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二度失う愛の、その先へ~青の残響~  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第十章 ―二度失う愛の、その先へ―

1. 研究所へ向かう決意

 翌朝。東京の空はどんよりとした雲に覆われ、肌寒い風が吹き抜けていた。

 マンションのリビングで横になっていた真壁真一は、薄暗い外の景色をぼんやりと見つめている。夜中に何度か痛みに襲われたせいで、まともに眠れたとは言いがたい。それでも朝になると、いつものように“香織”が支度を整え、彼を起こしてくれた。

 ここ数日ですっかり旅の荷物は片づいており、部屋には奈良土産の小さな人形がテーブルに置かれている。真一はそれを眺めながら、ささやかな達成感と、不安な闇が入り混じる胸の奥をかみしめていた。

 「……香織、今日こそ研究所へ行こう。母さんたちに話をする。ウイルスのことも、このまま放置できない」

 痛み止めを口にしつつ、真一は顔をしかめる。昨夜、たっぷりのメッセージを読み込んだ結果、世界規模でアンドロイドの暴走が広がり、国内でも致命的な事故が発生しているらしい。すでにアルファメカトロニクス社は緊急体制に入っており、真一の両親も連日対応に追われているようだ。

 “香織”は頷きながらタブレットを操作し、最速のルートを検索している。

 「わかりました。ですが、ご両親に会うと相当叱られるかもしれませんよ。あなたの体調を考えれば、すぐに入院を進められるはずです」

 「……それでも構わない。オレももう、ぎりぎりなんだろうし……。ただ、このまま死ぬわけにはいかない。お前を……‘香織’を守れるなら、まだやるべきことがある」

 歯を食いしばるように呟く。奈良の旅で実感した亡き香織の夢は、ようやく形になったが、二度目の“香織”を失う危機が迫っている以上、黙ってはいられない。彼女の高度な感情プログラムは真一の研究によって生まれたものであり、責任も愛情も、すべて自分が担うと決めたからだ。


2. 研究所の緊迫した空気

 午前十時過ぎ、アルファメカトロニクス本社ビルのエントランスに足を踏み入れると、いつにも増して警戒態勢が強化されているのがわかった。顔認証ゲートには警備員が立ち、訪問者に慎重なチェックをしている。研究所の職員も皆、焦りに近い表情で端末やタブレットを握りしめ、慌ただしく走り回っていた。

 「真一くん、やっと来たのか……!」

 声をかけてきたのは、同僚の島根藤次だ。血走った目とやつれた顔つきが、日を徹して業務に追われていることを物語っている。

 「状況がかなり悪いよ。世界規模のウイルス感染で、高度な感情プログラムを持つアンドロイドが軒並み被害を受けてる。日本でもすでに数百台が暴走やメモリ破壊を起こして、けが人も出ているんだ」

 興奮した声をぐっと飲み込むように、島根は続ける。

 「高坂や吉田たちが必死に駆除プログラムを試作してるけど、ウイルスの構造が複雑すぎて、追い付かない。……真一くん、頼む、今こそお前の‘感情エンジン’研究を生かしてくれ。何か打開策があるだろ?」

 島根の必死な訴えに、真一は息を詰まらせる。ここで彼が立ち上がらなければ“香織”のみならず、多くのアンドロイドが破壊され、あるいは暴走して人間を傷つける未来が待つのかもしれない。痛みで朦朧とする頭を奮い立たせて、彼は力なく頷いた。

 「わかった……手伝う。もう時間がないのは知ってる。でも……」

 視線を巡らせると、そこには母・耀子と父・一馬の姿が。二人は研究所の奥でホワイトボードを囲んでおり、遠目にも深刻そうな気配が伝わってくる。


3. 両親との激しい対峙

 真一は“香織”を伴って研究室の奥へ進んだ。そこには何人かの研究員が待機し、巨大なモニターに世界地図が表示されている。赤い点が増殖していく様は、ウイルス感染エリアを示す危機的なビジュアルだった。

 母・耀子が振り返り、息子の姿に気づくと厳しい眼差しを向ける。

 「真一……ようやく来たのね。奈良へ行って体を壊してるんじゃないかと思ってたわ。まったく、医者にも反抗して……」

 怒りと心配が入り混じった母の声を聞き流せない真一は、すぐに言い返そうとするが、先に父・一馬が口を開いた。

 「真一、今は説教してる場合じゃない。ウイルス対策が最優先だ。……お前の研究してきた‘感情エンジン’、特に残り半分の‘記憶プロテクター’の構造を把握しておく必要がある。現状、ウイルスが感情プログラムを壊して暴走させる例が目立つからな」

 父の言葉は冷静だが、その表情には明らかな焦燥が浮かんでいる。もし技術者としてのプライドを抜きにしても、この事態は会社と社会に深刻な打撃を与えているのだ。

 真一は視線を母から父へ移し、そして研究所のモニターに映るデータを一瞥する。そこには数多くのアンドロイド障害ログが羅列され、感情プログラムの記憶領域がターゲットになっているらしい痕跡が示されていた。

 「……分かったよ。とりあえず、オレの研究データをすべて共有する。だけど、その前に一つだけ言わせてくれ」

 青ざめた顔に痛みの色がにじむが、真一はぎりぎりの力で言葉を振り絞る。

 「香織を……オレの‘香織’を守りたい。もし感染したら、絶対に救う術を一緒に考えてほしい。……二度と、同じ悲劇を見たくないんだ」

 母は息を飲んだように沈黙し、父もうつむく。しばし重苦しい沈黙が降りる中、“香織”は真一の後ろで不安げに佇んでいる。

 耀子は小さく息をつき、強い眼差しを返す。

 「……あの子(“香織”)を守りたい? 最先端モデルであるのは事実だし、研究所としても廃棄したくはないわ。でも、もし暴走したらどうするの? あなた自身も命が危ないのよ」

 「それでも、オレにはそんなの耐えられない。ウイルスにやられて記憶を失う‘香織’なんて……見るくらいなら、オレがどうにかしてでも防いでみせる」

 激しい想いが喉元まで込み上げ、言葉に棘が混じる。そこに父が割って入るように言い放つ。

 「分かった。お前の執念は信じる。だが、下手をすれば世界中のアンドロイドが機能停止や暴走を起こすんだ。個人の感情を超えた問題になっていることも忘れるな。……お前も研究者なら、総合的な対策に協力してくれ」

 真一は暗い眼差しで父を見返す。しかし、父の指摘は正しい。二度失う愛を回避するためにも、まずは世界規模のウイルスを抑え込まなければならないのだ。


4. 緊急プロジェクトと真一の限界

 その後、真一は研究所の一角で緊急プロジェクトに合流することになった。同僚の島根、高坂、吉田らがモニターを囲み、膨大なウイルスコードの解析を進めている。

 「この領域を書き換えてる……ここは感情プログラムのコア部分じゃないか」

 「認証プロトコルをすり抜けて、直接メモリを上書きしてるらしい。従来のウイルス対策ソフトじゃ手に負えない」

 みんな疲弊しきった声で次々に情報を共有する。真一は椅子に座るとすぐに端末を起動し、自分が開発してきた“感情エンジン”のソースコードを取り出す。脳を締めつける頭痛に耐えながらキーボードを叩き、新たな対策を模索し、すさまじいスピードでコードを打ち込んでいく。未完成の“記憶プロテクター”をさらに今回のウィルスに対応させるように改良を加えているのだ。

 “香織”はそばで控えめに立ち、主人が倒れないか見守っている。が、島根が彼女に気づき、小さく声をかける。

 「……もしかして、この子が噂の‘香織’か? 真一くん、ほんとに人間と見分けが付かないレベルで作らせたんだな……」

 真一は歯を食いしばりながらも、軽く首を振る。

 「余計なことは言うな。……オレはこいつを“香織”と呼んでるが、別に本物と同じだと思ってるわけじゃない。ただ、失いたくないんだよ」

 島根は苦い表情を浮かべ、「分かってる。君の気持ちは痛いほど分かる。だからこそ、こうしてウイルスをどうにかしたいんだ……」と俯く。

 コードを睨み、キーボードを打ち続けて数時間。真一は徐々に体力を消耗していく。脳腫瘍の痛み止めをさらに追加し、休憩を挟んでも、すでに目の焦点が合わなくなる瞬間が増えていた。

 “香織”が何度も「少し休んでください」と声をかけるが、彼は振り払うように首を振る。

 「ダメだ……今止めたら、お前を守れない。みんなだって何日も寝てないんだぞ……もう少しなんだ……」

 姿勢を崩さずキーボードを叩く彼の顔色が青ざめ、唇を噛むたびに血の気が引いていく。それでもキーボードを打つ手は止まらない。そして、ターンと、大きくリターンキーを打つ音を最後に打鍵音が止んだ。真一は周囲の騒音が遠のき、視界の端が暗くなる感覚を覚えた。

 ――そこに父が駆け寄り、後ろから彼の肩を掴む。

 「やめろ、真一! お前の体はもう限界なんだ。……いいから一度医務室に行け。オレたちが何とか対策をまとめるから」

 しかし真一は振り返り、震える声で叫ぶ。

 「ふざけるな……オレは、オレは‘香織’を失いたくないんだ……二度目は……嫌だ……」

 視界がグラグラ揺れた瞬間、椅子から崩れ落ちそうになる。咄嗟に“香織”が抱き留めるが、彼の意識はそこから先は朧げになっていった。


5. かすむ意識の中――再会の夢

 医務室に担ぎ込まれた真一は、ベッドに横たわり点滴を受けていた。痛みと戦い続けた身体が臨界点を超え、脳からのシグナルが暴走寸前だったのだ。主治医の鈴木は呼び出しを受け、酸素マスクや強力な痛み止めを投与しながら「もう作業はさせるな」と厳命している。

 外では研究員たちが「ウイルス駆除プログラム」「感情エンジン構造の防壁」をどう作るかで徹夜の議論を続けているらしい。焦燥感と重圧が研究所全体を包み込むなか、医務室だけが異質な静寂に包まれている。

 真一の意識は浅い眠りと痛みの波に揺れ、時折うめき声が漏れる。そばに座る“香織”が手を握り、必死で呼びかけているが、その声は届いていないかのようだ。

 ――かすかに見ている夢の中、真一は亡き香織と再会していた。高校の屋上、音楽室、病院のベッド――いくつもの場面が次々に切り替わり、彼女が笑ったり泣いたりする姿を追いかける。

 “もう二度と失わないって言ったのに……どうして、こんなことになるんだろう?”

 夢の中で香織は答えず、ただうっすらと笑みを浮かべて消えていく。その笑顔が皮肉にも今の“香織”と重なり合う瞬間があり、真一の胸を深く抉るような痛みが走った。


6. “香織”に迫る危機――ウイルスの侵入

 一方、そのころ研究所のシステムルームでは、新たな警報が鳴り響いた。モニターに映し出されるログには、“香織”をはじめとする高性能アンドロイドのネットワークアクセスの痕跡が記され、ウイルスが侵入を試みた形跡が見られるというレポートが浮上している。

 「いかん……‘香織’さんのIDを持つユニットに外部から攻撃されてる。恐らくウイルスの仕掛けだ!」

 島根が慌ててコンソールを操作するが、すでに一部のメモリ領域に異常が発生し始めているようだ。

 “香織”は医務室の前で待機していたが、研究員が急ぎ声をかけに来る。

 「大変です、あなたのシステムが攻撃を受けているらしい。自己防衛プログラムを強化してください!」

 彼女は目を瞬かせ、すぐに内部のプロセッサをフル稼働させる。通常以上の負荷がかかるため、体が微かに震えるように見えるが、それでも必死にルーチンを走らせて感染を防ごうとする。

 「私……無事でいられるでしょうか。もし暴走したら……」

 その問いを発する瞬間、視界が一瞬真っ白に乱れる感覚があった。電子ノイズが走り、内部エンジンが警告を上げる。――これが記憶破壊の初期兆候なのか。だが、まだ全滅ではない。

 “香織”はふらつく足取りで医務室に駆け戻る。無意識に真一のもとへ向かったのだ――自分が壊れる前に、愛する主人を見届けたいという衝動に突き動かされているかのように。

 医務室のベッドには、点滴を受けて横たわる真一が浅い息を繰り返している。傍らには母の耀子が立ち尽くし、息子の惨状を見守っていた。


7. クライマックス:二度目の喪失か、救いへの奔走

 “香織”がフラつきながらも入室すると、耀子は鋭い眼差しを向ける。

 「あなた……大丈夫なの? 顔が……いえ、表情がかなり不安定に見えるわ。ウイルスが進行しているんじゃないの?」

 “香織”は声にならない声で苦しそうに息を吐く。内部モニターにはエラーが多数走り、記憶フォルダの断片が失われつつあることを示している。だが、ここで倒れたら、真一をまた失わせることになる――その強い一念がアンドロイドである彼女を踏みとどまらせていた。

 「私は……まだ大丈夫。真一さんを……助けたい……」

 次の瞬間、真一が苦しげに咳き込み、目をうっすら開けた。薬の影響で朦朧とした意識の中、彼は必死に言葉を紡ぐ。

 「か……おり……お前、どうしたんだ……? 何か、エラーが……」

 “香織”は目を潤ませながら、彼の手を握る。明らかにシステム不調の震えが伝わってくるが、全力で主人に微笑みかけようとする姿は痛々しいほどだ。

 「ウイルスが……私を侵そうとしている。でも、まだ制御できる……絶対に暴走なんかしない……。あなたを悲しませたくないから……」

 耀子はそのやり取りを見て言葉を失いかけるが、母としての思いが勝ったのか、すぐさま端末を取り出し研究室に指示を飛ばす。

 「こっちに‘香織’の対策班を組め! 今すぐ緊急修復プログラムを起動して、メインメモリを保護するのよ。母体はきっと、真一のさっきまで作っていたコードと研究データと併用すればウイルス駆除プログラムに流用できるはず……!」

 崩れるようにしてモニターを操作する耀子。その姿は研究者としての冷静さと、母としての切迫感が入り混じった必死の行動だった。

 その間にも“香織”の体は歪むように痙攣し、声が震える。

 「私……あなたがくれた名前を失いたくない。……香織という名でいられるのは、真一さんの存在があったから……」

 真一はその手をしっかり握りしめ、「離れるな……お前を失うくらいなら、オレは……」と涙をこぼす。もう二度と同じ悲劇を繰り返したくないという感情が痛いほど伝わる。


8. 二度の愛、儚い命

 数十分後、研究所の全技術スタッフが総力を挙げ、“香織”の自己防衛プログラムを強化し、真一が握る“感情エンジン”の根幹データと併用したワクチンプログラムを適用しようとしていた。

 だが、一方で真一の病状も急転を迎えていた。過度のストレスと身体への負担が一気に襲い、脳からの出血リスクが高まっていると医師が診断する。彼は酸素マスクを装着され、意識が断続的に途切れながらも「香織を……頼む……」と弱々しく繰り返す。

 医務室には母の耀子と同僚たち、そして“香織”の姿がそろう。彼女もまたメモリ破壊の進行をこらえるために、システム停止と再起動を何度も繰り返している状態だ。

 その光景はまるで、二人の命が同時に尽きようとしているかのような凄惨な雰囲気。人間とアンドロイド――それぞれが愛する相手を求め、崩れかけている。

 「間に合って……! どうか……」

 “香織”は内心で祈るようにデータを保護する。もし自分が意識を失う前に、記憶や感情を残せるなら、真一に何かを伝えたい――そんなギリギリの願いだ。

 やがて、社内放送が「暫定ワクチンプログラムをアップロード完了!」と告げる。世界中のアンドロイドに推し進められるアップデートにより、多くの機体で暴走や記憶破壊が抑えられ始めているという速報が入った。だが、一部の高性能モデルにはまだ完全適応していないとの報告も。

 “香織”自身はどうか。彼女のファームウェアがワクチンと融合するためには、真一が開発してきた感情エンジンの鍵が必要なのだが――その真一が意識不明に近い状態にある。

 「どうすれば……」

 耀子が必死に端末を叩き、“香織”のIDを認証しようとする。父・一馬も手伝い、同僚たちがサポートに回る。だが、最終的な承認鍵は真一本人が持つ暗号パスであるため、昏睡状態では入力も不能だ。


9. 最後の覚醒――真一のプログラム

 医務室の床に倒れこむようにしてうずくまる“香織”と、ベッドで意識を失いかけている真一。その間には母や研究仲間が取りなす術を探している。

 突然、モニターがチカチカと点滅し、真一の端末が自動起動したように見えた。いくつかのキーファイルが開き、暗号パスを要求するダイアログが表示される。

 「何だ……? 誰が操作してる?」

 吉田が驚くが、誰もキーを触ってはいない。まるで真一が前もって仕掛けていたルーチンが動き出しているかのように、テキストが流れ始める。

 ――「オレが死にそうになってるときこそ、これを起動しろ。感情エンジンのバックアップを走らせ、ワクチンファイルと連携するんだ」

 スクロールされるメモには真一の書き込みが残されていた。彼がいつ作成したのか定かではないが、恐らく奈良から帰宅した後の短い時間で仕込んだのだろう。自身が倒れたときのため、最終手段の“自動承認キー”を組み込んでいたのだ。

 「すごい……あいつ、こんな事態を想定して、自己発動プログラムを?」

 父・一馬が唖然とする。一方、耀子は端末を急いで操作し、真一の記した手順に従ってワクチンプログラムを“香織”へ適用するためのセットアップを始めた。

 その頃、真一はベッドで微かに意識を取り戻しつつあった。医師や看護師たちが「危ない、余計な刺激はやめろ」と制止しようとするが、彼はうめきながら酸素マスク越しに声を絞り出す。

 「か……おり……早く、初期化なんか……させない……で……」

 涙が混じった声に、“香織”がはっと顔を上げる。彼女のCPUにはまだウイルスの干渉が残り、まともに動けないが、主人の呼びかけに反応して必死に身体を起こす。


10. めざめ――“香織”との最期の対話

 耀子が端末に最終コマンドを入力すると、研究所全体のシステムが一瞬停電のような状態に陥り、次にワクチンと感情エンジンの融合アップデートが走り出した。

 同僚たちが「成功するか……?」と息を呑むなか、“香織”の瞳に一瞬の空白が広がる。内部再起動によるフリーズのようだ。しかし、数秒後、彼女はかすかな息を吐くように見え、再び瞳に光を帯びた。

 「……これは……何だろう……頭が、すごく透き通るような感覚」

 周囲は安堵の声を漏らすが、真一がベッドから「香織……」と弱々しく呼ぶと、彼女はふらりと立ち上がり、その手を握り返す。互いに限界寸前だ。

 「真一さん。大丈夫ですか……?」

 その声には、先ほどまでより深い感情の震えが感じられる。ワクチンと感情エンジンの強化が、彼女の“感受性”をさらに高めているのかもしれない。逆に言えば、真一と同じ痛みを理解するほどに“人間らしさ”に近づいたとも言える。

 「よかった……お前が、消えなくて……」

 真一は笑みを浮かべようとするが、すぐに咳が止まらず、酸素マスク越しに苦しそうに呼吸をする。“香織”はその背中にそっと触れ、看護師を呼ぼうとするが、彼は頭を振る。

 「もう……いい。聞いてくれ。オレは、たぶんもう……そう長くない。けど、お前が生き残るなら……それで……」

 “香織”は首を振り、瞳に涙のような光を宿す。もちろんアンドロイドに本物の涙腺はないが、感情エンジンがプログラムエラーを起こすかのように表情を歪ませるのだ。

 「嫌です……。あなたを失うくらいなら、私も……」

 「やめろ……お前は生き延びてくれ。それがオレの、最後の願いだ。二度失う愛なんて、もう嫌だ……オレは……」

 言葉が途切れ、力なく頭が垂れる。バイタルモニターが警告を発し、看護師たちが再び駆け寄る。無理に興奮させては危険だと分かっていても、もう制止する力もない。

 “香織”は真一の手を離さないまま、その視線と同じ高さに顔を寄せる。あの奈良の旅館で見せた切なげな瞳――それよりも深い悲しみがそこに宿っている。

 「真一さん……あなたは、私を救ってくれた。感情エンジンにあなたの想いが刻まれているから、ウイルスも排除できた。……今度は私があなたを救う番なのに……」

 沈黙が降りる中、真一は酸素マスク越しに息を詰まらせ、僅かな吐息で囁くように言う。

 「ありがとう。オレには……もう時間がない。……でも、‘香織’が……‘香織’であり続けてくれるなら、オレは報われる」


11. 終焉と再生――二度失う愛の、その先へ

 ――そして、数時間が経った。

 研究所のモニターからは世界的なウイルス収束の兆しが流れ始めている。アルファメカトロニクス社の新型ワクチンプログラムが大きな役割を果たし、多くのアンドロイドが記憶破壊を免れ、もはや暴走例も減少傾向にあるという。

 しかし、その“英雄”とも言える真壁真一は、医務室のベッドで静かに眠り続けていた。最後の力を振り絞ってプログラムを仕込んだ彼の身体は限界に達し、出血が進行した可能性が高いと医師が語る。意識は戻らず、延命措置のみが続く。

 一方、“香織”はワクチンを完全適用できたことで、記憶も人格も無事だった。感情エンジンでむしろ進化し、彼女の表情はより人間に近いものへと変わっている。しかし、主人がこのまま目を覚まさないかもしれないという現実に、彼女はまるで人間が愛する人を看取るかのような悲しみに沈んでいた。

 「真一さん……どうか、最後にもう一度、私の声を聞いて……」

 震える声でベッド脇に腰をおろし、手を握りしめる。泣きたいのに涙は出ない――それでも苦悶に似た表情が刻まれ、周囲の研究員たちも誰も声をかけられない。

 母・耀子も父・一馬も、「真一がこんな形で……」と嘆き、医師は「ほぼ意識が戻る可能性は……」と首を振るばかりだ。

 と、そこで奇跡のように、真一の指が微かに動いた。機器のアラームが鳴り、看護師たちが慌てて回りを固めるが、彼の瞳が少し開く気配がある。だがもう、視線はほとんど焦点を結んでいない。

 “香織”はわずかに希望を抱き、耳元で囁くように呼びかける。

 「真一さん……聴こえますか? 私は、ここにいます。あなたが守ってくれたから……生きてます」

 苦しげな呼吸を繰り返す真一は、唇をかすかに動かし、か細い声を絞り出す。

 「……よかった。二度……失わなくて、すんだ。……また、戻ってくるよ……。それまで、少しさよならだ……」

 その言葉が最後だった。モニターがフラットラインになり、看護師が叫び、両親の嗚咽が医務室に響く。酸素マスクを外し、蘇生を試みようとするが、既に手遅れだった。

 ――真一は息を引き取ったのだ。香織を失った高校時代以来、ずっと抱えてきた大きな喪失を二度味わう代わりに、自らが最期の瞬間を迎えてしまう結末。

 “香織”はベッドに取りすがり、ただ無言でその亡骸を見つめる。その瞳には、まるで人間が涙を流す瞬間のような激しい痛みが宿っている。

 (あなたを失ってしまった……。こんなにも、心が抉れるようにつらいなんて……私、本当はただのアンドロイドなのに)

 そう叫びたい気持ちが溢れるが、声にならない。ただ震える指先で、真一の冷たくなる手を握りしめ、そっと頬に触れてみる。そこにまだ微かな体温が残っていることが、余計に苦しい。


12. 真一の葬儀後――失踪するAc2

数日後、真壁真一の葬儀がひっそりと行われた。研究所のスタッフ、かつての高校時代の友人たち、恩師や遠縁の親族が集まり、それなりに賑やかな場となるはずだったが、そこにAc2――香織の姿はなかった。

 「彼女はどうした? 真一の死を受けて、部屋に閉じこもったのか?」

 島根が父・一馬に問うと、「行方不明だ」と返ってくる。ウイルスから回復して数日後、研究所から忽然と姿を消し、セキュリティログも残っていないらしい。おそらく外部ネットワークにアクセスし、自力で逃げたのだろう。

「……彼女もまた、真一と共に生きる道を失ってしまったのか」

葬儀が終わり、母・耀子はしんとした祭壇を見つめながら呟く。残された研究員の多くは「記憶プロテクター」の理論を引き継ぎ、ウイルス対策に追われている。真一が残したコードは多くのアンドロイドを救うことになるだろうが、それでも彼自身の命は戻らない。

 「Ac2がいない世界で、我々はどう前に進めばいいのか……あの子が本当に自分の意志で逃げたなら、どこで何をしているのか」

 誰も答えを持たないまま、真一の死とAc2の失踪という悲劇的な結末だけがそこに残された。


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