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結界  作者: 津谷 一
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第三章 - 結界 -

三月二七日午前一時三五分

東京・赤坂衆議院議員宿舎一〇一号室


第二次高島内閣で経済産業大臣と国家公安委員長を兼任している立浪義彦は、眠い目をこすりながらも、自らの書斎で警視庁公安部から渡された書類に目を通していた。


その多くは、岡本の死亡に関する捜査資料であったが、中には警察がグランドカッスル大阪の部屋から押収した、岡本哲之介の絶筆となった原稿のコピーも混じっていた。


もともと岡本は達筆な男であり、書き殴った割にはきちんと読める。今、立浪が手にしている原稿は、『日本の責務・世界恒久平和の実現』と題されており、二〇〇枚以上はある。そこには、岡本が政治家として大きな興味を持っていた資源問題や食糧問題などを中心に、日本のあるべき姿、戦略的提言が多く書かれていたが、その最後の章は安全保障の問題を中心にまとめてあり、その題名は『結界』と名付けられていた。


それを眺めながら、寝室に戻り、ベッド脇の台に置いていた赤ワインの入ったグラスを口に運ぶ。そうして岡本の情熱がそのまま伝わるかのような次の文章を読み始めた。


……日本が兆単位の予算を入れて導入したミサイル防衛システム(MD)でも、大陸間弾道弾などの脅威から日本を完全に守り切ることはできません。


日本のミサイル防衛システムの命中率は七〇パーセントといったところで、それはすなわち、残り三〇パーセントの敵ミサイルは日本の都市のどこかに落下するということを意味するのです。「○発撃たれたうちの三発もの核弾頭が大都市に落ちれば、日本のような国土の狭い国では、もはや国全体を守り切ることができないのは明白です。


江戸時代の初期、あの怪僧天海は、江戸に「結界」を張ってその安全と平和を祈願した、という伝説があります。また第二次大戦中、フィリピンを防衛していた山下奉文将軍は、マニラ湾に網をかけるような兵器が欲しいと言ったとされています。もう何十年も前、今は亡き中田力元総理からそれらの話を聞いた時、私の頭の中には「ある光景」が一気に閃いたのでした。つまり、核を含むあらゆる兵器の脅威から日本全体を守れるような「国土防衛の結界」を作れないか、ということです。


今のところ、世界のどこを見渡しても、そんな構想を実現できるまでの技術は存在しません。しかし、そういう奇抜な構想さえ持てば、日本人の持つ優秀な技術力を駆使して、いつかは実用化が必ずできるのではないでしょうか。


もちろん、私は技術者でもなんでもなく、ただ地方の小さな土建屋として身を起こし、たまたま政治の道を志しただけの人間ですから、いくら願ってもそんな技術を開発することはできません。


一方で、もし政治家としての私にできることがあるとすれば、それは「国土防衛の結界」といった、一見大それたようでもある構想を実現させるため、国民の皆様の強い意思を心の支えとしながら、政治の力を結集することです。


想像してみてください。もし、そんな「結界」を作ることができれば、日本の安全は半永久的に保障できることになるでしょう。そしてそれを日本が主導的な立場で世界中に広めていけば、人類は膨大な軍事費をかけて互いを殲滅しようとする大量破壊兵器を開発する意味すら失い、詰まる所、恒久平和さえ実現できるのではないか、と思うのです。そうなれば、日本はそこで初めて、権力と武力、謀略が渦巻く現在の国際社会の中で、人類の真の平和を構築する世界のリーダーとなることができるでしょう。私たち日本人がこれからの国際社会の中で目指すべきは、まさにそんな地位ではないでしょうか。



「結界、か」


岡本の絶筆を何度も読み返しながらそう呟いた立浪は、初めて岡本と会った時のことを思い出していた。


東大法学部を卒業後、キャリアとして警察庁に入庁した立浪は、二七歳の若さで警備局警備課長として大阪府警に赴任したのだったが、その頃に人から紹介され、当時、初めて衆議院議員に立候補せんとしていた岡本に会っている。もう三〇年以上前の話だ。


その時の岡本は、政治家というよりはスーツを着た土建屋にしか見えなかったが、着任早々の若き立浪に対し、


「キャリアの方でっか。ああ、それはそれは。どうぞ、大阪と日本の治安をよろしゅう。一緒にこ

の国を良うしていきまひょか」


と、どこか気の抜けるような挨拶をした。正直なところ、その時、立浪はそんな商人、丸出しの岡本をわずかに軽蔑したのであったが、自分が単なる世間知らずの生意気な若造に過ぎなかったというのを後に知ることになる。


次に岡本に会ったのは、三七歳になっていた立浪が警察を辞めて地元佐賀から衆議院議員に立候補した時である。すでに岡本は四期目の衆議院議員であったが、その立場はまだ財務金融部会の副部会長に過ぎず、その後、「鉄の結束」を誇ったあの強力な地盤も、この頃にはまだできあがっていなかった。


にもかかわらず、岡本は一〇年も前に一度だけ会ったことがあった立浪を覚えていたのだろう。立浪自身、まったく頼んだわけでもないのに、この若き警察官僚上がりの政治家候補のため、自分自身の選挙をそっちのけで立浪の選挙区を隅から隅まで歩き回り、方々で頭を下げてくれたのであった。


当時から岡本は、テレビの討論番組などでの歯に衣着せぬ物言いで人気を博し、知名度は高かった。その岡本が、時の権力者として絶頂にあった中田力総理大臣にみずから土下座をしてわざわざ佐賀にまで足を運ばせ、泡沫の新人候補に過ぎなかった立浪のために応援演説をさせたのである。そのおかげで、立浪は当初の予想を大きく裏切る断トツのトップ当選を果たしたのだった。


その時から立浪は、岡本の力量と人間の大きさに感服し、エリート街道を歩んでばかりで人に頭を下げることを知らなかったそれまでの自分を恥じると共に、以後、岡本が属していた「桃園会」という派閥の一員として働くことを誓ったのである。


そんな昔のことを思い出しながら、岡本の遺稿を読み続けていた時、傍らのスマートフォンが鳴った。画面には「白石一成」と表示されている。現役の警察庁長官だ。


白石は警察時代の一年後輩のキャリアで、剣道、柔道、空手、合気道を合わせて一七段の猛者でもある。立浪とはなぜか非常に縁が深く、かつて盛んだった成田闘争の混乱の中で絆を深め、その後も時折人生の分岐点で交差してきた男だ。こんな夜中に電話をしてくるなど、珍しい。一体何かあったのだろうかと訝りながら、スマートフォンを手に取った。


<先輩、今、よろしいですか!>


何事にも冷静沈着なはずの白石が電話口で珍しく興奮している。


「ああ、いいよ。一体どうした?」


そう答えた立浪の心臓がわずかにドキリと痛んだ。向こうはまだ何も言っていないのに、尋常ではない何かを言おうとしている空気が電話の向こうから伝わってくる。受話器から感じられる見えない何かが異様に張り詰めているのだ。


<やられました!『第三種特別指定物資』が何者かに強奪されました!>


「なに?第三種って『SS-8』か?」

<はい、東海村の『SS-8』です>


あまりの驚きに、立浪はベッドから転げ落ちそうになった。目の前が真っ白になりかけるが、必死に頭を掻き毟って状況を把握しようとする。まさか?しかし、どうやって?さすがの立浪でさえ、すぐには整理がつかない。


<つい一五分ほど前です。緊急事態プロトコルに従って、東海村の日本核燃料研究機構から習志野駐屯地に向けて緊急輸送を開始した直後、正門を出てすぐのところで銃で武装した集団に襲撃されました。待ち伏せ状態で激しい銃撃を受け、核研の職員一名、警護の警察官一名が死亡、二名が重体、それに輸送責任者の安全管理課長が拉致され、行方不明となっています。また、肝心の『SS-8』の行方はいまだ掴めず、です。一体、何とお詫びを申し上げてよいものか......>


こめかみに冷たいものが走り、再び目眩を感じた。たまらず壁に手を添えながら自分の書斎に向かい、スリープ状態になっているコンピュータを開く。


「何ということだ......。それで、やったのは誰なんだ?」

<いまだ不明です。周辺一五キロに非常線を張って警戒しています>


「何らかの兆候はあったのか?」

<いえ、それがまったく。ただ、岡本大臣がお亡くなりになり、それで急遽発動した緊急プロトコルだったので、あるいはどこかに手抜かりがあったのかもしれません>


「つまり、SS-8の輸送情報が漏れたということか?」

<そうとしか考えられません。相手は軍レベルの攻撃力を持つプロです。こちらの手の内を完全に読み、綿密に計画していました>


立浪は興奮気味に話す相手をなだめるように言葉を挟む。


「わかった。では、すぐに総理秘書官と官房長官秘書官に連絡してくれ。俺も今から官邸に向かう」

<はい。かしこまりました>


「『原子力発電所等における重大事故対応要項』という別の緊急プロトコルがあっただろう?総理には、そのプロトコルに従い、放射能漏れ事故が発生したという線で、周辺の検問範囲を一気に拡大するよう進言する。総理はすぐに国家安全保障会議を招集するだろうが、そうなれば事態対処専門委員会も呼ばれるだろう。官房長官秘書官にはその旨も付け加えておけ」


<その辺りの連絡はお任せください。それから、あと数分でお部屋に応援のSPが伺います。こういう時ですから、注意してください。私も現在、官邸に向かっています>


優秀で気の強い白石のことだ。地元警察が正体不明の武装勢力の襲撃でいとも簡単に敗北したのを聞いて、机を叩いて怒ったに違いない。


「ありがとう。君も注意しろよ」

<これは、日本国家に対する挑戦です。絶対に逃すわけにはいきません>


「そうだな......」


静かな怒りに震えているらしい白石に対し、立浪はそう言って電話を切った。そのまま山官房長官に電話をしたが、話し中であった。仕方なく、クローゼットから新しくアイロンをかけてある白のワイシャツを取り出し、素早く袖を通した。


そして、左手に握りしめるようにしていた岡本の遺稿をデスクの上に置いた。その瞬間、脇にあった携帯電話が鳴った。「山賀先生(官房長官)」という文字がタッチパネルに浮かび上がっている。


――戦争が始まる。そう思った立浪は、意を決するようにして電話を取った。




三月二七日午前二時

大阪・天満橋ホテル・グランドカッスル大阪八二五号室


携帯のバイブレーション音で目が覚めた。誰かからの着信だ。深い眠りから覚まされたせいで苛立った佐々木大介は、眠い目をこすりながら電話をとる。「沼沢善明」という表示を見て通話ボタンを押した。


<遅いのに悪いナ>


こちらの言葉を聞く前に、相手が馴れ馴れしい感じで言った。


沼沢善明は「週刊日本芸能」の記者であり、佐々木の大学時代の同期でもある。二人の接点はクラスが同じというだけであったが、最初に会った瞬間から互いに妙にウマが合うことを確認してからというもの、今日まで一〇年以上の付き合いだ。


かつて体育会系一本だった沼沢は、大学三年生の時に怪我をしてラグビーの道を諦めて以来、ジャーナリズムの道に惹かれるようになったのだが、佐々木が新聞記者を志すようになったのも、この沼沢の影響によるところが大きい。


大学卒業後、佐々木は東京経済新聞に記者として入社し、一方の沼沢も東亜中央新聞に入社したものの、わずか五年で上司と喧嘩をして退職。その後一年間のフリーランス生活を経て、「週刊日本芸能」の記者となったのである。それでも二人は、ずっと親交を維持していた。


「おお、なんだよこんな時間に」


<お前、今どこだ?>


沼沢の声の後ろからは、ざわつくような雑音が聞こえる。


「今、大阪だよ。岡本さんの件で」

<そっか。そりゃそうだよな。あんだけ岡本さんに可愛がられてたんだもんな>


岡本哲之介と佐々木の関係は、沼沢もよく知っている。


「で、どうしたんだ?」

<驚くなよ。東海村の原発施設で事故だ。放射能漏れらしい。興味あんだろ>


思わず、「えっ!」という声を漏らした。大変なことになったのは間違いない。


「どのくらいの事故なんだ?俺んところには何もまだ連絡はないぜ」


そう言いながらテレビをつけてチャンネルを回してみるが、どこにも速報は入っていない。スリープモードになっていたコンピュータを叩き起こし、関連ニュースを検索してみても、何も出てこない。


<公式発表はまだない。ただ、何かあったのは間違いない。まだ反対側の東京方面上り車線だけだが、高速のあちこちで警察が検問をやっている。ざわついてて相当やべえぞ>


「お前、相変わらず情報が早いなあ。いつもの『どろソース』か?」

<まあ、そんなとこだ>


佐々木の言う「どろソース」とは、二人の間の隠語である。週刊誌記者としての沼沢のネットワークは、主に裏社会系に強く、タレ込み屋、麻薬の売人、元犯罪者や元警察官、政治ゴロにフィクサー、ヤクザから右翼、左翼活動家などに至る相当なものであるが、一方で佐々木は政府高官や高級官僚、財界企業人などに通じていた。そこで、二人は主にオモテから取ってくる佐々木の情報を「正油ソース」、ウラの世界から取る沼沢のそれを「どろソース」と呼んでいるのだ。


沼沢の持ってくる「どろソース」のほとんどは、超一流であった。おかげで、佐々木は社会部記者時代にいくつかスクープを取らせてもらっている。例えば、野党第一党である民主連合党の幹事長が六本木で酔って一般女性に猥褻行為を働いた事件は、警察無線を傍受したらしい沼沢がたまたま現場近くにいた佐々木に連絡、真っ先に取材に駆けつけたというのが発端であった。一方で、多くのスキャンダル記事を書いているせいで、沼沢が抱えている現在進行中の訴訟案件は常に五件を下らず、その内容は「名誉毀損」ばかりだ。


もちろん沼沢も、佐々木の「正油ソース」を大いに利用していた。大手新聞社では、いわゆる「ニュースバリューがない」とか「優先順位が低い」とされたニュースや、「週刊誌ネタ」とされる情報は、ほとんど取り上げられない。しかし、時にそのようなニュースが大きな事件に発展することは何度か佐々木も経験していた。そのため、せっかく嗅ぎつけたのに、デスク会議で取り上げられなかった情報を沼沢に優先的に渡しているのだ。


その甲斐あって、沼沢の上げる記事はセンセーショナルなのにいつもきっちりとウラが取れていて、信頼性も高いという評価を得ていた。新聞は社会的信頼と速報性を重視する一方、週刊誌ではセンセーショナリズムを前面に出しつつ、同時に問題の本質をじっくりと掘り下げられる。彼等にとって互いの情報は非常に重宝していたのだった。


「沼沢、今お前はどこにいる?」

<俺は今、高速に乗って現場に向かってる。お前、朝一で大阪を出てこっちに来られるか?>


「無理だ。午後に大切な取材アポがあるんだ」

<とにかく現場はこれから警備が急に厳重になると思う。お前のところ、モタモタしてると後れを取るぞ>


かなりの速度で車を運転しているらしい沼沢が言う。


「そんなことより、お前も気をつけろよ、相手は放射能だからな」

<やべえと思ったらトンズラするよ。とにかく、なんか判ったらまた連絡するわ。近々一杯やろうぜ>


沼沢はそう言って一方的に電話を切った。すでに現場に近いらしく、通話が途切れる直前、<間もなく、那珂インターチェンジ出口です>というカーナビの声がわずかに聞こえた。


それから三〇分ほど、いくらインターネットで探してみても、テレビをつけてみても、原子力事故関連のニュースは出てこなかった。しかし、思い出してみれば、沼沢が嗅ぎ付け、最初に連絡してきた事件が、それから半日もすると日本中で大騒ぎになるということは、今までも数回あった。そのことに思い至った佐々木は、明日になったらきっと全部わかるだろうと思い直し、もう一度ベッドに倒れ込んだ。


小説「結界」の詳細はこちら↓

https://in.renaissance-sk.jp/mrsh1?cap=sh

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