アイ ショット ザ シェリフ
「おにいちゃん、タイミングずれてるよ!はい、もう一度二小節目のあたまから!」
パンパンと手を叩く音。光が振り向いた先に、ベースを胸前に吊り下げたショートカットの小柄な少女が可愛く頬を膨らませていた。
「この曲、リードはずっとギターからなんだから、ちゃんとやってよ。あたしが入るタイミング、完全にずれちゃったじゃない!」
追い討ちのようにドラムセットの後ろから続く声。
「ご、ごめん。もう一度やり直すよ」
うららかな春の日差しが差し込む部室で、光は脳内の五線譜をもう一度確認する。だが、昨日、自室で必死になりながら反復練習した2小節目は混乱する記憶の中で完全にぐちゃぐちゃになっていた。
「ね、ねぇ……そろそろ、休憩にしない?光くんだってまだ参加したばかりだし、こんな短期間で完璧には、行かないよ」
小さな声で差し伸べられる助け舟。ベースの少女はそちらをちらと一瞥し、ため息交じりの微笑を浮かべた。
「ま、しょうがないか……。少し休憩にしよ」
ベースの少女はアンプの上のタオルを取って額の汗を拭く。4月の3週目に入ったばかりだというのに、所狭しと設置された音響機材のお陰で部室内は夏の如き暑さだった。
明日には初ライブ。責任と不安が光の背中にずしりとのしかかった。
規支光は、父の転勤に伴い、二年の進級と同時に東部西南高校に編入した。
それから1週間が過ぎたある日、一息つく間もなく、父に下ったのは長期海外出張の辞令。容赦ない人事異動に、深夜のダイニングでやり場のない怒りをぶつける母親と父親の声を薄い扉越しに聞いた翌日、光は家から持ってきた愛器のギターを担いで放課後の旧音楽室にいた。
転校初日の始業式の後、暇つぶしに敢行した校内散策の途中、だだっ広い敷地の最奥、山を背にして建つ旧校舎の片隅にこの部屋を見つけた。大量の音響機材が目に入ったが、人気はなかった。音楽室は本校舎にあるため、機材準備室か何かだろうと光は思った。
父母のこんなトラブルは今までにも何度かあった。その翌日は、大抵イヤな空気が家に充満している。だからといって、狭い自室に閉じこもってギターを弾いていると何かに押しつぶされそうになる。ギターを始めてからずっと光の胸の内で燻り続けているモノ。それは、アンプから流れるサウンドにリバーヴをかけて解決するようなことではなく、もっと単純な欲求だった。
誰の視線も気にせず、もっと広い部屋でガンガン弾きまくりたい。
かといって、一人でスタジオを借りるのは、オリジナル曲もライブ経験もないただの学生アマチュアギタリストには、色んな意味で敷居が高かった。
それは、そんな矢先の、光にとってはラッキー極まりない発見だった。
誰もいない部屋で、光はシールドのジャックをつまんで、はやる気持ちを抑えるように深呼吸をする。アンプ側のジャックを見つめて、恐る恐る確認するかのように少しづつ差し込んでいく。幼少期に起こったある事故が原因で、通電時には反射的に身体が強張ってしまう。そんな自分がエレキギターに惹かれた理由がいまだにわからない。怖がりな人間が幽霊話を好む嗜好と似ているかもしれないと光は苦笑する。
中学2年の夏休みに親戚の工務店で1ヶ月バイトして購入した中古のギターは成績と引き換えに改造と練習を繰り返した成果もあって、何の澱みもなく甲高いメロディを奏でた。
10分ほどがむしゃらに弾いて、ピックを止めて軽くため息をつく光。
急に背後でパチパチと手を叩く音。思わず振り向いた先に、ベースを担いだ小柄な少女が満面の笑みを浮かべていた。
「すっごーい!きみ、ギターうまいね!Eマイナー、G♯マイナー、C♯マイナー、Eマイナーって、ブルースの進行じゃないよね。でも、そのフレーズ、すっごくブルースっぽくて、メチャクチャカッコいいよ!」
「あ、えっと……」
実は、あるギタリストのインストをほぼパクッただけとは言い出せず、口籠もる光。同時に、ある程度の音楽知識がないとできない的確な指摘に驚いた。そんな光の思惑など意にも介さず、その少女は笑顔のまま光に近づくと、光の瞳をじっと見つめた。
光の心臓が思わず跳ね上がる。不意に懐に入ってこられたのもそうだったが、それより、サラッサラのショートカットと光を覗き込む大きな瞳に、どこか見覚を感じていた……
……気のせいだ。と、結論を出す。確かに転校ばかりで人と知り合う機会は多かったが、ベーシストの少女とは一度も面識がない。
なんとなく安心して、光も愛想笑いを浮かべた。可愛い少女には出来るだけ愛想よくしたい。そんな下心も多少はあった。それを好機と見たか、少女はとってもいい笑顔のまま、
「それでね……」と切り出した。
直後、展開したのは宗教の勧誘員も顔負けの巧みな話術。気がつけば、彼女の差し出した入部届けには自分のサインが入っていた。
そして、この部屋が、軽音楽部の部室であることと、前のギタリストが辞めて1ヶ月近く使われていなかったことを聞いたのはその後だった。
光と軽音楽部部長、同じく2年の円螺夏澄との出会いはそんな風に終わった。
「昨日もかなり練習したんだけど、まだ曲を完全に覚えられなくて。リフは何とかなりそうなんだけど、細かい部分とかまだまだで……言い訳じみててごめん」
先日のやり取りを思い出し、胸中で苦笑いを一瞬浮かべて、光は素直に頭を下げる。夏澄のまっすぐさは嫌いじゃなかった。
夏澄は首を横に振り、
「ううん。さっきはあたしこそごめん。少し言い過ぎたと思ってる。そもそも入部して1週間でライブやれるようにしろなんて無茶言ってるんだから、文句言われても仕方ないのはこっちの方。それなのに、必死で頑張ってくれて本当に感謝してる。最悪、明日のライブはあたしがリード取るからおにいちゃんは付いてきてくれるだけでいいよ。ある程度かたちになってるし、何とかなると思う」
夏澄は微笑んで、同意を求めるようにドラムのほうを見る。
「まぁ……あんた飲み込み早いし、ギターもまぁまぁだし、これだけ出来たら全然悪くないわよ。ややこしい部分は気にしなくていいから。そういえば話変わるけど、光、ビリー・ロワイヤルって知ってる?」
ドラムセットの向こうで、明るい色のウェーブヘアに濃い化粧といったどこか懐かしい出で立ちの2年生、黒武六価がスティックをくるくる回した。
「ビリー・ロワイヤル?なんだ、それ?」
「知らないの?東南アジアのメタルバンドよ。アジアメタル界の黎明期を支えた先駆者的バンドらしいわ。あたし、最近、ネットで彼らの初期のデータ落としたんだけど、もうすごいのよ!何がすごいって、まず名前よね。紅茶の名前かっつーの!後、アルバムジャケットが虎よ!トラ!それも、タイガーバームの絵みたいなの。そういうのって、西洋のメタルバンドにはないでしょ。オリエンタルっていうの?いずれにしろ、ヤバかったわ」
「オト関係ないじゃん。そもそもそんなバンド、どこから探して来るんだよ……」
呆れる光を尻目にニコニコと嬉しそうな笑顔の六価。その話を聞いていた夏澄が眉をしかめる。
「六価、また、違法ダウンロード?いい加減にしとかないとやばいよ。それに、プロの人たちは売り上げで生活してるんだよ。そんなことばっかしてたら、いいバンドがみんないなくなるよ。それに、違法コピーなんて、オーヴァーダヴのし過ぎで大半はオト滅茶苦茶悪いし、どうせ聴くならオリジナル音源じゃないと……」
六価はその顔を一瞥した後、大げさに手を広げ、
「相変わらず固いわね、夏澄は。大丈夫よ。違法ダウンロードなんて、大規模にやってる奴以外は検挙できるわけないんだから。あたしはただ、廃版になって手に入らないバンドの音源捜してるだけじゃない。もとより音質なんて期待もしてないわよ。ま、そんなことより……」
横目で光をチラ見する六価。
「な、なんだよ……」
「ギターソロ、今日もなかなかいい感じじゃない。当日もその調子で頼むわよ。敏感なとこレロレロ刺激するような感じでね」
六価は、挑発的な視線で光を見ながらグロスで輝く唇をペロリと舐める。そもそも、部員の中で、光の速弾きソロに一番過敏に反応したのはヘヴィメタル好きの彼女だった。その様子を見た夏澄が、はぁ、と軽くため息をつく。
「なーに言ってんの、六価。男と付き合ったこともないくせに、口だけは達者なんだから。まぁ、確かにおにいちゃんの速弾きってレロレロ聞こえるけどね。だからといって興奮してドラムセットにこすりつけたりしないでよ?」
ジト目で見る夏澄に、六価は顔を真っ赤にし、
「どういう意味よ?人を犬か猫みたいに言わないで。それに、レロレロしてくれる男ならいくらでもいるわよ!」
「はいはい、あたしに虚勢張っても仕方ないって。まぁ、それより……」
夏澄は何か言いたげな六価を無視して、
「実際の話、前のギターが突然辞めたときはどうしようかと思ってたけど……繰り返しになるけど、おにいちゃんが入ってくれて本当に感謝してる。感謝の証にぎゅーってしてあげよっか」
悪戯っぽく言う夏澄に光は顔を赤くし、上ずった声で、
「か、夏澄まで何言ってんだよ!おまえら2人がかりで俺をからかうな。あと、前から思ってたんだけど、そのおにいちゃんってのはなんなんだ?いくら誕生日がほぼ1年離れてるっても、同級生に、しかも他人に言われるのは違和感半端ないんだけど……」
光の言葉に、微妙な笑いを浮かべる夏澄。
「えと……なんていうかな。あたし、以前、きょうだいがいたような気がするんだよね。お姉ちゃんかお兄ちゃんかわからないんだけど。なんか、光君見てたら、あたしの妹属性っていうの?そういうのが異常に疼いちゃって……あたし自身もよくわかんないんだけど」
「っていうか、気がするってどういうことだ?」
「……」
光の言葉に夏澄は苦笑いで答える。それ以上追求できない空気に阻まれて、に次の句を継げなくなる光。
「ダメ……かな?」上目遣いで見つめる夏澄に、光は得体の知れない罪悪感を感じ、
「わ、わかったわかった!おにいちゃんでいいよ!」
叫ぶように言うと、顔をそらせる。入部してから、この2人に調子狂わされっぱなしの光は、深いため息をついた。それから、2人を横目で見ながら、
「おまえらさ、いくら部員のほとんどが女の子っていっても、そういう発言は身を滅ぼすぞ。男は一皮剥いたらみんな狼なんだから。気をつけたほうがいいぞ、ホント」
「説教臭いわね、あんたも……心配しなくても大丈夫よ。人は選んでるから」
含んだような笑みを浮かべる六価に光は少しふてくされた表情で、
「な~んか引っかかる言い方だな。俺は男として見られてないってことかよ?」
「信用してるってことだよ」
どこか人を包み込むような笑顔の夏澄にそう返され、光は何も言えなくなる。部長を務めているのも、そんな彼女の雰囲気に起因しているのかもしれなかった。ただ、どういう意味で信用しているのか光が考えあぐねていると、
「それよりも、いよいよ明日だね……目立った問題箇所はほとんど直したし、良いライブになるよね、きっと」
ぽつりと呟くような声。光たちの会話を聞いて恥ずかしかったのか、少し頬を赤く染めた少女が3人を見ていた。
白いカチューシャの下で輝くロングヘアをなびかせて微笑んだのは、同じく2年でボーカル担当の柚木生穂。小ぶりな卵形の顔で輝く柔和で大きな瞳、品の良さを具現化したような鼻梁と唇。華奢ながらも女性らしさを感じさせる肢体、様式美すら感じさせる清純派美少女だった。
あまつさえ、光が夏澄から聞いた話だと、校内でひっそりと行なわれている人気ランキングでも2年連続の1位を獲得しているらしい。つい先月まで男子校にいた光にとってはまともに目を合わせるだけで思わず照れてしまうような、高嶺の城に住むお姫様だった。
そんな生穂を、六価はじとっとした目で見つめ、
「なに言ってんの。あんた、光のこと言ってられないでしょ?きついことは言いたくないけど、その小声とオドオドした口調、歌うときは極力出さないようにしてよ。ポップスでボーカルがトチるのなんて、はっきり言って致命的なんだから」
険を含んだ言葉に、項垂れる生穂。その言葉に深い意味はないとわかってはいるが、生穂の引っ込み思案な性格がバンドの足を引っ張る可能性を指摘されていることに変わりはなかった。そして、周囲や生穂自身がそのことについて触れる度、彼女の心中で、ある想いが揺れる。それが口から出ることは決してなかったが。
「わかってる……ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないでしょ。謝るんじゃなくて、トチらなきゃいいのよ、それだけよ」
なおも険を隠さない六価の言葉に生穂はますます俯く。嫌な空気が室内に流れた。
「そういえば」
その空気の蔓延を遮るような夏澄の言葉。思わず全員が彼女のほうを向く。
「ここ最近、連続で起こってるライブハウス襲撃事件の話、みんな聞いてる?もう既に5箇所で起こってて、ケガ人も結構出てるって……」
「あぁ、話だけは聞いてるわよ。それがなんなのよ?」
ぶっきらぼうに応える六価に、夏澄は嫌な顔もせず、
「ライブハウスのほうから連絡があってさ、明日は十分に警戒してくれだって。場所も時間もバラバラだから、この辺りのライブハウス全部に警察から注意勧告があったみたいだよ」
「どうせ暴れてメチャクチャにしてるのってハードコアパンク系の連中なんじゃないの?それに、明日土曜だし、襲われそうな有名どころもそこら中でギグやるじゃない。いずれにしろ、あたしたちには関係ない話よ」
どこか他人行儀な言い方の六価に、夏澄は軽くため息をつく。
「またそんな言い方して……よくないよ、六価。誰が、どういう理由で襲われてるのかもわかんないのに……。それに、本当に襲われたとき、そんな考え方じゃ、誰も助けられないし、助けてくれないよ」
「あたしたちはギグをやりに行くのよ。人助けしに行くわけじゃないわ。そもそも、起こるかどうかもわからない襲撃事件の話を今しないでよ。ライブハウス側からそういう通達あったよ、気をつけようね、終わり。で、わかるんだから。夏澄が神経質すぎるのよ」
「でも……」
「わかったわよ、気をつけるわ。これでいいでしょ?」
半ば言い捨てる体の六価に、夏澄はそれ以上何も言えなくなる。
「じゃ、そろそろ練習再開よ。残り時間、バシッと決めましょ。本番は明日なんだから」
強引に話題を切り替えようとスネアを打ち鳴らして急かす六価。全員、心中に未消化な感情を抱えたままだったが、口には出さず六価に従う。ライブ前日にバンド内で揉め事を起こすことは避けたかった。
それ以上に、口ではそういったものの、夏澄も、他のメンバーもその危惧が的中することになるとはまったく思っていなかったのもあった。
その証拠に、帰宅した後、襲ってきた睡魔に身を任せてベッドにもぐりこんだ頃、光の頭からそんな話はすっかりどこかへ霧散してしまっていた。
――まさか……よりにもよってなんで俺たちが?どうしてなんだよ。
光の脳裏に昨日の夏澄の言葉がよぎる。だが、助けを呼ぼうにも、場内はパニックに陥っている。我先にと階段を駆け上がる人々は光たちを振り返る余裕すらない。
光は襲撃された際、軽く頭をぶつけていた。額から流れる血が目に入り込んで沁みた。慌ててぬぐった視界に入ってきたのは、今まさに襲われようとしている少女。そして、その2人は光のよく知っている顔。
「生穂、六価……畜生!うおおおおおぉぉぉ!」
恐怖に硬直する自らの両足を両手で叩き、光は大声を上げて突進する。
「うるさいブビビビ!男に用はないギギギ!」
襲撃者が振り向き様に放った裏拳の一撃が、光の鎖骨の下を直撃した。何かが折れる乾いた音が体の中で聞こえた。
光は壁に叩きつけられ、再び床に倒れた。体内のどこかから出血したのか、口の中に鉄の味が広がる。
「光君!」、「光っ!」
叫ぶような生穂と六価の声が光の聴覚に飛び込む。光は必死で深呼吸する。息を吸うたび、胸が激しく痛んだが、何とか左手を地面につき、精一杯力をこめて身体を起こした。
満身創痍で立ち上がった光とステージの上で動けない生穂と六価を見比べて、襲撃者たちは床に唾を吐いた。
「なんだこいつギギギ。かっこつけのイケメンだブビビビ。女2人も知り合いがいるなんてリア充だ。生意気だ。グゲゲゲゲ」
「見せしめに痛めつけてやるギリギリギリギリ」
立ち上がったはいいものの、膝はずっと笑いっぱなし、呼吸はこれ以上ないくらい荒く、全身がきしむように痛む。絶望が脳裏をよぎったが、生穂と六価を守ること以外、考える余裕すらなかった
「ブビビビビ……死ね!」
力任せに振っただけの、襲撃者の横なぎの一撃。光は思わず両手で顔をガードするが、腕を上げた瞬間、鎖骨に激痛が走り、力が入らなかった。
襲撃者の腕は光の腕ごと胸板を打ち抜き、そのままアンプまで弾き飛ばす。光は背中を強く打ちつけてグハッと声を漏らした。肺の中の空気がすべて外に漏れた。
そのまま床に倒れる光。今度こそ、指一本動かすことすら出来なかった。
「ググギギギギギ。よわっちいナイトの出番はおしまいだビビビ。今度は僕らの番だよグゲゲ」
「や、やめて……イヤァァァァァ!」
耳をつんざく叫び声。薄れ行く意識の中で、光は自分の無力さを呪った。
が、
「おいワレ!ちょお待たんかい!」
突如、どこからか聞こえた関西弁に光は思わず視線を向ける。ぼやける視界の中に映ったのは小さな人影。
「なんやぁ?せっかくカスミンのライブがあるっちゅーからわざわざ来たったのに、なんでおどれらみたいな気色悪いのがおんねん、コラ」
光の霞む視界では、顔こそよく見えなかったが、アウトラインは明らかに華奢な風体の少女が周囲を見渡していた。幼い声に不釣合いな乱暴な関西弁と、その身体にまとっている壊れた医療用の白い拘束着らしきものが彼女の奇妙な雰囲気を増長させていた。
その姿を見た襲撃者の一人、185センチほどの巨漢が、突然興奮の雄叫びを上げた。
「グギー!幼女だブビ。さらって手足もいで慰み者だギギギギ!陵辱ぅ!幼女食ぅ!食人祭だよぉ!!鬱展開キタコレレレレレレ!ギョリリリーーーッ!!」
眉の下でパッツリと揃えた前髪の下から覗く赤い目を情欲と狂喜の光で輝かせ、人ならざる咆哮を放つ巨漢。そのおぞましい声に、光の背筋に戦慄が走る。だが、少女は怯むこともなく、足を軽く開き、脇を締めて拳を目線の下で軽く握る。視界をあえて上部のみに絞った巨躯殺しの構え、道化スタイルだ。
少女は短く息を吐き、熟れた足取りで軽くステップを踏む。身にまとう拘束衣の壊れたベルトが宙を舞って床に当たり、壊れた金具がカキンと甲高い音を立てて跳ねた。
「誰が幼女じゃ、舐めとんのかロリデブ!やれるもんやったらやってみぃや!」
幼い顔に獰猛で凄みのある笑みが浮かんだ。
「死ぬまで嬲った後は剥製にして飾ってあげるブビィイイイイイ!!!」
巨漢は、口内から溢れるヨダレを撒き散らせながら、人間とは思えない速度で少女に向かって突進する。少女との距離が瞬時に詰まり、その勢いのまま高く跳ねた。
が、少女は飛び込んできた巨躯を軽く右にステップしてかわすと、流れるような動作で音も立てずに懐に入り込む。
「直進するだけやったらイノシシと変わらんでぇ、バカデブ!」
ギュッ!と物凄い圧力でゴムが押しつぶされる音。半歩踏み込んだ少女の足が発した悲鳴だった。同時に響いた乾いた炸裂音。直後、120キロは下らないだろう巨漢が、一瞬、質量を失ったように垂直に宙を舞った。
顎先を貫いたアッパーカットの衝撃は脳に伝わり、巨漢は頭蓋の中で数百回も脳を打ちつけ、そのまま昏倒、崩れるように膝から地に落ちると、白目を剥いて動かなくなった。
放った必殺の一撃を誇ることもなく、危機からの脱却に喜ぶこともなく、少女の顔にある感情が揺れる。それは、【疑問】だった。
「……なんやぁ今の感触?こいつら、やっぱし……」
その様子を見た襲撃者たちの興奮が、突如収束した。ガマガエルと総髪の太った男は顔を見合わせ、不穏な表情を浮かべた。
「ギギギ……こいつ、ただの幼女じゃないぞギギギ」
「いずれにしろもう目的は果たしたグゲゲゲ任務完了だギギギ」
「倒れてるムロブチをつれて撤収するぞギギギギ。時間もないギョリリ」
「おい、ちょお待たんかいおどれら。話はまだじゃ!逃げんな、コラ!」
飛び交う言語。だが、光はそれを最後まで聞くことなく、意識を失っていた。
………きろ……ちゃん……いちゃん………おきろ………
「起きろ!兄ちゃん!」
「おにいちゃん!」
同時に響いた声に、光は重い瞼を開ける。そこには心配そうに覗き込む夏澄ともう一人、本場ジャマイカ辺りの年季の入ったラスタマン顔負けの太くて長いドレッドヘアを頭上から腰までのたくらせた少女………いや、幼い顔は童女のようにも見えた。
「夏澄……そして、さっきの……」
よかった……。目を覚ました光を見て、夏澄は深く安堵のため息をつく。関西弁のレゲエ少女はニヤリと顔に似合わない勇壮な笑みを浮かべて、
「目ぇさめたか、兄ちゃん。ご苦労さん。よう頑張ったけど、あらぁ相手が悪かったわ」
光は咄嗟に上体を起こそうとするも、満身創痍の身体はいうことを聞かない。
「いてっ……」思わずうめく光に、目の前の少女は首を振った。
「その身体じゃ動かんほうがええ。救急隊が来るまで待っとりや」
「い……生保と六価は……無事なのか?」
混濁する意識の中、必死で搾り出した光の言葉に、少女は感心したように微笑む。
「へぇ……起き抜けに自分よりも女の事心配するて、ケンカ弱いけどカッコええとこあるやんけ。安心せぇや、2人とも無事や。それに、幸いなことに死人は一人もおらんわ。でも、それなりに派手に暴れよったさかい、ケガ人は結構おるけどな」
「今、他のケガ人と一緒に控え室のほうで休ませてる。大丈夫、2人とも何もされてないから。おにいちゃんが守ったお陰だよ」
「……当のあいつらは?」
「何だかわからないけど、倒れてた仲間を抱えて逃げたよ。多分、もう大丈夫だと思う」
その言葉にようやく光は安堵のため息を漏らす。
レゲエ少女は――あのデブども……今度見かけたら火あぶりにしてローストポークにしたるからな――などと物騒な独り言を呟いていたが、不意に、何かに気づいたように表情をこわばらせた。
その様子に気づいた夏澄が、どうしたの?と聞くのに、
「いや……さっきから気になっててんけど、なんか変な感じせぇへんか?」
「え、何が?」
「さっきから、地盤が安定してへんような気がするわ。何か起こるんちゃうやろか?地震くるかもしれへんで、でっかいの」
「変なこと言わないでよ、こんなときに」
唇を尖らせる夏澄に、
「ごめん、あたしの気のせいかも知れへん。それよりも、カスミン、こっちはええから、他のケガ人診たってくれるか。あたし、そういうの苦手やし」
「わかった。あたし、奥にいるからなゆちんは救急隊が来たら知らせて」
……カスミン?なゆちん?やけに親しげな2人の顔を不思議そうな目で見る光に、
「そっか、おにいちゃんは知らないんだよね。途浜那由他、この子の名前。あたしの幼馴染というかお得意さんというか……友達だよ。同じうちの高校の二年生。ちょっと事情で入院してたはずなんだけど…………ていうか、その格好……もしかして脱走してきたの?」
「那由他でええで。もうすぐ学校に復帰するし、まぁいっちょ頼むわ、兄ちゃん」
「へ?同い年?てっきり中学せ……」
「中学生がなんやねん?」
ジトリと向けられた視線に光は思わず、
「……くらいの妹がいるのかなって。しっかりしてるから」
「なんや、態度デカいって言いたいんか?妹も弟もおらん。あたしは一人っ子や」
機嫌の悪い声に、光は思わず薄笑いを浮かべる。
「そういう意味じゃなくて……お、俺も一人っ子だよ。なんか、嬉しいな。ハハ……」
「別に何も嬉しないわ。何がおかしいねん、気色悪いな。それより、あんた、名前は?女に先に名乗らせる男があるかいな」
口を尖らす顔に思わず頭を下げる光。
「ごめん、俺は……のりつかあきら…………光でいいよ、よろしく」
「ちょお待て……あんた、どっかで……」
何かを思い出したように首をひねる那由他。
わけがわからず苦笑いを浮かべる光に、
「なんでもないわ。気のせいや」と、首を振った。
話を急に打ち切られて困惑する光だったが、笑顔でこちらを覗き込む夏澄に愛想笑いを返す。
「……?えと……2人とも自己紹介済んだね。じゃ、なゆちん、後はお願い」
手を合わせて足早に奥へ消えていく夏澄を、手を振って見送った後、那由他は感心したような微笑を光に向け、
「あんた、結構、カッコええギター弾くやんけ。あたし、ああいうJポップっぽいのあんま好きちゃうから最初聞き流しとったけど、途中で邪魔されるには惜しいライブやったわ」
「ありがとう……でも、俺は夏澄のリードに支えられてただけだけどね」
口ではそういったものの、光なりに今日のライブにはそれなりの手応えを感じていた。客の反応も上場で、いいライブになる予感があった。光は仰向けのまま、視線を自分の右手にやる。襲撃者の攻撃を受けたせいで、右手の感覚がない。多分、折れているだろう。呼吸するたび、背中や鎖骨の上も痛む。結構なケガであることは間違いなかった。
……バンド活動、これからなのにな。くそっ、しばらくお預けか。
光は胸中を駆け巡る苦い感情を押さえ込むように、深く目をつむる。長いため息を吐くと少し冷静な自分を取り戻していた。どれくらいそうしていたのかわからないが、ゆっくりと明けた視界の端に、一人の少女が映っていた。
「光君!!」
叫ぶと同時に走り寄ってきたのは生穂。そのまま膝をつき、光の顔を覗き込む。大きな瞳から溢れた暖かな滴が光の顔にボタボタ落ちた。涙に濡れたその顔が触れそうな距離まで接近し、急に速まる心臓の鼓動を必死で押さえる光。
「ご、ご、ごめん……なさい。あたしをかばってくれたせいで」
「おおげさやな、姉ちゃん。これくらいでは死なへん。心配せんでもそのうち治るわ」
手を振って笑う那由他に、
「で、でで、でも……でも……」
「……大丈夫だよ。俺は元気だから。すぐ治るって」
精一杯強がる光を見て、余計悲しみに顔をゆがめる生穂。光は何かを決意したように、深呼吸し、全身に力を入れる。
――痛ッてェ。
光の全身を激痛が走る。だが、苦悶を喉元で必死に飲み込み、傍らに落ちていたギターを拾うとストラップを肩にかけ、生穂の前に立つ。
「あ、光くん……」
その姿に思わず息を呑む生穂。光は全身を貫きそうな痛みを必死にこらえ、左手をネックに添える
腕の筋肉が裂けそうな痛みに襲われたが、光は親指をネックに引っ掛け、Gのコードを押さえた。記憶の中の誰かが言っていた。Gは【元気だせ】のGだと。
右手で弦をはじく。コードを抑えきれていないせいで、綺麗な和音は鳴らなかった。
あ………。小さな声が生穂の唇からもれた。
「……な?本当に大怪我ならギターなんて弾けないだろ。気にする必要なんてないって」
光は胸のうちにある感情を必死で唇に託して精一杯の微笑みを浮かべた。何故、こんなことをしたのか、光本人にもわからない。ただ、美少女の前でかっこつけたかっただけなのか、それとも、自分のために泣いてくれたことが、単純に嬉しかっただけなのか……。
涙に濡れた生穂の唇が少し笑みを結んだ。その時だった。
!?
その場を包む違和感。同じ濃度の空気を瞬時に入れ替えたような奇妙な感覚。
気づいた全員が、思わず無言になり、周囲を見渡す。
途端に、襲撃者と対峙したときも飄々とした雰囲気を崩さなかった那由他が急に張り詰めたものを全身に漲らせて、硬い声で言った。
「これから口説いて濡れ場に持ち込みたいところやろうけどな、一旦タンマや、あんたら。こらぁ……ヤバイで。やっぱしなんかくるわ」
「ぬ……ぬぬ濡れ場って」
その言葉に生穂は顔を真っ赤にして俯く。それを見た光も余計に恥ずかしくなり、抗議の言葉を発しようとしたものの、那由他の全身をまとう張り詰めた空気がそれを許さない。
「今、こんなこと言うのも変な話やけど、あたし、ちょっと霊感が強うてな。霊脈の流れがわかるんや。今さっきの感覚、間違いなしになんかの予兆や」
こわばる表情を貼り付かせたままの那由他。光が何かを言いかけたそのとき、
「みんな無事?今、何か変な感じしたよね?」
控え室の方から駆け寄ってきたのは夏澄。彼女も今の異変に気づいたのだろう、その顔には不可解と危機感が貼りついている。
「なゆちんならわかるよね?今の、何なの?もしかして、さっきの話と関係あるの?」
「今、こいつらに説明してたとこや。多分、どっかの霊脈が開きよった」
「……一体、どういうことだ?なんで那由他さんにはそんなことがわかるんだ?」
ようやく口を開いた光に、
「えっとね……言っていいの?」伺う夏澄の視線の先には那由他。
「かまへんで。こいつらが信用するかどうかは知らんけど。それよりも、那由他さんやて……気色悪いな。那由他でええってゆうたやんか。まぁ、今はどうでもええわ。時間がない。カスミン、続けたって」
どこか投げやりな態度の那由他を一瞥して、何かに納得したように小さく頷く夏澄。
「どこから話したらいいのかわからないけど、えっとね……突然だけど、おにいちゃんたち、悪霊の存在って信じる?」
夏澄の正気を疑う気はないが、唐突に、しかも、日常会話ではまず聞くことのない質問に、どう返答していいのかわからない光と生穂。
「……とにかく、存在すると仮定して聞いて欲しいんだけど、」
夏澄は一呼吸置いて、続ける。
「悪霊憑きって言葉があるでしょ。文字通り、悪霊に取り憑かれて常軌を逸した言動や犯罪をする人のことなんだけど、なゆちんは、この街の悪霊を祓ってくれてるの。有体にいえば霊能力者。だから、さっきの異変もわかるわけ。でも、なゆちんのやり方はちょっと過激で……」
そこまで言って言葉を詰まらせる夏澄。続くように那由他が、
「……霊魂と肉体ってのは内包しあって存在するもんでな、人間でも、魂がなくなったら、いくら身体が大丈夫でも、それはもうただの肉の塊やろ。魂があるから生きてんねん。逆も然りで、肉体っていうエネルギー供給があるから魂は存在できるんや。普通は身体が死んだら成仏するために霊魂はしかるべき場所に行くんやけど、霊体だけで消えもせんと長いこと地上に張り付いて自立してる奴がたまにおってな。他の霊体取り込んでバケモンになってる奴以外は、恨みやら未練の感情だけが純化した形で、他の生物や植物に何らかの形で依存しとる。そういうのを悪霊憑きっていうんや。でも、やり方次第では肉体に収まって身動きできんようになってる状態のほうが除霊には都合がええねん。簡単に言えば、あたしの除霊法は、肉体から悪霊に接触して、それをブッ叩くやり方。つまり、あたしが除霊したった連中は……まぁ、そっから先はわかるやろ」
目の前で握りこんだこぶしを軽く振る那由他。苦笑いを浮かべて夏澄が続ける。
「結局、ほとんどの人が病院送りになっちゃうんだけど……でも、それって法的にはただの傷害罪。悪霊とかお祓いとか言っても、お役所には通用しないし。なゆちん、今まで何回も傷害で警察沙汰起こしてるから、暴力を伴う重度の統合失調症って診断されて、病院に拘束されてたの……脱走してきたみたいだけど」
「まあ、初犯ちゃうねんけどな。一応、院ではおとなしくしてるさかい、いつもやったらすぐに出れるんやけど、こないだ除霊の邪魔したポリ公もどついしもてな。そのポリ公がまた華奢なボケナスで、眼底骨折で入院しさらしよったんや。さすがにそこまでやったら役所の連中も野放しって訳にはいかんかったんやろうなぁ、今回はちょっと拘束期間がなごうてイライラしてたわけや。そこにカスミンがライブやるって聞いたさかい、ついな」
どこか他人行儀な笑い方の那由他。だが、すぐにその笑顔は消え、
「それよりも、さっきからゆうてるけど、ちょっとまずいことが起こってるで。あのデブどついてはっきりした。違う手ごたえがあったわ。地縛霊とか悪霊の類とはちゃうねんけど、あいつら、素の人間とちゃうど。得体のわからんモンを感じたわ。ここ最近、この辺りの霊脈がものすご乱れてるのとなんや関係があるかも知れんわ。で、ゆうてる矢先に、さっきの変な感触やろ……一本の糸でつながらへんか、これ?」
「一本の糸って……」
「つまり、最近、この辺りの霊脈が乱れてるのも、あのデブが襲撃してきたんも、さっきの違和感も、全部関連性があると考えるのが自然――」
そこまで言いかけて、急に黙る那由他。
「――来よったか?」
………………グラッ………………
違和感が全員を襲う。先ほどと同じく体感的には何もない。だが、先ほどよりも確実な異変、地の底の何かがずれたような感覚は全員が認識した。
同時に、光の手前、ちょうど生穂がいる位置が紫に輝く。
何が起こったのかわからず、呆然とする生穂と光。異変に気づいた那由他が何かを叫んだが、その言葉は二人には届かなかった。
紫色の光はそのまま生穂の身体を包み込む。
「――しもた!思ってたよりデカい。あかん!おまえらそっから逃げぇ!」
光がその言葉をようやく耳にしたとき、既に、場内は紫色の光に包み込まれた後だった。