第4話:証拠固めと“狩り”の準備
最強の武器が届きました。
「820万円」の正式な鑑定書です。
これを手にした主人公は、もはや泣き寝入りする被害者ではありません。
冷徹な狩人です。
翌日、私の手元に一通のメールが届いた。
長年付き合いのあるアンティークドール専門店のオーナーであり、公的な鑑定資格を持つ榊原氏からの返信だ。
添付されていたPDFファイルを開き、私はそこに記された「数字」と「所見」を隅々まで読み込んだ。
――予想通り。いや、それ以上だ。
すぐに榊原氏と通話を繋ぐ。
『……玲奈さん。写真と動画、拝見しました。言葉もありません』
スピーカーから聞こえる榊原氏の声は沈痛だった。
『特に十九世紀末の「ロングフェイス・ジュモー」。通称“トリステ”。あれほどのコンディションの個体は、日本国内にも数えるほどしかなかったはずです。……顔面の破損が酷すぎる。磁器の焼き直しは不可能です。修復師に頼めば形だけは繋ぎ合わせられるかもしれませんが、あの憂いを帯びた表情――“魂”は、二度と戻りません』
「……ええ、分かっています」
分かってはいたが、専門家の口から「修復不可能」と断言されると、胸が焼けるように痛む。
だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
私は深呼吸をして、事務的なトーンで切り出した。
「榊原さん。作成していただいた損害査定書について確認させてください。この金額、裁判でも通用する客観的な数値と考えてよろしいですね?」
『もちろんです。直近の海外オークションの落札相場、および現在の円安レートを加味して算出しました』
榊原氏が提示した査定額は、以下の通りだった。
【損害賠償見積書】
1.エミール・ジュモー作:420万円
2.ブリュ・ジュン(サイズ5):285万円
3.その他、破損したドールおよびアンティーク衣装一式:115万円
合計請求額:820万円
『控えめに見積もってこれです。精神的苦痛に対する慰謝料を含めれば、一千万を超えてもおかしくない案件ですよ』
「ありがとうございます。この書類、正式な印鑑を押したものを至急郵送していただけますか? ……加害者への請求に使いますので」
電話を切った後、私は画面に映る「8200000」という数字を指でなぞった。
これが、真紀子が「数千円」と笑った代償の現実だ。
地方の建売住宅なら頭金どころか、半分は払えてしまう金額。
普通のサラリーマン家庭であれば、人生設計そのものが狂う数字。
「さて……獲物は揃えないとね」
私はスマホを手に取り、真紀子にメッセージを送った。
文面は極めて丁寧に、しかし断る余地を与えないように。
『四十九日の法要の翌日、実家の応接間で親族の集まりを行います。先日話した“人形の件”の最終的な示談について話し合いたいので、旦那様と、ご両親(義父様・義母様)も必ず同席させてください』
返信はすぐに来た。
『えー、まだそんなこと言ってんの? ほんとしつこいなぁ。夫くんも義両親も忙しいんだけど』
画面の向こうで、面倒くさそうに顔をしかめる真紀子の顔が目に浮かぶ。
私はすかさず追撃を送る。
『これが最後の話し合いよ。もしこの場で解決しない場合は、弁護士を通じて正式な法的手続きに入ることになります。そうなれば、旦那様の会社にも連絡が行くことになるかもしれないわ』
少し間が空いた。
「弁護士」「会社」という単語に反応したのだろうか。しばらくして、投げやりなスタンプと共に返信が届いた。
『わかったわよ! 連れていけばいいんでしょ、連れていけば。その代わり、それで文句言うの終わりにしてよね』
了承が取れた。
真紀子の夫は、気が弱いが世間体を気にするタイプだと聞いている。
そして義両親は、地元でも厳格で知られる旧家の人間だ。曲がったことが大嫌いで、嫁である真紀子には日頃から厳しく当たっているらしい。
そんな彼らの前に、この「820万円の請求書」と、真紀子の「育児放棄の事実」を突きつけたらどうなるか。
想像するだけで、背筋がゾクゾクするほどの高揚感を覚えた。
数日後、正式な鑑定書が届いた。
重厚な紙に、角印が押されたそれは、もはや紙切れではない。
彼女の生活を断ち切るための、鋭利な「ギロチンの刃」だ。
私はそれを分厚いクリアファイルに収め、当日を待った。
外では雷鳴が轟いている。
嵐が来る。
逃げ場のない、地獄のような話し合いの幕が上がる。
真紀子さんは「文句言うの終わりにしてよね」と言っていますが、終わりにするのは文句ではなく、彼女の自由気ままな生活の方です。
役者は揃いました。
義両親、夫、そして何も知らない真紀子。
次話、いよいよ「裁きの席」が開宴します。




