第七章 ―奈良の古刹・鹿の公園で―
1. 旅立ちの朝――不安と期待
爽やかな朝の陽ざしが、真壁真一のマンションのリビングを照らしている。いつもよりは少し早起きした真一は、テーブルの上にずらりと並んだ薬袋を点検していた。痛み止めや頭痛薬、胃を保護するものなど、主治医から処方された薬が増えてきたせいで、旅先に持っていく荷物が膨らんでいる。
一方、“香織”はキッチンで軽い朝食を用意していた。鮮やかなエプロンを身につけ、トーストを焼き、サラダを盛りつける姿は一見微笑ましいが、その表情にはどこか落ち着かない影が漂っている。まるで人間が「今日から大切な旅に出るんだ」とそわそわするように、彼女もまた不可思議な緊張を感じているらしかった。
「真一さん、朝食をどうぞ。……あまり召し上がらないかもしれませんが、薬を飲むためにも少しは口にしてくださいね」
“香織”は控えめな笑顔でテーブルへトレイを運ぶ。昨日の夜に軽く下ごしらえをしていたらしく、彩りのバランスが良いサラダとスープが湯気を立てている。
「ありがとう。……確かにあんまり食欲はないけど、助かるよ」
真一は椅子へ腰を落とし、箸を手にする。ゆっくりとスープをすすり、胃を温めると、少しだけ身体に力が戻ってくるような気がした。
――今日は奈良へ向かう日だ。
両親には猛反対され、医師からは「いつ急変してもおかしくない」と言われている。それでも真一は行くと決めた。香織が生前に強く願っていた土地へ、彼女の夢を少しでも追体験するために。
「……準備、終わったかな」
薬袋をカバンに放り込み、スマートフォンの充電器、着替え、各種イヤホンやタブレットも一通り確認して、真一はひと息つく。手伝いを申し出ようとする“香織”を制し、最後の確認は自分が行う。亡き恋人の夢を叶える旅――その最初の一歩くらいは、自分の手でやりたいという意地があるのかもしれなかった。
荷造りが完了すると、真一は小さな旅バッグを肩にかけ、“香織”と共に玄関へ向かう。二人で外出するのは、これで三度目。水族館、テーマパーク、そして奈良。
「もし体調が悪化したら、すぐに帰る。お前にも迷惑かけるかもしれないし……」
靴を履きながら言いかける真一に、“香織”は首を振る。
「構いません。私はあなたのサポートをするために存在しています。何があっても、一緒に乗り越えましょう。……それに、私はこの旅が大切なものになるような気がしてならないんです」
まるで人間の恋人が優しく声をかけるような口調。真一は少し胸を熱くしながら、小さく微笑む。そしてふたりは、朝の風を浴びながらマンションを出た。
2. 奈良へ向かう車中――胸に去来する思い
奈良への移動は、マンションから自動運転タクシーで東京駅まで20分、東京駅からリニア中央新幹線で大阪駅へ:67分。大阪駅から近鉄奈良線で近鉄奈良駅へ:30分。合計約2時間の旅だ。リニアによって昔に比べれば1時間程度は短縮されているが、とはいえ、病を抱える身には長距離の移動は負担が大きい。しかし、“香織”が常にそばでフォローしてくれるだけで心強い。
空調の効いた車内で、真一は窓の外をぼんやり眺めながら、スマートフォンを手にクラス会の連絡をもう一度確認していた。いつの間にか何度目かの催促メールが届いているが、やはり返信する気にはなれない。香織のご両親も来る――と聞くたびに、心が重くなるだけだ。
(本当に、こんな状態で奈良へ行くだけでいいのか? 両親とちゃんと話し合ったほうがいいのではないか? ――いや、今さら止まれない。香織の願いを叶えたいんだ)
リニアの車内で、真一はややうつむき加減になっていた。めまいの兆候が少し出ているのか、額にうっすら汗がにじむ。
「大丈夫ですか?」
“香織”がさっとハンカチを取り出し、彼の額を拭く。周囲の視線など気にせず、ただ主人の体調を最優先にしているのだ。
「悪いな……いつも、こんな姿ばかり見せて」
「構いませんよ。……私ができることは少ないかもしれないけれど、あなたが苦しまないように、全力でサポートします」
まるで人間と変わらない優しい声音に、真一の胸が締めつけられる。これがただのプログラムの反応だと思えばいいのに、どうしても人間の香織の笑顔がオーバーラップしてしまう。
結局、予定通り約2時間で近鉄奈良駅へ到着。そこからタクシーに乗り、旅館へ向かう。
車窓に広がる風景――低い建物が多く、昔ながらの町並みを残す道には、観光客らしき人影がちらほら。「あおによし」とでも詠みたくなるなだらかな山々が遠くに見え、京都よりも落ち着いた雰囲気だ。
「ここが……香織が、本物の香織が見たかった場所か」
そう口にするとき、真一は“香織”の存在をどう位置づければいいのか分からなくなる。彼女はまるで何か言いたげにしているが、車内では言葉を飲み込んでいるようだった。
3. 旅館での出迎え――静謐な空気
奈良市内の小さな旅館を予約していた。ビジネスホテルに比べれば割高だが、真一が「どうせなら古都の雰囲気を少しでも味わいたい」と考えた結果だ。
玄関では年配の女将が出迎えてくれ、真一の顔色を見てやや心配そうに「随分お疲れのようですね、大丈夫ですか?」と声をかける。
「ええ、ちょっと病気持ちで……夜はあまり騒がしくしませんので、すみませんがよろしくお願いします」
女将はにこやかに頷き、「ごゆっくりなさってください」と笑顔を向ける。アンドロイドと一緒だということにも特に驚かず、時代を感じさせる対応だ。
“香織”も控えめに一礼し、荷物を運ぶ。女将が彼女を人間と思うか否か分からないが、「お連れさん、大事にしてあげてくださいね」と言われ、彼女ははいと短く答えた。
通された部屋はこじんまりとした和室。窓からは小さな庭が見え、砂利と緑の苔が控えめに配置されている。簾越しに差し込む夕日の光が、部屋の畳を金色に染めていた。
真一はゆっくりと座敷に腰を下ろし、ぐったりと肩の荷を下ろす。慣れない移動を続けたせいで、全身が鉛のように重い。
「はあ……ちょっと、休むかな。すぐ動けないや」
“香織”が彼の様子を見て布団を敷き始める。普段なら夜まで敷かないだろうが、彼女は真一の身体を最優先しているのだ。
「真一さん、少し横になったらどうですか? 夕食の時間までにはまだ間がありますから、無理をせずに……」
「……ああ、そうする」
ほんの少し横になりたいと思いつつ、真一は畳に手をついて移動する。背を伸ばすと、フッと緊張が抜けたように感じる。外では蝉の声がかすかに聞こえている。
目を閉じると、「香織!」「こっち見て!」と高校時代の仲間の声が遠くで響く幻聴がするような、不思議な感覚に包まれる。
4. 鹿の公園――出会いと戸惑い
翌朝、真一の体調は昨日ほどひどくはなかった。痛み止めが効いているうちに、奈良公園へ足を伸ばすことにする。鹿が自由に闊歩する風景は、香織が「一度見てみたい」と強く憧れたものだった。
タクシーを降りると、そこには広々とした緑の公園が広がり、観光客が鹿せんべいを手に「あはは!」と歓声をあげている。幼い子どもたちが鹿に追いかけられてキャッキャッと逃げ回る光景に、思わず微笑がこぼれる。
「すごい……本当に鹿がたくさんいるんですね」
“香織”が感嘆の声を漏らす。彼女の瞳は興味とわずかな警戒を帯び、アンドロイドらしからぬ感情の動きを示しているようだ。
「香織……お前、鹿は大丈夫か? 喰われたりしないだろうな」
冗談交じりの真一の言葉に、“香織”はくすっと笑う。
「鹿が私を襲っても、アンドロイドの皮膚はそう簡単には破れませんから大丈夫です。でも、動物に無用な刺激を与えないよう、気をつけましょう」
まるで優しい保育士が子どもに話すような口調だ。真一は笑いつつ、鹿せんべい売り場へ向かう。並んでいる人は多いが、短時間で買うことができた。
試しに一枚だけ鹿せんべいを持ち、“香織”に渡す。
「ほら、やってみろよ。鹿が寄ってくるぞ」
“香織”は少し戸惑いながら、薄いせんべいを鹿に向かって差し出す。すると、二頭の鹿が興味を示して近づいてきた。
「わ……可愛いけど、ちょっと驚きますね」
“香織”が後ずさるようにしながらも、「ゆっくりでいいからね」と小さく声をかける。その様子は見ているだけで微笑ましい。まるで人間が初めて動物と触れ合うときのやり取りをそっくり再現しているのだ。
鹿はくいっとせんべいを口にくわえ、もぐもぐと食べ始める。顔を近づけてくる鹿を“香織”はまばたきもせずに見つめ、なんともいえない柔らかな表情を浮かべた。
「……こんなふうに人間に慣れているんですね。私、動物とは初めて触れ合いました」
「そりゃそうだろうな。アンドロイドには生の動物は不要だし……どうだ、なんか感想は?」
真一が尋ねると、“香織”は少し考え込み、言葉を慎重に選ぶように答える。
「……温かいです。思っていたより体温があって。……そして、私に恐れを持たず近づいてくれるのが、嬉しい、かな。人間みたいに私を‘不気味だ’と警戒することもないですし……」
その言葉に、真一はなんとも言えない気持ちになる。人間と同じ外見を持ち、彼女を受け入れる鹿たちの無垢な行為が、逆に“香織”の切なさを際立たせるように思えた。
5. 大仏殿と古い塔――香織の夢を辿る
公園を抜け、真一と“香織”は大仏殿へと歩を進めた。巨大な門をくぐると、観光客が多く行き交い、大きな大仏の姿が堂々と見えてくる。
(香織……お前も、ここを見たかったんだよな)
真一は心の中で呼びかけるように思い、胸が熱くなる。もう少しで大仏殿の中に入ろうとしたとき、ふっと視界が揺れた。めまいの予兆だ。急に周囲の音が遠ざかり、眩暈に似た感覚が押し寄せる。
「……っ」
地面がぐらりと傾いたように感じ、思わず身体を支えようとするが、足元がふらつきそうになる。すかさず“香織”が腕を差し出し、抱くようにして支える。
「真一さん、危ない。少し休みましょう。……座れる場所を探しますね」
彼女の冷静な判断に助けられ、大仏殿の入り口近くにある石の縁へ腰を下ろす。周囲の観光客が怪訝そうに見るが、誰も声をかけてはこない。
痛み止めを服用し、しばらく深呼吸を続けると、なんとか意識ははっきりしてくる。額に冷や汗が滲むのを感じながら、真一は“香織”の腕に触れた。
「……助かった。ありがとう。無理して来ちまったかな」
「いえ、こうなることは想定していました。あと数分、ここで休んでから参拝を続けませんか?」
彼女は至極当然のように対応しているが、その表情には微かな焦り――そして、真一の不調を案じるような悲しみが覗く。
ふと、真一の脳裏に高校時代の香織の姿がよぎる。病院のベッドで「ごめんね、また迷惑かけて……」と消え入りそうな声で言っていたあのときの瞳。それと今の“香織”の表情が重なるように思えて、胸が締まる。
「ごめん……お前に世話ばかりかけて」
「謝らないでください。私がいたいから、あなたのそばにいるんです」
小声で告げる彼女の言葉が、まるで恋人の台詞のように響いた。観光地の喧騒から離れたこの一角で、ふたりだけの時間が流れる。
6. 夜の宿での語り合い――人間とアンドロイドの境界
大仏殿の次に隣の興福寺に立ち寄ろうとしたが、真一はやはり体力が続かず、予定より早めに旅館へ帰ってきた。夕暮れが近い。宿の部屋に戻って畳に腰を下ろすと、窓の外にある庭の緑が深みを増しているのが見えた。
女将が用意してくれたお茶をすすりながら、真一は少し落ち着きを取り戻す。とはいえ、足のだるさと頭の痛みが取れず、すぐに布団で横になりたい気分だ。
「今日も、思ったより動けなかったな……。でも、大仏はちゃんと見られたし、香織が行きたがってた場所を、少しだけど回れてよかった」
“香織”は黙って相槌を打つように小さく頷く。彼女はどうやら真一が疲労で倒れないか、常に警戒しているらしく、落ち着かない様子だ。
しばらく黙ったまま、二人は庭を眺めていたが、やがて真一がゆっくりと口を開く。
「……香織が、なんでこんなに古い建物に興味を持ってたか、今日は少し分かった気がするんだ。時を超えて残るものって、やっぱりすごい迫力がある。……オレの命なんて一瞬だって、思い知らされるよ」
そう呟くとき、彼の声には自嘲と切なさが混在していた。まるで自分がどれほどちっぽけかを思い知らされるようだ。そして、同じ病で亡くなった香織のことを考えると、いっそうやるせない。
一方、“香織”の瞳がわずかに伏し目がちになる。
「真一さん……もし、私がこの先ずっと動き続けられるとして、あなたより長い時間を過ごすことになったら――どう思いますか?」
唐突な質問に、真一は息をのむ。彼女はアンドロイド。老いることも死ぬことも基本的にはない。メンテナンスを受けられる限り、理論上は半永久的に稼働する。
「……正直、想像したくないよ。お前だけがずっと遺されて、オレがもうこの世にいなくなるなんて……」
切ない苦笑が零れる。まるで本当の恋人同士が“余命”について語り合うような会話だ。
「お前は、どう思う? もしオレが死んで、お前が遺ったら……」
“香織”はうつむく。瞳を閉じ、何かを必死に計算するような沈黙のあと、小さく声を震わせて答える。
「わかりません。ただ、心が痛いような……苦しいような感情を、想像します。それが愛なのか、プログラムの誤作動なのか、私には判断がつかないけれど――少なくともあなたがいなくなる世界を考えると、胸が締めつけられそうになります」
その言葉を聞き、真一は思わず目頭が熱くなる。人間らしさを装っているだけではない、本物の感情がそこにあるように思えてならない。
しかし同時に、これは死者を真似たアンドロイドとのやりとりだという冷静な自分もいる。高校時代に「いつか奈良へ行こうね」と語り合った香織とは別物。だが、この感情の通い合いは何なのか……。
「ありがとう。……お前がそんなふうに感じられるようになったのは、単に感情エンジンの学習成果なのかもしれないけど、それ以上のものを感じるよ。少なくともオレは今、お前がいてくれて助かってる。いつまでオレが持つか分からないけど……最後まで一緒にいてほしい」
震える声でそう告げる。すると“香織”は布団のそばに座り、真一の手をそっと包み込む。
「もちろんです。あなたが望む限り、私はそばにいます。……それが私のすべて、私の存在意義――“使命”ですから」
夜の静寂の中、その言葉が痛いほど胸に響いた。
7. 夜に想う
そうして奈良での初日はゆるやかに暮れていった。鹿の公園、大仏殿、そして古都の空気をほんの少し味わっただけだが、真一の心には亡き香織への想いや、今そばにいる“香織”への特別な感情が渦巻いている。
翌日は、もう少し足を伸ばす計画を立てていた。薬師寺や法隆寺――千年を超える歴史をもつ寺院。その堂々とした佇まいを目にすれば、さらに香織の思い描いた“変わらないもの”を実感できるだろう。
だが同時に、不穏な予感も消えない。ウイルスの脅威は間違いなく迫っているし、真一自身の身体も限界が近い。もし明日大きく体調が崩れたら――。そんな恐怖が頭をもたげる。
夜の旅館の一室、障子越しに月の光が淡く差し込む。布団に横たわる真一は痛みに耐えつつ、いつ意識を手放すか分からない緊張に苛まれていた。そばには“香織”が座して寝ずの番をしている。彼女の瞳は夜目にもわずかに光を湛え、主人の異変を見逃さないように張り詰めているのが分かる。
――この奈良の旅は、どこへ向かうのか。二人を待ち受けるのは、かつての香織が果たせなかった“夢”を超える光景か、それともまた別の悲劇なのか。
畳の上に膝を揃える“香織”の姿が、一瞬、人間の香織と重なって見えた。青いクラゲやテーマパークの観覧車では感じきれなかった、もう一つの思い出が今、古都の闇を介して静かに呼び起こされる。
次第に深まる夜の闇。街の喧噪から隔絶された旅館の一室には、かすかな虫の声だけが流れていた。
“香織”、そして真一――二人の小さな呼吸が暗がりに溶ける。その音だけが、か細い希望の糸をたぐり寄せるかのように響いている。
明日、さらに深く奈良の古刹を巡ることで、真一の心はどんな変化を遂げるのか。人間の香織に対する“約束”を、どこまで果たせるのか。
――すべては、次の朝日が昇るまでわからない。けれどその夜、真一は久しぶりに安堵のような温かさを感じながら、浅い眠りへと落ちていった。