ピックルボール
「瑠璃ごめんね」
初めて沙耶に負けた時、泣きじゃくる勝者を敗者の私が慰める訳の分からない状況だった。沙耶は大阪のスーパージュニアを予選から勝ち上がってきて優勝候補の私に本戦2回戦で勝つとそのまま優勝した。
いつかこんな日が来ることは分かっていた。あの日、テニスが大好きだって思い出した時、沙耶の才能を目の当たりにした。あの暑い夏の暑苦しいモジャモジャがよみがえる。
「今日はこれで遊ぼう!」
頭に何のために被っているかわかない小さいキャップを被ってノシノシと巨体を揺らしてコーチがコートに入ってきた。両腕と風船みたいなお腹に羽子板みたいなラケットとプラスチック製の穴の空いたボールを抱えている。
ラケットは特注品なのかモルトジャールの似顔絵が書いてある。
「なにそれ?モジャモジャラケットテニス?」
いつものように冷めた口調で私が呟くと、
部員の爆笑を尻目にコーチは説明を続ける
「コレはピックルボールと言うスポーツの器具だよ!遊んでみよう!」
ネットの向こうにポーンと何気なく羽子板みたいなラケットでボールを打つと、沙耶が長い手足を使ってフルスイングしてきた、バシッ!破裂音に似た音と共に強烈なスピードのボールが帰ってきた。
「おほほほ、ごめんあそばせ?」
沙耶がラケットで口を隠してお嬢様風にお辞儀してきた。
「なるほど、、、」
私の中で何かがカチッと言った。他の部員がドン引きするほどの戦いが繰り広げられ、フワッと浮いてきたボールを私は飛び上がりダイレクトでフルスイングした。沙耶のコートにボールが突き刺さる。
「っっっしゃ、オラ!」
思わずガッツポーズを作る。
沙耶はいきなりコートの隅にサーブを打ってきた、
「あっ!」
私が走ってギリギリ返球すると沙耶は逆の隅に強烈なドライブボール!
「くそーー!」
その後、要領のわかった沙耶は長い手足でロボットみたいに返してくるし、ちょっとでも甘いと例のドライブボールを打ってくる。
わかったわ沙耶、確かに貴女は凄いけど今日は負けないわ!テニスで培った経験を生かし私はネット際にドロップショットを打って、ボレーを決める作戦などで沙耶を揺さぶり、降参させた。
ピックルボールではネット前でのノーバンド返球は反則技だが、当時はそんなの関係ない。
「瑠璃どうだい?楽しいでしょ?難しいでしょ!」
モジャモジャールが満面の笑みで言ってくる。悔しいけど楽しかった、ガッツポーズなんて小学校からやってない。
消えてしまった情熱の炎が再び私を飲み込んだ、テニスがしたくてたまらなかった。
「このモジャモジャラケットが気に入らないわ、、沙耶!球出ししてくれない?ちょっと試したいことがあるの!」
ピックルラケットをコーチに返すと、自分のテニスラケットで素振りをした。
モルトジャールはボールを打つ私をしばらくみつめて、初めてアドバイスしてくれた。
のちにモルトジャールフォアハンドと呼ばれるショットは沙耶のピックルボールで打ったドライブボールを私が真似した所から始まる。
モルトジャールが世界最高のコーチ、WTAアワードの最優秀賞コーチ賞を受賞した時のスピーチで披露された有名な話だ。
私は世界で活躍する前に結婚して引退した。
世界のテニスシーンに私の名前が出てきたときは産まれたばかりの息子を抱きながら、嬉しくてスマホに録画したスピーチをなんども聞き直した。
「The coach」