全音・シ
掲載日:2026/05/24
一
高い音がする。
震えるのに、重ならない。
指先が滑って落ちた。
ピアノを弾く指先は、跳ねなかった。
並んだ音符は同じに見えた。
「あなた、やる気ある?」
大人はため息を吐いた。
項垂れたふりして首を小さく振る。
「ちゃんと、練習して来なさい。」
私は一礼する。
背中に刺すような視線があった。
二
その帰り道は、狭かった。
満月が、見えた。
楽譜の入った手提げが揺れる。
置いて行ってしまおうか。
けれど、母が過ってしまう。
母は耳が良かった。
それは、呪いだ。
「ただいま。」
その言葉すら、声にならない。
思い出せない音がある。
母は何も聞かない。
無言でオムライスを食べる。
スプーンを皿に置くと、音がした。
無くしたのは、もっと高い音だった。
三
深夜の灯りは、遠い。
黙っていた。
空が白むのを待った。
私は何も触らない。
知っていたから、指先が滑る。
ピアノに反射する私の視線が落ちる。
あの音を、忘れたわけじゃない。
きっと、こんな時間に弾いたら、怒られてしまう。
それが私を掻き立てた。
もう、いいよ。
小さな音は、私だった。
鍵盤の右端を、指先が決める。
震える小さな高音を、置いた。
それは、重なる前のようだった。
了
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