ATTACK FROM THE UNKNOWN REGION:WONDERFUL PEOPLE#6
旅の終着点であるクーパー小学校…ジョージは遂に辿り着き、足を踏み入れる。
登場人物
ニューヨークの新聞社、ワンダフル・ピープル
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
1975年4月下旬:ニューヨーク州、マンハッタン、ミッドタウン
ジョージは遂に全てを発見できるであろう場所を探し当てた。それはニューイングランド地方などではなく、彼の住むマンハッタン島の対岸というほとんど目と鼻の先であった。ブロンクス、あまり近付くべきではない場所だが、彼は軍で様々な修羅場を潜り、先日はあの悍ましいマサチューセッツの寒村で尋常ならざる体験をした。今更恐れるものがあるのか? 彼が気に掛けるべき息子はもうこの世にいない。あれ程寂しいと思っていた自分だけの夜も、今や何事も無かったかのように過ごせていた。暫く間を置けば、息子の事を懐かしい思い出として思い出せるかも知れなかった。なればこそ、今更何を恐れるのか? 悪魔の力を得たがために恐怖への耐性が少し身に付いたような気がした。
彼はブロンクスについて数日かけて調査した。ここ何年かで目的地であるクーパー小学校の付近は著しく荒廃し、今となっては戦争で破壊されたかのような瓦礫の山さえ見られた。あるいは全面核戦争直後に放射性の降下物がそこらを覆い尽くす日には、かような荒れ果てた街並みが見られるのかも知れなかった。住民はほとんどが黒人かヒスパニックであり、それら両者とてお互いに距離を取っているように見えた――無論の事、物事にはいつも例外が存在するのだが。治安はアメリカ屈指の悪さと思われ、ジョージは白人であったから少なくとも日中には行くべきではないだろう。かと言って夜とて危ない連中はいるのだが、しかし彼は軍で特殊な訓練を受けていたから、スラムの闃とした闇帷に紛れて人目を避ける自身はあった。汚れた煉瓦の建物や塵芥の散乱した路上は地獄めいているとしか言いようがないとは言え、このような場所でなければ行き場が存在せぬ低所得者達の事を思えば、上から目線の偽善であろうと胸が痛んだ。
そして遂に予定していた決行日を迎えた。ジョージはかつて軍で使っていたリュックに必要なものを詰め、ホルスター付きの拳銃と予備の弾を入れた。予備は20発だが、それ程必要なのかはよくわからなかった。そしてお守りのつもりか息子の写真を一番外側のチャックを開いて入れた。今では息子の死からかくも立ち直れている己が信じられなかった。どん底にいた頃、予定では今年一杯は悲しみに暮れるはずだった。最愛の者がああも非業の死を遂げたというのに、何故今では耐えられるのかは不思議だった。他には携行可能な食料や水、予備も含めた2つの懐中電灯と予備の電池が幾つか、タオルや予備の服、そして鉄パイプを入れた――有り合わせの武器としては包丁よりも妙にしっくり来た。長さは1フィート程度で、家に転がっていた予備のものであった。先に曲がったジョイントが付いており、ほぼ新品であった。グレーに輝くそれを手に取り、握ったり軽く振ったりしてからそれをリュックに収納した。
ジョージは濃い群青のジーンズを穿き、黒い大学シャツの上にベストを着て、その上から目立たず寒さに強い灰色のウィンドブレイカーを羽織って前を締めた。
では始めるとしよう。お楽しみのお時間だ。
日没後:ニューヨーク州、ブロンクス
地下鉄に乗って近くまで来たが、暗くてほとんど何も見えないとは言えども、ぼんやりと見える荒れ果てた街の威容が心を騒がせた。耐久年数の過ぎた建物やばらばらに崩れて瓦礫の山と化した建物が目に付き、心許ない街灯がオレンジ色の光をぼろぼろの路地に投げ掛けていた。ジョージは夜目を可能な限り働かせて人目を避けた――明かりの近くには徘徊したり屯したりするこの街の住人がおり、危険であるかどうかはわからなかった。余所者を歓迎するとは到底思えなかったが、それでもあのデリントン・フォレストにいる外見だけは人間と同じの畸形どもよりは遥かに安心させられた。
予定通り、中を通れる建物を潜り反対側の通りに出る事を選んだ。ここは地元でも通路として使われているらしく、中では静かに音を立てる照明が薄明かりを振り撒いていた。慎重に偵察し、誰もいない事を確かめるとそこへと足を踏み入れた。通路の幅はNBA選手の身長ぐらいで、ぼろぼろの煉瓦の壁と表面がぼこぼこと削れているコンクリートの柱があり、柱の上部は剥き出しの鉄筋が錆びて茶色く変色していた。途中で崩れた階段や上半分が砕けたドアなどの横を通り過ぎていると、冷たい風がびゅうびゅうと屋外で音を立て、まだ残っている木の部分がぎいぎいと不気味な音色を奏でた。以前であれば胃が痛んだ事だろうが、今ではいい環境音楽にしか聴こえなかった。今回はしっかり手袋を嵌めて来たのだが、その上からでさえじんわりと手が冷え込んだ。建物の中なら少しはましかと思われたが、大して変わらなかった。建物を通り過ぎ、ランドマークとなる崩れ果てたフェンスに街灯が光を降り注がせていた。この通りの先にはあのクーパー小学校がある。前から数人の男が話しながら歩いて来た。無用なトラブルを避けるためジョージは街灯の明かりに入らぬよう心掛けた。堂々と道路の真ん中を通り、その闇の中でほとんど音を立てずに歩き、彼らが何かの気配に気が付いた時には既にそこから離れていた。ここまでは順調で、遠くから何かのブラック・ミュージックが聴こえた。それはこれから地獄めいた廃校へと突入するジョージへと、文明世界が投げて寄こした最後の餞別か何かのように思えてならなかった。学校は既に見えており、ちかちかと点滅する街灯が学校の玄関口を照らしていた。誰も修理に来ないだろうが、夜になれば恐らくこの街の住人でさえ近寄らぬであろう事を思えば、それとて至極真っ当に思えた。
ひび割れた道路を堂々と歩き、そしてあの夢に見た玄関口の前に立った。そう、わかってはいたがやはりここなのだ。夢は不気味な程に克明な予見を与え、今のところはその細部までが全て一致していた。クーパー小学校と書かれた玄関上の看板は、夢と同様の朽ち方をしており、雨風に吹かれるままに古びた校舎は闇の中で厭わしくその存在感を放っていた。なるほど確かに、ここまで不気味であれば誰も近付くはずがない。
意を決して彼は入ろうとした――しかしその瞬間、風の流れが変わったような気がした。周囲に目を向けると道路の両側から何人かの人間が接近してきているのがわかった。足取りはゆっくりしており、緊迫感などは無かった。敵意も特に感じられなかったが、しかし緊張しながらその後の展開を見守った。いざ光の下に接近者達が現れるや、喉が詰まるがごとき緊張に苛まれた。見ればヒスパニックの4人と黒人の4人が彼を挟んでおり、5ヤード程度の距離を空けて3者は並んだ。するとヒスパニックの先頭にいた男が何やら喋った。ジョージは一瞬困惑し、それがスペイン語であったと気が付いた。完全にはわからないものの、どうやらそこの学校跡が危険だから立ち去れと言ってくれているらしかった。
「お前が誰だか知らねぇが、悪い事は言わねぇ。そこはやめた方がいいよ」
すると今度は白い息を吐きながら若い黒人の男がジョージを諫めるようにそう言った。
「ここが危険な事はわかっているつもりだよ。でも私はここに用事があるんだ」とジョージは少しうんざりしながら、しかしどこかほっとしながら答えた。するとその親切な地元民は皰痕で陥没がぽつぽつと残る顔を厳格そうに顰め、それからジョージに更なる警告を発した。
「いや、わかっちゃいないな。このクソったれ学校は誰も寄り付かねぇ。行く宛のねぇジャンキーですらここには来ない。絶対にな」
「それは知っているよ」とジョージはどうでもよさそうに吐き捨てた。早くここへ入らなければ、せっかく固めた決行への決意ですら春の夜の残酷無比な冷気によって冷え切ってしまうからだ。
「へぇ」と黒人の男は呆れた。
「幽霊騒ぎが原因だろう?」
ジョージは夢で見たあの悍ましい光景に並々ならぬ敵意を湛えてそう言った。
「やっぱわかっちゃいねぇな」
「何が?」
「幽霊だかなんだか知らねぇが、あの噂が出始めたのは誰もいなくなってからだ」
ジョージはそれでも自分が見た夢を根拠に考えており、指摘にもどこか納得がいかなかった。
「でもそれは――」
「言っちゃ悪いが、あんたも所詮はお外の人間だろ。ここの歴史をリアルタイムで見てきたわけじゃなくて、ニュースや雑誌の特集で読んだだけだろ」
図星というのは心に響き、そしてうんざりする程苦い。特に、大人になって下らないプライドが肥大化している場合は。人は子供の時は素直に己の非を認め、必要に応じて謝罪する。だがやがて、プライドがそこへ忍び寄り、じわじわと心を蝕み、その結果は歴史上に散りばめられた無名の個人達が証明しているだろう。見えない悪魔達はそうして人々を貶めているのだ。
ジョージは尚も何かを言い返そうとした。論破された気がして腹が立ったのかも知れない。しかし己の火照った顔を春の冷たい風が冷やし、冷静さを取り戻した。よく考えてみれば思い違いがあったのだ――確かに彼の見た夢でも、廃校に誰もいなくなってから何やら怪しい現象が起きていた。いずれであろうと、この名も知らぬスラムの男は、突っ走りやすい己よりも頭がいいのかも知れなかった。学があるかどうかの話ではなく、危険な環境で生き抜くために研ぎ澄まされた知性や才能が、彼をゲットーの天才足らしめているのかも知れなかった。ジョージは周りを見渡した。彼らは危険なスラムの猛獣などではなく、普通の人間であった。敵意などなく、むしろ誠意や心配を向けてくれた。偏見とは目を曇らすから、そのような下らないものは実体験で吹き飛ばせばいい――少なくとも、低くない確率的に言ってその方がいい。ジョージは彼らに敬意を払う事ができた。人間らしい冷静さを取り戻し、下劣なプライドを脇に置いた状態であればそれも可能であるらしかった。
「私は何もかもわかっていたつもりなんだろうね。普通に考えれば、君達の方が遥かにこの辺の事情にも詳しいはずなのに。私は新聞記者だが、それで全部わかっていた気になっていた。またプライドが戻ってくる前に言っとくよ、生意気言ってすまなかった。
「さて、その上で聞きたいんだ。ここの何が真の危険なんだ? 何故クーパー小学校は誰も立ち入らないような危険な場所になってしまったんだ?」
それを聞いてヒスパニックの男達が何かを言い合って少し笑った。ジョージはそれを不思議がったが、クーパー小学校という名称を久しぶりに聞いたからだと皰痕いの残る黒人の男がスペイン語に疎いジョージのために敷衍してくれた。言われてみれば、ここは廃校となったまま何年経ったのだろうか?
男達は己らが挟んでいる自称新聞記者が言っている事を吟味した。素人はさっさと帰れと言いたかったが、よく見ればこの新聞記者らしき男からは何やらただならぬものが滲み、そしてその目は強い決意に燃えていた。説得はできそうもなかった。彼らは目の前の白人もまた、自分達とは違った形で別の危ない局面を切り抜けてきたであろう事を朧気に悟った。そして、ストリートに生きる冴えた知性の男がその新聞記者のために答えた。
「やめろって言おうが無駄なんだろうな。手の混んだ自殺を助けるみたいでアレだけど仕方ねぇな…俺も直接確かめたわけじゃねぇんだが、なんというか…」まるでこれからとても言い辛い、言うのが恥ずかしいか憚られる事を言うような口調であった。躊躇いがちで、話を切ってしまった。だがやがて、再び話し始めた。
「この学校でよく屯してた連中が言うには何故か話が合わねぇんだ。つまりよ…」
ジョージは覚悟を決めていたつもりであった。しかし彼の決意などはいとも簡単に揺さぶられてしまった。彼は物事を知っているつもりを気取っていて、その実そうではなかった。無知の海に浮かびながら、それを取り巻くそれより大きな真空の大洋を知りもしなかった。それ故、その先の話を聞いた瞬間ジョージはさすがに動揺を隠せず、思わず腰を抜かしかけた。
「というのもな、段々明らかになったんだが校舎の中で一晩過ごした連中が朝になって外に出てみりゃ、周りの奴らと時間や日が合わねぇんだよ。俺はダチが暫く見えねぇなと思ってたんだが、3日ぶりに会えたそいつに今まで何やってたんだって聞いたら、一晩学校で他の連中と過ごしてたって。信じられねぇ話だろうがこの学校の中だけ周りと時間の流れる早さっつーのか? そいつがてんで合ってねぇんだ」
その視覚的情報などには依存しない得体の知れぬ恐怖体験がために、危険には慣れている地元の人間でさえここには近付かなかったのだ。それこそがジョージの予知夢の中で中毒者すら姿を消した根本的原因であった。
数分後:ニューヨーク州、ブロンクス、クーパー小学校
遂にこの旅路の終着点へと彼は足を踏み入れた。玄関には夢と同じく邪魔な机などが積み上げられ、それらを動かしたりして中に入るのはなかなか難儀であった。そして机を動かした際その上に乗っていた何らかの錆びた金属製の物体が大きな音を立てて落ちた。ジョージは嫌な汗をかきつつ溜め息を吐いた。ここに夢の通り何らかの尋常ならざる実体がいるとすれば、それにこちらの到来がばれたかも知れなかった。ならばかかって来るがいい。
ジョージは警告してくれた一団と別れ、彼は今や一人でこの冷たく閉ざされた地獄へと踏み入れた。ここは話によると時間の流れる早さが異なるらしく、もしも長居すればそれだけ不気味なまでに己の時間が外界とずれてしまうだろう。さすがにSF小説のように他人と年齢がずれてしまうのは、例え少々であっても胸が締め付けられるような感覚を覚えざるを得なかった。できるだけ早くここの探索を終え、ここにあるという今回の一連の事件の真相を解き明かさねばならない――とそこまで考えたところで、彼は己がここに一体何があるのか見当さえ付かないという事に気が付いた。またもや突っ走り、そして彼はこの人が踏み入れてはならぬ領域へと誰の助けも得られぬまま侵入してしまったのだ。だが今更後悔などする気はなかった。来た以上は必ず何かを掴んでやるとジョージは決意していた。もしも悪意を放射線のように振り撒く古ぶしき悪霊やそれと同じように有害な実体と遭遇する事になろうと、あのリヴァイアサンが言うには彼の力で充分打倒可能であるらしかった――思えばその実戦テストもまだであった。だがそれは上等であり、強い意志力を持っている今のジョージは束の間全ての外界における煩わしい諸般を忘れ、今から取り掛かろうとしていた使命に全力を投じるつもりであった。
「少し邪魔するぞ、ここに用事があるんでな!」
ジョージは大きな声でそう言った。既に隠密は不可能かも知れなかったから、半分やけになっていた。
「最初に言っておこう、私の邪魔をするな! 邪魔をするならどうなっても私の感知するところじゃないぞ!」
声は闃とした校舎の黯黒に消えていった。確かにここにはまだ電力が生きているらしく、所々には証明が点いていた。しかして光の外側たるや、広がる闇は仄暗い怪物の穴蔵がごとくほとんど何も見えない有り様であった。何か遠くから不気味な物音でも聴こえてくればまだよいものの、この暗い廃校の中では彼自身の呼吸音や着ている衣服の擦れる音、そして蛍光灯の立てるじんわりとした騒音しか聴こえなかった。先程の呼び掛けに対する返事などは何も無く、それが却って不気味であった。
ジョージは苦労しながら玄関を通り抜けた。彼はリュックから必要な物を取り出した。懐中電灯、ホルスター付きの銃、そして新品の鉄パイプ。腰の右にホルスターを装着し、念のため咄嗟に取り出せるかを試した。素早く取り出して構え、発砲するふりをした――安全装着に遮られて引き金は完全には引けなかった。銃を戻して鉄パイプを右手に持ち、懐中電灯を左手で持った。まだスイッチは点けず、真の暗闇の前へと来た際に点けようと考えた。
夢で通って来た廊下へと歩みを進めた。夢では玄関から出ようとしていたのに、今回はその道を逆走して何が待ち受けているのかさえわからぬ恐怖の館の奥深くへと立ち入るのだ。
ばらばらに砕けたトロフィーを跨ぎ、ジョージの足は砕けたコンクリート片を踏み、ざっと音を立てた。見れば床には無数の雑多な物が落ちており、朽ちた紙や何かの衣服なども多かった。ジョージはゆっくりと歩いた。既に壁の塗装はぱらぱらと剥げて捲れ、剥げ落ちた塗装がその下に転がっていた。見れば明かりの下で彼の息は白く染まった――とは言えここは屋外と比べてどこか生温く感じられた。例のカラフルなロッカーは悲惨なまでに折れ曲がり、欠落している部分もあった。彼は軍にいた頃の経験を活かして周囲を鋭く伺い、先程大声を出していた不注意な男とは別人に思えた。天井板が折れ曲がるように垂れ下がっている箇所は、それにつられて垂れ下がった蛍光灯と錆び付いたソケットが地面とほとんど垂直になった状態でちかちかと輝いていた。ここは夢とは違う部分に思えたが、あるいは見落としていたのかも知れない。だがどちらでもよかった。夢を参考にし続けては先に進めない。蛍光灯を避けて更に先へと進むと、夢で入った教室が見えた。ここに立ち寄る理由などないし、夢は夢であった。何もいないかも知れない。
とは言え、ほんの気まぐれで教室の開き戸を開いた。厭わしい音を立てて扉が開き、中は荒れ放題で、前半分だけ点いている証明に照らされて立ったままだったり引き倒されたりしている机が乱雑に転がっていた。とは言え、夢とは違い注射器を転がすポルターガイストなどはいなかった。黒板は夢同様に汚く、罅割れ、傷が付いていた。所詮夢は夢という事だろう、特に注意を払うべき点はない。彼は教室の真ん中辺りまで歩き、ちょうど教室の明るい方と暗い方の中間に立っていた。
だがジョージが先へ進もうとした時、空気の流れが変わったような気がした。どこか生温く、そして微かに名状しがたい悪臭が混ざっているように思えた。まだ全てに確証が持てず、ただの思い込みかどうかを確かめるために周囲に注意を払い、右手で鉄パイプを強く握った。しかしそれ以上の危険を伴う事を想定し、ゆっくりと懐中電灯を近くの机に置き、置いた際の音を先程の玄関における威勢とは打って変わって鬱陶しく思いつつも、左手へと鉄パイプを持ち替えつつ右手でブローニングを手に取った。片手での射撃はどうにも心が落ち着かないが、今までも状況に応じた行動を取ってなんとかしてきた。風が吹いているような感じではないが何かが奇妙で、あるいは空気が歪曲しているのかも知れなかった。するうち悪臭が更に強まり、死体の腐敗臭以上にきつく思えた。匂いの元と思われる場所は黒板のある辺りでそこへ視線を向けてじっと様子を窺った。ゆっくりと銃を持ち上げて構え、これから起こる何かに備えた。やがて黒板の前に白い煙が現れ、幻覚かと疑おうとした瞬間にそれはもっと濃くなった。いや、煙というか蒸気のようにも見えた。霧のように濃密となったそれは無秩序に乱舞しつつ巨大化し、まるで蛸が触腕を振り乱すかのような無節操さで形を変え続けていた。幻覚であればよかったがそうでもないらしい。それの動きは藻掻き苦しむ人間の動きを馬鹿馬鹿しい尺度で戯画化させた不気味さを備え、元が人間であった事を包み隠さず、一切の慈悲も無く物語っていた。最終的には人間よりも少し横幅が大きい程にまで巨大化し、秩序立ったものではなくまるで彼が知らない宇宙の彼方で活動している原形質の実体の基本形であるかのようであった。その霧は煮え立つように表面がごぼごぼと音を立て、更なる悪臭を放った。触腕なのか腕なのか、それすら定かではない付属機関をグロテスクに動かしつつ、その形状さえ刻一刻と変わり続けていた。吐き気を催す納骨堂よりも悍ましい悪臭が教室全体を満たし、明らかに不自然だが超臨界流体と分類する他無い、本体と同じ色や模様をした厭わしい物質がぼたぼたと滴り、既に荒れ放題で汚らしい教室の床を汚し続けていた。あまりに汚らわしいため、ジョージはついやめろと言いたくなった――だが開いた口の奥で喉がからかに乾いていた。
ジョージはどうしたものかと途方に暮れた。触れるのも憚られる生理的嫌悪感の塊じみたこの不定形の怪物は、ぐちゃぐちゃと耳障りで不愉快極まる音を立て、明らかにジョージを知覚しているのが見てとれた。その証拠にこの人の面影を微かに残す実体はゆっくりとした様子で不恰好に動き始め、ジョージの方へと歩みを進めた。常に形状を変える付属機関を不器用に動かしてバランスを崩しつつも着実に歩みを進めており、ジョージからの距離は大体5ヤードあるかないかという程度であった。緩慢な動作であろうと永遠に辿り着けないわけではないから、ジョージは時間を稼ぐためゆっくりと後退した。あるいはもしかすれば話が通じるやも知れぬと考え、ジョージは唾を飲み込んで喉を潤し、漸く喋った。
「お前がどのようなものかは知らないが、それ以上俺に近付くな」
何も効果は見られなかった。
「止まらないなら命の保証はできない」
不気味な息遣いのようなものが聴こえ、それの吐く息は纏っている悪臭よりも更に噎せ返るものであったため、思わずジョージはわざとらしく咳をした。もしもあれに触れられたなれば、それはどこまで気持ちの悪い感触なのか? 鼻孔や喉が悪臭に覆われ、涙が滲んだ。目と鼻をアンモニア以上の刺激が襲った。ジョージはそれらに気合いで耐えながら更に続けた。あるいは意味があるのではないかと考えて。
「警告に耳を貸さないならお前は己の過ちをこれから知る事になる」彼は両頬を両手で叩いて意識を更に高めた。「私はお前に喰い殺される獲物なんかじゃない」言葉を発する毎に恐怖は別の感情で上書きされ、意志力が恐怖を踏み躙らんとして彼の内で暴れ始めた。
「私はリヴァイアサンと契約している」そう言った途端、目の前の怪物の雰囲気が変わった。「それもあの〈衆生の測量者〉とだ」
そうは言ったものの、それは一種の賭けであった――あのリヴァイアサンが他の悪魔達と比べてどの程度恐ろしいのかわからなかった。しかし名状しがたいものはジョージの発言を聞いた事で明らかに奇妙な変化を見せた。それまで無秩序だが手際よく変形し続けていたその実体の霧じみた肉体は、どろどろと溶けるような調子でまともな形を取れず、実際のところ溶けた金属塊のような調子で変化し始めた。
「私はあの恐ろしい悪魔から、お前のような連中を傷付けられる力を授かっている。お前が私に殺されたらあの悪魔の食卓に登るだろうな」
これは一種の賭けであった。今のところまだ彼は尋常ならざる実体を傷付けられる力を試してなどいない。しかし彼は『恐ろしい悪魔』の箇所を強調して言い放ち、グロテスク極まる地獄めいた敵対者を威圧した――ふと彼は、もしも悪魔の力を得ていなければ今頃脆弱な人間の精神をもってして震え上がり、汚い廃校の床で躰や服を汚して涙や鼻水を垂らしつつ、神に助けを求めながらもう会えない息子の事を最期に思うか、あるいはそれ以下の死を遂げるだろう。だが今ここにいるのは異界的な恐怖と美に彩られた悪魔の使徒であり、ただの人間以上の存在であった。なればこそ、獲物と捕食者の逆転とてあり得るやも知れなかった。
沈黙に耐えられなかったのか、目の前の元人間らしき無形の怪物は悍ましい声と共にジョージへと襲い掛かった。いきなり飛び掛かって距離を詰められたため、反応できずそのまま伸し掛かられて後ろへと倒れた。ちょうど後ろには机が無く、ジョージは鼻つまみものの怪物の吐息が感じられる距離にいるという現実に混乱しつつも必死に藻掻いた。あまりの悪臭ではあったが、状況が切羽詰まっていたため無意識に無視した。ジョージは発砲する事は諦めた――このぬるぬるする化け物は彼を触腕で絞め殺そうとしているのか喰い殺そうとしているのかは定かではなかったが、間違いなく有害であったから、少なくとも半殺しにしてやろうと考えた。
左手を出そうと藻掻いたが、鉄パイプの先が狂った不定形に引っ掛ってしまった。鉄パイプで殴りたいのはやまやまだが、それどころではない気がしたので彼は咆哮を上げながら鉄パイプを離して左手を出し、そして怪物の顔らしき音を立てている部位に打ち付けた。その感触はどのように形容すればよいのかさえわからない、まさに名状しがたいものでしかなかったが、効くならば殺傷できるだろう。さあ実戦だぞ! 半ばやけになりながらとにかく左手で殴った。そして遅れて自由になった右手も、銃のマガジン部分で殴った。触腕が彼の顔面に触れたり脚を殴られたりしたが、少なくとも死にはしないらしかった。何発も殴ったが、一応効果はあったらしく呻き声と共に名状しがたいものは後退した。ジョージはそれを契機に倒れたまま銃を発砲した。怪物は呻き、グロテスクな音と共に白い物質が銃創から吐き出された。その様を見ているとまるで狩り立てられた猛獣のように見え、どことなく同情や憐憫の念を抱いた。もしかするとここで暮らしていたただの怪物を無意味に襲って殺そうとしているのではないか――襲って来たのは向こうだが。
だがその瞬間ジョージは怪物と接触したせいか、粘液のようでそうでもない物質に塗れた服や手袋に目をやると奇妙な感覚に襲われた。まるで別の人物の視点を体験しているかのような――そこまで考えて、彼は今見ているのがこの怪物のこれまでの体験である事を悟り、言いようもない怒りや軽蔑を抱いた。筆舌に尽くしがたい地獄めいたその光景は戦慄というよりも轟々と燃え上がる山火事がごとき怒りを彼に抱かせた。このふざけた野郎は許せない。
「お前がただ気持ち悪いだけなら放っておいてやってもよかった」
ジョージは立ち上がりながら名状しがたいものを睨め付けた。
「お前は楽しんでいたな。かつて自分と同類だった人間達を殺しながら…迷い込んだ人をじっくりと痛め付けて殺した」
全身を齧られて死に瀕していた男の光景が瞼の奥に浮かんだ。
「ふざけるなよ。これからお前にも同じ地獄を見せてやる。今度はお前がリヴァイアサンに喰い殺される番だ」
ジョージは顔の粘液らしき謎の物質を拭うとそのままタックルを喰らわせた。ぶっつけ本番の死闘は彼の力が本物だと証明しており、相対している相手の大きさなどから充分効果がある事もわかっていた。体重の乗ったタックルで名状しがたいものは怯んだが、すかさず触腕を振り回して反撃してきた。横振りをしゃがんで回避し、縦振りをすっと身を滑らせて回避した。距離を離し、空いていた左手で机を掴んで持ち上げ、触腕の突きを回避しつつ接近すると左手に持っていた机を振り下ろした――彼は己が思っていた以上に力持ちだと知った。振り下ろされた生徒用の机は名状しがたいものの頭部らしき部分を強打し、ぐしゃりと何かが潰れるような音が響いた。ただの机ではなく、彼が持つ事で尋常ならざる実体に対する弱点となっていた。苦痛の呻きを上げる怪物に至近距離から2発目を発砲、それによって不定形は触腕を振り乱して後ろ向けに倒れた。触腕が周囲の机を薙ぎ倒していたが、ジョージは後ろに戻って鉄パイプを回収し、倒れた怪物へと歩み寄った。おもむろに足を踏み降ろして追撃し、それから彼から見て左側の触腕を踏んだり蹴ったりして弱らせた。大人しくなったところで顔の側へと移動、どろどろで無形の顔面目掛けて鉄パイプを何度も振り下ろした。無論懇願するかのような命乞いの雰囲気が伝わってきたものの、ジョージはそれを知らんぷりした。
「悪魔によろしくな」
そう言うと一層強くパイプを振り下ろし、怪物の顔面が割れるように飛び散った。するとそれの全身が音を立てて蒸発し始め、その本質――そうとしか言いようがない、不可視だが確かにそこにある何か――がどこかここではない別の領地へと引っ張られているのがわかった。見れば彼の服、そして床などにも付着した名状しがたいものの分泌した物質までもが蒸発し、跡形も無く消え去った。
ジョージは最後の瞬間に見えたものに、彼なりの達成感を抱いた。消えゆく名状しがたいものの本質は、不可視だが何らかの視覚的効果を発し、それは明らかにこれから己が振り込まれる悪魔の巣穴に対する、窮極的な恐怖によってどうしようもなく酷く歪んでいた。