第1話
「ごめん、ごめんね、あきら……」
病室の寝台で、美希は何度も力なくそう呟いていた。謝りたいのはこちらの方なのに。本当に辛いのは美希のはずなのに。
美希は自身の病気に対する恐怖や不安を、ほとんど口にしなかった。
どうしてそんなに謝るのか、あきらにはまったく見当もつかなかった。
「大丈夫、大丈夫だから。美希は自分の体を治すことだけを考えてればいいの」
あきらは祈るように「大丈夫」と何度もつぶやき、見舞いに持ち込んだアイリスの花をそっと美希の傍らの花瓶に挿した。美希の手を優しく握ると、闘病中のためかいつにも増して白く冷たかった。
このまま美希が消えてしまいそうな気がして、あきらはより強くその手を握り締めた。
――離さない。絶対離さない。
物心ついた時には、既にあきらのそばには美希がいた。儚げに微笑んで、あきらを見守ってくれていた。いわばあきらと美希は一心同体。離れることなどありえない。あり得るはずがないのだ。
――だから、絶対離すものか。
その一心で、あきらは懸命に声をかける。
「病気が治ったら、また試合見に来てよ」
だから頑張ろう、って。そう声をかけると、冷たい美希の手はほんの少しだけ反応を示した。ぴくりと僅かに動きを見せた指を、包み込むようにあきらの手が覆う。
「……うん」
その口から紡がれる声はとてもか細く、吹けば一瞬で塵と化してしまいそうだ。
「私、三振取りまくっちゃうから。私の活躍、見たいでしょ?」
瞳が涙であふれそうになっても、それでもあきらは声をかけるのをやめなかった。やめてしまったら、それこそ心が折れてしまいそうだったから。
美希がそばにいれば、美希が応援してくれれば、あきらはそれだけで何でも出来そうな気がする。美希がいてくれることが、何よりあきらの自信に繋がっているのだ。
「ごめんね……迷惑かけて」
「いいってば。謝らないでよ。あたしは美希の世話を焼くのが好きなんだから。美希は気にしなくていいの」
両の手で美希の手のひらを包みこみ、あきらは今の自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべた。
「だから……だから、今はゆっくり休んで」
けれど、その笑顔が果たして本当に笑顔だったのか、あきらに確かめる術はない。実際は表情が硬く引きつってしまっていたかもしれない。ただ、その言葉で安心はしてくれたらしく、美希はゆっくりと目を閉じる。やがて、すうすうと穏やかな寝息をたて始めた。そこでようやく、あきらもほっと一息ついたのだった。
しかし当然、まだ安心はできない。美希の表情は、安穏とは程遠かったから。額には汗が滲み、端正なその顔は苦痛に歪んでいる。
見ていられなくて、あきらは思わず美希のさらさらの黒髪をそっと撫でてやった。指と指の合間を、艶やかな髪が擦り抜けていく。その感触にあきらは思わず目を細めた。瞳からあふれた涙粒が一滴、美希の頬へと零れ落ち、一本の線が描かれる。
「大丈夫、絶対よくなるよ」
ぽつりと零した言葉は、果たして美希に向けた言葉だったか。
――どうして美希がこんな目に遭わなければならないのか。
――どうして、どうして。
答えのない無為な疑問ばかりが脳裏を巡り、正常な思考ができないまま、あきらもまた美希の傍らで静かに意識を落としたのだった。
-1-
白鷺女学園の河下あきらと雪城美希といえば、学園内で知らぬ者はいないベスト・カップルである。
170を優に超える高身長のあきらは、その端正な顔立ちと、ソフトボール部のエースとして活躍していることから、周囲からは学園の王子様と呼ばれている。
対して、ほっそりした体躯の美希は、あきらとは正反対の女の子である。腰までゆるやかに伸びる流麗な黒髪が儚げな印象を与えている。ソフトボール部のマネージャーとして甲斐甲斐しく王子を支える様子から、まるでお姫様のようだと評判高い。
白鷺の王子あきらと、白鷺の姫美希。
その評判を気恥ずかしく感じつつも、あきらは美希の王子様でいられることを内心誇りに思っていた。だから周囲の期待を裏切らぬよう、美希の王子となるべく日々努力を続けてきたのである。しかし、そんな王子の苦労をよそに、白鷺の姫は今日も元気に教室を駆け回り、人懐っこい笑顔を誰彼構わず振りまいている。
「ねね、昨日のテレビ見た? 超面白かったよねーっ」
朝、学園に到着し教室に入るなり、美希はクラスメイトたちの方へ駆け寄って輪の中へ入ってゆく。楽しそうな笑顔をその儚げな容貌に湛え、昨夜のテレビの感想を明朗に語りだした。
「見た見た! 主役の子かっこよかったぁ!」
クラスメイトの子たちも美希の笑顔に絆され、話が弾んでいる。
高等部に入ってからの美希は、まるで中身がほかの子と入れ替わったのかと思うくらい明るくなった。以前の美希は人見知りで、何かあればすぐに泣き出してしまう臆病な女の子だったのだ。ちょっとでも不安になると、その丸い双眸に涙を潤ませて、「あきらぁ」と涙ながらに頼ってきたものだった。
それに反して今の美希は、いつも笑顔で明るいおてんば娘。泣くことがなくなり、周囲に元気を振りまくようになった。
だから、きっと美希は強くなったのだろう。
それは確かに良いことだと思うけれど……。
美希たちの楽しそうな様子を微笑ましく見つめつつも、あきらは僅かに唇を噛み、クラスメイトと談笑する美希の背後をそっと通り過ぎた。
席につくなり、あきらはそわそわと鞄の中から教科書を取り出す。一限目の教科の予習である。ちらちらと美希の様子を伺いながら、あきらは教科書を読み進めていった。
「あーきらっ」
それを邪魔する者が一人。美希である。
あきらと教科書との間に顔を滑りこませ、吐息が肌に当たるほどの至近距離で声をかけてきた。
流麗な黒髪があきらの腕に垂れ込み、シャンプーの匂いが仄かに香ってくる。くらくらしそうになりながらも、顔にはそれをおくびにも出さず美希の両肩を掴み、押し出して距離を取った。
「なんだよ、勉強中だぞ」
美希は唇を尖らせながら、今度は背後から抱きついてきた。
「もう、構ってよぉ~」
美希の柔肌と最近育ってきた双丘のやわらかな感触が、またもあきらの心を惑わせる。とたんに胸の鼓動が早鐘を打ちはじめる。教科書の内容なんて、完全に頭から消え去っていた。
「しょ、しょうがないな。何をしてほしいんだよ」
それでも、そんな心情を悟られたくなくて、あきらは静かに呼吸を整え、平静を装う。
「えとね……宿題見せて?」
無邪気で吸い込まれそうなその瞳でまっすぐ見つめられ、一瞬時が止まった。
「……また忘れたのか。もう、なんでちゃんとやってこないんだよっ」
「えへへっ」
「えへへじゃないだろ、まったく。……ほら」
言われるがまま、あきらは文句をこぼしつつもノートを手渡した。王子、即陥落。
仕方がない。甘いとわかっていても、こうして美希にお願いされるとどうにも断れない。姫の願いをついつい聞いてしまうのが王子のさだめである。
「わーい! ありがと、あきら。これお礼っ」
美希はノートと引換えに、一本の水筒を渡してきた。中にはスポーツには欠かせない、キンキンに冷えたスポーツドリンクが入っている。それは部活に励むあきらのために用意してくれる、美希特製のドリンクだ。
「ん。あんがと」
あきらが慣れた様子でそれを受け取り、美希はノート片手に一目散に自席へと走り出した。
――忙しない子だ、まったく。危なっかしくて目が離せない。
美希が無事自席に腰を下ろし、喜々として宿題を写し始める様子を見て、あきらはため息を吐いた。
「相変わらず過保護だねぇ、あきらっちは」
「え?」
背後から呆れたように声を掛けられる。振り向くと、そこにいたのはソフトボール部のチームメイト、宮田春香だった。
「別に過保護なんかじゃないよ。さっきだってちゃんと叱ってやったし」
「何言ってるのさ、美希っぺに抱きつかれてにやけてたくせに」
「は、はぁ? にやけてなんか」
「ふふふ、今日も白鷺の王子様とお姫様はラブラブですなあ」
「も、もう! からかうなよっ」
春香と話しながらも、あきらはぼんやりと美希の姿を見つめていた。
美希が楽しそうに他のクラスメイトと談笑する様子を眺めていると、時折どうしようもなく不安になることがある。
つい最近、中等部を卒業するまで、泣き虫で臆病だった美希。そんな美希の隣には、常にあきらがいたし、いなくてはならなかった。美希にはあきらが必要なんだ、守ってあげなくちゃ、って。その役目を担うのは自分しかいないという、確かな自信があきらにはあった。
それなのに、美希は高等部に上がった途端、人が変わったように溌剌とした性格になってしまった。隣でそれを目の当たりにしたあきら自身が戸惑いを隠せないほどには、急激な変化だったのだ。
そうして美希の笑顔を眺めていると、たまに言いようのない不安が押し寄せてくる。
「……性格が180度変わることって、あるのかな」
それは、決して返答を期待して口にした訳ではなかった。そもそも口に出したつもりもない。心の中に潜む不安の欠片が、言の葉として現れてしまったんだろう。
「は? どしたん、あきらっち。性格が180度変わるって、どゆこと?」
「……え? あたし、声に出してた?」
「思い切り出てたよ」
春香に指摘されて初めて、あきらは自分が声に出していたのだと気づいた。
「うっわ、ほんとにっ!?」
「おおう……無意識だったのか、かわいいなぁ~」
からかうように頬を突っついてくる春香の指を払いのけながら、あきらは唾を飲み込んで、いたって真剣な表情で口を開く。
「あーもう……まぁいっか、この際だから話したいんだけどさ」
「んー? なになに?」
「あのさ、美希が、中等部の頃は泣き虫で、あたしが付いていないとすぐ泣き出しちゃうような臆病な子だったって言ったら、信じる?」
「へ? あの美希っぺが? いやいや、まさかそんなワケないでしょ」
春香は高等部からの編入生だから、中等部までの美希のことを知らない。今のおてんばで元気に満ち満ちた美希のことしか知らないのだ。
同じ美希なのに、あきらと春香たちでは認識が異なっている。
――2人の美希が、存在している。
「いや、そんなワケあるんだよ」
始めはありえないと笑い飛ばしていた春香だけれど、あきらが真剣な表情で語ると、春香も眉をひそめた。
「……マジ?」
春香の問いに頷くと、あきらは中等部までの美希のエピソードを語ってやった。
あの頃の美希は可愛かった。いや、今ももちろん可愛いのだけれど。
何をするにもあきらの下から離れず、ことあるごとに抱きついてきた。それを無理やり引っペがそうとすると、うるうると瞳を潤ませるものだから、困ったものだった。でもそれが可愛くて、笑ってほしくて、あきらもまた美希のそばに寄り添い、ともに生きてきたのだ。
「……ふーん、あの美希っぺがねぇ」
「別に、美希が変わったからといって、あたしの接し方が変わるワケじゃないんだけどさ。時々、美希は無理してるんじゃないかって心配になるんだ。だってさ、こんなに一気に変わるなんて、並大抵のことじゃないでしょ。それに、あたしは以前の美希がだめだったなんて思ってない。無理して、自分を押し殺してまで変わろうとしてるなら、ちょっと悲しいなって」
「そっかぁ……まあ、急に親友の性格がそこまで変わったら不安になるよね。でも、仮に美希っぺが無理しているんだとして、それは強くなろうと頑張っているからでしょ? 見守ってあげればいいじゃない。美希っぺが辛いとき、支えてあげればいいじゃん。それができるのは、あきらっちだけでしょ。ね、白鷺の王子さま」
「うん……そうだね……」
美希を支えてあげられるのは、自分だけ。もちろんあきらにその自負はある。美希に何かあったら、すべてを投げ出してでも真っ先に駆けつけることだろう。今あきらに出来るのは、頑張っている美希を支えてあげることだ。
確かにその通りだと思った。
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そんなお悩み相談をした、まさにその日の放課後。
何とも言い難いあきらの漠然とした不安は、早くも現実として突きつけられた。
それは、いつも通りソフトボール部の練習が始まったときのこと。
マネージャーの美希がいつまでたってもグラウンドにやってこないから、あきらは業を煮やした監督に言われて探しに行ったのだ。
普段は授業が終わると、一緒に肩を並べてグラウンドへ向かうのだが、美希は日直当番だったから、あきらはしぶしぶ一人で部活へ行ったのである。こんなことなら、日直の仕事が終わるまで美希を待っていればよかった。
何かあったのだろうかと不安に駆られて早足で教室に赴き、その扉を開けると。
「美希っ!?」
――夕陽が差し込む暗がりの教室の中でただひとり、美希が声を押し殺して泣いていたのだった。