さよなら
2月14日―忘れられない日がある。運命と呼んでも偶然と考えても、どうだっていい。世界から彼女が消えた日。人が星の消滅を知るのは、消えてしまったずっとあとのことだという。夜空に燦然と輝き、闇夜を照らしてくれる。その光はどれだけ前のものなのだろう。彼女は、もういない。どこまでも夜が続いて、偽物の光の中を今日も歩く。どの道を往けばいい? 5年と月日を経ても、現実を受け入れるにはまだ少し時間がたりなかった。
「気つけて帰れよ」
ジムを出ようとした恭次郎にトレーナーの岬が2階から声をかけた。やや、くたびれたといった感じでサッシ枠に片腕をつき、もう片方の手は顎をさすっている。ミット打ちの時にかすめたのが痛むのかもしれない。何でもない仕草だったけれど、妙におかしくなって思わず笑みがこぼれる。
「お大事に」
時計をちらりと見て外に出ると、ほの暗かった空に数多の星と少しばかり欠けた月が浮かんでいた。空気が乾燥しているおかげで、空は賑やかだ。しかし、のんびりと夜空を仰いでいる余裕はない。雪が降っていないのが不思議なくらいだ。今夜は特に風が冷たい。それほど強くは吹いていないけど、厚手のパーカー1枚にジャージというスタイルで冬と対峙すると、寒いというよりもはや痛みに近いものをひしひしと感じさせられる。数日前耳にした最大級の寒波というワードが、ふと頭に浮かんだ。けして、大げさな表現ではなかったらしい。防寒対策を万全にと説いていたお天気キャスターの言葉と、大丈夫だろうと考えなしに家を出た自分の軽率さが身にしみた。走って30分足らずの道のり。恭次郎は1つ、大きく息を吸い込んで帰路を駆け出した。
ジムから家までの道は距離はそんなにないが、景色の変化は割と目まぐるしい。おんぼろアパートや駄菓子屋など、昭和の香りが残る一帯を1キロも進むと、街の雰囲気は一気に近代的なカラーを帯びてくる。駅を中心に、高層マンションやデパートが建ち並び、飲食店やカラオケ、映画館といった施設は狭い路地にまでせめぎあうように展開している。若者もシニア世代も娯楽を享受するのに申し分ない一角、街の核といえるエリアだ。昼夜問わず、人の行き交いが途絶えることはない。ただ、自分自身はというとその辺りを目的地として寄り付くことはそれほどなかった。ボクシングをやっているからこそ、度々喧騒で満ちたこの界隈に足を踏み入れてはいるものの、そうでなかったら一層馴染みのない場所になっていただろう。あるいは、群衆に紛れ生きていたのかもしれないけれど。
そして、眠らない街の灯りに背を向けてビルの隙間をかいくぐってゆくとやや、アップダウンのきつい道が続いてある。大通りを迂回していけば平坦な道を楽していけるのだが、如何せん景観がつまらない。郵便局や交番、ファミレスに雑貨屋など、特に目を引くものもない風景がだらっと広がっているだけで、車道から漂う排気ガスにさえうんざりしてしまうような次第だった。その点、試行錯誤してたどり着いたルートには趣というか、情緒というか何とも言い難い味わいがあるといっていい。いくつもの坂を超えて学園通りにさしかかると、街路樹が四季折々の彩で出迎えてくれる。時間によっては大学のキャンパスや高校のグラウンドから学生生活の1ページを切り取ったみたいな声が聞こえてきたりして、通っているわけでもないのに妙に親しみを覚えたりもした。自然の匂いが濃くなるのもこの付近の特色だ。点在する常緑の木々を追いかけて、昔ながらの商店街につき当たるとその香りはより鮮明なものになる。長いアーケードを抜けた先に悠々と広がる大自然。息苦しいまでに人も物も密集した街にあるオアシス。セントラルパークさながらのその公園こそが恭次郎の何よりのお気に入りだった。
大半の者が噴水広場と呼んでいる城南公園は敷地の外周にぐるっと遊歩道が設けられていて、どこからでも中心部にある湖と限りなく続く草原を見渡すことができる。規模もなかなかのもので、目的は違えど、癒しを求めて訪れる人は少なくない。週末ともなると、小さな子供を連れた家族の姿が数多く見受けられた。夜が深みを増してくるこの時間帯、普段よく目につくのは語らうカップルの姿だが、凍りついてしまいそうな空間でそれを実践する猛者はやはりおらず、珍しく閑散としていた。一定のリズムで地を蹴る自分の足音と高木の微かなざわめきが、どこまでも延々と続くような気がした。時折茂みの間から差し込む車のヘッドライトに照らされ、大きな影が躍動しては消えていく。もはや、寒さは感じていなかった。適度の疲労感も露出した肌の痛みも、静寂の中では不思議と心地いい。ギラギラとした人工的な光を浴び、雑踏の中を縫うように駆け抜けてきた後にやってくる孤独との邂逅。自分以外誰もいないという現実に、ある種の高揚感も作用していたのではなかろうか。広場を半周ほどして、歩道のベンチにもたれる人影を見つけた時は幻ではないかとさえ思えた。一歩、更に一歩、走り続けても影との距離は変わらずむしろ遠のくばかり……。相手が夢幻ならば、きっとそんな感じなのかもしれない。けれど、街灯の下で佇む少女は恭次郎を見るやいなや、あっさりと手を振り笑ってみせた。どうして彼女がその場にいるのかも、どうして自分が足を止めたのかもよく分からなかった。目の前にいる少女は同じ学校に通う月島玲奈。瞬時に理解できたのはそれだけだった。
「何してんの?」
まるで既知の仲であるかのように、彼女の横に腰を下ろす動作は自分でも驚くくらい自然なものだった。もちろん、まったくの他人というわけじゃないけど、言葉を交わしたこともほとんどないはずだし、互いのことについて知っていることといったら何もないに等しかった。そんなわけで、この寒空の下、人の気配もない場所で独り物思いにふける心境など察しようもない。彼女は何かを考えるように視線を泳がせてから、恭次郎の問いかけに応えた。
「バイトの帰り……かな。で、ちょっと時間潰そうと思って……。何で走ってたの?」
言い淀んだ言葉の先が気になったが、あくまで気にしていない体を装う。間近であらためて見る彼女はとてもきれいで、制服に身を包んでいないこともあり、同年代の子たちよりちょっとだけ大人びて映った。それは多分、格好や表情が洗練されているということでもなければ、雰囲気が落ち着き払っているとかそういうものでもなくて、この時分特有の背伸びしようとする飾り気が一切ないというところに帰結するようだ。ファーとフード付きのモッズコートにジーンズ、それとチェック柄のマフラー。彼女の出で立ちと熱が冷めゆく身体が、束の間忘れていた季節を思い出させる。一体どのくらいの間こうしていたのだろう。恭次郎が困惑気味の笑みを浮かべてそんなことを考えていると、彼女がクスりと笑った。
「そんなに難しいこと訊いてないじゃん。けど、あれでしょ?ロードウォーク……じゃなくて、ロードワーク。ボクシングやってるんだよね?前も一回この辺ですれ違ったことあるのに、覚えてないでしょ?全然気づいてなかったもんね」
得意げに言い切った彼女の横で、恭次郎はそれらしき場面を思い起こしてみた。そんなことがあったかな、と。そしてどうやら、彼女は思っている以上に自身のことを知っているらしい。
「ジムが文化センターの近くにあってさ。帰り道ってわけでもないけど、何となくいつもここ通って帰るんだよね。月島さんはよく来んの、ここ?」
どうかな、と彼女はまた笑った。
「よくってほどじゃないと思うけど。でも、いいよね、ここ。なんか落ち着くし、結構お気に入りかも。今日とか全然人いないし、あたし達くらいだよね、多分」
「うん」
彼女のビー玉のように丸く澄んだ瞳が辺りを見渡していた。それを追うように恭次郎もあちらこちらへと視線を動かす。車道を行く車もいつもに比べるとまばらだ。些細なことではあるけれど、この空間においては何もかもが違う夜なのだと、ようやく気づいた。
「バイトは、何やってんの?」
「何だと思う?」
そうくるか、と恭次郎はあらぬ方向へ目をやった。意図せずこぼれた笑みを見て、何よ、と彼女が愉しそうな眼差しを向ける。
「めんどくさいって思ったでしょ?」
「いや、そうじゃなくて。めんどくさくはないけどさ、いつもそういう感じなの?」
「どういう感じ?」
恭次郎は腕をさするように組んでから、喉を唸らせた。
「人懐っこくて、よく笑って、飾らない感じで、何でもないようなことを楽しそうに話して……。」
人の心をあっという間にさらっていこうとする。呑み込んだ言葉は留まることなく、吐息と共に静かに消えていった。彼女は柔らかい表情で頷くと、マフラーで口元を覆い恭次郎をチラリと見た。みんなによく言われるの、という反応なのか、そういうふうに見えるんだ、といった仕草なのか曖昧で窺えない。変かな? そう呟いた言葉も自分自身に投げかけたものなのか、隣にいる恭次郎への問いかけなのか、ニュアンスからは判断がつかなかった。ただ、暗闇の中、頭上から注ぐ街灯の明かりが、まるでスポットライトを浴びてセリフを求められているような演出が、いつか見た舞台のワンシーンみたいに思えて沈黙を許さなかった。
「俺はすげーいいと思うよ」
響くはずのない広場で、自分の声はやたらと大きく聞こえた。言うまでもなく聴衆などいない。台本もないからこそ、ありのままの思いを伝えられる。だけど、愚直なまでにまっすぐ投げたつもりでいたその言葉を、彼女はそのまま受け取ることはしなかったようだ。きっと、あまりに軽々しく聞こえたのかもしれない。落ち葉を動かす力さえない風にも飛ばされそうなほど。隣の笑い声に、恭次郎がそこは笑うとこじゃないと言うと、返ってきたのはこうだ。
「変なこと言うから」
こうして、舞台の一幕はあっけなく終わりを迎えた。ひどい脚本だなと思えることも、煩わしいような何気ないやりとりも、恭次郎にはその一つ一つが夜空の星より輝いている気がした。彼女が笑っているのをみると、この世界には邪心や穢れといったものはなくて、慈愛に満ちているのではないかと錯覚してしまう。どこか、見知らぬ地で蹂躙する独裁者も、信じる神が違うと殺し合う人々もひょっとしたら救えるのではなかろうか。どうしようもない世界の様相もままならない人生の苦悩に対しても、月島玲奈の傍では懐疑的になってくる。遠くから聞こえる救急車のサイレンが通り過ぎてゆくまでの短い間、恭次郎はひたすらに思いを巡らせた。彼女の好きなもの、彼女の苦手なもの、彼女の癖、彼女の夢……。そして、彼女はここで何を? 彼女について知ならないことばかりがグルグルと渦巻いて、空っぽだった頭の中が彼女でいっぱいになった。
「でも、ありがと。嘘でも嬉しいよ」
彼女がそう言ったのと、ジャージのポケットの中で携帯が震えたのはほぼ同時だった。恭次郎はディスプレイに表示される時間を確認すると、電話に応じることはせず、振動が止むまでずっと携帯を握りしめていた。
「出ないの?」
彼女の瞳に恭次郎は軽く頷いた。
「もう、結構遅いけど帰んなくて大丈夫?」
不在着信を知らせるランプの点滅を見ながら恭次郎が訊くと、彼女も同じように首を振った。まさか、一晩中そうしているわけではないだろうけど、彼女をこの場に残して去るという選択肢は頭の片隅にもなかった。
「じゃあさ、こうしてんのも寒いし、何か飲まない?」
すぐ傍にある自販機を指して恭次郎が言うと、彼女はうん、と答えた。
「そりゃその格好じゃ寒いよね。走るにしても、普通もうちょっと着込まない?」
「まあ。俺もそう思う」
二人同時に立ち上がり、恭次郎は携帯をしまったのと反対のポケットから財布を取り出して、販売機に小銭を入れた。数字が揃うと一本タダというタイプのやつで、お金を入れる度、シチュエーションにそぐわない効果音が鳴る。どうぞ、と言わんばかりに彼女を見ると、リュックの中をゴソゴソと漁る姿があった。そして、一通りの動作を終えた彼女と目が合った時には小銭が取り出し口に落ちていた。
「いいよ。あれでしょ、財布忘れちゃったんでしょ?」
再度小銭を販売機に入れながら、恭次郎は言った。
「持ってきたと思ってたんだけど。ごめん、明日返すね」
「いいって」
ありがとう、と彼女は言ってココアを選んだ。ところが、小銭入れが膨らんでいたから疑いもしなかったが、よくよく数えてみると自分の分が足りないのに気づいた。今しがた、おごってやるよと息巻いていた人間の手持ちがこれじゃ格好もつかない。小学生でももうちょっと持っているはずだ。
「月島さんさー、十円持ってない?」
手のひらにある小銭を数え直してみても、財布を持たない彼女に頼んでみても、やはりマジックのようにはいかない。自ずとこぼれた溜息に、大丈夫と答える彼女。我に秘策あり。そんな面持ちだった。彼女は販売機の前でしゃがみこむと、ためらうことなく隙間に手を伸ばした。それを見て、恭次郎は反射的に彼女の腕を掴んだ。顔を上げた彼女の表情は少し驚きを含んでいた。何をしようとしているのかはもちろん理解できる。
「俺がやるよ。女の子はそういうのしないほうがいいって。傍から見ると結構あれだから」
引き上げるように力を入れると、彼女は流れに身をまかせて立ち上がった。青白い光を受けて、ただ立っているだけの彼女がなぜかとても幻想的に見えた。掴んでいる手を放してしまえば、風にさらわれ闇に紛れていってしまいそうだった。
「でも……あったよ、ほら。しかも五十円。よかったね」
屈託なく歓ぶ彼女の手の中で、硬貨が鈍く光る。そんな魔法も使えるのか。そう思うと、自然と顔がほころんでいた。それからベンチに戻って、カイロ代りの飲み物を握りしめたまま、暫しの間会話に夢中になった。好きなマンガや映画のこと、学校のこと、恋人のことなど話題は尽きず、リズミカルにやりとりが続いた。彼女は好きなものを語るとき、ふと、十七歳に戻る。あどけなさを取り戻し、目をキラキラと輝かせ幸せに浸る姿は、容赦なく周りの者を巻き込み鬱々とした気持ちまでも遠ざけてくれた。手の中で温もりを失ってゆく缶コーヒーと対照的に、心が暖かさで満ちていくのを恭次郎ははっきりと感じた。明日、飲み物の代金を受け取ってしまえば、彼女と関わることはもうなくなるのだろうか。今日この瞬間のことなど、何もなかったかのように過ぎていくのだろうか。それならいっそ、明日などこなければいい。星に願いをというならやってみようか。この無数の輝き一つ一つに祈れば、どれかが気まぐれでも叶えてはくれないだろうか。しかし、そうしている間にやがて朝がくる。何を女々しいことを、恭次郎は心の中で何度もそう繰り返してみた。
「けどさ、帰り遅くなって家の人心配したりしない?」
すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んでから、恭次郎は言った。
「うーん……お母さんは仕事でいないし、うち片親なのね? だから、そういうのはないかな」
「ふーん。じゃあ、お母さんと二人暮らし?」
「お母さんと、なんていうか、お母さんとつき合ってる人とで三人。何か変な感じでしょ?」
「変?」
「だって、よく知らない人と一緒に住んでるんだよ。落ち着かないっていうか、色々考えるでしょ?
どう接すればいいかとか、今は家にいないほうがいいかなーとかさ」
ああ、と恭次郎は気の抜けた言葉を返して、彼女の立場というものを理解できるように想像してみた。確かに、年頃の女の子にとって親しくもない男と生活を共にするというのは楽しくもなければ、面白くもないものなのかもしれない。いや、年頃の女の子でなくても、得体のしれない人間とひとつ屋根の下という環境は嫌なものか。いずれにせよ、月島玲奈の家庭環境は少しばかり複雑で、完璧なまでに見えたその笑顔の裏では色々と事情を抱えているらしい。