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菌界の乙女は恋をする  作者: 朱辻有来
1/1

椿

 花は、ひとひらひとひら崩れ散るものかは?

 否、首より潔く落ちるのが依々……


 まだシンと寒く冷える朝、春堀家の庭を、縁側から椿は眺めていた。

 瓦屋根の破風が重なる黒壁の家の縁側は長い庇があってぐるりと庭を見回せる。

 藪椿が東に二本、蕾がもう花の色がわかるくらい膨らんでいる。


 また哀しい季節が来たわと、椿は思う。

 この木がなくては生きられぬ。それが哀しい。

 いとしいあの人を思い出して、また、哀しい。


「いま、何時ぃ~。はやいねぇー」

 この時期は白木蓮や辛夷こぶしの花もつぼみを付けている。親戚の木蓮も春堀の家に泊まりにきて、開花待ちだ。

 椿はすでに、椿柄の黒い着物をきっちり着て、髪の乱れもない。

 木蓮が羽二重の白いブランケットをかむって、もそもそ起きだしてきた。

「ええ、もう咲きそうよ。あなたの辛夷もほら」

「んー。ホントだねぇ」


 菌界の乙女は、宿主なしには生きられぬ。

 椿は己の名前と同じ花が好きだ。そして、そこから命を貰うと決めている。木蓮も春堀の家の辛夷と決めているようだ。

 決めているからその名なのか、決めたからその名になったかは本人たちも分からない。

 でも、椿には魂に刻まれた哀しい初恋の記憶がある。

 生き繋ぐために胞子を放ち、花びらを腐ちさせる。その度に椿は思い浮かぶひとがいた。


……正義(まさよし)さま。


 白い斑入り濃紅の花の人。正義は椿の花の精だった。

「何をみている?」

 青みがかった白い肌、深い緑の葉のような髪、艶やかな紅に粋な白い斑の降った着流しの侍が、木の上から椿を見下ろしていた。

 「貴方が落ちるのを待っている」とは言えず、口ごもった。

 とても凛々しくて、一瞬で恋に落ちた。胞子を宿すならこの椿だと決めてしまっていた。

 それが精霊つきの花だとは知らなかった。

ただでさえ、朽ちゆく躯から命を奪い取るのは嫌なのに。

 早くここから立ち去ろう。この人に触れる前に、この人の命を奪ってしまう前に。

 椿は何も答えず、立ち去ろうとした。

「名は何と申す? 少し話そう」

 椿の耳をテノールが蕩かした。

「……椿、と申します」

 思わず溢れた声はかすれて、恥ずかしくなった。

「良い名だ」

 応えた正義の笑顔が眩しすぎて、椿の頬は真っ赤になった。

 どうしよう。立ち去らなければならないのに、動けなくなってしまった。早く違う椿の花を見つけて、落ちるのを待たなければ、冬が越せない。

「どうした? おれはここから離れては生きられぬ。花を咲かせ、落ちるのみ。解っているだろう? きのこの娘」

 椿のことを己の骸を喰らう菌類だと知っているのに、人が悪い。それとも、揶揄っているのだろうか。

 椿の目からじわりと涙が零れた。

「悪い。すこし不躾だったか? お前にこの体をやるから、機嫌をなおせ」

 椿は赤い眼に濃紅の侍を映じた。

 己はこの人の骸を食べるのだと思ったら、また涙が溢れた。

「嘘ではないぞ。なんならその袖の下の胞子を預かる」

 椿は眉をよせ、首を振った。そんなことをしたら、まだ命のある美しい貴方を傷つけてしまう。

「そんなに深く考えるな。花はいずれ全て朽ちて土に還るのだ。お前もそうだろう」

 椿は袖の下に隠している胞子が疼いて、手の平を握り込んだ。

「だから、な、少し話そう。命が尽きるまで」

 椿には、それが睦言のように聞こえた。

「はい」

 椿ははにかみ、正義に応じた。

 花の命と、キノコの命とどちらが早いか。己の命の方が長いと椿は知りながら、正義が木から落ちないならいい。ずっと触れずに見守っていたい。

 椿は初めてこの命尽きてもいいと思った。そうあればいいと願った。


 楽しい時間は短い。

 優しく虚しく心に滲みる春風は、その美しい音楽のようにふたりの間を吹きぬける。

 他愛ない話を重ねても、椿は「そうですね」と応じるのが精一杯になった。そばにいれば、いるほど好きになってしまったのだ。

 触れることも出来ず、ただ愛しい人を見上げて心を焦がしていた。

 正義の命の時間が尽きようとしていた。

 強い春風は刃のように正義に斬りかかった。

「風よ吹かないで」

 椿は祈った。

「いいのだ。おれは、お前のお蔭でよく生きられた。風が吹かねば、温気を呼べぬ。我は春に殉じる花ぞ」

 死ぬるなら潔く、死ぬるがよしと、黄金色の雄蕊を湛えるように艶然と微笑んで、ほたり、と落ちた。地に落ちてからも、飢えた妾に寄り添ってくれた。けれど、椿は触れられなかった。

「ようやく、そばにきたのに、触れてはくれないのか?」

 残りの力を振り絞り、正義は言う。

(わたし)は貴方を、腐ちさせるのが嫌なのです」

「もう、朽ちるのを待つだけだ。さあ、残り少なくて悪いが、おれの命を使ってくれ。どうせ土に還るなら、お前の糧になるのも悪くない」

「木から落ちても凛々しいそのお姿を、褐色に朽ちさせるのは、忍びないのです」

「おれは斑入りの椿、おまえの分身が胞子をつけて精気を吸おうとも、目立つことはない、さあ。次の春にお前がいないのは寂しい」

 綻ばぬ椿の花弁が手を伸ばすようにしなりと椿の上に触れた。

 飢えた椿は正義を抱きしめた。

「やっと、触れ合えたな」

 窶れてはいたけれど、やっぱり素敵な笑顔だった。

「はい」

「お前は泣き虫だな。会ったときも泣いていたし、別れるときも泣いている、笑え」

「無理です。これが今生の別れなのに」

 椿はしくしく泣き続けた。

「もう、泣くな。冬の間ずっと骸を抱いていてくれるんだろう。きっと、おれの魂はお前に溶けて生き続ける。おれの体が土にとけてなくなるまで目を開けるな。

 今からいっしょに眠るだけだ」

「眠る?」

「そう、眠るだけだ」

 椿は目を閉じて、枯葉を寝床にふたり身を委ねた。



 陽が高くなって、二匹の狐の子が屋敷を訪れた。(まり)(うつぎ)だ。

「ねえさま方。お茶会をいたしましょう」

 椀が言った。

「せっかく特製桑の実ジャムを持ってきたのに。スコーンは無いんですか。いっつもあるのに」

 槍がいつのまにか台所にまで上がりこみ、ぷりぷり怒っている。

「待ってて、ね」

 ふわりと白い花びらのような裾を翻して木蓮が立ち上がる。

 椿はじっと身じろぎもしない。開き始めた椿の花に思いを寄せる。


  散らないで、朽ちないで。


 正義がいつも(ここ)にいる。と笑った気がして、椿は涙を拭いた。

(わたし)もお手伝いいたしますわ」

「いい、いい。座ってて」

 まだ寝足りないのか、蓮か目を擦る。

「そうそう。邪魔邪魔」

「こら、槍」

 椀がそう窘める。座敷までやってきて、椿に言った。

「花が咲いたら教えて下さいね。今、椿茶も入れますから」

「ありがとう」

 椿は頬笑んだ。正義さまに喜んでもらえるように。


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