第2話
口を押さえ懸命に声を押し殺し、それでも僅かに吐息を漏らす美希。それは明らかに異常だった。
あきらはすぐさま美希の傍らに寄り添い、体に何か異変がないか確かめようとする。しかし、あまりに悲痛なその姿に言葉が続かなかった。
美希がこれほどまでに泣いているのは、おそらく中学校の時以来だろう。高等部に進級してからというもの、美希の涙を見たことはついぞなかった。やっぱり美希は泣かないくらい強くなったのではなくて、泣かないようにずっと我慢していたのだ。
現に今も泣いているのを周りに悟られないよう、懸命に声を抑えている。
辛いなら、泣きたいなら、思い切り大声で泣けばいいのに。
そうまでして我慢し続ける美希にあきらは胸を痛めた。
「……なにがあったの」
永遠にも感じられる時間が過ぎ、あきらはようやく弱々しい美希の背中に問いかける。しかし返答はなく、答えようとする素振りも見せない。
「落ち着いてからでいいから、ゆっくり話してみて?」
気持ちの整理ができていないから、美希自身どう話していいものか分からないのだろう。だから、あきらは待った。美希の長い髪を撫で、美希の心に寄り添うことで、ゆっくりと話を聞けばいい。
既にあきらの中にソフトボールの文字は消え失せていた。
「――ごめんなさい」
言葉にならない吐息しか発していなかった美希がようやく口をついたのは、謝罪の言葉。けれどそれは、あきらが聞きたかった言葉ではなかった。謝ってほしいのではない。何があったのか知りたいだけだ。そのうえで、自分が介入して解決するのなら、いくらでもやってやる。それくらいの気持ちだった。
「どうして謝るの? 誰かに何か言われたの? それともどこか痛む?」
「……ち、違うの。本当に何でもないんだけどね、ちょっと傷ついたなぁー、って、それだけなの」
「傷ついたって……何があったのか、聞いてもいいよね?」
あきらの圧力に屈したのか、美希はようやく話しはじめる。
「あのね……」
美希が話す内容は取りとめもなく、主述がごっちゃになってしまっていて、理解には少々の時間を要した。しかし、戸惑いながらも言葉の欠片をパズルのように繋ぎあわせていき、やがて美希の身に何があったのかを悟ると、あきらは表情を一変させた。
事の発端はこうだ。
日直の仕事を終えた美希は、いつものように荷物をまとめ、その足で部室へ向かおうとしていた。そこで美希は同級生の女の子数名に取り囲まれ、行く手を遮られたのだそうだ。
その女の子たちは、密かにあきらのことを慕っていたらしい。
いつもあきらに甘えて、いつもあきらにくっついて、それでいてみんなの人気者。そんな美希のことを、疎ましく思っていたそうだ。そんな彼女たちから数々の暴言、侮辱の言葉をぶつけられ、美希は一人涙を流していた、というわけである。
ああ。やはり、美希は変わってなどいなかった。
単に明るくて元気な女の子を演じていただけだったのだ。美希は人の悪意に敏感で、ちょっとでも責められると泣き出す臆病な女の子なのだ。
それなのに、なぜ無理をしてまで理想の女の子になりきっていたのだろうか。
「くそ、ふざけやがって……っ」
甲斐甲斐しく美希に寄り添っていたあきらはすぐさま立ち上がると、犯人を探すため教室を飛び出そうとして、
「――やめてっ!」
他でもない美希に、静止された。
震えながらも確かにあきらの腕をつかみ、必死の形相であきらを押し留める。あんなに弱々しく涙を流していたのに、美希の力は存外強かった。無理やり振りほどくことも不可能ではないけれど、そこまで必死に抑えようとする意図が汲めず、戸惑いを隠せない。
「どうして止めるのっ? 美希がこんなに泣いているのに、黙っていられないよ」
「こ、これは私の問題だから……」
「っ……だから私は関係無いって言いたいの? どうして? 美希がこんなに泣いていて、私が関係ないワケないでしょ!」
「わ、私が自分で解決するから。私の問題だから!だから、あきらは何もしないでっ」
美希の明確な拒絶に、教室から飛び出しそうな勢いだったあきらはいよいよ威勢を失い、憔悴したように肩を落とした。
「……美希、高等部に上がってから変わったよね。泣かなくなったし、すごく明るくなった。……美希は無理しているんじゃないの? それとも、もう、私はいらないの?」
「そ、そんなわけないじゃない! ただ、この件は自分がなんとかしなくちゃいけないって、思って……」
「そんなに無理しなくていいんじゃない? 前の美希だって、素敵なところいっぱいあったじゃない。私が美希の世話を焼くの、嫌だった?」
「……そうじゃない。そうじゃないの。それじゃだめなの。弱い私じゃ、またあきらに迷惑かけちゃうから」
「迷惑なんて、思ったことない!」
「あきらがそう思っていなくても、私がいやなの! どうして分からないの!?」
「わからないよ! わかるわけない! 美希がちゃんと話してくれないから」
「もういい! あきらのバカ!」
終わりの見えない論争の果てに、美希はいよいよあきらに罵声を浴びせ、勢いのままにあきらを突き飛ばした。あきらが思わずふらつき、たたらを踏んだのを横目に、美希はそのまま教室を飛び出していってしまった。
静寂に包まれる教室の中で、荒々しく扉が開閉される音はやけに響く。
「っ……」
暗がりの教室に取り残されたあきらは、呆然自失の状態で、美希の走り去っていった方向を眺めていた。やがて視界が歪みはじめ、立ち眩みがして、たまらず床へ崩れ落ちる。
そうして沈黙すること、数秒。
「な、なんで……」
あきらはようやく言葉を発することができた。
――生まれて初めてだった。美希に罵られたのは。拒絶されたのは。
迷惑なんて、むしろどんどんかけてくれていいのに。美希の世話を焼くのは昔からずっとあきらの役目だ。なにが、そんなに嫌なのだろう。
教室に一人残されたあきらは、もう途方に暮れるしかなかった。
――何がいけなかったのだろう。
そればかりを考えていた。
翌日、美希は学校を欠席した。
帰宅後から急に体調を崩したとのことだったが、昨日の一件が美希に精神的な負担を掛けてしまったのは明白である。
昨日の今日で、きまずい思いはあったけれど、それよりも美希の体調が心配だ。それだけが気がかりで、勉強にも全く気が入らない。
そんなひどいありさまだったから、授業が終わると、あきらは部活動などほっぽり出して一目散に美希の家へ向かった。
インターホンを押して待っていると、あきらを迎えたのは美希のお母さんである。
「あ、あら、あきらちゃん」
「こんにちは。美希、体調どうですか?」
「今朝は39度近くまで熱があったんだけど、今はだいぶ落ち着いているわよ」
「そうですか、良かったぁ。あの、今、美希に会えますか」
あきらとしては当然の言葉で、それは美希のお母さんも当然想定していたはずの言葉だ。
「……ごめんね。美希、今はあきらちゃんに会いたくないんだって」
「えっ……」
けれど、帰ってきた言葉はあまりに無慈悲で。そんなことを言われるとは、まったく想定していなかった。
「美希とあきらちゃんが喧嘩だなんて、初めてよね? 今は美希も機が動転しちゃってるのかもしれないから、落ち着いたらまた美希に会いに来てね」
しかし美希のお母さんのその言葉は、あきらの耳には届かなかった。
――美希が、私に会いたくない?
信じられない一言が、あきらの心にぐさりと突き刺さったから。
そんな訳、ない。
――美希が。私に。会いたくない。
なんで? なんでなんでなんでなんでなんで!
今、美希が一体どういう思いでいるのか、あきらには見当もつかない。かつては以心伝心といっても過言ではないくらい、お互いのことを分かりあっていると思っていたのに。
何がいけなかったのだろう。何が、美希を怒らせたのだろう。
あきらは美希のことが何も分からなくなってしまった。
その後、どのように帰宅しただろう。
美希に拒絶された。美希に嫌われた。そう思うたびに頭のなかはかき乱され、動悸が激しくなる。幾度となく心の中で自分を責め、妄想で自分を何度も殺した。頭によぎるのは後悔ばかりだ。
そうして美希のことばかりが頭を巡ってしまい、何をしようにもめっきり気が入らないものだから、帰宅してからというもの、あきらはずっとふさぎ込んでいた。そのあまりの憔悴ぶりに、お母さんがついに見かねたのだろう。そっと部屋に入ってきて、声を掛けてきた。
「あきら。どうしたの、何かあった?」
「え……?」
優しくて、あったかい言葉。
美希にもそうやって声をかけていれば、あんなことにはならなかったのかな。
あのとき一番つらかったのは美希なのに、独りよがりになりすぎていたのかな。
何をしてもふとした瞬間に美希の姿が頭に浮かんできて、途端に意気消沈してしまう。
「よかったら、話してみない?」
けれど、にっこりと包み込むような笑顔で隣に腰を下ろし、優しく促してくれたから。
だからあきらは、縋る思いで今日の一件を語り始めた。
「あのね――」
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ぐちゃぐちゃになった頭で、なんとか状況を整理しつつ一通りお母さんに話し終えると、お母さんは苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。数秒の妙な間を空け、言いづらそうに口を開く。
「……あんたたちが、自分で解決しなくちゃいけないことだと思っていたのだけど」
「な、なにを?」
その語り口に、あきらは思わず生唾を飲み込む。
「美希ちゃんが変わり始めたのは、中等部3年生の終わりごろ――重い病気がようやく治って、退院した頃だったかしら」
「そうだと、思う」
ひっつき虫みたいにずっとあきらに抱きつき、泣いていた美希が、それ以降めっきり泣かなくなったのだ。そんな様子に違和感こそ覚えたものの、おかしいとは感じなかった。そう思うようになったのは、高等部に上がって活発にクラスメイトと交流するようになってからだ。目に見えて明るくなり、性格が180度変わっていった。
「美希ちゃん、あんたには言わなかったけれど、入院中にすごく悩んでいたことがあったのよ」
「悩み?」
それは初耳だった。あの美希が、自分ではなくお母さんに悩みを相談していたなんて、寝耳に水だ。何かあれば、まずは自分に相談してくれるものだと、勝手に思っていたから。
「ええ。私のせいであきらは中等部最後の試合を棒に振ってしまった、って泣いていたわ」
「え……」
そう。
美希が突然の発作で緊急入院となったあのとき。
運悪くソフトボール部の大会とが重なってしまって、あきらは周囲の反対を押し切り美希の見舞いを優先したのだ。
だって、美希より大切なものなど、あきらにはないから。あきらにとってはソフトボールの大会よりも美希の容態の方が重要で、だから後者を優先しただけの話でしかなかった。美希のためなら、たとえすべてを敵に回したっていい。それくらいの気持ちだった。
「そんな! そんなつもりじゃ!」
思わず立ち上がり、
「……あのね、あきらにそのつもりがなくても、美希ちゃんはそう思っちゃったのよ」
優しく諭され、あきらはそれ以上の弁明の言葉を失った。
あきらとしては大切な美希のためにやったことだったけれど、美希はそれをあまりに重く捉えてしまったのかもしれない。
「あきらには試合を頑張って欲しかった、試合に勝って欲しかった。でも、それをさせられなかったのは自分のせいだ、って。多分、美希ちゃんが変わったのは、あきらに迷惑をかけたくないと思ったからじゃないかしら」
良かれと思ってそうしたのに、結果的に美希は自分を責めてしまったのだ。
「あ、あたしのせいで、美希を追い詰めちゃった……? あたしが……あたしのせいで……」
あたしが美希を変えてしまった……?
美希はどうして変わったんだろう、って呑気に考えていたあきら。なんて馬鹿なんだろう。
――原因は他でもない、自分なのに。
――自分が全ての元凶なのに。諸悪の根源は自分だったのだ。
「んっ……お母さん?」
唐突にあきらはお母さんに抱きしめられた。
「……ごめんなさい、あきら。あなたを責めている訳じゃないの。泣かせたい訳でもない」
「え……?」
あきら自身にも自覚はなかったけれど、あきらは涙を流していた。双眸から流れ落ちる一筋の雫を、お母さんの指がそっと拭う。
「あきらは美希ちゃんのこと大好きでしょう? 美希ちゃんだって、あきらのこと大好きなのよ。今はちょっとすれ違ってしまってるだけ。今はあれこれ考えても、落ち込んでしまうだけだと思う。だからまずは落ちついて、それからゆっくり考えなさい。いつでも相談に乗るから」
温もりを帯びた手で頭を撫でられ、いよいよあきらの涙腺は崩壊した。縋るようにお母さんの懐に飛び込み、わんわんと嗚咽を漏らす。
お母さんの言う通り、美希に拒絶され、後ろ向きな考えしか出てこなくなってしまっている。
今のあきらには、自分を責めることしかできないから。後悔と自己嫌悪ばかりが渦巻き、どうあっても悪い方向にしか考えられずにいる。
――あの頃の美希も、そうだったのだろうか。