上
それは例年類を見ない大雨だった。
風が強く吹いていて、私の長い髪は上へ巻き上がった。この日、私は侍女と二人で街へ買い物に出掛けていた。
「すごい雨なんですけど!?」
「お嬢様、早く屋敷へ戻りましょう──このままでは風邪をひくどころか、身が危ないです!」
ゴミ箱が暴風によって、吹き飛ばされてくる。
「危なっ!」
足元が、スカートの裾がビショビショ。傘をさしているものの、この風では無意味にも等しかった。雨は斜めに降っている。
ともかく屋敷に戻ろうと私たちは必死に走った。
その途中だった。
ふと目に入った。
こんな大雨の中で傘もささないで、道の端っこで顔をうずてて体育座りして濡れている少年の姿が。
私の目に入ったのだ。
一瞬だけ、目が合った。
それは知らない瞳の色をしていて、
「ちょ、ちょっと待って!」
「……どうされましたか、お嬢様」
「この子、なんだか可哀想だよ──」
思わず立ち止まってしまった。別に魅了されたとか、一目惚れとか、そんな物ではない。幸せを全く知らない濁った目を見たあの瞬間、幼いながらに私は"可哀想"だと思ってしまったのだ。
貴族の中でも上澄みである『クローバー家』に生まれた私は、何不自由なくここまで過ごしてきた。だからこそ、なのだろう。
同年代に見える少年との格差。自分は大した努力をしていないのに、ここまで幸せに生活出来ているのに……この子は。
「な、なにを言ってるんですかお嬢様? 早く帰りましょう」
「いや、でも……」
不思議とそこから動けず、気が付けば彼に手を差し伸べていた。
「お嬢様っ!?」
「───大丈夫?」
少年は顔を上げた。
顔中が泥だらけ、短い黒髪もボサボサである。私は精一杯の笑顔で彼に微笑みかけた……つもりだったのだが、
『ぷい』と顔を横に振られてしまった。
「あ、あれ?」
「なんかお前、怪しい」
「えっ、ちょ、わ、私怪しいの?」
「お前知らない。優しいのおかしい」
「お嬢様! 何してるんですかっ!」
侍女の声が聞こえない振りをして、私は会話を続ける。
「ううん、私は普通だよ。怪しくなんてないよ!」
「……」
狼のような鋭い目つきだった。
「……帰る所はないの? ここに居ると濡れちゃうでしょ」
「ない」
「ない? お父さんとかお母さんは」
「俺を捨ててどっか行ったよ」
「……」
私とは住んでる世界が違い過ぎて、思わず絶句してしまった。果たして、どれだけ過酷な生活をしてきたことか。想像つかない。
「じゃあ、……良かったらうちに来ない?」
怪しいなんて言われている中でここまで強引に行くなんて、思えば更に『怪しさ』を増す行動だったかもしれない。
私は再び手を差し伸べる。
彼は黙って、少し何か考えたのか間を置いて、そして私の手を握った。
「私はミラ! 貴方の名前は?」
「……アルマ」
こうして。
私──ミラ・クローバーと、彼──アルマは出逢うのだった。
家に帰る頃には雨が止んでいた。
◇◇◇
侍女は彼を連れて行くことに反対していた。でも幼い頃の私の決意は固く、屋敷まで連れてきてしまった。
父や母は絶句。
でもなんとかして物置小屋にスペースを空けてもらい、アルマはこの屋敷──クローバー邸に住む事が出来るようになった。
私としてはこんな部屋しか用意できなくて申し訳なかったが、彼は
「ありがとう」
と、控えめだがそう言ってくれた。
この時にようやく初めて本音を伝えてくれた、そんな様な気がした。
そこからは怒涛の日々であった。
アルマの汚れた体を綺麗にする為に初お風呂に入れさせたら、シャンプーを食べ物だと勘違いしたり……、
アルマこ食べ方が汚いからと父が言って屋敷から追い出そうとしたので、私がつきっきりになってアルマに食事マナーを教えたり、
将来的には自立できる様に様々な技術を教えた。
勉強も一緒にした。
難しい事があれば二人で考えた。
解けた時は二人で喜んでハイタッチなどをした。
私たちはまるで姉弟のような関係で成長していった。
二人で助け合い、補い合い、成長していった。
いくつもの春夏秋冬が過ぎる。
いくつもの思い出が積み重なってゆく。
そうこうしているうちに、明日がやってくる。目まぐるしい毎日。
明後日はミラ・クローバーの誕生日。
私は18歳になる。
18歳というのは、この国における成人年齢でもあった。
◇◇◇
「ねぇミラ」
「ん、どしたの」
「ミラって欲しい物とかないの?」
「欲しい物……?」
屋敷のバルコニーで昼食を取っている時だった。珍しくアルマがそんな事を聞いてきた。
アルマは短い彼の黒髪を垂らしながら、首を傾げて私の顔を覗き込んでくる。
無邪気な犬みたいだった。
「欲しい物かあ」
「うん、なんかないの」
「でも急にどうして? もしかして、誕生日プレゼントを用意してくれるの?」
「…………な」
何故バレた、という感情を顔に出すアルマ。
いや自分で言うのはアレだけどさ、誕生日2日前だし、そんな考えに至るのは当たり前じゃ?
「ミラ……まさか読心術の使い手なの!?」
「いや違うでしょ。でも嬉しいなあ、アルマが私のプレゼントを考えてくれるなんてさ」
「だってミラには凄いお世話になってるし、せめて少しぐらいはお返ししないと」
「そんなの別にいいのに」
アルマはそれでも『いや、まずはお返し第一弾として誕生日プレゼントを渡す』と言った。
優しいイケメンに育ったものだ。
うん、彼がいつか結婚することになったら……相手に私がマウントを取ってやろう。
『このイケメン、なんと私が育てました』ってね。
「で、ミラは欲しい物ないの。なにか」
「アルマから貰った物だったらなんでも嬉しいよ!」
「それはダメ」
「えー……」
頭の中に欲しいものを思い浮かべる。
今はもう欲しいものがないぐらいに十分、幸せ者な私なのだが……。
そうだなあ。
「今回の誕生日パーティーで着る服が決まってないから、ドレスとか───」
あ、いや待て。
いくら欲しい物がないといえど、ドレスはダメだろう。だって高過ぎる。
アルマには到底手の届かない品物だ。
そんなものを要求するなんて、酷である。
「やっぱなんでもない……そうだね。街の散歩に似合いそうなワンピースとか欲しいな」
「…………」
「アルマ?」
アルマは私のことをじっと見つめたまま、黙りこくっていた。
何か考えている素振りを見せてから、
「分かったミラ」
と、答えた。
一体何が分かったのだろうか。ワンピースを買ってきてくれるのだろうか。ちょうどその時、侍女であるフェルトがバルコニーに入ってきた。
「失礼しますお嬢様、そしてアルマ。晴れた日に良く似合うサッパリとした特製の紅茶が手に入りましたが、淹れましょうか?」
「あー、じゃあお願いしようかな」
「俺は大丈夫です、今から出掛けてくるので」
「承知しました」
バルコニーの扉が開き、アルマとフェルトが出ていった。数秒後、扉は閉まる。
静寂が訪れた。
この屋敷──クローバー邸は3階建てで、さらにだだっ広い。そんな訳で私の部屋に近くにある3階のバルコニーも広いのだが、その魅了は高さではなく、景色だった。
屋敷の入り口とは正反対の方向を向くこのバルコニーの先に広がるのは、大自然と呼ぶに相応しい緑の世界。
「綺麗な世界……」
空は晴れていた。
唯一の懸念点を挙げるとすれば、ちょっと遠くに大きめの黒い雲が浮かんでいる事だった。
この調子だと、今夜には雨が降るかもしれない。
程なくしてフェルトが紅茶を運んできてくれた。見慣れているものの未だに持つのが怖いぐらい高級さが際立つ白のティーカップに、紅茶は入っていた。
「うん、美味しい。フェルトの淹れるお茶はなんでも美味しいけどさ」
「お褒めに預かり光栄です」
まぁ巷でバカ舌令嬢なんて揶揄されている私に褒められても、嬉しくはないだろうけど……。
美味しいと感じたのは本心だった。
◇◇◇
その日の夜は小雨だった。
月が落ち、日が昇る。朝、ベッドから起き上がり部屋のカーテンを開けたものの……、
「うーん、こりゃダメな天気」
外は決していい天気とは呼べなかった。
というか真っ白だった。一面が雲で覆われている完璧な曇り空。更に地面は昨晩雨が降ったせいで濡れていて、空気もベチャベチャして湿っている。
そんな最悪な気分で幕を開けた誕生日前日だったのだが、珍しく父がみなでご飯を食べようなんてことを言い出した。
明日には屋敷中、貴族たちを集めた盛大な『私のための』誕生日パーティーが開かれる。
そこまでしなくても……と思うのだが、成人する年という事で父は大騒ぎである。
それはともかく、それの前夜祭的なノリで──クローバー家の中だけでお食事会をしようと言い出した訳だ。
私は当初、アルマについて心配だったが……不服そうな顔をしながらも父は許してくれた。
「よ、よろしくお願いします」
「そんな堅くならなくていいんだよアルマ! 楽しんでご飯食べよ!」
「うん……」
屋敷にある中ぐらいのホールに、円形のテーブルを用意し、そこに並んで座ってゆく。アルマと私は隣同士だ。そして父と母、愛犬ハチ、祖父、祖母が座っていく。
因みにだが、アルマの席は私と隣同士だが、もっと詳しく言えば、私と愛犬ハチに挟まれた形になっていた。
「では我が愛娘ミラ・クローバーの成長を祝い、将来の幸せを祈願しよう。乾杯」
父の簡易的な乾杯の合図で、お食事会が始まった。侍女たちによって次々と運ばれてくる料理を私たちは美味しく頬張った。
特にコーンポタージュが格別だった。
今度は紅茶の代わりにコーンポタージュをバルコニーで飲むのもアリかもしれない。
「凄い美味しかったね、アルマ」
「うん、お父様もお母様もありがとうございます。……そうだミラ、ちょっと待ってて」
そう言って彼は椅子を引き、立ち上がった。
「もしかして?」
彼はニヤリと微笑む。
「そのもしかしてだよ。今から持ってくるから待ってて」
やばい。ドキドキが止まらない。
私はお父さんやお母さんから、幼き頃から甘く育てられたからプレゼントなんていっぱい貰ってきたクソガキなのだけれど……、今回は訳が違った。
思えばアルマどころか、同年代の異性からプレゼントを貰うなんて初めての経験───。
「あ、ちょっと待って。ポタージュが唇についちゃってるよ。取ってあげる」
「え?」
ふと唇にポタージュの黄色い汁が付いていることが気になってしまった私は立ち上がり、紙ナプキンで彼の唇を拭う。
……って、待って。
「ありがとう」
「あっ、うん」
すぐに自分で気がついたが、顔が近過ぎたかもしれない。近づき過ぎた。目の前でマジマジとアルマがコッチを見てきて、硬直してしまう。
側から見れば口付けしているような距離感だったかもしれない。
失敗。
というか恥ずかしい。
……恥ずかしい? なんで?
アルマは小さい頃から一緒にいて、姉弟みたいな関係なのに? この感情は一体どこから出てくるのか、不思議で仕方がなかった。
まあしょうがない。
だってアルマは美男子も美男子なのだから。いくら弟みたいなもんといえど、これだけカッコよくて育ってしまったら──少しはキュンとするもんだろう。
うんうん。
だから決してこれは───なんかじゃ……。
「……え?」
刹那である。その時だった。
ソレを見て私は思わず絶句してしまった。というか状況が飲み込めずにいて、空気が一瞬だけ凍りついて、音がなくなって、
そして、
「きゃぁぁああああぁあああ!?!? 化け物ぉおぉおおおお!?」
後ろから母の絶叫が聞こえた。
止まっていた状況が、理解不能の情報の数々が徐々に頭に流れ込んでくる。
「アルマ……? なにそれ」
アルマの黒髪の上には二本のツノが生えていた。それは決して人間には生えない部位であった。
◇◇◇
アルマの困惑する顔。
状況を飲み込めないアルマとは対照的に、ある意味状況を理解出来すぎている私たちは──混乱の嵐。
先程まで黙っていた母は狂喜乱舞して立ち上がる。
「化け物! やっぱり化け物だったのよっっっ!!! 人間のフリをして油断したところで殺そうとしてたのよきっと!!」
「おい、落ち着けっ」
父も焦り後退りしながら、母をなんとかなだめる。
「アンタもそんな化け物から離れなさい!! ソイツは魔物よ───っ!」
「え? え、ど、どういうこと?」
母がテーブルにあったフォークを握り、アルマに投げつけた。彼はそれを避ける事なく、軽々しく手でキャッチした。
勢いを落としてから、フォークを地面に落とす。超人じみた反射神経の証明にはならなくとも、しかしこの状況下においてそれは不味かった。
「やっぱり、コイツは化け物なのっ!!!」
母の怒号はさらに勢いを増して行く。
でも、その声は私には届かなかったし自分は唖然としているだけだった。
「……俺は化け物?」
ぽつんと、彼がつぶやく。
彼は私の顔を見た。いったい私がどんな表情をしていたのか、それは分からない。
でも───それを見たアルマは、昔を思い出す表情をしていた。
それだけ、ただそれだけが分かった。
「ベェイク、ソイツを倉庫に連れて行け」
「承知しました」
ベェイクはクローバー家が雇っている傭兵だ。高身長の坊主でガタイが良く、いかにも強いという『おっさん』。
「ほら行くぞ」
「…………はい」
父の命令によりベェイクは、その場で呆然とするアルマを連れて行ってしまった。
彼らがいなくなり、会場は静寂に包まれる。地面に落ちていたフォークを私は無言で拾う。窓に映る外では雨が降り始めていた。
「──あ、あんな化け物……すぐに殺すべきだわ! 私たちをずっと騙してきたんだもの、死んで当然よ!」
「…………」
母は長い髪をかきむしりながら言う。
無言の父は何を考えているのか。
でもそんなことより、私はまずアルマを追いかけなきゃ……。
最後の彼の表情が目に焼き付いて離れない。
「ミラ」
駆け出そうと踏み出した一歩目、父の言葉が私を止める。
「俺は許さないぞ。お前はクローバー家の将来を担う一人になるのだからな」
「……何も言ってないじゃん、わたし」
「フェルト。ミラがちゃんと自分の部屋に行くまで見張っておけ」
「承知しました、主人」
なんで……なんで急にこんな塩らしい態度になるの。いつだって一緒にいたじゃん。ツノが生えてるから魔物? だから危ない、殺す? もう仲良くしない?
そんなの変じゃん……。
フェルトは無表情のまま近付いてくる。
「行きましょう、お嬢様」
でも、一番彼を傷つけたのは私だったのかもしれない───……彼の一番近くにいた自分だからこそ、あの瞬間の自分の唖然とした表情に彼は絶望してしまったのかもしれない。
そうか、私がまず彼をうちに連れ出したのが発端なんだ。
───それ、なんて冗談なの。
俯いたまま、私はフェルトと一緒に自室に戻った。