スーパーワンダフルセレブラテ
ここに僕がいる。あるいは、ここに僕はいた。決して定かではないが、必ずそのどちらかであるだろう。生まれつきの茶髪は耳にかかるくらいまで伸び、身長は人並みで、黒縁の眼鏡に遮られた目は人より少しぱっちりしている。上下水色のジャージで僕の目の前に立っているのは、僕の部屋の鏡に映る僕自身だ。
三月になって少しずつ暖かくなり始めた朝の空気は、僕の気だるい気分をほんの僅かに浄化した。学校は春休み中で特に早起きする必要はなかったが、僕の規則正しい――規則正しいだけの――生活習慣がそうさせた。
僕が森に棲む木こりのような生活を心がけるようになったのは、早朝の空気を吸うためだった。もちろんただその空気を吸いたいだけではなく、それにはちゃんとした理由がある。僕は早朝の空気を吸うと、今自分が一番思い出したいけれどなかなか思い出せない事柄を思い出せることがある。これは僕がまだ幼い頃に気づいた、僕だけの特技のようなものだ。
今日も僕は朝の空気を胸一杯に吸い込み、血液に酸素を供給し、脳味噌に活力を与えた。しかし、思い出したいことは思い出せなかった。
僕が今早起きして思い出そうとしているのは、何年も前に覚え込んだが今ではすっかり忘れてしまった文字の羅列だった。別にそれがなくても生活に支障は出ない。しかし、今思い出さなければ金輪際思い出せなくなるのではないかと考えた。今は必要ないけれど、将来役に立つかもしれない。そしてもし将来必要になったとき、すでに記憶のプールから抜けてしまっているのだけは避けたかった。
『今日も駄目か』と僕は呟き、踵を返して玄関の扉を開けた。すると、僕のため息より数瞬遅れて『やあ、森に棲む木こりさん。思い出したいことは思い出せたかい』という聞きなれた声がした。まさかとは思いつつ振り返ると、そこには相変わらずすらりと背が高く、黒髪の短髪で柔らかい笑みを浮かべ、似合っていないとも言えない金と黒の派手なスカジャンと尋常でないくらいのダメージ加工が施されたぶかぶかのジーンズを身に付けた僕のたった一人の親友が立っていた。
僕は『おはよう。こんなところで何してるんだい。散歩とか?』と尋ねた。彼は『嫌だなあ。こんな早朝からこんな格好で散歩なんてしてたら、それはちょっと考えものだね』と言った。そして『今日は君に用事があって来たのさ』と続けた。
『そんな格好で僕に用事なんて、まさか変なことに手を出そうってことではないよね』と僕は彼の全身を上から下に見ながら言った。彼は笑った。そして『まさか。これは俺なりのオシャレってものさ』と言った。
『まあ似合ってなくもないけれど。それより、用事ってどんな?』と僕は彼に尋ねた。彼は『そうだな。とりあえず、急いで遠出の準備をしてきてくれないか。たぶん丸一日かかる。話はそれからだ』と答えた。僕は『いや、でも話の趣旨くらい教えてくれたって構わないじゃないか』と言ったが、彼はすでにこちらに背中を向けて『じゃあ七時に駅で』と片手をあげながら言い残し、去っていった。彼の背中には何かが決定的に抜け落ちた虎とこれ以上はないくらい顔をしかめた龍が金色の刺繍で描かれていた。
僕は呆れ半分のまま部屋に戻り、テーブルの上にあるラップをかけたオムライスを見ながら、『今日の昼飯は僕の好きなオムライスだったのにな』と言って身支度を始めた。
白いシャツの上から青のカーディガンを羽織り、小麦色のパンツを身に付けた僕は、七時きっかりに駅に到着した。僕は何を思うでもなくまず彼の姿を探した。彼との待ち合わせは何度かしたことがあったが、彼は僕より先に来ていることが多かった。案の定彼はもう僕に気づいて手を振っていた。
僕が駆け寄ると彼は『やあやあ。久しぶりだね』と言い、振っていた手をスカジャンのポケットに突っ込んだ。『何が久しぶりなんだよ。さっき会ったばかりじゃないか』と僕は言った。
『一体君にはどんな冗談なら通じるんだろうか』と彼はまるで一人言のように言った。僕は『冗談なんていいから、とりあえず君が何をしようとしているのか教えて』と言った。彼はしばらく考え、『切符を買おうとしている』と言った。『そういう意味じゃなくてさ』
結局僕は彼から何も聞かされないまま切符を買い、電車に乗り込んだ。並んで座った僕たち以外の客は至ってまばらで、ラッシュ時の息苦しさは感じられなかった。発車後は線路を車輪が転がる音が延々と続き、時々車内アナウンスが流れた。
僕が電車の揺れにうとうとし始めたとき、ふと隣の彼が『さあ終点だ。降りるよ』と言った。僕は鼻を鳴らして返事をし、はっきりしない意識のまま虎と龍の背中を追った。
彼を追って駅の正面口まで辿り着いた僕は、彼に『それで、なにをするの?』と尋ねた。彼は『あと少し、俺についてくるだけさ』とだけ言い、ポケットに手を入れたまま歩き出した。『本当にあと少しなんだね。一応言っておくけど、僕にも我慢の限界ってものがあるからね』と僕は言った。彼は歩き続けた。
人々は水流のように街を行き交い、音が渦を巻いてそこにあるものを飲み込んでいく。今誰かが溺れていたところで誰一人気づくものはいないだろう。あるいは、見て見ぬふりを決め込んでいるのかもしれない。全ては自分が溺れてしまわないように。肺呼吸を行う生物の一人として、限られた酸素を目に見えない誰かと奪い合わねばならないのがこの街なのだ。
彼が『ここだ』と言って立ち止まった場所は大手百貨店の入り口前だった。僕は『ここが目的地ということはつまり、君はただこの街で遊びたいんだね?』と訊いた。彼は両手をポケットに入れたまま笑顔で振り返り、『それ以外に何をするっていうんだ』と言った。そして足早に自動ドアをくぐり抜けた。『君さ、もう少し素直になろうよ』と僕は言った。僕自身、彼に引きずり回されるのにはだいぶ慣れてきたみたいだ。
『そうだ』と不意に彼が何か思いついたように僕の方へ振り返った。そして『楽しめるのは俺だけかもしれない。むしろ君は俺の操り人形になる』と言った。僕はその言葉の真意を――その時点では――汲み取ろうとはしなかった。『はいはい。つまり、今日の荷物持ちは僕なんですね』
『すごく気になるんだけど、どうして僕たちは調理器具売り場にいるの?』と僕は言った。『偶然じゃないかな』と彼は言うが、彼の目は何か特大プロジェクトを企てている社長のように燦然と光っていた。『とても偶然とは思えないんだけど』と僕が言うと、『君が今そう思ったのもきっと何かの偶然さ。気にしない方がいい』と彼は言った。『一言だけ言わせてもらうと、納得はしていない』と僕は言った。
さすがに大手百貨店なだけあって、鍋やフライパンはもちろん、グレートなアイデアを盛り込んだユーモラスでカラフルな器具までところ狭しと並べられていた。
包丁やナイフが集められた場所に来ると彼は、一つだけ売れ残った柄が口紅のように赤い包丁を手に取り『この包丁を買ってくれよ。実は今料理にどっぷり浸かっててさ。丁度いいのを探していたんだ』と言った。僕は『突発的にプレゼントを要求するなんて相当な離れ業だね』と言った。『別に包丁くらいなら構わないけど』
『それなら決まりだね』と彼は言い、その柄が口紅のように赤い包丁を高く掲げた。天井の照明が反射して刃の銀色が輝いた。
するとそこへ白いものが混じり始めた豊かな顎髭を蓄え、みすぼらしい格好をした中年に見える男が現れて『ああ、その包丁を私に譲ってくれないか』とかすれた低い声で言った。僕は――おそらく彼も――何秒かその中年に見える男を見つめ、それから互いの目を見た。
『どうする?』と僕は彼に尋ねた。彼は『それはもちろん譲るしかないだろう』と即答した。僕は『ずいぶんとあっさりだね。この包丁が欲しいんじゃないの?』と言った。『いや、構わないんだ。譲るよ。それにほら、また違う場所に売っているかもしれない。あとほら、ここで譲るのが紳士的な男性というものさ』と彼は早口にまくし立てた。
僕たちの会話を横に立って聞いていた中年に見える男は『そうか、気のいい若者たちだな。ありがとう』と言い、大量生産の機械のような動きで彼から柄が口紅のように赤い包丁を受け取った。
その男が去ってから僕は『本当によかったの?』と彼に訊いた。彼は『最高さ』と言った。
その後僕たちは最上階のファミリーレストランで昼食にオムライスを食べ、デザートに苺のショートケーキを食べた。なぜか彼が全て奢ってくれた。
レストランを出ると彼が『下の階のカフェに入らないか?』と言った。僕は特に拒む理由もなかったから『いいよ』とだけ言った。
彼についていくと、コーヒーの匂いが漂うカフェに到着した。入店して彼は迷わずカウンターに向かった。店内は壮厳なクラシック音楽が流れるに相応しい雰囲気で、客はまばらだった。全体的な色調はブラウンで統一されている。
『いらっしゃいませ。ご注文は何になさいましょう』と若い男性店員がアナウンサーのような声で言った。彼は僕に目を向けて『どうする?』と言った。僕はメニューも見ずに『普通に、ホットコーヒーでいいよ』と言った。彼は『そうか。それなら俺はこれにしようかな』と言ってメニューに目を落とし、『スーパーワンダフルセレブラテをお願いします』と続けた。僕は思わず『何それ』と言って彼と同じものを見た。確かにそこには彼が言った通りの文字が印刷されていた。
アナウンサーのような声の男性店員は『そちら、本日限定となっております。というより、本日しか販売できない商品です』と言った。僕は『セレブなラテって。値段はいくらですか?』と店員に尋ねた。店員は『お一つ三百円です』と言った。『名前が酷くセレブなわりに値段は安いな。僕もそれにします』
僕たちはカウンターで受け取ったスーパーワンダフルセレブラテを持って席に着いた。『さて、どんなものかね』と彼は言って湯気のたつ白いコーヒーカップを口元に運んだ。彼は目を閉じて沈黙し、『君も飲んでみて』と言った。僕も言われるがままコーヒーカップを口元に運び、飲んだ。『どんな味だい?』と彼が僕に尋ねた。『ラテだ。それもいささか標準的すぎるくらいの』と僕は言った。
彼は『俺もそう思う』と言った。僕は『じゃあこのラテは何がスーパーでワンダフルなんだろう。名前だけ?』と言った。すると『そんなはずはない』と彼は割り込み、『きっと何か、どこかに重大な秘密が隠されているのさ』と言った。『けれど僕たちはその秘密を解き明かせない。何らかの都合上』と僕は答えた。
『おそらくそうだろうね』と彼は言った。
突然、大きく甲高い悲鳴が鳴り響いた。壮厳なクラシック音楽が流れる中でゆっくりラテを味わっていた僕にも充分聞こえるくらいの声量だった。
『何かあったのかな?』と僕は言った。彼は『何もなければ誰も悲鳴は上げるまい』と言った。『見に行かない?』と僕が訊くと『人はそれを野次馬と言う』と彼が答えた。その言葉は彼のオーケーのサインらしい。
悲鳴が聞こえたと思われる方へ向かうと、すでに野次馬は大勢いた。前のめりになっている人ごみを掻き分けて進んでいくと、まず最初に赤い液体が見えた。次に口紅のような赤が見え、最後に倒れている人が見えた。
『これは事件だね』と僕の後ろから彼が言った。そして『よく見ろ』と言って対象物を指し示した。僕は息を飲んだ。その倒れている人が、つい何時間か前に僕たちが柄が口紅のように赤い包丁を譲った中年に見える男だったからだ。『これはけっこうやばいんじゃないか』と僕は呟いた。
僕に最初に見えた赤い液体は、中年に見える男の鮮血だった。次に見えた口紅のような赤が、僕たちが譲った包丁の柄だった。その包丁は柄の部分しか見えず、刃の部分は中年に見える男の腹部に深々と突き刺さっていた。その男の生死はこちらからは確認できない。
『これは殺人、あるいは殺人未遂かな?』と僕は彼に尋ねた。彼は『いや、自殺という可能性の方が高いんじゃないか』と言った。『確かにそうだ。僕たちが譲ったあの柄が赤い包丁は、最後の売れ残りだったんだから、他にあの包丁を持っている人はいないはずだね』と僕は言った。
僕たちが話している間、周囲は様々な音で溢れていた。ざわめき、救急車を求める大声、誰かの高い声。そのどれもが、あらゆる音を僕たちから奪っていった。
すると突然、僕たちの後ろ――おそらくは野次馬よりも後方――から『スーパーワンダフルセレブラテっ!』という大音量の声がした。そこにいた人々が振り返る頃には、周囲の様々な方向から『スーパーワンダフルセレブラテっ!』という声が幾重にも重なって響くようになった。『一体どうなってるんだこれは』と僕は困惑しながら言った。
『スーパーワンダフルセレブラテっ!』という声を上げる連中は、その全員が上下厚手の迷彩服に防弾ベスト、そして黒いガスマスクを装着していた。両手にはおそらく木製と思われる多様な形の武器を持っていた。
異様な声を上げ続ける連中の中から不意に一人が飛び出し、すぐそこにいた小柄な女性に木刀で殴りかかった。一瞬の内に混乱が拡大し、至るところから悲鳴が溢れだした。人々は逃げようとするが、『スーパーワンダフルセレブラテっ!』と叫ぶ連中に行く手を阻まれる。
僕はすぐ隣にいた彼に、『あの人たち、ずいぶんと発音がネイティブだね』と言った。彼は不思議そうな顔をして『君はどうしてそんなに楽観的でいられるんだい?』と言い、『普通の人なら悲鳴を上げて一目散に逃げ出すんだけど』と続けた。普通の人なら、と僕は彼の言った言葉について考えた。『そういう君だって平然としてるじゃないか』と僕は言った。
彼は『俺はこういうのには慣れてるからね』と言った。俺はこういうのには慣れてるからね、という彼の言葉を頭の中で反芻した僕は、ある一つの仮説に辿り着いた。僕はことこういう推測に関しては天才的な部分があるらしい。彼からもそう言われたことがあった。
『今、君は口を滑らせたよね』と僕が微笑み混じりに尋ねると、『あ、気づかれたか』と彼は言った。僕は『とりあえず逃げないと僕たちまでやられちゃうんだけどね』と言って笑った。彼は『心配ない。彼らは限度というものを熟知している』と言った。彼が言った直後、すぐ近くで耳をつんざく爆発音と共にガラスが割れて飛び散る音がした。僕は鼻で笑った。『これのどこが?』と僕は言う。
駆け出した僕たちは、迷彩服の包囲網を突破していく人々に置いていかれないように懸命に走った。それでも捕まってしまう人も多く、抵抗すれば木製の武器による攻撃を叩き込まれる。僕はなるべくそちらを見ないようにして走っていた。
『こっちからも来たぞっ!』という突然の怒声が響き、轟く雷のような奇声と同時に人の流れが逆流し始めた。前方を見ると、連中と同じ厚手の迷彩服に黒いガスマスクという格好で木製の武器を振り上げ、『スーパーワンダフルセレブラテっ!』と叫びながら尋常ではありえないスピードで向かってくる集団がいた。
前後を迷彩服の連中に挟み込まれた一般客たちは、今度は左右に散らばった。しかし、物陰という物陰に潜んでいた迷彩服の彼らに意表を突かれ、次々と捕まっていった。観葉植物の陰から不意に『スーパーワンダフルセレブラテっ!』と叫ぶ人が現れたときの恐怖は、計り知れないだろう。
『やばい、挟まれた』と僕は言い、彼に『どうしようか』と尋ねた。しかし、僕の隣に彼は見当たらなかった。『はぐれたか』と僕はため息混じりに呟いた。その一瞬の隙に、僕は迷彩服の連中の一人に両手を拘束された。
捕獲された人々が両手を拘束されて何ヵ所かに集められているのを、僕は厚手の迷彩服の彼らにどこかへ誘導されている途中で見た。おそらく僕自身もその内の一ヵ所へと送られているのだろう。僕は、一緒に来た彼は一体どうしているだろうかという心配よりも、自分の心配をあえて優先した。見えないものについて考えるより、見えそうなものについて考える方が先決だと思ったからだ。
並べられていた商品が一掃されてさっぱりとした店舗スペースに、金属製のいささか簡易な檻が設置されていた。その檻は店舗スペース一つを埋め尽くすほど巨大で、その中には様々な形相の人々が閉じ込められていた。僕はその中に半ば放り投げられるように入れられた。厚手の迷彩服の一人が、どこか見覚えのある青色塗装のダイヤル式南京錠で檻の出入り口に施錠した。そのダイヤル式南京錠の青は、長年使い込まれていたのか少し色褪せていた。僕は思わず『あれ?』と呟いた。その南京錠が記憶の片隅に引っ掛かったからだ。
僕は、記憶の中から取り出せないその青色塗装のダイヤル式南京錠の正体を突き止めようと、まず初めにそれを凝視した。度忘れに似たような感覚が僕の脳味噌に走る。
ふと、百貨店に入った直後に彼が言ったことを思い出した。僕はそれを呟く。『君は俺の操り人形になる』
呟いた僕の声が耳の奥で響き終えたとき、脳に閃光が走った。数ミリずつ生じたズレによってうまく噛み合わなかった歯車が、気まぐれに噛み合ったような心地がした。
僕は迷彩服たちの監視の目を盗み、青色の南京錠に触れた。間違いない、そう確信した。この青い南京錠は僕と親友の彼が付き合い出してはじめて待ち合わせをしたとき、二つの錠をそれぞれ持ち寄って合い言葉のようにして使ったものだった。これが彼のダイヤル式南京錠であるならば、その錠を開く鍵となる数字は『0318』、僕の誕生日だ。
僕は手早くダイヤルを合わせた。すると気持ちのいい音と共に、解錠した。その音は迷彩服の彼らに気づかれたようだったが、彼らは気味の悪いくらい穏やかな表情でこちらを見ていた。そして彼らは口を揃えて言う。『スーパーワンダフルセレブラテ』
檻の扉を力一杯開け放った僕は、閉じ込められていた一般客たちを急いで外に出した。一般客たちは、拝むような形相で僕に頭を下げ、足早に逃げていった。もちろん、迷彩服の連中はそれを追わない。
全員逃げたことを確認すると、僕は一目散に駆け出した。目的地はわからない。ただ、前に進まなければずっとわからないままだ。
誘導されてきた道をそのまま戻り、その途中にあったたくさんの檻の扉を、僕は開けた。それらの檻に錠はなく、僕が檻の前に立っても迷彩服の彼らは黙って僕を見ていた。檻の扉を開ける度、迷彩服の彼らは口を揃えて言う。『スーパーワンダフルセレブラテ』
殺伐とした百貨店内をくまなく歩き回り、全ての檻の扉を開けたが、その中に一緒に来た彼の姿は見当たらなかった。それどころか、気づけば僕以外の人がはじめからいなかったかのように消え去っていた。
仕方なくとぼとぼと出口へ向かう途中で、不意に店内アナウンスが流れる。その声は加工されていて、誰の声かわからなかった。その声は酷くゆっくりと親しみを込めたような口調で言う。『スーパーワンダフルセレブラテ』
してやられた、と僕は思った。
しばらく電車に乗り、駅を出て家路につく。日が傾き、世界の全てがオレンジ色に染まる。カラスは僕の頭上を通り過ぎていく。それまでうつむきながら歩いていた僕は、家の前で顔をあげる。僕の家の玄関前に、三人の男が立っていた。
『やあ、森に棲む木こりさん。俺の特大プロジェクトはどうだったかな。早朝の空気に勝てたかな?』と三人の内の一人が言う。一緒に百貨店へ言った僕の唯一の親友だった。僕は『それはもう圧勝だよ。おかげで楽しい人生になりそうだ』と言った。
僕が言うと、彼の隣にいた二人の男が笑った。一人は僕たちが柄が口紅のような赤の包丁を譲った中年に見える男で、もう一人は僕たちがスーパーワンダフルセレブラテを購入したカフェで働くアナウンサーのような声をした店員だった。二人はまるで打ち合わせでもしていたかのように口を揃えて言う。『スーパーワンダフルセレブラテ』
『ありがとう』と僕が微笑んで言うと、二人は歩いてどこかへ消えた。僕の家の玄関前には僕と僕の唯一の親友だけが残った。
『今日は本当にありがとう。たぶん一生忘れないよ』と僕は言った。彼は照れ臭そうに『喜んで貰えて俺も嬉しいさ』と言って後頭部を掻いた。
『それじゃあ、今日はこの辺で。最後に一言だけ言わせてくれ』と彼は言う。『スーパーワンダフルセレブラテ』
僕は『ありがとう。とてもネイティブな発音だ。』と言った。すると彼は酷くゆっくりと親しみを込めたような歩き方で、僕の右横を通り過ぎていった。
振り返り、街の方へ沈み行く夕陽を見詰めながら僕は一人呟いた。『スーパーワンダフルセレブラテ』
自分の部屋に戻った僕はベッドに飛び込み、天井を見上げた。今日は三月十八日。僕はしばらくの間、自分の誕生日さえ忘れていたらしい。
目を閉じて、今度は静かに、そしてネイティブに呟く。
『Super wonderful celebrate』
ここに僕がいる。