第一章 - 国益 -
三月二四日午後一〇時一八分(強奪事件の三日前)
大阪・天満橋ホテル・グランドカッスル大阪一階ロビー
ワハハハ、という大きな笑い声が、総大理石の広いロビーに響き渡り、あたりの静寂を破った。その声を聞き、ロビーの反対側の物陰から素早く声のする方向を見つめたのは、何時間もその瞬間を待ち続けていたらしい三〇歳前後の一人の男であった。
野太い笑い声の主は、民放の人気料理番組にもよく出る料理人が“本場香港仕込み”の辣らつ腕わんを振るうことで有名な高級中華料理店「金華峡」の入口に立っていた。財務大臣の岡本哲之介だった。永田町界隈のマスコミの間では毀き誉よ褒ほう貶へんがもっとも激しいが、しかし国民受けだけはなかなか悪くならないという、記者泣かせの政治家である。
岡本財務相は、地元後援会の有力者との会食を終えて出てきたところらしく、しかもかなり酒が入って機嫌が良いのか、恰かっ幅ぷくの良いその体を揺らしながら再び大きな声で笑っている。そんな岡本大臣を凝視していた男は、多少汗ばむ右手をコートのポケットに突っ込み、中にある四角くて固い何かをまさぐった。
「いやあ、先生。今日はホンマに嬉しかったですわ。検察も結局、取り下げるしかないということになりましたし、先生のご決意も聞けた。これで日本という国もまた頑張れます」
岡本を取り巻く中の一人がそう言って、満面の笑みで大臣と握手を交わしている。大臣は満足そうな表情で頷き、口を開いた。
「これから、日本はものすごい強うなる。これで積年の夢が叶うんや。負けられへんよ」
「ほんまに頑張ってくださいや。ただ、無理だけは禁物でっせ。うちら、ここで失礼しますけど、先生もあんまり遊ばはらんと、今日くらいはゆっくりお休みになって」
「おう、判ってます。とにかく、地元は宜しくたのんます。また頑張ってまた帰りますんでね」
「わしらも寂しいですけど、御国の御為ですわ。お体には気をつけてくださいや」
「会長、有り難うね!」
岡本大臣は、右手を挙げて後援会の連中を見送ると、秘書と二人でエレベーターホールのほうに向かって歩き始めた。その瞬間を待ち構えていたかのように、男は柱の陰から飛び出した。そして、ポケットから出した何かを岡本財務相に向けて突き付けようとした。その男の姿を見て、とっさに秘書が自らの身体を大臣と男の間に割り込ませ、防御の体勢を取る。
「大臣、東亜中央新聞政治部の者です!」
その声を聞いた瞬間、六〇を超えてもなお脂ぎって色つやがよい赤ら顔の岡本財務相が後ろを振り返り、一瞬ギロッと相手を睨にらみつけたが、その後はそこに立ち止まったまま、少し困ったな、という顔をした。記者の右手に握られていたのは、録音用のICレコーダーであった。
「なんや、トウチュウか」
「ちょっとお話をよろしいですか?」
記者は、顔面を少し硬直させている。短気で迫力ある老ろう獪かいな大臣が一瞬だけ見せたその睨みを見て一層緊張したのだ。
「君、見かけん顔やな」
相手の動揺をすぐに見抜いた岡本大臣は、試すようにその顔を覗き込んだ。それでも記者は負けずに、岡本の目を見つめ返して答えた。
「大阪本社の新田と申します」
相手が目を逸らさないことを気に入ったのだろうか、しばらく岡本大臣は少しだけ表情を崩した。
「久しぶりに地元に帰っとるんやから、のんびりさせてくれよ」
「そこをなんとか」
硬い作り笑いをした記者が食い下がる。
「どうせ、例の迂回献金に関係する話やろ?一昨日、東京でお宅のところの記者に答えたやないか。なんもしてないのに、受託収賄やとか何とか散々に書かれたけど、検察も逮捕許諾請求は国会に出しまへん。確認は取ったんや。なんぼぶら下がられても、白は黒にならんで」
「判りました。それは確認いたします。ただ、お伺いしたいのはそのことではありません」
「ん?ほんならなんや?今夜は部屋に女はおらんし、なんもネタはないぞ」
そう言って岡本は隣の秘書に目配せし、「なあ?」と同意を求めた。五〇代とおぼしき秘書は、痩やせた体をさらに萎しぼませ、下を向いて苦笑した。一方、ICレコーダーを握ったままの記者は、そんな下世話なものを狙ってのことではない、というプライドをその表情に滲ませている。
「ほんまに、君のとこの新聞にかかったら、わしはなんぼ努力してもタカ派の金権悪徳政治家ということになるやないか」
岡本はそう言ってワハハと笑った。
「今日伺いたいのは、純粋に政策のことです」
記者はそう言って、さらに食い下がる。
「ほんまか?」
「はい。それ以上はお聞きしません」
ふーむ、と岡本大臣はしばし考え込んだが、記者の顔を覗き込むと、
「オフレコやったらええよ」
と言った。
「わかりました。有り難うございます」
一気に表情を明るくした記者は、手にしたレコーダーのスイッチを切った。それを見ていた岡本大臣は、意外にも記者の手の動きを制した。
「君、オフレコって約束するんやろ?」
「はい」
「ほんなら、テープは録ってもええ。俺は君を信じよう。そのテープ、もう一回出したらええよ。そのかわり、その録音は君の後学のためであって、世に公開するためのもんやない。俺の考えていることを勉強するという約束や」
「わ、わかりました」
記者は、少し毒気を抜かれた感じで再びICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。
「まあ、そう焦りなさんな。こんなとこで立ち話もなんや。ちょっと上のラウンジに付き合いなさい。そうしたら話をしたるよ。時間、あるんやろ?」
そう言った岡本大臣は、記者の返事も聞かずにエレベーターホールに向かうと、上層階に向かうためのボタンを押した。このホテルの二一階には、岡本行きつけのラウンジがあるのだ。
やがてエレベーターが到着すると、岡本大臣は後ろにいた秘書に対し、「内木さん、今日はもうええわ。守口のお母ちゃんのところに帰ったりや」
と言った。内木と呼ばれた秘書は頭を下げ、
「では、明朝九時にお迎えに上がります」
と言って、岡本大臣と新田記者をエレベーター内に見送った。
上昇するエレベーターの中で、新田は緊張のせいで無言であったが、ほろ酔い気分の岡本はそんな新田記者の様子を可笑しそうに見つめていた。
「君は、出身はどこや?」
「は、はい。山梨です」
突然の質問に、再びどもりながら答えた。
「山梨かあ。懐かしいな。あそこはほんまにええとこやなあ」
「何か特別な思い入れでも?」
「うん。大昔にあそこに桃を食べにいってな」
「桃、ですか?」
「ああ、桃や。あの頃の桃はな、大きいて、汚れのない、そりゃうまい桃やったで」
今の桃とは何が違うのか、農薬の使い過ぎで昔とは品質が変わったりでもしたのか、それとも岡本が桃という言葉に何か別の意味を込めているのかまったく判らない新田が、「はあ」などと曖昧な相槌を打った時、エレベーターが目的の階に到着したことを知らせる「チン」という鈴の音が鳴った。
エレベーターホールの目の前には、薄暗いラウンジが広がっていた。内部には静かなクラシック音楽が流れており、正面の大きな窓ガラス越しには、ライトアップされた大阪城が幻想的に浮かびあがっている。カウンターとテーブルには、それぞれ若い男女のカップルが二組座っており、自分たちの世界に浸っている。
その後ろを通り過ぎた岡本は、応対したフロアマネージャーに対し
「残念ながら、今日は男連れで」
と言って、笑いながら親指で背後にいた新田記者を指した。相手は「いつも有難うございます」と言って会釈し。大柄な岡本の陰に隠れてしまっていた新田を見やった。
「若手の新聞記者さんやが、密談になりそうやねん。奥の席、空いてるかな?いつものところ」
「では、こちらにどうぞ」
案内されたのはラウンジの一番奥にあるテーブルであった。そこで岡本はオールド・バーのストレートを注文し、新田はオレンジジュースを頼んだ。
テーブルの奥のソファーにどっかりと腰を下ろした岡本は、おもむろにスーツの内側からチューブ式の葉巻を一本取り出した。
「今日、まだ二本目やねん。失礼するで」
そう言った時、カウンターのほうからこちらを見ていた先ほどのマネージャーが小走りでやって来た。そして、ポケットからシガーカッターを取り出し、慣れた手つきで岡本から手渡された葉巻の吸い口をフラットに切り取ると、変わった形の銀色のガスライターを使って反対側の断面を炙り始める。その様子を見ながら、新田は思い出したようにして持っていたICレコーダーをテーブルの上に置いた。録音スイッチは「オン」のままであった。
「あの、では早速ですが、噂になっておりましたアメリカとのTPPAの歴史的合意についてですが、あれはどうなりましたか?今日までには内々に決めるという話だったと思いますが?」
その質問を聞いた岡本は、豊かな紫煙を口の両端からもくもくと出しながらその顔をしかめ、
「あれもオフレコやがな。ほんまに君らは信用ならんな」
と言った。
TPPAとは、正しくは「環太平洋経済連携協定」という。アジア太平洋を中心とする十数个国が集まり、相互に関税を撤廃し、域内の自由貿易を拡大して経済を活性化させようというものだ。日本国内ではここ数年、経済団体を中心とする賛成派と、農業団体などを中心とする反対派が激しく対立し、議論は出尽くした感があったが、アメリカは引き続き日本も参加するようにと強い圧力をかけてきている。
そんなTPPA問題に対し、昨年から特命担当大臣兼務の形で交渉に当たっていたのが、岡本財務大臣であった。そして世間は、これまでアメリカ代表と激しい火花を散らしてきた岡本が、ついにその歴史的合意をするのかどうかを注視していた。
「一つ訊くけど、君はTPPAには賛成か?君がわしの立場やったら、どうする?」
突然返されて、記者は黙り込んだ。新聞社自体の意見は賛成である。編集方針もそのように固まっている。しかし、個人的には賛成とは言い難い感情を持っている。もしこの協定に参加したら、日本は製造業から農業、医療、保険、特許にいたる全ての分野でアメリカン・スタンダードに潰されてしまい、国のかたちがなくなってしまう、いう反対派の意見に説得力を感じているのだ。
「ほれ、なかなか答えられんやろう」
「はあ」
新田は素直に負けを認めるしかなかった。
「そうや。あれは非常に難しい問題なんや。確かに貿易立国の日本にとっては、諸外国との輸出入を活発にして経済を活性化せなあかんし、場合によっては関税の引き下げをやらなあかん場合もある。この理屈はわしもよう判るんや。ただし……」
そこでこちらの顔を覗き込んだ岡本の目には、迫力というものがあった。
「日本という国を売るような真似はせん、ということですわ」
驚きだった。世間では、岡本はTPPAの積極的推進派だと思う向きもあり、新田自身もまた単純にそう捉えていた。
「では、大臣はTPPAのどこが問題だとお考えですか?」
辛うじてそう問うた。それに対する岡本の答えは明確であった。
「がんじがらめで秘密主義。それから国体の喪失。以上」
岡本がいう「がんじがらめ」とは、一旦参加国である規制緩和に合意したら最後、どんな問題が生じても二度とその規制を元に戻すことはできない、という条項が入っていることを指している。
「いわゆるラチェット条項、ですね?」
そう言うと、岡本は不敵な笑顔で頷いた。
「では、秘密主義というのはどういう意味ですか?」
「うん。ここはな、もっと国民に知らしめないかんところやが、TPPAのルールの中には、TPPAの中身やその交渉内容は、協定締結から四年間は秘密にせなあかんという守秘義務規定がある。国民の生活を丸ごと変えてしまうかも知らん協定を結ぶのに、国民にその内容を一切知らせないで秘密交渉をやるというのは、国民主権を侵害する明白な憲法違反や。もしこの条約が万人の幸せのためになるんやったら、堂々と公の場で議論すべきやないか。なんで、コソコソと隠れてやる必要があるか」
徐々に顔を紅潮させる岡本大臣は饒舌であった。熱意が迸ほとばしっている。この雰囲気を醒さめさせてはいけない。
「では、最後におっしゃった『国体の喪失』というのは……?」
「判らんかな?」
「もしかして、ISD条項、ですか?」
「その通り」
「あれは、実際には北米でもいろいろと問題になっているようですね」
ISD条項とは、ある国の政策によって海外の投資家が不利益を被った場合、投資家たちは世界銀行傘下の「国際投資紛争解決センター」に訴えを上げられるという制度であるが、そこでは投資家の損害計算に重きを置く裁定が行われ、しかも一審制であり、負けても国家側は上告できないと言われている。
事実、すでにISD条項を含む国際条約をアメリカと締結したいくつかの国では、私企業が国家を訴え、その都度国家は巨額の賠償金を支払わされている。反対派がもっとも懸念するイワクツキの条項である。
「例えば、日本は国民皆保険制度やな。TPPAを結べば、必ずアメリカの巨大大手保険会社が一切の規制なしで日本市場に入ってくる」
「まあ、そうでしょうね」
「それから何年か経った時、彼らはこう言い出すかも知らん。『日本の国民皆保険制度によって、われわれ民間資本が思うようにビジネスができない。これは政府による事実上の規制であるから、我々が過去数年に喪失した利益を日本政府は補償すべきだ』と。その時、彼らは下手をすると兆単位の要求をしてくるだろう」
岡本はそう言って、葉巻を燻くゆらせた。そんな自信たっぷりの岡本を見て、その言い方はちょっと強引過ぎるのではないか、と新田は思った。まさか、いくらなんでも「兆単位」というのは言い過ぎだ。物事には常識というものがある。岡本は話こそうまいが、デマゴーグ癖があるとは言われている。この辺りがまさにそうだなと新田は感じた。
「まさか、そこまでするでしょうか?」
そう問うと、岡本は悪戯っぽく笑いながらも、強い口調で訊いてきた。
「『大臣閣下』には、絶対ないと言い切れる保証はあるのか?」
新田は再び黙った。
「判るかな?少しでも国体の崩壊に繋がりかねない何らかのリスクがあるんやとしたら、わしは担当大臣として、それをもう一度真剣に考え直さんといかんようになる」
確かに岡本の理屈は明快であった。彼は目の前に座る新田を見ながら続けた。
「まあこの問題ではな、官僚同士でも左右上下で大喧嘩や。賛成派は反対派に向かって日本を滅ぼす気かと非難し、反対派は逆に『グローバリストの手先、国賊』とわめく。ほらもう、まとめるだけで大変やで。こんな仕事、はよう降りたいくらいや」
「では、なんでそんな役職に手を挙げられたんですか?」
ただでさえ忙しい財務大臣の職にありながら、岡本は他の閣僚やベテラン議員らが嫌がるTPPA担当大臣をわざわざ志願したのだ。
「そりゃね、こういう厳しい交渉に挑む時は、ケガレのないわしのような政治家が一番強いからな」「どういう意味ですか?」
「そりゃ君、他のセンセイ方やったら、多かれ少なかれ、何らかの弱みは持っている。女関係、酒癖、失言に暴言、裏金......」
そう言って岡本は笑うが、新田は悪い冗談を言っているのだと思った。岡本ほど艶聞が絶えず、ある意味で「ケガレている」と見られている政治家も珍しいからだ。
有能な通産官僚出身の高島昇が総理大臣を務める今の第二次高島内閣は、これまでにないほど清廉潔白との印象が強いが、その中で岡本は異色の存在であり、閣僚入りした際には、各界から「よくもまあ、身体検査に合格したものだ」などという陰口を叩かれていた。
「しかし、こんなことを言っては失礼に当たるかも知れませんが、大臣は以前からそちら方面のお噂はいろいろと......」
「そう、その通り。わしは女性も酒も失言も金も、人間としてのすべての悪事や欲求をとことん極めている。そしてついに解げ脱だつをしてしまった。だから怖いもんは何もない。今あるのは、政治家としての理想だけよ。まあ、斯かく言うわしも、解脱までにえらい時間はかかったけどな」
そう言って岡本が笑ったので、ここで初めて新田もつられて笑った。
「ではTPPA担当大臣をも兼務されたのは、怖いものがないからということですか?」
「だってやな、君。他の議員や閣僚はみんなTPPA担当大臣だけは怖いさかいに願い下げやというんで、高島総理も困ってはった。みんな、海の向こうからの圧力にやられてしまうんや。そのうちスキャンダルか何かで政治家さえ辞めないかんことにもなる。そうして誰もやりたがらんから、御国のためにわしがやるしかないと思うたんや」
事実、これまでTPPA担当大臣をやった閣僚らの何人かは、病気で倒れたり、女性問題で辞任したりということが相次いでいた。
「前の桑山さんも病気で入院されましたね」
「まあ、忙しいフリをしたり、病気になってみたり、担当大臣を交代したり、解散総選挙をしてみたり、いろいろとやり方はある。とにかく、できる限り向こうさんが諦めるまで、TPPAは引き延ばす」
そう岡本が捲まくし立てたところで、あわてて新田記者がその言葉を遮った。
「ちょ、ちょっと待ってください!ということは、TPPAの歴史的合意は延期ですか?もしかして、まったくやらないという可能性もあると?」
もし、ここでTPPAの合意をやらないと岡本が言い放ったら、これは一大スクープには違いなかった。アメリカ側も、ロビイストたちを連日岡本大臣の周辺に送り込み、その上々の反応に期待をしていたからだ。しかし、この会話はすべてオフレコということになっている。
「高島総理とは今朝に話もしてある。それに、ホンマに合意をやるんやったら、今頃呑気に地元に戻ったりしてへんでしょう」
“そうだろう?”という顔で笑いながら岡本が記者を見ている。しかし、記者は生真面目だった。
「しかし、もし合意をしないとすれば、アメリカからだけでなく、推進派の麻野幹事長や財界から大変な反発が予想されますが」
「アメリカはね、もはや民主主義の国ではない。今やあの国は、一握りの銀行屋と多国籍大企業がロビイストを使って政治家らを動かしている。麻野さんあたりは、まさにそんな連中の『手先』やないか」
岡本の笑顔が挑戦的なそれになった。麻野とは、与党幹事長の重職にある麻野紀夫であり、岡本とは別の派閥を率いる政界の超大物だ。それを、外国のロビイストたちの「手先」などと表現されては、記者は黙るしかない。
「ええかな。麻野氏が何を言おうが、彼は幹事長や。一方で、TPPA担当大臣の職ばかりでなく、国の金庫をもお預かりしてんのは、財務大臣のこのワシです。そのワシが、今の条件のままでのTPPA締結は、日本国民の将来に対して百害あって一利なしと見た」
新田は生唾を飲み込むようにしながら次の言葉を待っている。
「せやから合意は無期限の延期とする。これは最終判断です。総理の了解は得てあるし、連立を組む公民党さんにも内々に伝えてある」
そう言ってストレートのウイスキーをグイッと口の中に注いだ岡本大臣には、迫力というものがあった。しかし相手は「政界の狸ジジイ」と呼ばれる男だ。新田は念のため、再確認することにした。
「間違いないように確認しますが、合意はしない、ということですね」
岡本が飲み終わるのを見て畳み掛けると、大臣は聞き分けの悪い子供を叱るような目つきで新田の顔を覗き込んだ。
「君もしつこいな。わしが言いたいのは、アメリカさんにももう一度、すべてを白紙に戻して考え直していただく、ということや。大局的な観点から見ても、この条約はアメリカの中流層をも苦しめることになる。もしそれで財界が文句を言うなら、わしは経団連の若松会長に直接問い質すよ。『あなたは、日本国民、ひいては人類全体の幸福を考えているのか、それとも自社や一部の大金持ちの利益だけを考えているのか』と」
岡本大臣の語気は強い熱気を帯びていた。声が大きくなったせいか、カウンターに座っていたカップルがこちらを振り返っている。その後ろを、黒いスーツに身を包んだ体格のいい男が二人、辺りを窺うようにして入ってきた。そのうちの一人が、一瞬、鋭い目つきでこちらを見たので、記者は思わず目を逸らした。
そんな、何かに怯えるような表情の記者を黙って見据えていた岡本は、すぐに柔らかい笑みを取り戻しながら、
「ちょっと熱うなってしもうたな」
そう言って旨そうに葉巻を一度吹かすと、紫煙が新田と岡本の間に幕を張り、互いの顔が一瞬見えなくなった。その煙を掻き分けるようにして、岡本が再び身を乗り出した。
「国益というものを見据えた時、そこには常に優先順位というものがある。将来の孫の世代のためを思えば、おのずと答えは一つしかないんや」
新田は岡本の目を見据えた。澄んだ目だと思った。
「どうや、君らはこういう発言は記事にはできんのやろう?」
「そんなことはありません。必要に応じて書くこともあります。ただ、オフレコとおっしゃったので」
記者は一瞬気圧された感じになったが、辛うじて否定した。
「おう、普段は守らへんのに、そういうところでオフレコと言えるのはなかなかのセンスや。つまり、君はTPPA合意をやらんというさっきの話をスクープにしたいわけやな。それで、遠巻きにお伺いを立てているんやろ」
記者は押し黙るしかなかった。それを見て、岡本はまた大きな声で笑った。
「よっしゃ、ほんなら書け書け!」
そう言って岡本は破顔した。
「わしはクソ真面目な君が気に入った。ホンマは明日の夕方、東京に帰ってから発表するつもりやったけど、こうなったら、若い君に手柄をやろう。大いに書いたらええ」
相手は新田の心の中を完全に読み、手玉に取って遊んでいる。
岡本財務大臣は名うての人ったらしで、どんなに敵意を持って近づいてきた記者でも、しばらくぶら下がっていると、多くの者は岡本ファンになってしまうということで有名であった。
「ご先祖様が汗水垂らして働き、先の大戦で大変な犠牲を払っても守り続けてきたこの国のかたちをやねえ、弱肉強食をよしとする外国人の、しかも金の亡者らに売り渡すわけにはいかんでしょう。日本は脅したらすぐヘイコラ頭を下げてなんでも貢ぎおるわい、というのは舐められとる証拠ですよ」
体から再び迫力を漲らせた岡本大臣は、葉巻をもう一吸いしたところで、そのまま言葉を続けた。
「『対等なパートナーシップ』とか言いながら、裏で圧力ばっかりかけるんやったら、お前らの国債をドカンと売ってまうどって言いたいわな」
岡本は、アメリカ合衆国の元国務副長官で、現在はワシントンのシンクタンクの理事長を務めるジョージ・フランシスが数ヶ月前に出した《対等な日米パートナーシップ構築のために》という提言書のことを言っている。
ジョージ・フランシスとは、次の米大統領選で当選が確実視されているジュリア・ハミルトンの懐刀で、いずれ国務長官になると囁ささやかれている男だ。元軍人らしい眼光鋭い禿頭の巨漢で、少し声を荒らげるだけで日本の政治家の多くを黙らせてしまうくらいの迫力を持っている。そんな男の書いた、俗に《フランシス・レポート》と呼ばれているこの文書は、外交安全保障問題だけではなく、日本に対してただちにTPPAを締結せよと迫り、また日本は歴史認識問題においてアジア諸国に対する明確な謝罪をすべきだとまで述べていた。このことが、これまで「知日派」としてフランシスを信奉してやまなかった日本国内の「親米派」の多くを困惑させていたのだ。そして岡本哲之介は、そんな親米派らを鼻で嗤わらっていたのだった。
しかし一方で、世界最大の米国債保有国でもある日本がそれを大量に売却するというのは、決して穏やかな話ではない。
「米国債売却はまずいんじゃないですか。橋詰総理は過去にそれを言って、ブラックマンデーになったんですから」
「まあそれを言うたら君、フクシマに続く四発目の核爆発がこの日本で起きるかもなあ」
豊かな煙のカーテンの向こうから記者の素っ頓狂な表情を見た岡本は、本当におかしいという感じで大笑いした。
「この前、同じことをテレビ番組で言うたの知ってるやろ?TPPAも米国債購入も、詰まるところは再び核爆弾を落とされんためや、と。生放送やったから思い切って言うたったんや。ほんなら後で各方面からエラい怒られましてなあ。恐ろしいくらいの圧力がかかったでえ」
「そうなんですか。じゃあ、まずいじゃないですか」
「でも、ほんまのことやもんなあ」
そう言って、岡本は煙たい顔をした。
「日本には一応、言論の自由があるということになってるけど、ホンマの意味でのそれはないんや」
続けてそう言われ、新田は思わず黙った。なぜ自分が黙ったのか、そのことに自らも戸惑っている。
「まあ、それも全部、君らマスコミが一番悪いんやで」
「いえ、そんなことはないと思います。我々は常に事実を伝えているだけです」
根源的な戸惑いを見透かすような岡本に追い打ちをかけられ、辛うじて反論した。
「君自身、判ってるんやろうに。全部ではないが、マスコミの上の連中の多くは、アメリカのリベラル派を気取っている大金持ち既得権益層の言うことばっかり有り難がって聞いている。そんな現状に腹が立たんのか」
ここまで言われた新田は、悔し紛れの質問をぶつけた。
「すると先生は、完全な『反米主義者』なんですね」
少し感情的になった記者に対し、岡本は再びダダをこねる子供に対するような眼差しを向けた。
「あのなあ。そういうレッテル貼りに逃げるのはいかんぞ。ワシは親米でも反米でもない。そもそも日米同盟堅持主義者や。ワシントンにも友人はたくさんおる」
「しかし、先ほどからのお話を伺っていると、どうしてもそうとしか......」
「知ってるか?『大英帝国には永遠の友も、永遠の敵もいない。あるのは永遠の国益だけだ』と言うた人」
「ああ、イギリスの......」
「ヘンリー・ジョン・テンプル首相や。ワシの考えは、まさにこれなんや。こういうことを君のような若い記者にはしっかりと考えて欲しいんや。それで、もしワシが間違っていたら、それを冷静かつ明確に論破して欲しい」
「はい......」
新田記者がそう言って顔を上げると、そこには岡本の大きくて柔和な笑顔があった。それを見て、自らの子供じみた態度を恥じた。
「わしはもう三〇年、国民に認められてここまでやって来てる。検察かてありもしない疑惑でしつこかったが、結局手を引っ込めるみたいやし、ようやく静かに仕事ができます。この私が黙る時は、選挙民や国民の皆さんが『お前はもうええから引っ込め』と言うた時か、私が殺された時かどちらかしかないんですよ。......例えば、ああいうガラの悪い連中にね」
そう言って岡本がアゴを突き出した向こうには、先ほど遅れてラウンジに入ってきたあの黒いスーツ姿の二人組があった。彼らは五つ離れたテーブルを囲み、出された炭酸水に少しだけ手を付けたままで会話もしない。そのうちの一人が、再びこちらに鋭い眼差しを送ってきたが、直後に岡本のために追加のおつまみを持って来た長身のフロアマネージャーの体がその視界を塞ふさいだ。イヤな雰囲気だと思った。
「まさか。やめてくださいよ」
大臣にそう言われてギョッとした記者は、額に汗を浮かべながら苦笑いをした。そんな記者の表情を見て、岡本はまたワッハッハと大声で笑った。
「心配せんでもええ。あいつらは、ああやってワシにいつも付いてくんのが仕事なんや」
「なんだ、ボディガードか」
新田記者は、ここでようやく表情を崩した。まったく、警察官というのも、時に裏社会の人間と区別がつかない時がある。社会部にいた時、マル暴担当の刑事らと知り合いになったが、彼らの多くは本物よりも“それらしい”人たちであった。
「ま、ワシは引き続き信念を持ってやります。TPPAもね、将来の日本国民にとってメリットがあるんやったらやります。でもね、そうやなかったら、そんなに簡単にいくもんやない。少なくとも、当面、ワシの目の黒いうちは日本の国益第一でやります!」
不敵な笑みを浮かべたまま、そうきっぱりと言われてしまうと、記者としては最早何も訊くことがないように思えた。そうして一つため息をついた記者が「わかりました」と言った時、身を乗り出した岡本大臣の左手が、記者の右肩を強く叩いた。
「新田君やったな?」
「はい」
自分の右肩に置かれた毛深く分厚い手を見て、記者が返事をした。
「日本はやがて、世界中の恒久平和に寄与することができるやろう」
「恒久平和、ですか?」
とっさにそんなことを言われ、新田の頭は混乱した。一体全体、この大臣が何を考えているのかを把握するには、相当時間がかかると思ったが、同じ社内で岡本のぶら下がりをやっている東京本社の後輩記者を羨ましいとも思った。
「そうや、恒久平和や。我々日本人は、それを目指さんといかん。核兵器の惨劇を経験し、あのフクシマの未曾有の被害を受けた国民として、核兵器が意味をなさない世界の在り方を目指すのは、我々日本国民の責務なんや。わしはそう確信してるんよ」
「はあ」
新田の頭はまだ付いていかない。岡本は「超タカ派」と言われている男だし、かつては核武装容認とも受け取れる発言を何度かしたことさえある。しかし、この男と話せば話すほど、なぜかタカ派だ、ハト派だなどとそんな単純な価値観では割り切れないのではないか、という気がしてくる。
「いつか、日本の技術がこの世の核兵器なんか何の意味もないようにしてしまうやろう。そしてそれが、日本の平和だけやなく、アジア、中東、アフリカ、欧米、すべての地域の平和に大きく寄与することになる」
「しかし、そんな技術なんてすぐに見つかるんでしょうか」
新田がぼんやりと口を開けたので、岡本はまた大きな声で笑った。
「なんやその顔は。『少年よ、大志を抱け』という話をしているんや。その日が来たら、君の取材を真っ先に受けたるよ。財務大臣、岡本哲之介としてな。ただし、それまではこの恒久平和の話だけはオフレコやぞ」
なんだ、夢の話かと思いつつ、新田はつやのある岡本大臣の顔を見つめた。夢と自信に満ちた、少年のような笑顔だった。その表情を見て思わず、やっぱり、この人はリーダーなんだなと感じていた。そして選挙では、この政治家に自分も一票を投じてしまうかもしれない、とさえ思った。
「ところで新田君、頑張って出世せいよ」
「出世、ですか?」
突然、話題が自分に向けられたので、またびっくりした。
「そうや。君の出世や。ええ記者になり、編集局長になり、役員になって出世するんや。今度、東京に来たら必ず議員宿舎に寄りなさい。一緒にうまい葉巻を吸おう」
そう言って岡本は、再び周囲に響き渡るような大声で笑ったかと思うと、その大きな体ですっくと立ち上がった。そして新田を見下ろして満面の笑みを浮かべた。
「いやあ、お陰で思いっきり文章が書きたい気持ちになったわい。こうやって力が漲る時は、目の前に綺麗な女がおっても、全然興味がなくなる。善は急げや。今言うた話を忘れんうちに、先に失礼するで。......ああ、それからここで好きなだけ飲んでいきなさい。勘定はわしの部屋につけておくから」
岡本は一方的にそう言い放ち、そのままポカンと口を開けたままの記者を置き去りにしてラウンジから出て行ってしまった。彼の目の前には、まだ火のついたまま半分近くも残された太い葉巻が、灰皿の中でうっすらと煙をあげている。その隣で、ICレコーダーだけが周囲の音を吸収しながら回り続けていた。新田は、岡本の大きな背中がエレベーターホールに消えるのを見て、初めて自分の口元がわずかに緩むのを感じた。
小説「結界」の詳細はこちら↓
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