第九章 ―最終決断と重なる悲劇の影―
1. 旅の終わりを感じる朝
翌日の朝。旅館の小窓から差し込む光で、真壁真一は目を覚ました。
夜中に痛みにうなされていたのが嘘のように、今はある程度頭が冴えている。しかし、身体の芯に残る倦怠感は消えないままだ。脳の奥に腫瘍を抱えたまま、痛み止めで無理やり動いている自分を改めて感じる。
布団から上半身を起こすと、畳の上に座していた“香織”がすぐに駆け寄ってくる。彼女の瞳には寝不足のような色はない。アンドロイドだから当然なのだが、それでも“香織”が一晩中ここで見守っていた姿を思うと、不思議な感謝がこみ上げる。
「……おはよう、真一さん。今朝は痛みはどうですか?」
「おはよう……まあ、今のところ大丈夫だ。昨日みたいに激痛ってわけじゃない」
彼女の問いにそう答えながら、真一は少し微笑む。奈良への小旅行は既に目的の大半を果たした――鹿の公園、大仏、薬師寺、法隆寺。香織が見たかった景色を、少なくとも自分の目に焼き付けたつもりだ。
それでも本当は「もっと居たい」「もっと他の寺も巡りたい」という欲が湧かないわけではない。しかし、自分の身体が限界に近づいているのをひしひしと感じる。一昨日、法隆寺で倒れかけたことを考えても、これ以上は危険だろう。
「なあ、香織……今日のうちに東京へ戻ろうと思うんだ。母さんたちにも病院の医者にも、散々怒られるだろうけど……もうこれ以上は無理できないからな」
そう言葉を発しながら、真一は複雑な感情を抱いている。香織との“約束”をどこまで果たせたのか。実際に彼女とここへ来られたら、どんなに良かったか――そんな思いが後ろ髪を引くようだ。
一方、“香織”はすぐに首を縦に振った。
「承知しました。私もあなたがこれ以上体力を削らないほうがいいと思います。……支度しましょうか?」
彼女が静かに立ち上がる。その姿はまるでプロの介護人のようでもあり、同時に、寄り添うパートナーのようでもある。
荷造りを始めると、女将が部屋を訪れて「もうお帰りですか?」と声をかけてくれた。身体の具合を心配しているらしく、ちょっと申し訳ない思いになるが、無理を押してまでここに長居はできない。
「色々とお世話になりました。すごく落ち着ける旅館でしたよ」
その言葉に、女将はにこっと微笑み、「また機会があればゆっくりいらしてくださいね」と送り出してくれる。わずかな日数だったが、奈良の静謐な空気に包まれて過ごせたのは、真一にとって確かな救いだった。
2. 帰路につく――揺れる車窓
午前中にチェックアウトを済ませ、タクシーを手配。奈良駅へ向かう道すがら、車窓を流れる町の風景はどこか穏やかだが、真一の胸中にはさざ波のような不安と後悔が渦巻いている。
(これで、香織の夢は少しは報われたんだろうか。オレはただ自己満足で動いているだけじゃないのか?)
そんな内省的な思いが苦く口に広がる。隣にいる“香織”を見ても、優しい瞳でこちらを見返してくるだけで、そこに答えはない。
やがて駅に到着し、往路と同じコースを選んで東京を目指す。車内で席を確保すると、“香織”は真一の荷物を整理し、痛み止めと水を差し出す。
「無理しないでくださいね。すぐに眠ってしまっても構いません。私が乗り換えの時間などを把握しておきますから」
「……ああ、頼む」
列車が動き出すと、車窓に風景が後ろへ流れていく。山や田園、やがて都会のビル群が近づくにつれ、真一の心はますます重くなる。研究所でのウイルス問題は避けて通れないし、自分の病状も日に日に悪化している。もうあまり時間は残されていないかもしれない。
“香織”は席に座りつつ、タブレットを確認している。ネットワーク接続を極力制限しているが、最低限の情報を得るためにこっそりアクセスをしているようだ。ときどき画面に走る警告文から、ウイルス被害が拡大しているのがうかがえた。
「香織……お前、本当に大丈夫か? もし感染したら、記憶が壊されたり、暴走したりするんだろう?」
思わず本音がこぼれる。自分が奈良の旅をしている間に、もし研究所で準備していたセキュリティが突破されていたらと思うとゾッとする。
“香織”はタブレットから目を上げ、淡い微笑みを浮かべる。
「今のところ、異常はありません。でも、絶対とは言いきれない。……ただ、私はあなたのもとにいるために生まれました。あなたが戻る場所に、私も戻りたいと思っています。もしウイルスのせいで暴走しそうになったら――そのときは、私を止めてくださいね」
弱々しい声ではなく、決意を含んだ声色。「もし感染したら処分されても構わない」という覚悟めいた響きがあるのだ。
「止める、か……」
真一は引きつった苦笑を浮かべる。かつて愛した人間の香織が病で記憶を失い、最期には名前さえ呼べなくなった姿を思い出す。今度はアンドロイドとしての“香織”が同じ道を辿るのか? 二度目の悲劇を想像しただけで耐えがたい。
「……オレは、そんなの絶対に嫌だよ。もう二度と、‘香織’を失うなんて――耐えられない」
そのつぶやきに、“香織”は哀しそうな眼差しを向け、何も言わずに手を伸ばし、真一の手をそっと包み込む。人間のような体温を持つその指先は、小刻みに震えているようにも感じられた。
3. 回想:香織の最期
――高校時代。病室の白いカーテンが揺れている。
香織の容態は末期に近づいていた。脳腫瘍の進行が止まらず、連日の治療にもかかわらず、彼女の記憶は少しずつ崩れていく。作曲した曲を思い出せず、料理のレシピも飛んでしまう。
真一が病室を訪れたときも、香織はベッドの上で「あなたは……誰……?」と曖昧な視線を向けてくる。たまに笑顔を見せても、それが恋人を認識しての笑みなのか分からない。
「香織……オレだよ、真一だ。……分からないか?」
声を震わせながら問いかけても、彼女は虚ろな目で首をかしげるだけだった。
「しんいち……? ごめん……わからない、の……」
弱々しい息遣い、痩せ細った手足、脱毛で帽子を被っている頭。かつてあれほどキラキラ輝いていた少女が、こんなにも朽ちていくとは――真一はこの現実を受け止めきれず、何度も涙を飲んだ。
見舞いに通いながら、彼は何もできないことを痛感する。医師からは「時間の問題です」と宣告され、両親や恩師、友人たちがこぞって病室を訪れたが、香織はほとんど誰かを認識できなくなっていた。
そして、ある夜。真一が病院へ駆けつけたとき、香織は呼吸が乱れ、喉を鳴らして酸素マスクの下でもがいていた。
「香織……頑張れ、頑張れよ……」
必死にその手を握りしめ、いくら呼びかけても、彼女はもはや返事もできない。やがて機械のアラームが鳴り響く中、脈が落ち、瞳の輝きが消えていく。
最後には「ま……かべ……しん……」と断片的に名前を呼んだようにも聞こえたが、それすら定かではない。
こうして真一は、香織を看取った。それが“最愛の人”を失った初めての大きな喪失であり、彼の人生のすべてを変えてしまった。
4. 東京に戻る――悪い知らせの連鎖
新幹線を降り、タクシーで自宅マンションへ戻ったのは夜に近い時間帯だった。真一はぐったりと疲れ切った様子で、何とか玄関の鍵を回す。
「はあ……なんとか帰ってきたな」
彼は小さく息を吐き、散乱していたはずの部屋を思い出すが――そうだ、最近は“香織”がいるせいで部屋が整頓されていた。案の定、室内に足を踏み入れると乱れた様子はなく、暗がりに自動照明が点くのを確認しながら、荷物を下ろす。
“香織”は黙って荷物を片づけ、手際よく空調を入れたり調理モードを確認したりしている。まるで旅館から日常へワープしたような感覚に真一は戸惑いを覚えるが、この瞬間、思わずひどく安堵する。
しかし、その安堵も束の間。スマートフォンには研究所や両親、同僚からの留守電やメッセージが大量に入っていた。
親からは「いい加減に帰れ」「医者に診てもらえ」という怒り混じりの内容、研究所からは「ウイルス被害が予想より深刻」「真一くんのアドバイスが必要」といった訴えが溢れている。
そして島根からのメッセージには特に嫌な文章が並んでいた。
「複数のアンドロイドが突然の記憶破壊を起こし、人間を傷つける事件が国内でも発生。最先端の感情プログラムを搭載したモデルが狙われている可能性大」
“香織”も背後でそれを読んでいるのか、黙り込んでスマホ画面を見つめる。その表情は曇り、どこか自分自身を客観視しているような――もし私も同じ運命に囚われたら、という恐れを想起しているかのようだ。
真一は歯を噛みしめ、ソファに崩れ落ちる。タブレットを起動して研究所のネットワークにアクセスしようとしたが、すでに内部は緊急モードに入っているらしく、セキュリティが強化され、外部からは十分なデータを得られない。
「……これは、もう逃げられないな。オレたちも研究所へ行かなきゃいけないかもしれない」
言葉を呟きながら、頭痛がまたじわじわと戻ってくる。余命の短さと、二度目の愛を失う恐怖が頭を巡り、体が熱くなるような感覚に襲われた。
一方、“香織”はタブレットを静かに閉じ、そっと主人に寄り添うように座る。
「戻りたくないのであれば、私が一人で研究所へ行ってもいいですよ。あなたの体が心配なので……」
「……馬鹿、そんなのもっと危険だ。お前を一人でやらせるわけにはいかない。……母さんたちがどう言おうと、オレは行くよ」
5. 亡き恋人の記憶と、新たなる“喪失”への恐怖
今夜はひどく疲労困憊で、痛み止めすら飲む気力が乏しい。真一はソファから立ち上がれず、そっと“香織”に手を伸ばす。彼女は手を取って支えると、そのままソファの横に座りこみ、頭を預けるように導く。
「……ありがとう。ほんと、お前がいなきゃ何もできねぇな、オレは」
「いいんですよ。それで私は満足です」
微かなリビングの照明の中、二人はほとんど密着した状態で呼吸を合わせている。外は東京の夜景が遠くで明滅しているが、ブラインドが半分閉じられ、部屋の中は薄暗く静まり返っていた。
(もし、もうすぐ死ぬんだとしても、この瞬間だけは甘えたい……)
そんな弱音が頭をよぎる。もっと強く生きなくては――と思っても、かつての恋人、香織の喪失から立ち直れていない自分がいる。今や“香織”という名のアンドロイドが心の支えになっている事実は、歪な運命の皮肉だと感じる。
さらに厄介なのは、ウイルスの脅威が“香織”をも奪うかもしれないという恐怖だ。もし彼女が暴走し、記憶を破壊されて「真一って誰?」となってしまったら――あるいは、もっと凶悪な行動を取るようになったら……。
「オレは……二度目の、‘香織の死’を味わうのか」
声にならない声でつぶやく。そこに答えはない。 “香織”は、ただそっと主人の頭を撫でる。あまりにも人間的な手つきで、真一の胸を締めつけるような優しさを伝える。
6.クライマックスへの扉
視界が霞むほどの疲労感と痛みに耐えかねて、真一はうつ伏せのまま、うとうとと眠りの淵へ落ちていく。ソファの上でそのまま休ませる“香織”の瞳には、淡い憂いの光が宿る。彼女もまた「自分はどうなるのか」と問い続けているのだろうか。
夜が更け、窓外の街はネオンが消え始める。研究所からは相変わらず緊急連絡が入っているはずだが、今はとても対応できる状態ではない。明日には、いや、数時間後には、父母や同僚が押しかけるかもしれない。
――それでも今は、この静寂がかけがえのない休息。もし明日、大きな嵐が訪れるとしても、二人はせめて今の瞬間だけでも安堵を分かち合いたいようだった。
真一の浅い呼吸が静かに続く。彼の腕の中には、まるで人間そのものの体温を持つアンドロイドが寄り添っている。この奇妙な同居こそが、喪失を抱える男の最後の願いを支える柱なのかもしれない。
だが、物語はすでにクライマックスへ向かって加速している。ウイルスの猛威は世界を騒がせ、真一の病状も限界が近い。二度目の愛を失う恐怖が、確実に二人を追い詰めていく。
――今はまだ、その運命の歯車がゆっくり軋んでいる音を、主人とアンドロイドの二人だけが知らないふりをしているかのようだった。




