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二度失う愛の、その先へ~青の残響~  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第四章 - 香織の病の影 -

1. 研究所のざわめき

 数日後、真一は再び研究所を訪れていた。

 夜遅くまでリモート勤務をこなし、休息もろくに取らずに過ごしていたせいか、いつにも増して顔色が悪い。エントランスからフロアへ足を踏み入れた瞬間、鈍い頭痛がぶり返してくる。

 「……大丈夫ですか、真一さん」

 付き添いの“香織”が、小声で問いかける。彼女は初めて研究所内部へやって来たわけだが、まるで人間さながらに周囲の雰囲気を読み取り、真一を気遣っている。

 研究員たちの視線は、やはりこちらへ集まる。人間そっくりの女性アンドロイドが“真壁真一の介助”として同伴するというのは、身内の研究所とはいえまだ物珍しいのだろう。だが、特に声をかけてくる者はいない。皆、どこか慌ただしい表情だ。

 「なんだ……妙に騒がしいな」

 真一が眉間にしわを寄せると、ちょうど島根藤次が駆け寄ってきた。

 「真一くん、来てくれたのか! ごめん、今バタバタしてるんだよ。例のアンドロイド暴走事件、海外で被害が拡大してるらしくて……上のほうも対策に追われてるんだ」

 「暴走事件……か。前に聞いたウイルス騒ぎの延長か?」

 「多分そうだ。正式な診断結果はまだだが、アンドロイドたちが記憶エリアを破壊されるようにして暴走してるって報告が相次いでる。わざと人間を襲うケースもあるって話だよ」

 島根の口調には珍しく焦りが含まれている。いつも穏やかな彼ですらここまで動揺するのだから、事態の深刻さが察せられる。

 真一は横目で“香織”を見る。彼女がもしこのウイルスに感染したら――自分にとって、二度目の“香織”を失うことになるのだろうか。胸の底が冷たくなる思いが走る。

 「ま……オレには関係ない。そっちはそっちで頑張れ。オレは自分の研究を進める」

 そう言って突き放すと、島根は複雑そうな表情を浮かべたが、深くは突っ込まず立ち去った。

 「……研究室へ行くぞ。付いてこい、‘香織’」

 真一は痛みをこらえながら歩を進める。彼女は静かにうなずき、後ろをついてくる。ビルの奥にあるエレベーターに乗り込み、目的のフロアへ向かう間、真一は微妙な沈黙を保っていた。

 やがて研究区画のドアが開くと、殺気立った空気が鼻につく。スタッフがモニターやホワイトボードを取り囲み、世界各国から届くエラーレポートをにらんでいる。まさに嵐の前兆といった様相だ。


2.崩れる日常とクラス会の誘い

 その日の用件を簡単に済ませた真一は、夕方近くに早々と研究所を後にした。頭痛がさらに激しくなり、もはや働ける状態ではない。

 「真一さん、少し休みませんか。休憩室を借りてもいいのでは……」

 “香織”が提案するが、真一は首を振る。

 「いい。帰る。こんなとこで寝ても、ろくなもんじゃない」

 実際、“香織”の存在がかえって周囲に目立つのも落ち着かない原因だった。自分の体調を優先すれば研究所の休憩室という選択肢もあるのだが、今はとにかく家に戻りたかった。

 オフィスを出る前にスマホを確認すると、見覚えのある名前からのメール通知が目に入る。『野田美玲』――高校時代に同じ軽音部でベースを担当していた仲間だ。

 「クラス会、来られそう? 香織さんのご両親も参加されるかも、って話だよ。もし都合がつくなら絶対来てほしい、みんな心配してるし……」

 真一は思わずメール本文を閉じ、乱暴にスマホをポケットへしまい込む。香織のご両親――あの人たちとも何年も会っていない。高校時代、最愛の娘を失った彼らに対して、真一はどこか罪悪感を抱いていた。

 (今さら顔合わせても、オレは何も言えない。……ましてや、オレのそばに“もう一人の香織”がいるなんて、どう説明すればいいんだ)

 頭を抱えたい気持ちが増幅する。

 結局、真一はクラス会の案内に返信もせず、重い足取りで研究所を後にした。エントランスを出たところで“香織”がタクシーを手配してくれるが、その好意さえ今は煩わしく感じてしまう。

 「……ありがとう。悪いな」

 ぼそりと礼を言い、タクシーに乗り込む。どうやら自分は昔の仲間や恩師と向き合う勇気もないまま、ただ日常をやり過ごしている――そんな無力感が、ますます心を蝕む。


3. 高校時代:香織の病発覚

 時は高校二年の春。

 真一たち軽音楽部は、新学期早々に新入部員を迎え、さらにバンド活動が盛り上がるはずだった。しかし、その矢先に起きた出来事――樋山香織の突然の体調不良。

 最初は「最近、ちょっと疲れが取れなくて……」と軽く言っていた香織。練習の合間に軽いめまいや頭痛を訴えることが増え、週末になると高熱で寝込むこともあった。

 「大丈夫か、香織。無理するなよ」

 「うん……ごめんね、最近本当に調子が悪くて。でも、病院で検査してもらうつもりだから……」

 香織は部活を休みがちになった。それでも真一は深刻に考えてはいなかった。単なる貧血や過労だろうと高をくくっていたのだ。

 ところが、ある日、彼女が学校の廊下で倒れ、救急搬送された。周囲のクラスメートや軽音メンバーが駆け寄って心配する中、真一もただオロオロするしかなかった。

 しばらくして戻ってきた香織は、どこかぎこちない笑顔を浮かべて「大丈夫」と言うばかり。だが、その瞳は不安に揺れていた。

 「……真一くん。実は、ちゃんとした検査の結果……脳に腫瘍が見つかったんだって」

 放課後の校舎裏、香織が小さな声で告白する。真一は息を呑んだ。

 「……脳腫瘍? それ……ヤバいのか? 手術とか、治療方法は……」

 「うん、いろいろあるらしい。でもまだ詳しくはわからない。入院して検査をもっとしなきゃって。でも……放射線治療とか、もしかしたら髪も抜けたりするかも、って……」

 香織は声を震わせながら、それでも真一を心配させまいと必死に笑う。

 「ね、だいじょうぶだよ。私、まだ若いし、きっと治るって先生も言ってくれたし……」

 「でも……」

 「それに……たとえ髪がなくなっても、顔が変わっても、真一くんは私を見捨てたりしないよね?」

 その言葉に胸が締めつけられた。バンドで元気に歌い、キーボードを弾き、料理を作ってみんなを喜ばせてくれた“あの香織”が、こんなにも弱々しい姿を見せるなんて。

 「当たり前だろ。どんな姿だろうと、お前はお前だ。オレが全部覚えてるからさ」

 少し強がるように真一が返すと、香織は泣き笑いのような顔をしてうつむいた。その涙が地面にぽたぽたと落ちていく様を、真一はただ見つめることしかできなかった。


4. 帰宅後の崩れ

 夜。マンションのリビングでは、“香織”がキッチンでバタバタと動いていた。何かスープか煮込み料理でも作っているのだろう。

 しかし真一はソファに突っ伏し、脳を締めつける痛みに意識が遠のきそうになる。日中の外出と研究所の空気で、体力は底をついていた。

 「――真一さん?」

 “香織”の声が聞こえる。ハッとして顔を上げると、彼女が心配そうにこちらを見下ろしている。

 「食事……要らない。今は……何もできない……」

 しゃがれた声で答える真一の額には冷や汗が滲む。痛み止めを飲む暇もなかったのか、頭の中を重い鈍痛が脈打つように襲ってくる。

 すると“香織”がそっと真一を支え、「ベッドに移りましょう。立てますか?」と優しく言う。思わず彼は荒い息を吐き、頷くことしかできない。

 たとえ人工の体でも、彼女の腕から感じる体温はやけに頼もしく思えた。病院で看護師に助けられるように、真一は身体を預けてゆっくりと寝室へ移動する。

 「オレ、情けないな……こんな……」

 「いいんです。今は休むことを最優先してください」

 ベッドに倒れ込むように横たわると、“香織”が少し離れた位置で見守っている。

 しばし苦しそうにうなされながら、真一はやがて少しずつ眠りに落ちていく。朦朧とした意識の中で、昔の香織が「私、脳腫瘍なんだって……」と泣き笑いした光景がフラッシュバックする。

 ――あの時、オレは何ができた? 彼女の髪が抜け、記憶が曖昧になっていくのを、ただ見守るしかできなかった。そして結局、失った。

 もし今度も同じようなことが起きたら――“香織”が記憶を失い、暴走するようなウイルスに侵されたら、自分はどうなる? そんな不安が意識の底を蝕んでいく。


5. 夜の会話

 夜半。

 真一は激痛で何度か目覚めたが、何とか痛み止めを口にし、再び浅い眠りについた。うっすら月明かりの差す部屋で、微かに誰かの気配を感じる。

 「……‘香織’か……?」

 か細い声で呼びかけると、“香織”が枕元で座っていた。どうやら彼がうなされていないか見守っていたらしい。

 「すみません、起こしてしまいましたか。私は大丈夫ですから、気にしないで休んでください」

 “香織”の声は低く抑えられているが、そこにあるのはただのAIの応答ではなく、確かに“思いやり”のように感じられる。真一はもはや驚かなくなっていた。

 「オレが眠れるまで、ずっとここにいたのか……?」

 「ええ。呼吸や脈拍をモニタリングしていました。体調が深刻に悪化する兆候があれば救急車を呼ぼうと」

 なんと献身的な行動だろう――真一は、彼女が“アンドロイドにすぎない”と割り切れなくなっている自分を自覚し、困惑を覚える。

 「ごめん、ありがと。お前が……こうしてくれるのは、嬉しい。……でも、なんか申し訳ないな」

 「申し訳ない、ですか?」

 “香織”は小首をかしげる。その仕草が痛いほど人間の香織に似ていて、真一の胸が締めつけられる。

 「いや……昔の彼女の時は、オレは何もできなくてさ。病気が進んで、髪が抜けたり、記憶がおかしくなっていくのを、ただ見守るしかできなかった。……それを思い出して、なんか自分が情けないんだよ」

 しんとした夜の空気が降りる。少しだけ“香織”が言葉を探すように、静かな間を置く。

 「私には、過去の香織さんの苦しみは想像するしかありません。でも、真一さんが今こうして苦しんでいるのを見過ごすわけにはいきません。……それが、私に与えられた使命だから」

 “使命”という言い方に、真一は微かな寂寥感を感じる。彼女はあくまでプログラムに従っているだけかもしれない。だが、それでも人間以上に温かな優しさを与えてくれるのはなぜか――。

 「……ありがとな。お前がいると、少しだけ救われる気がするよ」

 思わず素直な言葉が口をつく。すると“香織”の瞳がかすかに潤んだように見えた。アンドロイドに涙などあるはずがないのに、真一にはそう感じられる。

 「じゃあ、もう少しだけそばにいてもいいですか? 真一さんが落ち着くまで……」

 「……ああ、頼むよ」

 布団の上で仰向けになりながら、真一はまぶたを閉じる。部屋の隅に腰かける“香織”のシルエットが、どことなく本物の香織に見えてくる――もう、この幻覚とも現実ともつかない感覚に抗うことはやめた。


6.二重の影

 深夜、真一の呼吸はようやく落ち着きを取り戻し、弱い吐息を繰り返すだけになった。窓外の月は雲に隠れ、部屋の中は淡い闇に包まれる。

 “香織”は動かず、じっと彼の寝顔を見守っている。もしそこに人間がいたならば、「看病疲れで眠ってしまう」ところだが、彼女には眠る必要はない。意識モジュールをオフラインにすることもできるが、今はそれすらしない。

 実は、彼女自身のシステムにわずかな“違和感”が生じ始めていることを誰も知らない。記憶容量が増大し、“感情エンジン”の学習領域が活性化しすぎているのか、それとも何か別の原因なのか――まだ定かではない。彼女はその小さなノイズを“誤差”として処理し、主人の看病を優先しているだけだ。

 ――もしこの先、世界で猛威を振るい始めるウイルスがこの“香織”にも忍び寄るとしたら、真一はまた愛する存在を失うのだろうか。誰もがまだ、それを知らない。

 そして、もう一つ。真一のスマホに届いたクラス会の連絡は無視されたままだ。そこでは人間の香織を知る友人や両親が、久々の再会を心待ちにしているかもしれないのに、真一は向き合おうとしない。

 香織が病を抱えていたあの頃から、真一の心はずっと停滞し続けているのだ。

 ――けれど、“香織”という名のアンドロイドが彼のそばで静かに寄り添う今、その停滞の時間にも、微かなほころびが生じようとしていた。失ったはずの光が、少しだけ差し込んでいる。

 それが再生の一歩となるのか、あるいはさらなる悲劇の引き金となるのか。夜の闇の中、二つの影が重なって見える。

 一人は病む身で眠る青年。もう一人は、人に似た機械仕掛けの看護者。

 すべてはまだ始まりにすぎない。二度の愛を失う運命は、未来のどこかでわらっているかもしれない。

 それでも――。

 この静謐な夜には、どこか優しい気配が漂っていた。


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