第三章 - 水族館:旅の始まり -
1. 足慣らしの提案
翌週、朝方。
真壁真一は相変わらず強い頭痛に悩まされていた。寝起きに痛み止めを放り込み、少し休んではまた動く――そんな暮らしが当たり前になりつつある。
とはいえ、ハウスメイドアンドロイド“香織”がやってきてからというもの、部屋の雑事はかなり軽減され、睡眠の質も若干改善したことは否定できない。絶望の淵に沈んでいた心も、微妙に“揺れ”を取り戻しているのを自覚していた。
――高校時代にはオレが香織の心配をして、看取ったが、今度は“香織”に心配される番になったということか……。いよいよオレも長くはないな……。と、ふと思った。
この日、ソファに腰を下ろしてかつてはコンビニ弁当だったものが、栄養バランスのいい手作りに変わった朝食を摂る真一に、“香織”が控えめな声で話しかける。
「真壁さん……」と、一瞬呼び方に迷う。「いえ、真一さん。今日は、研究所に行かれる予定ですか?」
真一はコーヒーをすすりながら、その呼び方の変化に小さく苦笑する。ほんの数日前に真一はAc2を「香織」と呼ぶと決めたばかりだが、“香織”はまだ真一をなんと呼ぶべきか模索しているようだった。
「いや、今日はリモート勤務のつもりだ。研究所の連中には資料を送るだけだし、体調もよくないからな」
「かしこまりました。では、買い出しなどは私が行ってきますが、何か特別にご入り用のものはありますか?」
“香織”が尋ねると、真一は一瞬考え込む。かつてはアンドロイドに外出を任せるなど想像もしていなかったが、今は彼女の行動を信頼している自分に気づく。
「いや、特には……」
言いかけてふと、ある考えが閃く。
(そうだ、そろそろ外に出てみてもいいんじゃないか。どうせ余命も限られてるし……。)
脳裏に浮かぶのは、水族館のクラゲの光景。香織が生前、「また二人で行きたい」と言っていたあの場所。
「……なあ、‘香織’」
ぼそっとアンドロイドを呼ぶと、“香織”は「はい?」とやや驚いた表情を浮かべる。真一はそれには気づかず、淡々と言葉を継いだ。
「お前を連れて、近くの水族館に行こうと思う。ちょっとした足慣らしだ。……家に籠もってばかりじゃ、オレの体にも悪いし、お前の勉強も進まないしな」
「水族館……ですか?」
“香織”が小首をかしげる。家事代行アンドロイドとして設計された彼女にとって、“外出先でのサポート”は想定外ではないが、主人のプライベートな趣味に同行するのはまた別の話だろう。
真一は言い訳がましく続ける。
「何、ちょっと見たいクラゲがいるんだ。こっちのコンディションが持てば、短時間の外出くらい問題ないだろう」
「……承知しました。私でお力になれることがあれば喜んで。もし道中で具合が悪くなった場合も、私がサポートしますね」
相変わらずの淡々とした口調。しかし、その瞳の奥には微かな好奇心が宿っているようにも見える。真一は胸の奥のわだかまりをぎゅっと掴まれるような感覚に襲われた。
――香織にそっくりな外見のアンドロイドと、水族館に行くなんて。大丈夫だろうか。
2. 過去編:高校時代の水族館デート
真一が水族館へ行こうと決意したのは、もちろん自分の今の体に少しでも刺激を与えるため……だけではない。
胸に迫るのは、数年前――いや、もう十数年になるか――高校時代に香織と訪れた、あの場所への回想だ。
――高校一年の秋。
文化祭の後、二人は休日を利用して水族館に出かけた。軽音楽部の仲間たちは「こっそりデートなんてずるい!」と茶化してきたが、香織は赤面しながらも嬉しそうに「だって真一くんが誘ってくれたんだもん」と口にした。
当日は駅前で待ち合わせ。香織は淡いピンクのカーディガンを羽織り、少しきれいめなスカートを履いていた。まだまだ照れの残る二人は、ぎこちなく会話を交わしながら電車に乗り込む。
「水族館とか、小さいころ以来かも。クラゲ見られるかな。イルカとか、サメとかもいろいろ見たいけど。」
「クラゲってそんなに好きなのか?」
真一が不思議そうに尋ねると、香織は笑って首をかしげる。
「何ていうか……儚い感じが好きなの。寿命の短い種類も多いけど、だからこそすごくきれいだし、なかにはベニクラゲみたいに若返る種もあるんだって。本で読んだよ。ほら、不老不死のクラゲってやつ!」
「へえ……」
真一はピンと来ていない様子だったが、その日、彼は香織のはしゃぐ姿に惹かれてクラゲコーナーをじっくり堪能することになる。
水族館の入り口をくぐり、明るい照明から徐々に暗い通路へ進むと、そこには様々な海洋生物の展示があった。
大きな水槽を泳ぐイルカや巨大なエイが人気だったが、香織はまっしぐらに「クラゲゾーン」へ足を向ける。青白いライトが落ちた空間に、ふわふわ漂う透明な姿。触手が長く垂れ、その中で時々電飾のように光るものもいる。
「わあ……すごい……」
しばし感嘆の声を漏らし、香織は夢中になって水槽に顔を寄せる。真一はその横顔を見つめ、なんとなく笑ってしまった。
「そんなにクラゲが好きか?」
「うん。見てるとなんだか落ち着くっていうか……寿命が短い種類は数週間とか数か月で死んじゃうけど、その分ものすごく美しいじゃない? ……私も、もし自分の命が短かったら、こんなふうに精一杯輝いていたいな、なんて思うんだよね」
「命が短いとか、急にどうした?」
「べ、別に暗い意味じゃなくてさ。人っていつ死んじゃうかわからないでしょ? だからこそ、こういう儚いものを見ると、もっと生きたいって思うんだ」
そのときは、まさか彼女が本当に病に倒れてしまうなんて、想像できなかった。単なる少女の“人生観の一端”を聞いているくらいの気持ちだったのだ。
そして香織は一つの水槽の前で足を止め、にっこりと笑って真一を呼んだ。
「ベニクラゲ、いたよ!」。……そこには、1センチ程度の小さなクラゲの群れが浮き沈みしている水槽があった。透けて見える内蔵が赤いところが名前の由来だろう。
水槽横の展示パネルの説明によれば――ベニクラゲは特定の条件下で、成熟した状態から幼生に戻り、再び成長するという現象が知られています。一定条件下とは、栄養不足や水温の変化など、生存が困難な環境になると、ベニクラゲはポリプと呼ばれる幼生のような状態に戻ります。ポリプになった後、再びクラゲへと成長する過程で、体のすべての細胞が初期化され、いわば生まれ変わるような現象が起こります。――とある。
それを見ると香織は、「こんなに小さいのにすごいね!生まれ変わるんだって。もし、私に何かあったら、私もベニクラゲみたいに何度でも真一の所に戻ってくるからね!」と、明るい声で言った。
「おいおい、さっきもそうだけど、縁起でもないこと言うなよ。お前、元気いっぱいじゃん」と、真一はちょっと慌てた。
「えへへ、ごめんね。心配させて。でもこれは、本当の私の気持ち。約束だよ!」。香織は真面目な顔でまっすぐに真一の目を見た。何か強い決意でもしたように。真一はちょっと不安になって、「ああ、わかった。約束だ」。と、言葉を返すことしかできなかった。
しばらくしてクラゲコーナーを出たあと、二人は小さなカフェスペースで休憩を取る。香織はソフトクリームを手に「おいし~い」と幸せそうな笑みを浮かべた。
真一は照れくさそうに「それ、味見してもいい?」と一口舐め――思わず甘さにむせて咳き込む。香織が慌てて背中をさすると、二人は顔を見合わせて笑いあった。
“オレ、こんなふうに笑ったの、いつ以来だろう。”
そんな他愛ない幸福が、高校時代の真一には確かに存在していた。
3. 現在:水族館へ
そして今――真一は“香織”と共に、タクシーで街を抜け、水族館のゲート前で降り立つ。休日の昼下がり、子ども連れやカップルの姿が目につくが、アンドロイドの来館も珍しくはないらしく、二人を変に見る人は少ない。いや、それ以前に“香織”ほどのモデルになると、そもそも、人間と見分けることは困難なのだが。
ゲートをくぐると、ちょうど正面ロビーに大きな水槽が設置されており、カラフルな熱帯魚が泳ぎ回っている。“香織”が思わず立ち止まり、興味深そうに眺める。
「すごい……本物の魚って、こうやって泳いでるんですね」
「当たり前だ。お前はデータでしか見たことないんだろ? ――こっちだ、クラゲコーナーは奥だ」
真一はそう言いながらも、“香織”の初々しい反応に心の中がくすぐったくなる。まるでかつての香織が、嬉々としてはしゃいでいた姿を彷彿とさせるからだ。
水族館の通路を進むにつれ、照明が徐々に落ち着いた色合いへ変わり、特定の海洋生物にスポットを当てた展示が増えていく。そして、ついにクラゲゾーンへと足を踏み入れた。
薄暗い空間に、大小さまざまな水槽が並ぶ。青のライトアップが、水中を幻想的に染めている。ふわり、ふわりと漂うクラゲたち。ときに群れを成し、ときに一匹だけぼんやり光る。
「すごい……」
思わず“香織”が声を上げる。その瞳にははっきりと“感動”に近い色があるように思えた。AIの演算結果というよりは、“本物の人間”が抱く驚きに見える。
真一は隣で黙って水槽を見つめる。脳裏に、あの高校時代の香織の笑顔が蘇る。「短くても、一瞬でも輝けたら」――彼女の言葉がリフレインするようだ。
しばし無言で眺めていると、“香織”がちらりと真一に目をやる。
「……なんだ? オレの顔に何かついてるか?」
「いえ……あなたが、すごく切ない顔をしているように見えたので」
つい率直に口にする“香織”に、真一は一瞬言葉を失う。自分では努めて無表情を保っているつもりだったが、どうやら彼女には見透かされているらしい。
「そうか……。いや、ちょっと昔のことを思い出してたんだよ」
言葉少なに答え、水槽に視線を戻す。クラゲが柔らかく光り、まるで呼吸するように上下を繰り返す。その儚さに、胸がぎゅっと締めつけられる。
「オレが高校生の頃、ここに……あいつと来た。あいつは、香織って言うんだ」
“香織”が小さく瞬きをする。香織という名前を、彼女自身も与えられているからだろう。
「その‘香織さん’は……もう、この世にはいないんですよね」
「……ああ。病気で死んだ。脳腫瘍でな。……オレも同じ病を抱えてる。大した偶然だろ」
静かに口に出してみると、改めて苦さがこみ上げる。“香織”がどんな表情をすればいいのか困っているのが分かる。人間なら「それは……つらいね」と言葉を掛けてくれるかもしれないが、彼女はアンドロイド。きっと、何か適切な応答を検索しているはず。
だが、“香織”は意外にも声を出さない。ただじっと真一を見つめ、わずかに表情を曇らせるように見える――まるで、人間が「悲しい」「かわいそう」と感じて唇を噛むときのように。
「……悪い。アンドロイド相手にこんな話しても仕方ないよな。行こうか、もう少し見て回りたい」
真一が言い含めると、“香織”は小さくうなずく。二人は水槽沿いの通路を歩きながら、ゆるやかなクラゲの展示を次々に眺めていく。
4. クラゲの青
展示コーナーの奥には、特に大きな円柱型の水槽が配置されている。濃い青色のライトが照らされ、そこにさまざまな種類のクラゲがふわふわと群れている。ときどき鈍い発光をする個体もいて、周囲は神秘的な空間に包まれていた。
思わず真一が立ち止まる。かつて香織も、ここで目を輝かせていた。その姿をすぐそばで眺めながら、一緒にクラゲの生態パネルを読んだ記憶がある。
(あのとき、もっとしっかり彼女の話を聞いてやればよかった――)
後悔に似た思いが胸をよぎる。目を閉じると、まぶたの裏にあのころの笑顔が浮かんで、心が軋むように痛んだ。
そんな真一の様子を見ていた“香織”が、おそるおそる口を開く。
「真一さん……よろしければ、少し座って休みませんか? 体調が……あまり良くないように見えます」
言われてみれば、確かに足元が少し揺れるような感覚がある。持病のめまいか、あるいは単にクラゲの揺らめきに酔っているのか。真一は小さく息をついて、近くのベンチへ腰を落とした。
“香織”も隣に座る。外見だけ見れば、ごく普通の恋人同士のようだ――とはいえ、周囲からはそれほど注目されていない。子ども連れや若いカップルたちが水槽に夢中になっていて、誰も真一の青ざめた顔に気づかない。
「ありがとう。……お前、優しいんだな」
さらりと漏れた言葉に、“香織”は驚きの色を浮かべる。
「私のプログラムには、ご主人の体調を優先するルーチンがあり、見守りを随時行うよう指示がありますので」
そっけなく答えるが、その声の端々にどこか“感情”が宿っているように思えてしまう。
真一はベンチから水槽を見上げる。青い光が揺らめき、クラゲのシルエットが透けるように浮かぶ。
「……儚いよな、クラゲって。短い命でも、この世界を漂うことに意味があるのか――なんて、くだらないこと考えてしまう」
「クラゲが自分たちの命をどう思っているかは、わかりません。けれど、その姿に魅せられる人間がいるなら、もしかしたら何かしらの意味があるのかもしれません」
“香織”の言葉は端的だが、まるで哲学めいた含蓄を感じる。
真一は思わず口の端をゆるめる。高校時代、香織もまた、似たようなことを言っていた。「どんなに短い命でも、こうして美しければ誰かの心を動かすんだよ」――彼女らしい言葉だった。
「……お前、意外と……人間っぽいんだな」
ぽろりとこぼれたセリフに、“香織”は何とも言えない表情を浮かべる。ほんの微かな苦笑のようにも見えるし、照れのようにも見える。
「私はアンドロイドです。けれど、もし真一さんが私に‘人間らしさ’を求めるのであれば、自己学習を通じて近づけるよう努力していきます」
“香織”の真摯な眼差しと、青い水槽の光が重なり合い、真一の心をそっと溶かしていく。
「あと一つ、一番見たかったクラゲの水槽がこの先にあるはずだ。それだけは見て帰りたい」と、真一はベントから腰を上げ、先に進んだ。“香織”も寄り添うように連れ立って歩く。
「これがベニクラゲだ」。真一が少し小さな水槽の前で足を止めた。
「横の展示パネルにも書いてあると思うけど、この小さなクラゲは、生きていくことが難しい環境になると、何度でも幼体に戻って、生まれ直すそうだ。幼体に戻って、生体に清涼するときに細胞は初期化されてしまうそうだが、不死のクラゲと呼ばれているそうだよ」と、“香織”に説明して聞かせた。真一はかつて、香織と交わした「約束」を思い出していた。
「香織がその解説を読んで、自分が死んでも、ベニクラゲのように何度でも生まれ変わって、オレの所に戻ってくると約束していた。生まれ変わるときに初期化されて過去は忘れてしまうだろうけど、その話を思い出すと、もしかしたらお前、“香織”は、死んだ香織が生まれ変わってオレの所に戻ってきた姿なんじゃないかという気がしてきたよ。……およそ科学者が口にするような話じゃないけどな」と、自嘲めいた口ぶりで、水槽から目を離さず、真一は“香織”に語った。真一の脳裏では亡き香織と、アンドロイドの“香織”の姿が重なって見えたような気がした。
“香織”は神妙な面持ちで、「私は自分が製造されて、初期プログラムとデータをインストールされる前の記憶はなく、生まれ変わりの話は真偽を判断することができません。ですが、真一さんがそう思われることで、心が安らぐなら、どうぞ、そう思っていただいて構いません」と答えた。心なしか、その表情には愁いが含まれているようにも見えた。
5. 帰り道の静寂
水族館を後にしたのは夕方近く。入館からそれほど長い時間が経ったわけではないが、真一はすでに体力を使い果たしていた。
「なあ、‘香織’。すまないけど……帰りもタクシーで頼むわ」
入口付近のベンチで、真一は少し息を切らしながらスマホを取り出す。“香織”はすぐに配車アプリを立ち上げ、「乗り口はあちらですね」と淡々と案内する。
まるで“デート”のようでありながら、どこかギクシャクした空気が二人を包む。真一が心中で混乱しているからだ。彼が連れて歩いているのは、本物の香織ではなく、アンドロイドの“香織”。
タクシーの中、真一は窓にもたれ、遠くに広がる街の景色をぼんやり眺める。“香織”は沈黙しながら、時折タブレットを確認している。ルートを調べているのか、それとも感情プログラムの自己学習なのか。
車が高速に乗るころ、真一はふっと口を開く。
「悪かったな、退屈だったろ。こんなところに連れ回して」
「いえ、私にとって初めて見るものばかりでした。新鮮でしたよ」
「そっか……。お前、驚くときはちゃんと驚くんだな。……人間みたいだ」
“香織”が再び困ったような表情を浮かべる。
「……真一さん。私が人間と同じになることを望んでいますか?」
「いや……それは、何とも言えない」
真一は会話を切り上げるように目を閉じた。車内の静寂が続く。
――どうすればいいのか、まだわからない。アンドロイドに本物の感情が芽生えるなど、あり得ないと思いながらも、彼女の姿に昔の香織を重ねてしまう自分がいる。その矛盾が、胸を引き裂くようだ。
タクシーは無機質な都会のビル群を縫うように走り、やがてマンション前へ滑り込んだ。
6.旅の第一歩
夜。
真一は自室の椅子に腰を下ろし、暗いモニターを眺めていた。水族館のチケットやパンフレットがデスクに置かれ、青いクラゲの写真が小さく写っている。
「もう一度、行けるかな……」
ぼそりと呟く。今日の“足慣らし”は短時間とはいえかなり体力を消耗した。これで無理をすると、医者にまた怒られることは目に見えている。
でも、不思議と心にわずかな灯がともっているのも事実だ。かつての香織が喜んでいた水族館を、今の“香織”と巡ったことで、あのころの鮮やかな思い出が胸に戻ってきた――それは、痛みと同時に懐かしいぬくもりでもある。
「真一さん、しばらくの間は安静にしたほうがいいですね。お風呂も温度を低めに設定してあります」
後ろから声がして振り向くと、“香織”がタオルを手に立っていた。部屋の主電源を落とし、寝室への導線を作ろうとするその姿は、まるで献身的な看護師のようだ。
「わかった……。ありがとな」
ぼそっと礼を言い、真一は立ち上がる。ゆっくり歩き出すと、脳内に朧げにクラゲの残像が浮かぶ。青く透き通る光、そしてそこに重なる香織の笑顔。
数日前までは考えもしなかった“外出”の一歩を踏み出した自分。明日から、いや、これから先、自分はどうするべきか――答えはわからない。
ただ、亡き恋人と同じ名を持つアンドロイドが、静かに隣で歩調を合わせてくれる。それだけでも、少しだけ前へ進める気がした。
夜の闇がマンションの窓を覆いはじめる。その静寂の中で、真一の耳にはまだ水族館の水音がかすかに残響していた。あの儚いクラゲたちが、青く漂う水の中から彼に語りかけているような気がする――“短い命でも、輝く瞬間はきっとあるのだ”と。
そして、自分の命がどれほど残されているにせよ、“今”を見つめる力を奮い起こしてくれるなら――そう、何度でも生まれ変わって会いに来ると言った、あの日の香織の言葉に救われるのかもしれない。