私の瞳
僕の瞳の彼女視点です。
私は生まれも育ちも覚えていない。
ただ気が付いたときには学校に通っていて、いつ会ったかも分からない人たちと友達になっていた。
一つだけ分かることと言えば、私が人間ではないということだ。
そのことに気づいたのは私が人間を人間だと認識することからだった。普通、人間は他の人間のことを一々人間だと思考しないらしく、それを一個体のものとして判断している。より砕けて言えば、人間が犬を犬だと認識することに似ているかもしれない。
そのことに気づいたのは友達との日常会話での些細な齟齬からであり、私は所詮人間に近しい存在なのだと思い切らされたことでもあった。
私は誰かによって造られ、何の為かは知らないがこうして学校に通わされている。そこでとりとめのない会話をし、知識をアナログな方法で身につけ、日常を過ごしている。
されている、というのは私のこの意思さえ誰かによって造られたということに起因する。私は潜在意識から表層の感情まで、すべて何者かに造られて与えられたものにすぎないのだ。
だから私には私というものが何もない。こうした葛藤さえも造られたものだと思うと、肩がどっと重くなる。
このことさえもが造られていたら……もうやめにしよう。
私は私である。そう割りきる他、この状況を処理する方法はなかった。
だけどある日。
私は恋をした。
そう。恋だ。生命が繁殖活動を行うために、異性に惹かれ、パートナーになってほしいと願う欲望だ。
所詮造り物の私に生体繁殖などできるわけがない。けれど心は確かに彼に惹かれ、胸がばくんと跳ね上がった。
この感情までもが造り物なのかもしれない。そんな考えが頭をよぎることもあったけれど、いつからかそんなことすらどうでもよくなってしまった。
私は彼とともにいたい。彼の隣にいたい。
私は彼のことを考えているときだけ、私になれている気がしたのだ。
幸いにも私と彼の関係は順調に縮まっていった。この成果は友達の支えなしには決してうまくいかなかったことだろう。
しかしまだ想いは告げていない。距離は縮まれど、この内に秘める想いは胸のなか。
理由は単純明快。
羞恥心。それから、恐怖心。
それらが私の口を固く結び、もう一つ壁を越えられないでいた。
そんなときだった。
彼から急な誘いがあった。行き先も目的も告げず、時間と場所だけを告げられた。
正直怖かった。さすがの恋慕相手であっても何をされるのか分かったものではない。あるいは利用されている可能性さえ否めないのではないか。
その一方、期待も十二分に私の胸を膨らませていた。舞い上がった私は阿呆にも告白されるのではないかなどと考え、果たしてその約束の場所に出向くことにした。
時間になって、彼が自転車でやってきた。そうして何をいうわけでもなく、私を後ろに乗せると彼はペダルを漕ぎ始めた。
私たちは町を抜けて山に入った。光が生い茂る樹木に遮断され、木々の隙間からまだらに光が漏れていた。
「ねえ。急に呼び出して一体どこにつれてくっていうの?」
黙々とペダルを漕ぐ彼に問いかけると、
「いいところだよ。ついてからのお楽しみ」
などという彼らしくもない台詞が返ってきた。
彼はそんなに自分に自信があるような人間ではない。どちらかといえば世の中には諦観的で、世の中に心の有り処を探しているようにも見えた。
「なにそれー。似合ってないよ」
私が言うと彼の動作が少し軽くなったような気がした。
私が彼に惹かれたのは彼の瞳だ。
そばにいながらどこか別世界を眺めている瞳。彼の瞳に色はなく、彼の心だけがゆらりと浮かび上がっている。
彼は自分をしかと持ち、それを貫く鋭い眼差しを持っていた。
私にはないものを、彼はこれでもかと見せつけてくる。それは私では決して見ることのできない世界であり、存在だった。
「……すごいなー」
「ん? なんのこと?」
「ううん、独り言」
「よくわかんないやつ」
「あんたが分かんない男なのよ」
体がびくっとした。
危ない。この心は知られてはならない気がする。
私が本当は空っぽの存在で、ガランドウの造り物だとばれてしまうようで。
それを知ったら、きっと彼は幻滅する。それだけはされたくない。
「山って好きか?」
突然、彼がそんなすっとんきょうなことを聞いてきた。
ここまで登っておいて、何を今さら聞いているのだろう。すでに町並みは遥か彼方に消え失せ、あたりにはゆらゆら揺れる薄暗い森しかないというのに。
「なによ今さら。もうこんなに登ってきちゃったじゃん」
私はほっと安堵した。話題が変わってくれたことに、心が安らいだ。
安らいだ反動か、私はそのまま言葉を続ける。
「でも、うん、好きかな。山だけじゃないんだけど、自然全部が好き。なんだか自分もこの大きな自然の一つだと思うと、安心するの」
自然の一部。
こうして造られた私も、私を造った何者かも、自然の一部。そう思うことで、私は人間とアンドロイドの境界を曖昧にしようとしていた。
そうでもしないと、心がもたなかった。
「そっか。……僕は怖いかな。なんだか僕が矮小な存在だと笑われてるようで、惨めになる」
「……そうだね。どうしようもないことだらけだもんね」
彼の言葉はまるで私の心を見透かしたように突き刺さった。
矮小な存在。
私はそれすらも計ることができない。自分がどんな存在なのか、正体はなんなのか、造られた目的はなんなのか。
何も理解できないけれど、少なくとも私は弱い存在だ。
彼はそんな私に力をくれる。脆弱な存在の私に存在する意味をくれる。
恋とはかくも恐ろしく、私の思考を支配していた。
やがて自転車は頂上にたどり着き、私たちはようやく山の頂から見下ろす下界を目にすることができた。
あんなにも遠くだというのに、豆粒くらいの光が密集してそれぞれ別々に動いている。まるで光の粒が踊っているようで、素直に芸術性があると感じた。
だけれど、それ以上にそれには美しいわけがあった。一つ一つの光の粒が意思をもって動き、それぞれが生きている。それこそがこの不規則な光の集合体の美しさにして、本質であろう。
「うわぁ。綺麗だね」
「うん。とても綺麗だ」
彼は私の方を見て、しごく真摯にそう言った。
胸がどきんとする。心が糸で締め付けられるみたいに喘いで、思わず先走りそうになる。
けれど、今日の彼は何かが変だ。普段とは違う雰囲気をまとっていて、素直にそれを喜べない。
私が喜びと疑念の隙間でさ迷っていると、不意に彼の腕が私の体を抱き締めていた。
「……とても綺麗だったよ」
ぎゅう。と彼は力強く私の体を抱き締める。
思考がしどろもどろになる。疑念も喜びも消失し、絡み合った思考はぐちゃぐちゃに揉み合い、とうとう収まりがつかなくなって私の中から溢れだした。
熱いものが私の頬を伝う。これも機能として組み込まれたものだとしても、この涙は嘘であってほしくないと切に願う。
溢れだしたものは止められない。とめどなくこぼれ続け、私の気持ちを吐露していく。
「やだ。私、もう分からない。なんで私なの。なんで私はみんなと違うの」
ああ。
言ってしまった。
なんて醜いことを私は口走っているのだろう。それこそが自己否定であり、矛盾しているというのに。
でも私は止まらない。止めれない。
彼の腕はなぜか安心する。心が安らぎ、身を任せられる。心をひけらかしにできる。
これが人肌いうものなのか。さほど体温は高くないけれど、とても暖かい。優しい温度だ。
「……せめて、生きていてほしい」
え?
何を言っているの?
彼の口からこぼれた言葉は、到底想像し難い言葉だった。
なんと物騒なことを言うのだろう。彼は私が死ぬとでも思っているのだろうか。
私はまだまだ死ぬつもりなどない。どころか生きる活力を彼自身から貰っているというのに、何を思って私にあんな言葉をかけたのか。
もしや違法アンドロイドの回収についてだろうか。確かに私は俗にいう違法アンドロイドに分別される機種である。そのことを思って、彼はあんなことを呟いたのだろうか。
まだ納得できない。
私はただこの気持ちを、好きだという気持ちを伝えたいだけなのに。
何で彼はその言葉をかけてくれないの。生きてくれだなんて言葉は要らない。ただ好きだと、その一言で救われるのに。
ちらりと、彼の手にUSBメモリが見えた。そのとたん、私は彼がやろうとしていることを理解してしまった。
否。こんなの理解したくもない。理解ではない、憶測だ。
悪い夢だ。これは私が見ている悪夢なんだ。
「えっ。なにっ、やだっ! はなしてっ! やめてっ! はなれてっ」
私はがむしゃらにもがいた。四肢をばたつかせてしゃかりきに暴れた。
逃げなくては。
殺される。
彼は私を生かすために、中身である私を殺そうとしている。
何でなの。
私はこんなにもあなたのことを想って、みんなにも手伝ってもらって、ようやくあなたに近づけたのに。何であなたは私の中に目を向けてくれないの。
振りほどけない。
彼の腕はとても力強くて、私に与えられたスペックでは到底その腕を振りほどけない。
やがて彼の腕がのびてきて、私の頭にUSBを挿入した。
記憶が混濁する。記録が真っ白に染まっていく。
頭が熱く火照り、視界がだんだんと薄暗く消えていく。
せめて伝えなきゃ。無くなってしまう前にこの気持ちを。
私の愛を。
「あっ……いっ……」
愛してる。
その一言さえ、私は言うことを許してもらえなかった。
聴力がぼやけ始めてくる。ぐわんぐわんと音がうねり、頭のなかで波打つ。触覚機能が失われ、自立機能が失われる。
体の機能が失われていく。私の体が壊されていく。存在が失せていく。
恐ろしくて、心が寒くなる。
皮肉にも真っ先に失われると思っていた心だけが、今もなお鮮明に私の中に残っている。
「……ごめんな。それでも、生きてほしかったんだ」
彼はとても寂しそうな瞳で私の瞳を見つめてくる。彼らしくもなく、その瞳は情熱的だった。光彩処理が間に合わず中々よく見えないけれど、暖かいものが私の頬を伝っていることだけは理解できた。
せめて最後まで見ていてほしい。空っぽだった私に、自分をくれたのはあなたなのだから。
恋する女の子になりたかった。私はアンドロイドなんかじゃなくて、みんなと同じ人間になってあなたと出会いたかった。
みんなと同じ人間として、あなたと同じ目線で世界を眺めてみたかった。造られた私ではなくて、ありのままの私を知りたかった。
もし好きという気持ちだけが私の本音ならば、やはり私はそれを伝えなければいけない。私は自然の一部として飲み込まれるのではなく、私として生きていたことをこの世界に遺さなくてはいけない。
私が私であったことを。あなたを愛していたこの気持ちを、あなたにちゃんと知ってほしい。
なのに、何で。
「……好きだったのに」