Long Sleeper
左手首にナイフを当て、スッと引く。
ポツポツと湧き出るように傷口から血が溢れ出す。
かつては世界中の人々から賞賛され、持て囃され、名誉の全てを手に入れたとも言われた男は、灰色の部屋の中で薄く笑った。
ドンドンドンドン!とドアを叩く音がする。
「ここを開けなさい!今なら罰は与えない!早く出て来なさい!」
刑務官達の叫び声は彼の耳には届いていなかった。
「ふふっ。ふはははははは。ふははははは!!」
彼は突然大声で笑い出す。
表情は、ここでは不思議なくらい清々しい、とびきりの笑顔だった。
彼の笑い声は初めは力強かったが、段々とか細くなっていく。
彼は意識を手放した。
◆
「出来た!これでVRという新しいエンターテイメントが一般的になるぞ!」
「やりましたね!博士!」
男達は白衣がぐちゃぐちゃになるのも気にせずに歓喜に震え、抱き合いお互いを称えあった。
2016年。
VRという技術は今までの常識を覆した。
ゲームは今までの画面に映し出されたものを見ながらプレイするものではなくなり、画面の中に入って遊ぶものに変わった。
職業訓練は実地研修を行う必要がなくなり、訓練効率が大幅にアップすることとなった。
「他人の気持ちを考える」という点においてならば、仮想現実の中に個人毎に「どう世界が見えているのか」ということをデータ化し、他人の世界観を擬似的に体験することができるようになった。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の者にはトラウマを追体験させることによって克服させるという治療法も確立された。
これらの功績により、男は持て囃され莫大な財を築くこととなる。
◆
さて、話は変わるが、日本という国は非常に自死する人間が多い。
世界でも常に上位に位置する恵まれている国であるにもかかわらず、である。
確かに現代においては個人の精神を省みず、全てを社会の歯車として扱うような風潮があった。
それらを苦痛に感じるものは少なくなかったのだろう。
社会人は仕事に忙殺され、毎日の残業で恋人を作る暇すらない。
学生は受験競争に怯え、疲れ、そして自分が生きる意味すらわからなくなってしまう。
そこで注目されたのがVR技術だった。
政府は自死してしまう人間を減らすために仮想空間でストレスを発散させることにより、精神の平衡を保たせるという政策を打ち出した。
実際、この政策は成功を収めた。
人々は、社会で溜まったストレスを現実ではない空間で発散することにより救われ、みるみるうちに自死するものは減ることとなった。
博士は高度なVR技術を開発し続け、1人でも多くの人を救おうと、額に汗して研究をし続けた。
彼は多くの自死者を未然に救ったことにより国から表彰され、世界でも偉大な科学者として名前を知らない者はいなくなった。
つまり、人間はそれほどまでにこの技術に依存し始めてしまったのだった。
狂った歯車は段々と歪みを大きくしていき、気付いたときにはもう戻すことはできなくなってしまう。
それに気付けた者はいただろうか。
◆
博士がVR技術を開発してから数年後、日本は近年でも稀に見るレベルの「幸福度の高い国」となった。
経済の発展や平均所得の高さは言うまでもなく、
精神的に多くの人々が満たされたのが大きな要因の1つとなったことは否定できない。
しかし、ここ最近ある社会現象が巻き起こっていた。
「現実には希望を持たない。だから一生仮想現実で生きていればいい。」という思想が生まれたのだ。
仏教の始祖であるブッダはどれだけ財を手に入れようとも老いや、病からは逃げることはできないということに絶望したという。
彼自身は王族の出身であるから、満たされた生活をいつか失ってしまう恐怖に耐えられず、悩み抜いた上それらを超克する者になろうと決めたのだろう。
まさに今の人々はそれだった。
理想を実現することができる仮想現実というものがあるのに、なぜわざわざ多くのリスクを孕んだ現実世界で生きなければならないのか、と。
誰もがブッダのように乗り越えようとする意志を持っているわけではない。
むしろ彼のような考え方をできる者は稀であり、少しでも楽な道があるのならそちらに逃げようとしてしまうのが人間としての本能だ。
それからさらに数年が経ち、ある法律が成立した。
日本は憲法で基本的人権を認めている。
その中で「個人が他の個人の自由を損なわない範囲で自由に振る舞うこと」を認めていのである。
それを根拠として、「仮想現実で一生を終える権利」
というものを認める法律が制定されてしまったのだ。
博士は困惑した。
「本当にこれでいいのか?」と。
彼は現実に苦しむ人々を現実世界の中で立ち直れるようにするために、仮想現実というものを開発し続けたのであって、人間を仮想現実に耽溺させようとしたわけではなかったのである。
◆
それからの世界は変わった。
日本で制定された法律は先例となり、海外でも次々と同じような法律が制定されていった。
しかし、仮想現実で一生を終えるには莫大なお金が必要であり、初期の頃は年老いた富豪が夢の中で生を終えることに使われたくらいだった。
だがどうだろう。
時として全てのことは開発者や提唱者の元を離れた途端、他人の恣意的な改変によって全く別のものに昇華してしまうことがある。
例を挙げるならばノーベル賞でおなじみのダイナマイトが有名だろう。
元々ダイナマイトは鉱山での採掘などで使われていたはずだ。
しかし、ノーベルの意図しない戦争という非人道的な場面でも使われるようになってしまった。
博士にとってのVR技術もそれと変わらなかった。
すでに技術の研究は彼の手を離れ、どこか遠いところで行われているようにも感じられた。
すぐに大量生産によって仮想現実で一生を終えることは一般市民でもできるようになり、多くの人々が現実世界を捨てていった。
◆
ここで、また関係のない話となる。
人間は生命体だ。
学術的に分類するなら「動物界脊椎動物門〜(以下略)」というように長々とした名前が付いている。
さて、地球上には(もしかすると他の惑星にも)ヒト以外にも様々な生命体が存在する。
それらとヒトとの違いは何か、ということは古代からの大きな哲学的な命題として有名だろう。
答えは諸説あるが、その中に「理性があるから」というものがある。
つまり、ヒトは精神活動を行うことによって自己が他の生命体とは違うということを区別しているのであった。
では、精神活動を行わないヒトはヒトたり得るのか?
その答えは誰にもわからない。
◆
現実世界で生きている人は、瞬く間に減っていった。
その弊害として、政治や公共的なものは滞りがちになり、現実世界で生きていくことの方が難しいという状況に陥ってしまった。
インフラ関係はスーパーコンピュータ+AIによって順調に運営されていたが、何しろ人がいない。
街を歩いても、ビルに登ってみても、田舎に行ってみても、人を見かけること自体が珍しくなっていた。
博士はずっと考えていた。
このままでいいのかどうかを。
老い先が短いであろう自分は仮想現実で生涯を終えるつもりはなかったが、このままではヒトという種族は滅びてしまうのではないかと。
実際に、仮想現実で人間ができる全てのことを体験できるため、わざわざ現実で妊娠や出産の辛さ、子育ての難しさを身を以て体験しようなどという物好きな者は存在しなかった。
つまり、なんと博士は擬似的にヒトという種族を殲滅しつつあったのだ。
それは彼の「このままでいいのか」、という葛藤を大きくさせた。
そして、彼に大きな決断をさせた。
それは「仮想現実を壊す」ということだった。
彼は必死だった。
彼自身の願いとは異なり、世界は崩壊の一途を辿っていた。
それに気づくことのできない仮想現実の住人達。
そして彼は思ったのだ。
「彼らに世界崩壊を止めさせるのは開発者である私の役目ではないのか」と。
◆
それからの彼は、彼を信じて現実世界に残った愛弟子達と寝る間も惜しんでプログラムの構築を行なった。
彼が目指したのは3つのこと。
1.仮想現実でも、世界は思い通りにならないという疑念を抱かせる。
2.現実世界に全ての人間が帰って来たところで、修復不可能になるレベルのウイルスをネットワークに流し込む。
3.絶対に人間は殺さない。
◆
それから4ヶ月後、彼らは作戦を実行に移した。
作戦は半分成功、といったところだろうか。
仮想現実は粉々にされ、ウイルスによって汚染された。
しかし、彼らはミスを犯した。
プログラムが不完全だったことにより、数万人の人間を殺してしまったのだ。
彼はすぐに愛弟子達を逃した。
誰の目にも届くことのない暗い闇の中へ。
そして彼は現実世界に戻って来た人々によって逮捕された。
「21世紀で最も偉大で愚かな大量殺人鬼」として世界に名を轟かせ、すぐに裁判にかけられることとなった。
マスコミは彼を面白おかしく取り上げ、仮想現実を開発したのは大量殺人を行うためとまで報じられた。
しかし、彼に悔いはなかった。
1つとあるとすれば、ミスによって多くの人を殺してしまったことだった。
彼は裁判の間中ずっと笑っていた。
その裁判に傍聴しに来た人、裁判官、検察官、その裁判に関わった全ての人の顔を見て、笑ったという。
(弁護士はいない)
その理由は、恨みや、怒りといった感情からではない。
彼は純粋に嬉しかったのだ。
人々が現実世界に戻ってきたことが。
彼がとった行動で多くの人が命を落とすことになったが、その行動自体は正しかったのか、それとも間違いなのか、判断を下せるものはいないだろう。
しかし、世論は彼に最後通告を突き付けることとなった。
◆
そして彼は死刑囚として収監された。
刑務官達からのリンチは日常茶飯事。
歯は全て折られ、左目は光を失ってしまった。
肌はボロボロで常に青痣が身体のどこかにあるような状態だった。
彼はある日、夕食に出た食器のナイフを掴むと一瞬の隙をついて逃げ出した。
しかし、厳重なセキュリティを誇る刑務所に逃げ場などなく、彼は倉庫に逃げ込んだ。
そして壁に背を預けてへたり込む。
震える手ではナイフを持ち直し、左手首にナイフを当て、スッと引く。
ポツポツと湧き出るように傷口から血が溢れ出す。
かつては世界中の人々から賞賛され、持て囃され、名誉の全てを手に入れたとも言われた男は、灰色の部屋の中で薄く笑った。
ドンドンドンドン!とドアを叩く音がする。
「ここを開けなさい!今なら罰は与えない!早く出て来なさい!」
刑務官達の叫び声は彼の耳には届いていなかった。
「ふふっ。ふはははははは。ふははははは!!」
彼は突然大声で笑い出す。
表情は、ここでは不思議なくらい清々しい、とびきりの笑顔だった。
彼の笑い声は初めは力強かったが、段々とか細くなっていく。
彼は意識を手放した。
◆
目を開けると白い天井が1番に目に飛び込んで来た。
眩しいライトが正面から当てられていて、視界が定まるのに時間がかかった。
突如としてライトの光を遮るものが視界に現れる。
「あら、お目覚め?なかなかひどい夢を見ていたようね。」
女性は手に持ったタブレットを見ながら顰め面で言った。
頭についたヘッドギアのような機械をそっと外すと、青年もまた、同じような顰め面で言った。
「これもまた理想とは程遠いものですね…。」
「そうね…。何がいけなかったのかしら…。」
白衣を着た女性は顎に手を当てて唸り始めた。
青年は寝かされたベッドから立ち上がり、ハンガーにかけられていた白衣を羽織った。
「まだまだ理想には遠いですけど、頑張るしかないですね。」
「そうね。頑張りましょう。」
「でももう僕をモニター代わりにするのはやめて欲しいです…。」
「仕方ないじゃない!研究費がおりないんだから!」
「はぁ…。」
白衣を羽織った青年は大きく溜息をついた。
どうでしたか?
いわゆる夢オチというやつに分類されるような形になりますが、結構考えさせる話だったんじゃないかな?と個人的には思っています。
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お読みいただきありがとうございました。