広間の音楽が始まる。
最初の曲。
もうすぐダンスが始まる。
「でも、今日で終わりです」
「何を言っている」
「ロレンツォ・マルティーニ様」
私は、彼の名を呼ぶ。
婚約者としてではなく、他人として。
「私との婚約を、解消してください」
初めてロレンツォの顔から血の気が引いた。
その時、大広間から、音楽が消えた気がした。
もちろん、楽団は演奏を続けている。
貴族達の笑い声もある。
けれど、私達の周囲だけ、時間が止まったようだった。
「……今、何と言った」
ロレンツォが、信じられないという顔で私を見る。
そんな顔を見るのは、初めてだった。
彼はずっと、私が離れるとは思っていなかった。
謝れば許され、理由を話せば理解する。
二人の未来のためだと言えば、笑って送り出してくれる。
そんな私しか、知らなかったのだ。
「婚約を解消してくださいと申し上げました」
「馬鹿なことを言うな」
彼はすぐに答えた。
怒りではなく、焦りだった。
「今は少し感情的になっているだけだ」
「いいえ」
「ベアトリーチェ」
「違います」
私は首を横に振った。
「今日、急に決めたことではありません」
ロレンツォは言葉を失った。
「あなたが約束を破るたび、私は考えていました」
「……」
「今日こそは、違うかもしれない」
「……」
「次こそ、私を選んでくれるかもしれない」
胸が痛んだ。嫌いになったわけではない。
だから苦しい。
「好きでした」
ロレンツォの目が大きく開かれる。
「誰よりも」
「ベアトリーチェ」
「平民だからと反対されても、騎士として名もない頃でも、私はあなたを誇りに思っていました」
昔の記憶が浮かぶ。
小さな花束、安い贈り物。未来を語り合った夜。
全部、本物だった。
だから、悲しかった。
「あなたは、私にずっと、甘えていたのです」
「違う」
初めて、ロレンツォが強い声を出した。
「俺は、君を愛している」
その言葉に、胸が揺れた。
ずっと欲しかった言葉だった。
でも、遅かった。
「愛している人に、毎回こんなことをしますか」
「それは……」
「ジュリア様のことを大切にする理由は分かります」
私はジュリアを見る。
彼女は、初めて笑顔ではなくなっていた。
「総長閣下の娘ですもの。無下にできないこともあるでしょう」
これは、本心だった。
だからこそ、長い間、耐えてきたのだ。
「ですが」
私は再びロレンツォを見る。
「あなたは、彼女が現れてから、一度も私を選びませんでした」
「そんなことは」
「誕生日も」
彼の肩が震える。
「婚約記念日も」
視線が泳ぐ。
「今日の最初の曲も」
彼は何も言えない。
「あなたはいつも、私に理解を求めました」
昔なら、泣いていたと思う。
今までは責めることなどできなかった。
でも、もう涙は出なかった。
「君なら分かってくれる、君のためでもある。全部、そうでした」
「ベアトリーチェ……」
「あなたの未来のために、私はいつも我慢を続けていました」
大広間は、完全に私達に注目していた。
噂になるだろう。
男爵令嬢が、平民出身の近衛騎士との婚約を破棄したと。
でも、もう構わなかった。
「私は、未来のためだけに生きているわけではありません」
「……」
「今日、隣にいてほしかったのです」
その一言で、ロレンツォは苦しそうな表情になった。
ようやく、彼は理解したようだった。
「俺は……」
声が震える。
「そんなつもりでは」
「知っています」
だから、残酷だった。
悪意があったなら、もっと早く諦められた。
「あなたは、いつも善かれと思ってやっていたのでしょう」
それが、一番苦しかった。
「ベアトリーチェ様」
その時、ジュリアが口を開いた。
「少し大げさではありませんこと?」
周囲の空気が変わる。
彼女はいつもの笑顔を取り戻していた。
「ロレンツォは将来のために努力していただけですわ」
「……」
「愛しているなら、支えるべきではありませんの?」
私は彼女を見た。
初めて、怒りを覚えた。
この人は、何も分かっていない。
「ジュリア様」
「何かしら」
「あなたは、ロレンツォ様に、私との約束があると知っていて声をかけましたね」
「それは……」
初めて、彼女が言葉に詰まる。
「断っても構わないと、いつもおっしゃいました」
「ええ」
「ですが、本当に断れると思っていましたか」
「私は……」
「いいえ」
答えは、いらなかった。
「あなたは知っていました」
侯爵令嬢として育った彼女が、分からないはずがない。
父の部下が、自分の頼みを断りにくいことなど。
最初から、私に恥をかかせるつもりだったのだ。
「それでも、あなたは何度も彼に声をかけた」
「それは、ちょっと面白かっただけで……」
そこで、彼女は口を閉じた。
周囲の貴族達の表情が変わる。
遊びだったのだ。
父親の部下の騎士と、その婚約者の時間など何も考えていない。
ただ、自分が面白かったから。
「やめましょう、ジュリア様」
ロレンツォが、静かに言った。
ジュリアが驚く。
「ロレンツォ?」
「もう、結構です」
「何が?」
「あなたの負けです。そして、俺は、間違えました」
彼は私を見る。
その目には、後悔があった。
でも、もう遅い。
「ベアトリーチェ」
「はい」
「もう一度、やり直せないか」
私は微笑んだ。
昔のように彼が好きだった笑顔で。
だからこそ、彼は理解したのだろう。
本当に終わったことを。
「いいえ」
その一言で、彼の顔から希望が消えた。
「私は、ずっとあなたを待っていました」
「……」
「ですが、もう待ちません」
それが、私達の最後の別れだった。
◇
後日、ロレンツォは望んだ昇進を手に入れた。
しかし、昇進式での彼の表情に満足感は無い。
ただ、寂しげな平民出の騎士がいるだけだった。
ジュリア様も、もう身分の低い彼を相手にしていないという。
もう、彼を支える気はない。
私達の関係が二度と戻ることもない。
私は、誰かの未来のために今日を捨てたりしない。
自分を大切に生きていく。
それが、私が選んだ道だった。
完。
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