キャンドヒート ブルース
ゆっくりと視界が色を取り戻していく。ようやく周囲を認識できるようになった頃、光の前に一人の少女が倒れていた。
「生穂!」
駆け寄ろうとした瞬間、全身を貫いた痛みによろめきながらも生穂に駆け寄る光の背中に那由他が叫んだ。
「ちょお待て光!動いたらあかん!」
「でも……」
「ええから!あたしの言うこと聞け。その姉ちゃん……生穂やったっけ?から、なんかヤバいもん感じるわ。あんたじゃあかん、あたしが確認する」
有無を言わさぬ那由他の気迫に押され、光はその場に立ち竦む。ゆっくりと近づく那由他。さすがにその顔には先ほどまでの余裕はないが、それでも生穂の足元に立つと、深く深呼吸して、口を開いた。
「生穂か?無事やったら返事せぇ」
返ってきたのは沈黙。那由他は顔色を変えず、
「無事なんか?あんたの意識は」
クククククククク。
誰かが笑った。
「誰や?」
ケケケケケケケケケケケケケケ。
今度ははっきりと、不気味な笑いが生穂から聞こえた。
直後、ガバッと生穂の体が飛び起きた。硬直する光。その背後にいた夏澄もヒッと小さく息を飲んだ。その表情はさすがに硬い。
「イヒヒヒヒヒヒ、アハハハハハハハハハハハハ!」
背中を向けたままの生穂から今度は甲高い哄笑。光たち全員に緊張の色が走る。那由他は腰を軽く落とし、胸前で拳を構えた。
絶望的な想いが光の胸中を駆け巡る。映画のパターンだと、最悪の事象の前振りだ。
ゆっくりと光たちを振り向く生穂。全員がごくりと生唾を飲んだ。
その顔が完全にこちらを向いた瞬間、
「ばぁ!」
「うわあああああああああああああああ!」
思わず叫ぶ光。だが、振り返った生穂は呆れた表情で光を見ていた。
「ぁぁぁ……って、あれ?」
腰を抜かしたまま、思わず周囲を見渡す光を刺すように向けられる冷たい視線。
「おにいちゃん……ちょっと驚きすぎ」
「あんた……実は割と情けないな。今ので上場やった株価が、いきなり暴落したで」
「そ、そんなこと言うけど……メチャクチャ心配だったんだから仕方ないだろ!」
光の抗議に、はぁ……と深いため息。生穂が漏らしたものだった。
「ちょっとビビらせただけじゃない。そこまで驚くとは思わなかったわ。あたしのほうがびっくりよ……大体、あんたさ、呼び出しといてその態度はなんなのよ?」
……呼び出した?その言葉に、再び光と夏澄の間に緊張が走る。那由他は構えを解かずに、
「呼び出したってどういうこっちゃ?やっぱ。おまえ生穂とちゃうんやな」
「っていうか、さっきからなんなのよ、生穂、生穂って。あたしは……」
そこまで言いかけて今度は生穂が硬直する。その視線の先は床に落ちたガラス片。
「ちょっと、どういうことよ、これ!」
ガラス片に映る自分の姿に、目を見開いて叫んだのは生穂本人。何が起こっているのかわからず、光と那由他と夏澄が思わず目を見合わせた。
「あ、あたし自慢の銀髪が……ブラックシルクって言われてる肌が……なんなの、このアジアンな小便臭いガキの身体は!」
事態を把握できず、ただ呆然と突っ立っている光と夏澄。その中、那由他だけは全てを察したように一人頷き、さらに生穂に近づいた。ファイティングポーズこそ解いてはいたが、張り詰めた空気をまとったまま、詳しくはわからんけど……と、切り出す。
「多分、こっちで実体化する際に何らかの問題が起こってその女の体の中に入り込んだっちゅうこっちゃろ。おまえらのいる階層とこっちじゃ存在の定義が全然ちゃうやろうしな、ありえんことやないわ。それより……おまえ、名前は?何でここに来た?」
警戒に光る那由他の瞳を何食わぬ顔で見返しながら、生穂は、フンと鼻を鳴らした。
「何なのあんた?さっきから知ったような口ばっかきいて。あたしを誰だと思ってるのよ。それに、あたしは今それどころじゃないのよ!乳幼児は引っ込んでなさいよ!」
「乳幼児ゆうな、ボケ!こいつらと同い年じゃ。丁寧に説明したってんのになんやその態度?調子こいてたらぶちのめすぞ。おどれはさっさと聞かれたことに答えんかい!」
「沸点の低いガキね。言葉遣いも終わってるし。そもそも、調子乗ってるのはどっちよ!アンタこそ、あたしをなめない方がいいわよ。今すぐここと地獄犬の巣を直結させて連中の餌にしてやろうかしら」
凍りつきそうな瞳で那由他を見る生穂の姿をした【誰か】。光はその言葉に何か得体の知れない威圧感を感じた。直結する……その意味を図り知ることはできなかったが、この【誰か】は、それを間違いなく実行に移せる力がある。
気がつくと、光の全身を鳥肌が覆っていた。目の前の見慣れた姿をした【誰か】が発する冷気のようなものが体感温度を10度くらい下げていた。
そんな中、那由他は怯みもせず、得体の知れない冷気を放つ【誰か】を睨み付け、
「上等やんけ。ヘルハウンドの巣ぅ?所詮、犬っコロやろが。都合の悪い害獣はまとめて保健所に叩き送ったるわ!おどれこそ人間なめんなよ、タチの悪さじゃ負けへんど!」
気迫に満ちた言葉。【誰か】が何らかの動きをした瞬間、先ほど見せた必殺の拳をその顔面にも容赦なく叩き込むのだろう。巨漢を軽々と吹き飛ばしたあの拳を華奢な生穂の身体が食らったら、病院送りは恐らく間違いない。止めるか止めないか、光と夏澄の間に緊張感に満ちた空気が流れて間もなく、【誰か】は小さくため息をついた。
「……冗談よ。別にあんたともめるつもりなんてないわ。ちょっと取り乱しただけじゃない。それに、さっきも言ったけど、あたし、召喚されて来ただけだから。そんな殺気むき出しであたしの前に立たないでよね」
その言葉に那由他は首を傾げ、
「ちゅうか、さっきから召還ってなんや?誰が召還したっちゅうんじゃ?あと、さっきから聞いてるけど、そもそも、おどれは誰やねん?」
「質問は一つずつにしてよ。最初の質問の答えは、さっきいったでしょ、こいつよ」
その視線の先には、光。
え、俺……?思わず自分を指差す光。途端に、光を見る那由他の目つきが険しいものになる。
「光、あんた……いつ?どういうことやねん?状況しだいじゃ……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は召還なんてしてないぞ。俺の方が訳わかんないよ!」
【誰か】は焦る光を半目で見ながら、
「はぁ?何言ってんのよ、あんた、今さっきここでギター弾いたじゃない。召喚したんでしょ、あたしを!」
「ギターで召喚?」
思わず呟いたのは、夏澄。
「なんや?カスミン知っとんのか?」
「え……うん。でも、なんか伝説と違う」
「どういうことだ?なんだ、これ?」
「一体こいつは……」
あーーー!もう!うるっさいわね!
業を煮やして、生穂の姿をした【誰か】は騒然とする光たちの前で仁王立ちになり、自らを指差して、言った。
「あたしはレグバ!今は違うけど、通称、黒い女神!門と街道と運命の支配者よ!」
一呼吸置いて、何かを思い出したように夏澄が、
「……その名前、やっぱり。ロバート・ジョンソンのクロスロードブルースの元になったっていう……でも、ここは四辻じゃないし、そもそも、レグバって男の人じゃ……」
「ロバート……それって、80年くらい前にパパと契約した奴よね?あたしは娘よ。パパが現役引退したから、名前を継いだの。今はあたしがレグバ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話が見えない。どういうことなんだ?」
えっとね……。と、言い淀む夏澄。
「もうあんたも黙ってて!あたしから説明してあげるわよ」
夏澄を遮るように発したレグバの言葉。光たちは黙ってその後に続いた言葉を聞く。
それは、80年もの間、ブルースマンの間で語り継がれてきたある伝説だった。
――1930年代、アメリカミシシッピー州に放浪と放蕩を繰り返す若きブルースギタリストがいた。彼は乾いた風が吹きすさぶ四辻で、悪魔とある取引を交わす。そして、自らの命と引き換えに誰もが思わず聞き入ってしまうようなギターの技を手に入れる。
その音色はアメリカ中に響き渡り、やがて彼はブルースの王と呼ばれることになるが、荒れた放蕩生活の末に、契約どおり、若くして悪魔に命を持っていかれることになる――
「――その人がロバート・ジョンソン。デルタブルースの父って言われてる人だよ。エリック・クラプトンとか、ストーンズもカバーしてるからおにいちゃんたちも名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」
補足する夏澄の言葉に、レグバを名乗のる少女は腕を組んだ尊大な態度でそうそうと相槌を打つ。が、那由他はその顔に懐疑の視線を投げ、
「そやけど、それはさっきの質問の答えにはなってないで。確かに光はいまさっきギター弾きよったけど、ここは辻の真ん中ちゃうし、そもそも、おまえはなんで生穂の身体に入りこんどるんじゃ?」
「それがあたしにわかったら、こんなにイライラしてないわよ!いきなり召喚されたと思ったら、このザマよ。あたしの身体どうなったってのよ。それに、あたしたち精霊の常用語は言霊だから、あんたたちの頭の中で言語に変換されて意思こそ通じてるけど、ここってアジアのどこかでしょ?あたしみたいな精霊がこっちの世界で実体化するのって、大きな信仰がないと無理なはずなんだけど……何もかもがおかしいのよ。近くに宗教的基盤なんてないでしょ?」
「ここは日本やからな。おまえの所属するブードゥー信仰ゆうたらもとはアフリカの宗教やろ。いくら国際社会ゆうても、教義も教会もない宗教の信者なんて、日本中探し回っても大した数にはならんわな」
「……どういうことだ?」
首をかしげる光に、那由他は自信なさげに腕を組む。
「えっとな……あたしも詳しくは知らんけど、現世のもんとちゃう存在が顕現しようとしたら、まず、その土地に大きい信仰の力があることが必須条件になるんや。存在を信じてる奴がたくさんいるからこそ、こいつらは姿を持ってこっちで存在できんねん。信仰心が現世でのこいつらの入れもんになるからな。1930年代のアメリカの黒人いうたら、奴隷としてアフリカから連れてこられて何世代も経ってへんやろ?連れてこられた際にキリスト教に改宗させられたけど、信仰の根底にはブードゥー教がまだ根付いてた。つまり、当時のアメリカ南部にはこいつらが顕現するに十分な霊的容量があったということや。そやのに、こいつはそんな土壌のないこの日本で、しかもあんたが適当に弾いたギターで顕現しよった。考えたら、ものすご変な話やで」
那由他はそこまで言うと、ギターを持つ手振りをし、それに……と続ける。
「ブルースゆうたら飢えて死にかけてアルコール買う金も尽きたあげく固形燃料溶かして飲んで完全にオツムいかれてしもたオッサンが、街灯の下で腐ったアコギ持って、♪Aしたも希望もない。マイったナぁ~♪ってやるAマイナーやろ。あんたハジいたんって、Gやで、G。GAっくりや。Aマイナーにある挫折感がかけらもないやんけ。スカ屁みたいな音や」
夏澄は、鼻をつまんで顔をゆがめる那由多を乾いた笑いと共に一瞥した後、
「スカ屁って……」と、悲しそうにうなだれる光に視線を移し、深いため息をつくと、
「なゆちん、後半は余計。偏見入りすぎて意味もよくわかんないし。G嫌いなの?あたし大好きだけど。元気出るし……って、そんなことより」
夏澄は身を乗り出して、レグバと那由他を交互に見る。
「それって、まさか、誰かが画策したってこと?」
「いやいや、カスミン、そら、深読みしすぎや。大体、誰が?何のために?方法は?」
……。那由他の言葉に口を閉ざす夏澄。短い沈黙を挟んで、
「仮に、もしそうだとしても、契約するってんなら本人だろ?俺にそれをさせてどうするんだよ?それに、生穂の身体の中にこいつがいる原因はなんだ?」
光の言葉にレグバが口を尖らせる。
「さっきからこいつこいつって……あんたも大概失礼な男よね。あたしだってこんな身体になってショック受てんのよ。傷ついてる美少女をなぐさめる言葉もないの?」
その様子を見た夏澄が満面の笑みを浮かべて、
「おにいちゃんは失礼なんかじゃないよ。子供なだけだよ」
「夏澄、かばってるのかけなしてるのかわからないフォローはやめてくれ。気が利かなくて悪かったよ、ごめん。それと、生穂は……無事なのか?」
頭を下げた後、伺うようにレグバを見る光。それを見たレグバは、少しうんざりしたように、
「ちゃんと生きてるわよ。今、気を失ってるから、あたしがこの身体の主導権を握ってるだけよ」
「生穂が目覚めた後のこと考えると、気が重いよ。一体、なんて説明すればいいんだ」
弱々しく肩を落とす光。レグバはそれを無視し、
「それよりも、あたし、このままでいいの?あんたにその意志がなくても呼び出した以上は、契約してくれないと、多分、あたし向こうにも帰れないし、この女もこのままよ」
「ちょお待て、契約って、さっきの話とちゃうんか?」
「そうよ。あたしの世界からスクラッチを呼び出して、こいつに憑依させるの」
その言葉に、夏澄が青ざめる。
「……そんなことしたら」
「そう、こいつは命と引き換えに天上のギターの腕を手に入れることが出来る」
歪むレグバの口元を一瞥し、ハッと鼻で笑う那由他。
「それをやる意味なんかないわ。光、そんなことせんでもええで。生穂の身体はあたしが何とかしたる。要らんカッコつけは無用や」
「そうだよ、おにいちゃん。絶対ダメだよ」
那由他と夏澄の制止に無言で答える光。その様子を見ていたレグバは他人行儀な口調で言った。
「別にそれならそれでいいけど、このままだとどんな弊害が起こるかわからないわよ。門は開きっぱなしなんだから」
「ッ!くそっ……そういうことかい」
思わず舌打ちをする那由他に、詰め寄る夏澄。
「どういうことなの?」
「要するにな、こいつが儀式もせんとここにいる今、こいつの世界とここは直でつながってるんや。ということは、向こうにいるややこしい連中が雪崩れ込んでくる可能性がある。そいつらはあたしが普段祓ってる地縛霊や悪霊なんかとはワケが違うで。いわば、マモノって奴らやからな。少なくともこいつがここで生穂に憑依した状態とはいえ顕現してるということは、連中がこっちで実体化する可能性は否定できへん。そうなったら最悪や」
…………。
その言葉に光たちは言葉を失う。二人の言葉には、嘘でも冗談でもない奇妙な説得力があった。レグバはからかうような瞳で光たちを見回す。しばしの沈黙の後、
「……ねぇ、どうにかできないの?」
懇願するかのような夏澄の言葉に那由他は忌々しげにかぶりを振る。
「あかん。何匹かはやれる自信があるけど、数が増えたらどうにもならんわ」
「そういうことよ。つまり、儀式をやるしか手はないってわけ」
やや脅迫じみた口調のレグバ。それを聞いた光がぽつりと、
「……でも、仮に契約を行なっても、俺はこの身体だ。しばらくギターも弾けないし、動けるかどうかもわからない。そうなると、契約は無効になるんじゃないのか?」
挑発するかのような口調の光。その意図に気づいたのか、レグバは口の端をゆがめ、
「その辺は大丈夫よ。スクラッチを身に宿せばあんたの身体も治るわ。契約するということは、魂と引き換えに精霊の力を手に入れるのと同じなんだから」
「あかん、光。そいつの話に乗るな。まだ、どうなるかわからん」
首を振って制止する那由他。レグバは、2人を交互に半目で見ながら、
「別にそれでも良いけど、事が起こってからじゃ遅いわよ」
「……やるよ」
意を決したような光の言葉。
「光!」、「おにいちゃん!」
「……いずれにしろこの身体じゃ何も出来ないし、仮に契約が成功しても、原因がはっきりしていない以上、あんたが向こうに帰れない可能性だってあるんだろ。そうなったらその手立てを探さないといけない。どうせ、こんな話、誰にしたって信用してもらえないだろうし、そうなると、実質動けるのは俺たちだけだ。さっきの襲撃事件だって、那由他がいったように、なんかやばいものが絡んでる可能性がある。このままじゃまずいのには変わりないよ」
その言葉に、レグバの目の色が変わる。
「ちょっと待って。襲撃事件って何よ?ここがこんなグチャグチャなのって、そのせいだっての?」
周囲を見渡すレグバ。
「今頃気づいたんかいな……そうや。おまえが来るちょっと前に起こったばっかりや。いきなり訳のわからん連中が襲ってきて、メチャクチャにして帰っていきよった」
「もしかして……」
「なんや?なんか心当たりあんのか?」
レグバはこめかみに手をやってしばらく考え込んだ後、
「ねぇ、その襲撃事件が起こったのって、ここだけ?それとも、ここ最近、他の場所でも起こった?」
「ちょっと前からこの近辺で似たような襲撃事件が起こってるって。でも、それと何の関係があるの?」
レグバは夏澄の言葉に一人納得したように何度も頷き、
「なるほどね。からくりが読めたわ。多分、そいつら、血で陣を組んでるんだわ」
「陣って、まさか、魔方陣か?」
眉間にしわを寄せる那由他。
「そうよ。どういう式で組まれた陣かはわからないけど、何かを呼び込むつもりなのよ。それでこの一帯の霊的エネルギーとエントロピーが増大してるんだわ」
「カスミン、その襲撃事件って、何箇所で起こってるかわかるか?」
「あたしが聞いている分では5箇所……」
「ちゅうことはこれで6箇所か」
レグバは尊大な態度で腕を組み、少しの間考え込んで、
「……ちゃんと調べてみないとわからないけど、たぶん、六芒星ね。さっきの話だと、襲撃事件ってつい今しがたのことなんでしょ?ヘキサグラムは五芒星よりはるかに規模の大きいものを呼び込めるけど、召喚陣として使うには理論が桁違いにややこしいから、制御に時間がかかるのよ」
「どういう風にややこしいねん?」
首をかしげる那由他に、レグバはしばらく考え込んだあと、言葉を選ぶように、
「……ヘキサグラムの制御には、相反する二つの極を設置して安定させるような作業が必要なの……αとω、プラスとマイナス。常と反。簡単に言えば、磁石のN極とS極を向かい合わせに配置するようなことよ」
「そんなん、別に難しくないやんけ。お互いに引っ付きあいよるがな」
「何言ってるの?引っ付かないようにするのよ。制御するってのはそういうことよ」
「引っ付いたらどうなんねん?」
「制御させるまでの間、ヘキサグラムの力場は、ほぼすべての異世界の同座標を貫く形で直線状に展開するの。αとωを内包した状態でね。制御に失敗すれば力場内が膨張と収縮を同時に引き起こして、ドカンよ。この世界はおろか、他の世界のいくつかも同座標内は跡形もなくなるわね。それくらい危険で難しい作業よ」
「おっとろしい話やな~……手元狂ったら完全にアウトやんけ」
「そうよ。だから、召喚陣としては規模も難度も最高なのよ。そして、さっきも言ったけど、制御までの間、一時的に異空間の同座標内は同じ力場でつながる、つまり、異世界をつなぐ扉のロックがすべて外れたってこと。もちろん、あたしのいる世界も。もし、こいつがギターを弾いたのがそのタイミングだったとしたら……」
直後、レグバは目を見開き、何かに気づいたように愕然とする。
「……考えたくないけど、あたし、もしかして、半分事故みたいな形で召喚されたって……こと?」
膝を折り放心するレグバ。
那由他はその姿を哀れみと貶みが混じったような目で一瞥した後、
「なるほどな。よりにもよってえらいタイミングで……とにかく、この地盤が安定してへんような感触の謎は解けた。つまり、その術者が開けたがってるドアとここはつながっとるちゅうことやな。そやけど、単純に陣の上で暴力沙汰を起こした程度で召喚陣なんかできるもんちゃうやろ。他にもなんかあるんちゃうんか?」
那由他は再びレグバの方へと視線を向ける。
自分に向けられた視線に、レグバは思わず我に返って咳払いを一つつき、
「んん……そこがあたしにもわからないところよ。偶然とはいえ、あたしほどの存在が顕現出来たということは、今、ヘキサグラムで囲われてる一帯はかなりの霊的エネルギーが渦巻いているということよ。それほどの召喚陣を組めるとなると、相当な奴だわ。恐らく、その襲撃者って連中もそいつが影で糸引いてるんじゃないかしら」
「ケッ!自分でほどとか言うけ?まぁ、でも、確かにオリシャ・レグバちゅうたら、ブードゥーの精霊の中でも、かなりの上位にいたはずや……なんやむかつくけど、それは認めたるわ」
「そうよ。そう思ってるなら、もっとあたしを尊敬しなさいよ。あんたもさっきからあたしに対して無礼なのよ!」
指を突きつけるレグバに、那由他はその顔を睨み付けながら、忌々しげにペッと床に唾を吐く。
「誰がじゃボケ!あんま調子のんなよ、クソ女。あたし、レゲエ好きやから、源流のアフリカ回帰主義にも影響受けてるし、ブードゥーのことも多少は知っとるけど、おどれの信者とは違うぞ。はっきり言うといたるけど、生穂の身体やなかったら、その気に食わん目つきに何発かぶち込んで、あの世に叩き返したるわ。そしたら門も閉じるやんけ。そうせんだけでも感謝せぇよ!」
「はぁ?あんたごときがあたしに敵うわけないでしょ。羞恥心とユーモアを引き換えにして毛先に極太ウンコつけて喜んでるような精神年齢の低いガキが何を言ってるのよ?幾らガキは排泄物が好きって言っても、幼児性もそこまで行ったら汚いだけで笑えないわよ。それとも、あんたの頭に詰まってるウンコか脳みそかわからない汚物が毛穴から漏れてきただけかしら?」
その言葉に、那由他の頬がひくついた。肩がわなわなと怒りに震える。
「あ、あたしの魂のドレッドロックスによう言うてくれたな……そんなにウンコが好きか、このスカトロ女が!それやったらお望みどおり、おどれの魂引きずり出して、犬のクソん中にぶち込んで肥溜めの底に沈めたるわ!」
「くっ、き、汚い女ねぇ……ははぁ~ん、そういうことね。アハハハ。ごめ~ん。ウンコじゃなくて、脳に寄生してるサナダムシの間違いだったわ。そんなに太いのも、脳みそ全部食われたからでしょ?そりゃ怒るわよね」
「この腐れアマ……口から汚物ばっかし吐きやがって。おどれの口は肛門か?門の精霊改め肛門の精霊が!ポリープから膿でも出とるんか?焼け火箸でも突っ込んで消毒したろか、コラ!」
ひどい言葉の応酬に殺気立つ2人の間に、夏澄が慌てた様子で割って入る。
「ちょ、ちょっと2人ともやめて。ケンカするにしても、もうちょっとましな言葉選んでよ、お願いだから……。どう聞いても女の子の会話じゃないよ……」
目に涙を浮かべ、懇願するような表情の夏澄。狼狽のあまり、もはや、注意の趣旨すらずれていることに気づかない。
「生穂の口からその言葉は聞きたくなかった……傷に響くよ」
本当に痛むらしく、眉をしかめてわき腹の辺りを押さえる光。
「なんや、光!あたしやったらええんかい!」
食って掛かる那由他。レグバが便乗するかのように、
「ウンコごときで大層な男ねぇ……誰でもするもんでしょ。あんた、いつまで小学生みたいな幻想抱いてんのよ!世の中には食うわおろか、神棚に奉るような連中もいるのよ」
「そうやど。前の穴がついとったら、後ろにもついとるわ!【人の前後に穴二つ】って言葉もあるやろが。前は喜んで舐めるくせに後ろはあかんのかい!男はホンマ勝手やで!」
その言葉に、夏澄は残念極まりないという体で、右手でこめかみの辺りを押さえた。
「なゆちん……論点がずれてる上に最っ低。それに、それを言うなら、【人を呪わば穴二つ】だよ。当然ながら、意味もぜんぜん被ってないから……もう、あたし本当に悲しくなってきた」
肩を落とす夏澄に、狼狽する那由他。
「な、なんやねんカスミン!こういうときは親友のあたしの味方してくれるもんちゃうんか?」
「ケッ!ざまあ見ろね。友達に見限られて、惨めな女ねぇ、あんたって。アハハハ」
小バカにしたように笑うレグバ。那由他は再び怒りに肩を震わせ、
「このアマ……おどれも人のこと言えた義理やないど!もう限界や!生穂には悪いが、やっぱ、しばらく入院してもらうことに決定じゃ。かかってこんかい、腐れ肛門女!」
「上等よ!やってやろうじゃないの!」
目を逆三角に吊り上げる両者に再び割って入る夏澄の声。
「もう!二人ともいい加減にして!今、それどころじゃないってば!」
那由他は、夏澄の声にしぶしぶといった体で、
「クッ……カスミンの頼みならしゃあない。わかった、とりあえず、一時休戦や。この続きは問題が全部解決してからじゃ、肛門ビチグソ女」
「ええ。そのときを楽しみにしてるわ、暴力サナダムシ幼女」
「なんやとコラ!」、「そっちこそ何よ!」
目を剥き、お互いの顔を睨み付ける2人だったが、直後、射るような視線に気づいて急に固まる。
「だぁから……だめだっていったでしょ……いい加減にしないとあたし本気で怒るから」
視線の主は夏澄。地鳴りのような迫力に満ちたその声とその目には普段の穏やかな雰囲気は欠片もない。慈悲と憤怒、まるでシヴァ神だ。
「す、すまん、カスミン」、「……悪かったわよ」
その迫力に当てられ、那由他と精霊であるレグバも思わず頭を下げる。リーダーの器とはこうやって示すものらしい。ごまかすような咳払いを1つし、那由他が口を開いた。
「えっと……さっきの話の続きや。確かに、若い奴が半狂乱になって大騒ぎするちゅう意味では、一般に言う黒ミサに近い効果は狙えるけど、そんな単純なもんやないしな。関係はあるんやろうけど、もっと他の理由があるとあたしは思う」
「そうね。音楽と魔術ってのは確かに関係が深いけど、ライブハウスって、大衆娯楽音楽を演奏するところでしょ?その程度で陣を組めるなら、この世界はとっくに魔界に飲まれてるわよ。ご丁寧に教会燃やしたり墓暴きしたりするバンドマンだっているんだから。もっと違う条件が必要よ。いずれにしろ、連中の狙いがなんなのかわからない今の時点じゃ、断定はできないけど、黒幕は強力な何かを呼び込むつもりよ。言いたくないけど、あたしよりはるかに強力な奴を……」
屈辱を顔に浮かべるレグバを、那由他は横目で見る。
「われぁ……女神とか精霊とかぬかしとる割には、この世界の世俗的なことにやたら詳しいやんけ。それ、海外の暗黒メタルバンドの連中やろが。もしかして、現世オタクか?」
「オタクとかいわないでよ!勉強しているだけよ」
「……なんでや?」
「だって……こっちの世界のほうが面白そうなものがたくさんあるじゃない。向こうは退屈なのよ。何にもないし……って、何よ、その顔?」
唇を尖らすレグバの顔を見ながら、口を手で押さえる那由他。
「プッ……いなかも……いや、別になんでもない。気にせんでええで」
その態度に、レグバは顔を真っ赤にし、
「クッ……なんかやっぱあんたってどうやったってムカつくわね」
「お互い様じゃ。あたしもおどれには常時ムカついとるわ」
吐き捨てる2人。ただ、先ほどの夏澄の牽制が利いているのか、それ以上発展することはなかった。しばしの睨み合いの後、思い出したようにレグバが口を開く。
「それよりも、陣の中央に何があるのか気になるわね。ヘキサグラムで陣を組んでるなら、中央には必ず何か強力な力場があるはずだわ。何を呼び込むつもりかわからないけど、本番の召喚儀式もそこで行なわれるはずだし」
「それはあたしも気になっとった。カスミン、場所わかるか?」
「調べてみないことにはわからないけど……」
考え込む夏澄を制するように、割って入る光の声。
「……その前に契約だ。こうしている間にも、門は開きっぱなしなんだろ?詳しいことをもっと教えてくれ。契約すれば、とにかく動けるようになるんだな?」
「おにいちゃん……ダメだよ。あたし、それには絶対に賛同できないよ」
光の顔を上目遣いで見ながら首を振る夏澄。続くように那由他が、
「……ほんまにやるんか?仮にすべてうまく行ってもあんたその後死ぬんやで?冷静に考えてみ?あたしも、よぉ賛成せえへんわ……」
「わかんないけど、待ってたってどうにもならないだろ。いずれにしろ、その何かがこの世に呼び出されたら、まずいことになるんじゃないのか?恐らく、俺たち全員死ぬとかそういう類の……」
そこまで言って光は視線を変える。向けられた視線に気づいたレグバが、先ほどと同じく他人行儀に、
「向こうが何を呼び込むつもりかわかんないけど、陣の規模を考えたらその可能性が大ね。それ以前に、開きっぱなしの門から流れ込んできた連中にあんたたち身体も魂も食いちぎられて死ぬのが先だと思うけど」
「だったら、このまま放置しても俺は死ぬわけだ」
どこか達観したような笑みを浮かべる光。言葉を発せない那由他と夏澄。
「実際の話、契約だの死ぬだのという話をされてもよくわからないし、多分、俺は楽観的に考えてるんだろうけどさ、何も出来ずに死ぬよりは、今、自分が出来ることは全部やってから死にたい――」
――そして、俺はやっぱ……『ギタリスト』なんだよ。
最後の言葉を光は口元で飲み込む。その様子を見たレグバは納得したように一人頷き、
「わかったわ。じゃ、契約の儀式をやるわよ。っても、あんたその身体だし、手っ取り早い方法でやるわ」
「どうやるんだ?」
光の質問には答えず、レグバは軽く一息ついた後、
「……シタ入れないでよ?」
「何のはなし……んっ」
言いかけた光の口をふさぐように、レグバの唇が重なっていた。
レグバは頬を赤くして目を閉じていた。この下品な少女でもキスのときは照れるんだな、と思った直後、自分の冷静さに驚く光。目を開けていることも関係しているのだろうかとぼんやり考えていたら、レグバの瞳がゆっくりと開いた。
だが、その瞳が急に見開かれたかと思うと、さっきよりもさらに顔を赤らめ、急に唇が離れる。どことなく名残惜しい想いに駆られる光に、
「あ、ああああ、ああ、光……くん?な、ななな何で?」
真っ先に異変に気づいたのは夏澄。
「もしかして、生穂?気がついたの?」
「チッ、目がさめるのが早いのよ……」
レグバ≠生穂が毒づいた。
「だ、だだ誰?わ、私の身体に誰かいるの?」
耳まで真っ赤だった生穂の顔が、途端に青ざめる。
「生穂か?あ、あれ?」
光は急激に力がめぐってくる自分の身体に気づいた。折れていたはずの腕も、肋骨も全身の打撲の痛みも完全に消えていた。
「あ、光君?か、かかか身体治ったの?そそそそれよりも今のキスは――ふん、どうやら契約は成立したみたいね」
咄嗟に自分の手で口をふさぐ生穂。困惑する顔に、那由他の声。
「生穂やったっけ?状況がわかるか?」
「わ、わわわ私、どうなってるの?」
今にも泣きそうな顔で困惑する生穂。
「あたしから説明してあげるわよ……って、契約成立したのに、何であたしまだこの女の身体の中にいるのよ!?」
バチン!と自分の頬を思わず両手で叩くレグバ≠生穂。
「痛いっ!な、ななななにこれ?だ、誰か助けて!あ、あああ光君!!」
とうとう泣き出す生穂。
「この……あんた今すぐ死になさいよ!そして、あたしを出しなさいよ、このバカ女!」
「だ、だだだ誰なの?怖い……わ、私、まだ死にたくない!」
泣き顔と怒り顔を交互に浮かべる生穂とレグバ。その顔を見た那由他がボリボリと頭をかきながら、
「はぁ……こら、まずこの状況の対応に骨が折れそうやな……」
深いため息と同時にがっくりとうなだれた。