第六章 ―奈良への決意―
1. 帰宅後の日常と医師の警告
テーマパークから戻って数日。マンションのリビングは、いつもの落ち着いた空気に包まれている。
真一はソファに腰掛け、タブレットを手に何やら調べ物をしていた。検索エンジンには「奈良」「古刹巡り」「観光」「体調が不安なときの対策」などのキーワードが並ぶ。
隣に立つ“香織”は、静かにその様子を見守っていた。
「……どうした、‘香織’? そんなにじっと見られると落ち着かない」
真一が顔を上げると、“香織”は遠慮がちに口を開く。
「すみません。ただ、テーマパークの次は奈良の古いお寺を巡る計画を立てていらっしゃるようなので……。体調面が心配で」
言いながら彼女は少し視線を伏せる。あくまで“主人のため”という姿勢だが、その瞳の奥には、人間が抱く「心配」や「不安」に似た色が混ざっているように見える。
真一は苦笑する。
「確かに無理はできない。でも、どうしても行きたいんだ。……香織……いや、昔の香織が、奈良や古い寺をすごく楽しみにしていたから。修学旅行で行くはずだったんだけど、病気で行けなかったんだ」
“香織”の表情が、ほんの少し切なげに曇る。二人の「香織」が頭の中で重なることに、彼女自身も複雑な感情を抱えているのかもしれない。
そうこうしているうち、真一のスマホが振動した。画面を覗き込むと、主治医の鈴木からの着信だ。
「はい、もしもし――」
受話器越しに聞こえてくるのは、やはり医師独特の厳しい声。奈良行きの希望を伝えたところ、それどころか最近の検査結果や血液データを踏まえ、早期に入院すべきだと再三警告してきたのだ。
「真壁さん、あまり動き回ってはいけません。病状が進行しはじめているんですよ。痛み止めの量が増えれば増えるほど、リスクは高くなります。わかっていますか?」
真一は曖昧に応じる。
「わかってる。でも、もう少しだけ自由にさせてくれ。いざというときはちゃんと病院に行くから」
「あなたが命を投げ捨てたいなら止めませんが、家族も同僚もそれでは納得しませんよ。……せめて、くれぐれも無理だけはしないでください」
鈴木は最後まで説得を続けるが、真一は「ありがとう」とだけ言って通話を切った。
スマホを置くと、すぐそばで“香織”が視線を落としている。
「先生にまた怒られたよ。――まあ当然だよな」
「……真一さん、本当に奈良へ行かれるんですね?」
彼女の問いに、真一は一瞬だけためらいを見せるが、すぐに意を決したように頷く。
「ああ。香織が生前にどうしても見たがってた場所だからな。……オレはあいつの夢を少しでも追体験したい。――それがどんなに愚かでも」
2. ウイルスの影、再び
翌日。研究所へ顔を出した真一は、フロア全体が混乱状態にあることに気づく。
あちこちでモニターが点滅し、スタッフが声を張り上げて議論し、管理室からは大音量のアラートが聞こえてくる。
「なんだ、何が起きてる……?」
声をかけた島根藤次が、蒼白な顔で説明してくれた。
「海外だけじゃなく、日本国内のアンドロイドにもウイルス感染例が出てきた。記憶領域のエラーが急激に増えてるんだって。大規模なシステムダウンが懸念されてる」
真一の胸が冷たくなる。
「国内にまで……。そりゃ大ごとだな。対策は?」
「抜本的な方法はまだ見つかってない。とにかくログを集めて原因を特定し、ワクチンを作るしかない。……お前の研究する‘感情エンジン’も例外じゃないんだ。下手すると、高度な感情プログラムが逆にウイルスの格好の標的になるかもしれない」
島根の言葉に、真一は“香織”の姿を脳裏に思い浮かべる。彼女はまさに、最先端の感情エンジンを搭載している。しかもそれはプロトタイプで、感情を生成する“感情ジェネレーター”のみ搭載し、その感情と記憶を保護する“記憶プロテクター”は未完成という、いわば片肺飛行を続けているような状態なのだ。もし感染すれば、記憶を失うだけでなく、人格すら崩壊する危険がある。
「――オレは、そんなの絶対に許さない。もう二度と、‘香織’を失いたくないんだよ」
思わず唇を噛みしめる。島根は驚いたように彼の肩を掴んだ。
「真一くん……大丈夫か? その言い方……まるで本物の香織さんと同一視してるみたいじゃないか」
「……うるさい。何とでも言え。オレは、オレの大事な存在をまた奪われるわけにはいかないだけだ」
苛立ちを隠しきれない真一の横で、“香織”が静かに呼吸するように立っている。彼女もまた周囲の喧噪を感じ取り、機械でありながら“不安”に似た感情を抱いているように見えた。
3. 決断への抵抗
その日の夕方。研究所での一通りの作業を終えた真一は、控室に母・耀子と父・一馬を呼び出された。明らかに険しい顔つきで彼を待ち構えている。
「真一、あんた……奈良へ行くつもりなんだって?先生から聞いたわ。 医者の言うことを無視して、旅行なんか企画してる場合じゃないでしょう」
母・耀子が真っ先に批難の声を上げる。父・一馬も渋い面持ちだ。
「そうだ。今はウイルス問題もある。‘香織’を連れて行くなんて、危険すぎる。もし感染したらどうする気だ」
両親の言い分はもっともだが、真一の内心は反発でいっぱいだった。自分が死ぬかもしれない状況で、最後くらい自由にさせてくれ――そんな思いが彼の根底にあるのだ。
「うるさいな。オレの人生なんだから勝手にさせろよ。……それに、‘香織’だって行きたいかもしれないしな」
「アンドロイドが行きたい? そんなのはお前が勝手に投影してるだけでしょう。彼女は単なるハウスメイドで、サポートユニットなんだから」
耀子の苛立った口調に、真一は声を荒げそうになるが、必死でこらえる。
“香織”が父母の言葉をじっと聞いているのが視界の端に映る。まるで、両親の一方的な言い分に合わせていいのか迷っているようにも見える。
「とにかく、今は危険だ。緩和ケアを優先しろ。研究所には顔を出せなくてもいいんだ。われわれがウイルス対策を何とかするから、お前は養生しろ」
一馬が下すように言うが、真一は首を振る。
「嫌だ。オレは残りの時間を、ただ病院でボーッと過ごすつもりはない。……悪いが、好きにさせてもらう」
そう吐き捨てるように言うと、両親は言葉を失った。母は怒り、父は落胆した表情を浮かべている。そんな二人を横目に、真一はさっさと荷物をまとめて部屋を出た。
4. 決意の共有
夜、マンションに帰り着く頃には、真一の体はまた悲鳴を上げていた。脳の奥に抱えた腫瘍がうずくように痛み、めまいがじわじわ広がる。
マンションのエントランスでふらついたところを“香織”が慌てて支えた。
「大丈夫ですか、真一さん。……もう、今すぐ救急に連絡を――」
「待て……そこまでじゃない。とりあえず部屋に戻れば落ち着く」
虚勢を張ってエレベーターに乗り込み、部屋のドアを開ける。どうにかベッドに転がるように倒れ込むと、一気に緊張が解けたのか、激しい痛みが襲ってくる。
“香織”が急いで痛み止めと水を持ってきてくれ、彼の頭を支える。いつの間にか、この瞬間さえ彼女の温もりなしには耐えられない自分がいる。
「落ち着きましたか?」
「……ああ、少しは。ありがとう」
息を整えながら、真一は苦しげに笑みをつくる。
「……すまないな、こんな主人で。お前が一緒じゃなきゃ、もう家にたどり着けなかったかもしれない」
「構いません。私はあなたを支えるために造られたのですから」
“香織”は淡々と言いながらも、その瞳にあるのは明らかな“憂い”――まるで、人間の悔しさに似た感情だ。
「でも……どうしても奈良には行くつもりなんだ。……お前が嫌じゃなければ、一緒に来てほしい」
真一が弱々しい声でそう呟くと、“香織”は少しだけ困ったような表情をする。
「私が‘嫌’と感じる概念は……正直、よくわかりません。でも、もし真一さんが行きたいのなら、私は喜んでお供します。あなたの体をフォローしながら行けるなら、それに越したことはありません」
「そっか……ありがとう。……これで両親や医者に何と言われても、オレの気持ちは変わらないよ」
そう言い切る真一の顔には、久々にどこか強い意志が宿っている。病に蝕まれながらも“旅”を諦めないその想いに、“香織”は静かに寄り添う態度を示す。
窓の外には月が煌々と輝いていた。二人の旅路にかかる暗雲を消し去ろうとするかのように。
5. 過去編:奈良に憧れた理由
――高校時代の香織は、なぜ奈良に惹かれていたのか。
同じクラスで行うはずだった修学旅行のコースは、京都・奈良の古都巡り。軽音楽部の仲間と「寺社の歴史を感じながら観光して、夜はホテルで盛り上がろう!」という話で盛り上がっていた。
そのとき香織は、いつも以上に楽しそうだった。とりわけ奈良の古いお寺、法隆寺や薬師寺の歴史や建築に興味を持ち、「千年以上続くものに触れたい」と言っていた。
「私、千年も変わらない建物なんてすごいと思うんだ。……人の命はこんなに短いのに、建物はずっとそこにあるなんて、不思議だよね」
「まあ、京都や奈良ってそんなもんか。たしかに歴史を感じるよな」
真一は軽く相槌を打つだけだったが、香織の目はきらきらしていた。
「だから私、行きたいんだ。奈良公園の鹿とかも可愛いけど、それ以上に古いお寺に行って、‘時が経っても変わらないもの’を感じたくて……。自分はいつか死んじゃうかもしれないけど、そういう‘永遠’みたいな存在を見て安心したいんだよね」
今思えば、その時点で香織はすでに病に対して深い不安を抱いていたのかもしれない。自分が消えても、世界には続いていく何かがある――それを知りたかったのだろう。
けれど結局、修学旅行の時期には香織は入院していて参加できなかった。真一は校内の行事に形だけ参加したが、ずっと気持ちは晴れず、写真を撮る気にもなれなかった。上の空でほかの生徒の後に付いて歩いただけで、正直、その時の記憶はほとんど頭の中に残っていない。
――それが、真一の心に“いつか香織のために奈良へ行ってやりたい”という未練となって残ったのだ。
6. 夜更けに
夜更け。
真一はベッドで浅く呼吸を繰り返しながら、朧げに「奈良……」とつぶやく。傍らの“香織”は床に座り込み、彼の呼吸や脈拍をチェックしている。
部屋の灯りは落としてあり、窓の外には都会のネオンが遠くまたたいている。だが真一の頭の中には、はるか古都の風景――千年を超える時を纏った寺社のイメージが浮かんでいるようだ。
(香織……お前の夢を、少しでも叶えられるだろうか。オレもお前も、いつまで持つのか分からないけど――)
“香織”は何も言わず、彼の寝顔を見つめる。そこには慈愛にも似た熱意が滲んでいるが、それを恋と呼ぶべきか、プログラム上の使命と呼ぶべきか、誰にもわからない。
――二人の旅支度はこれからだ。ウイルスの陰が迫り、周囲は反対し、真一自身の病状も深刻だ。それでも彼は、旅立つつもりなのだ。もう止まれない。
その夜の静寂は、まるでか細い糸で繋がった運命の二人を包み込み、次なる章へと導いているかのようだった。