メロー、君子にしてやろう
ヤマネの森にも、夜が訪れようとしています。
少し前までカッカッと輝いていた太陽が、紫色の空に押し流されて向こうの方に消えていきました。しばらくすると紫色の空はどんどんくすみ始め、昼間でも薄暗かった森の中をさらに寂しくさせました。
ヤマネのメローは、そんな空の様子を木の洞の中からじっと眺めていました。
メローは森の南側に住む花屋で、森でも有名な抜け作です。真面目な顔をして「この世で一番大事なものは友情だ」などと言ってのける、世間を知らない夢想家でしたので、周りは彼の愚直さに呆れていました。
「そろそろ時間だな」
太陽が完全に隠れてしまったのを確認すると、メローはリンゴ酒の入った瓶を抱えて、転がるように洞の中から飛び出しました。
今日はひと月に一度の「ヤマネ集会」が開かれる日です。
ヤマネ集会というのは、この森に住むヤマネが広場に集まって、流行とか、店の儲かり具合とかいうような情報の交換をするのが目的の集会です。メローはお喋りが大好きなので、毎月の集会が待ち遠しくて仕方ないのです。
メローが広場に着くと、そこにはもう既に三十匹ほどのヤマネが集まっていました。難しそうな本を真摯な表情で読むヤマネがいれば、ご機嫌でワインを舐めるヤマネもいます。既に酔っ払って、素面の友人を巻き込みながらでたらめに踊っているものまでいました。
メローはそんなヤマネたちに挨拶をしながら、広場の奥に進んでいきました。広場の真ん中には木を削って作った、とても大きな楕円型のテーブルが置かれています。そしてその足元には、青い葉と赤い葉を組み合わせた絨毯が敷かれていて、踏む度に軟らかい音と乾いた音とが交互に鳴りました。
メローは適当な席に座って、キョロキョロと辺りを見回しました。まずは特別仲の良い二匹を見つけようと思ったのです。
果たしてそれはすぐに見つかりました。ディーオとフィロスです。二匹は広場に到着したばかりだったらしく、座る席を探しているところでした。
「ディーオ、フィロスちゃん。こっち、こっち。ぼくだよ」
二匹はすぐにメローに気がつき、笑顔で彼に駆け寄りました。
「アッ、メローじゃないか。ほら、手土産だ。エビヅルのワインだぞ」
ディーオはそう言って、メローの胸にワインの瓶を押し当てました。彼は森の西側に住む酒屋で、大変気前の良い好漢です。大酒豪のメローは大喜びでワインを受け取りました。
「メローは酒さえ渡せば喜ぶから楽だなあ。フィロス、お前も飲むだろう」
ディーオは抱えていた鞄から小さなグラスを三つ取り出すと、その内の一つをフィロスに手渡しました。フィロスはまずそれを素直に受け取りましたが、ちょっと考えるような顔をすると、ディーオにグラスを返してしまいました。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。今はちょっと飲みたくない」
フィロスの言葉にメローとディーオは自分の耳を疑いました。ディーオの親友でありメローの恋人であるフィロスは、お酒が大好きだったからです。
西に住むフィロスはあまり美人ではありませんが、メローは彼女の凛とした態度と、そして何よりその酒仙っぷりに惹かれて交際を申し込んだのです。そんなフィロスがお酒を拒むのは、もうとても信じられないことでした。
メローたちの困惑に気付いたフィロスは小さくうなずいて、そっとディーオの背後を指さして言いました。
「私、セリヌスと同じ空気を吸いながらお酒を飲むのは嫌よ」
フィロスの指さした先では、どんどん広場へ集まってきた森中のヤマネたちがいましたが、その大群は何者かを中心にして左右二手に割れているようです。つまり、ヤマネたちは揃いも揃ってその何者かを避けているのです。フィロスの指した、その避けられているヤマネこそがセリヌスでした。
セリヌスの姿を見てメローは思わず「アッ」と叫んでしまいました。セリヌスの容姿といったら、どんなに汚らしい言葉を並べても全く足りない、気味が悪いほどひどいものだったからです。
尾は根元ですっぱり無くなっていて、目縁の毛は抜け落ちています。汚らしく膨れた鼻はどどめ色で、耳元まで大きく裂けた口の端は白くぶよぶよとただれていました。まるで毒を振りまく邪悪なキノコのようで、メローはフィロスの言う通り、すっかりワインを飲む気をなくしてしまいました。
ディーオは露骨に顔をしかめて言いました。
「集会にだけは出てこないはずだったのに、一体今日はどうしたのだ。あの男が俺たちと同じ西側に住んでいることを思い出すだけで、俺は吐き気がするというのに」
どうやらメローが想像した通り、セリヌスは西のヤマネたちから大いに嫌われているようです。セリヌスが一歩進む度にざわつき、我先にと飛び退いたり、彼に心ない言葉を投げつけたりするヤマネたちを見る限り、彼はほどなく森中のヤマネたちからも疎まれることになるでしょう。
正直に言えばメローだって、あんなにもおぞましいヤマネにはあんまり近づきたくありませんでした。セリヌスの醜さといったら、何だか近寄っただけで悪い病気にかかってしまいそうなほど大変なものなのですから。
ですが、皆から少し離れた席にぽつんと座るセリヌスの姿を見ていると、メローは何だか不思議な気分になりました。何故か頭がくらくらとして、胸がぎゅうと苦しくなったのです。
やがて周りのヤマネたちは、セリヌスなんて最初からいなかったかのようにそれぞれ酒盛りを始めました。飲み食いもせず、ただ俯いてテーブルの上を凝視するセリヌスの横顔は、こころなしか悲しげな表情をしています。
(後から来る友達でも待っているのかな。そうだとしても、その友達が来るまで一匹でじっとしているのは寂しいだろうな。他のヤマネたちも冷たいものだ、誰でも良いから優しく声をかけてあげればいいのに。確かに彼の見た目はぞっとするほど不気味だけれど、性格もそうだとは限らないじゃないか。)
メローはセリヌスに憐憫の情を催していたのです。そして、どうにかセリヌスを一匹にしない方法はないものか、と考え始めました。数えきれないほどあるメローの悪い癖のうちの一つ、お節介焼きが出てきたのです。
メローはセリヌスをこちらに呼ぼうと提案しましたが、ディーオとフィロスは嫌な顔をしました。諦めきれないメローは、「他のヤマネと飲む約束をしていたのだった」と白々しくつぶやいて、そそくさと席を立ちました。
もちろん、メローはリンゴ酒の瓶を抱えてセリヌスの元へ向かいました。
メローが後ろからそっとセリヌスに近付くと、それに気付いた彼はつまらなさそうにメローの方を一瞥しました。
「何か、用か。見ての通り、俺は悪いことなんてしていないぞ」
セリヌスの口調が存外居丈高でしたので、メローはどきっとしました。けれどすぐに「大事なのは中身だ」と自分に言い聞かせて、にっこりとセリヌスに笑いかけました。そして軽い自己紹介を交わした後、こう言いました。
「友達を待っているのかい。もしそうではないのなら、ぼくと一緒に飲んでくれると嬉しいな」
セリヌスは一瞬きょとんと目を見開いて、大きく裂けた口をぽかんとさせました。そしてすぐにその口を締まりなくにやにや(・・・・)と(・)させたかと思うと、がさがさした毛に包まれた顔を悲しそうに歪めて言いました。
「メロー君、俺には友達なんていないよ。見ればわかるだろう。周りの奴らは俺のことを、鬼とか妖怪とか呼んで除け者にするんだ。その理由がわからないほど、俺はまぬけじゃあない。皆は俺のこの化け物じみたいやらしい見た目を、気味悪がっているんだよ」
いきなりこんなことを言われてしまったのですから、メローは困ってしまいました。セリヌスの見解は何一つ間違っていないからです。現にメローも、こうやって近くで見るセリヌスの醜さに危うく肌を粟立たせてしまうところでした。それでも、一度火がついたメローのお節介精神は止まりません。メローは慌てて孤独なヤマネを励ましました。
「そんなことはないよ。君は考えすぎなんだ。君の見た目はそんなに悪くないよ、思い込みさ。ええと、そう、個性的、っていうんだよ」
メローの必死な心が伝わったのか、セリヌスはさっきのにやにや笑いとは違う、何だか恥ずかしそうな笑みを浮かべました。そして小さな声で、「ありがとう」と言いました。
メローが思った通り、セリヌスが醜いのは見た目だけでした。二匹は酒を酌み交わしながら色んなことを語り合いましたが、セリヌスはメローに対して意地悪を言ったり、手を上げたりなんてしませんでした。むしろメローのことを褒めたり、持っている知識を分け与えてくれたりしたのです。
それだけではありません。メローが特に嬉しかったのは、自分とセリヌスの意見が食い違うことが一度もなかったことです。
例えばこんな場面がありました。
「ぼくはお酒が大好きなんだ。リンゴ酒も大好きだけれど、一番は何と言ってもエビヅルのワインだよ。ディーオというぼくの親友がいるのだけれど、彼が作るワインは特別美味しいんだ。それで、ええと、セリヌスは何が好きかな」
「俺も酒が、特にワインが大好きだ。奇遇だな」
「本当に! ぼくたちはなんて気が合うのだろう」
始終こんな様子で、不思議なことに二匹の好き嫌いや趣味は手袋のようにいちいちぴったり合いました。メローは嬉しくなってついつい一匹で饒舌になってしまいましたが、セリヌスは横やりを入れることもなく、頷きながら黙って真摯に聞いてくれました。
セリヌスは、メローを決して否定せず、またちょっとしたことでも褒め称えてくれました。つまり我が強くなかったのです。ですから当然メローは、全く本当に、怖いくらいに楽しい気分で語り続けました。
リンゴ酒がなくなったところで、二匹の酒盛りは御開きになりました。別れ際、セリヌスは大げさに悲しそうな顔をして言いました。
「メロー君。俺が今日ここに来たのは、もしかしたら俺と友達になってくれる奴がいるんじゃないか、という期待をしていたからなんだ。それで…俺と君は、また会えるかな」
「もちろんだよ。ぼくたちは友達だからね。君さえ良ければ明日も会おうよ」
セリヌスはまたはじめのようににやにやしましたが、すっかり良い気持ちになったメローにとってはどうでもいいことに思えました。
二匹は笑顔で握手を交わして、セリヌスは自分の家へ帰り、メローはディーオとフィロスの元へ戻りました。
メローを迎えたフィロスたちは、彼が今までどこにいたのかを知っていたようで、二匹揃ってあまり面白くない顔をしていました。
「メロー。俺はお前の親友だから言うのだが、セリヌスと仲良くするとひどい目に遭うぞ。もしかしたら、あいつと同じように皆から嫌われるかもしれない」
出会い頭にこんなことを言われたものですから、メローはさすがに少しむっとしました。
「どうして仲良くしちゃいけないんだ。確かに彼の見た目はあまり良くないけれど、話した限りセリヌスはとても素晴らしいヤマネに思えたよ」
「あいつは性格も相当に悪い、大嘘つきだという噂がある。あいつに騙されたおかげでひどい目にあったヤマネもいるらしい。だからその『素晴らしい』言動も、きっと得意の演技に違いないぜ」
「それはただの噂じゃないか。そんな、誰が言ったのかも分からない…どこに住む誰が、彼のどんな嘘でどんな目にあったのか、君たちは知っているのかい」
黙って聞いていたフィロスも、身を乗り出すようにして厳しく言いました。
「確かに私たちは知らない。けれども、火のない所に煙は立たないもの。彼はそういう噂が流されるだけの行動をしたのでしょう。それに、例え噂が事実無根だったとしてもあの見た目はどう。正しく醜い者というのはね、自分の醜さをキチンと理解して、周りの者を不快にさせているという自覚を持って、人前に出ることを控えるものなのよ。それが出来ない彼は、本当に性格が悪いか、頭が悪いかのどちらかでしょうね」
どうしてこうも分かってくれないのでしょうか。メローは二匹のことを、すっかり軽蔑してしまいました。外見ばかり気にして内面を見ようとしない二匹が、本当に哀れに思えたのです。
二匹が自分を心配して言ってくれているということは、メローにもよくわかりました。ディーオの言う通り、セリヌスと仲良くすることでメローは顰蹙を買うかもしれません。ですが、セリヌスの友達は現時点ではメローしかいないのです。メローが友達でいなければ、彼は一人ぼっちになってしまいます。
(ぼくはセリヌスの友達でいなくちゃあいけない。ぼくだけは、彼の味方でいなくちゃあいけないんだ。)
フィロスたちはその後もメローを諌め続けましたが、友情を守ることを誓った彼の耳には少しも響きませんでした。
◇
メローはセリヌスと友達になりました。セリヌスとは変わらず意見が一致し、また彼は自分をたくさん褒めてくれましたから、メローはセリヌスのことを大変信頼するようになりました。
セリヌスの方もメローを深く信頼していたので、二匹は困ったことがあればいつでもお互いに助け合いました。
「メロー君、助けてくれ。俺の家に穴があいたんだ。穴を塞ぐための木材として、君の家にあるテーブルをくれないか」
「どうぞ、どうぞ。遠慮しないで、ぼくたちは親友だからね。それで悪いのだけれども、ぼくの家の椅子が壊れてしまったから、直すために釘を三本ほどもらえないかな」
「ありがとう、しかし残念だが、釘は穴を塞ぐために使ってしまうんだ。だから代わりに、この破れたテーブルクロスをやろう。これを地面に敷いて、その上に座るといい。遠慮するな、俺たちは親友だからな。それで悪いが、頼みがある。俺は木の実を集めに行かなくちゃあいけないのだが、それに着ていく上着がない。君の着ているコートをおくれ」
「ありがとう、そしてお安いご用だよ。さあ、コートをあげる。それでまたまた悪いのだけれど、ぼくのズボンが破れてしまったから、繕うために何か布をくれないかな」
「メロー君、残念だが俺の家に要らない布はないんだ。あるとしたら、さっき君にあげたクロスくらいだ。しかしメロー君、君は偉いよ。君がそのズボンを俺に見せてくれたおかげで俺は、貰ったコートの短さを補う布を見つけることが出来たのだから。俺たちの友情に免じて、そのズボンをくれないか」
「もちろん良いよ。友情の神髄というのは、困った時に助け合う気持ちなのだと教えてくれたのは君じゃないか」
「ありがとう、メロー君。そして本当に悪いのだけれど、俺は今日中に、溜まりに溜まった家賃を支払わなくちゃいけないんだが、生憎一銭も持っていないんだ。これだけの額、貸してくれないか」
「なんて大変な額だ! 遠慮しないで、もっと早く言ってくれれば良かったのに。お金なんて、いくらでも貸すに決まっているじゃないか。ぼくたちは一番の親友なんだからね」
メローはにっこりと笑って、今持っているだけのお金を全て親友に貸してやりました。滞納した家賃というのは、メローの全財産を払ってやっと返済することが出来るだけの額にまで膨れ上がっていたのです。
そんな風に助け合う度、二匹は顔を見合わせて、「ぼくたちほど堅い絆で結ばれた友情なんてないね」と笑いました。
二匹が仲良くなればなるほど、昔からの友達はメローを避けるようになりました。出会う度、申し訳なさそうにメローへ小さく手を振ってくれたフィロスとディーオも、今はもう他人のような関係になりました。
初めて会ったヤマネでも、メローがセリヌスと仲の良いことを知ると顔をしかめて去っていきます。それに、セリヌスに貸すお金をつくるのに躍起になるメローの商売の仕方は、あまりにも強引で悪質なものになっていましたから、商売人としても嫌われ始めていました。つまりメローは、セリヌスとの友情を得たがために、その他全ての友情と恋を失ったのでした。
それでもメローは、心の底から幸せな気持ちでいっぱいでした。
はっきり言って、メローは今でもセリヌスの醜さに慣れることが出来ていません。ですが、メローは優しくて頭の良いセリヌスの友達であることを大変誇りに思い、そして、彼の友達はこの世で自分一匹だけなのだと思うと、何だか嬉しく感じるのでした。
◇
セリヌスの喜びはメローの喜びでもありましたから、セリヌスが「好きなヤマネができた」と打ち明けてくれた時には、メローは飛び上がるほど喜びました。親友が恋をしたのは、貧しい家で育てられた、アキレスという名の美しくも少し欲深いヤマネです。
彼女と親友が結ばれるために、メローは何でもするつもりでした。そして嬉しいことに、セリヌスの方も積極的にメローの応援を仰いでくれたので、セリヌスの恋は面白いほど簡単に進んでいきました。
セリヌスはまず彼女のコンプレックスに付け込んで、高価なものを渡して気を引くことにしました。メローもセリヌスも家賃事件でお金を持っていなかったので、メローは自宅の家具を全て売り払い、そのお金で輝くハンドバッグを買いました。お金で心を掴むのは、メローとしては少し嫌でしたが、結果的にアキレスと醜いセリヌスはプレゼントを通して親しくなれました。世の中は金です。
次にセリヌスは、自分の欠点を減らすことにしました。というのは、アキレスと二匹で出かけた際に、「あなたはしっぽがなくて可哀相ね」と笑われてしまったからです。セリヌスは言いました。
「メロー君、俺の親友。一生のお願いだ。君の尾を俺にくれないか」
「セリヌス、今更何を言うんだ。親友はいつでも助け合うものだろう。頭なんて下げなくても、尾くらいあげるよ」
メローは自分の尾をひょいと抜いて、それをセリヌスの臀部につけてやりました。ヤマネの尾というのは簡単に抜けるものですが、元通りに尾が生えることはありません。それを知ったうえで、メローは愛すべき親友に尾をあげたのです。
尾を取り戻したセリヌスはいくらかましに見えるようになったので、アキレスは彼からの告白を受け入れました。世の中は容姿です。メローは後になって知りましたが、どうやらセリヌスはお金も少し見せていたそうです。世の中は容姿であり、何よりも金です。
秋も終わりに近づいたある日、セリヌスは神妙な顔をしてメローにこっそり打ち明けてくれました。
「メロー君、俺は冬眠の時期に入る前に、結婚式を開こうと思うんだ」
あまりにも突然のことでしたので、メローは感激のあまり思わず大きな声を出してしまいました。そして、親友と強く抱き合いました。
「おめでとう、セリヌス。不思議だな、自分のことのように嬉しいよ」
「ありがとう、メロー君。一番の親友に喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」
ひとしきり騒いだ後、セリヌスは「さて」と切り出しました。
「確かに、結婚式はめでたい。だけれども、俺には式を開く金がないのだ。更に言えば、アキレスは少し見栄を張る癖があるから壮大な式を望んでいるだろう。だから、親友。俺にこれだけの金を貸してくれ」
「ああ、セリヌス。こんなにたくさんのお金を冬までに集めるのは、さすがに無理だよ」
メローが漏らした通り、セリヌスが提示した額はべらぼうに突き抜けていました。まず、メローの手元には極限まで節約した生活費以外のお金はありません。そして、悪徳な商売を続けたせいで花屋の売上も思わしくなく、今の調子では来年の夏になっても目標分のお金は集まっていないでしょう。今回ばかりは、無理な相談でした。
しかし、セリヌスはしょげるメローの肩を気丈に叩いて微笑みました。
「メロー君、諦めるのは早いぞ。今年は幸いにも、商品になる花がたくさん咲いている。あれを全て売ってしまえば、この額にも十分届く」
「だめなんだ。この森に住む子は揃いも揃って、『もうメローの店では花を買わない』と言っているんだ。全て売りさばくなんて無理だよ」
そうつぶやいているうちに、メローは本当に悲しくなって涙が出そうになりました。困っている親友を助けてあげられないことが、まるでセリヌスに背を向けるようで苦しいのです。
セリヌスは例のごとくにやにやとしました。
「問題ないさ。街に行けばいいんだよ。街に住むクマネズミどもは、花なんて見たこともないからきっとあっという間に売り切れるぞ」
「セリヌス! 君はなんて頭が良いんだ」
メローは雷にうたれたかのような衝撃を受けました。
(街! どうして今まで思いつかなかったのだろう。確かに街なら新しいお客さんがたくさんいるし、強気な価格も付けられる。往復に時間はかかるけど、冬までには十分間に合うぞ。)
まぬけなメローはセリヌスの優れた頭脳に感心しながら、花を目一杯籠に詰めて街の方へ駆けて行きました。セリヌスも急いでコートを羽織って、森の中でも具合の良い式場を探しに行きました。
ヤマネの森と街は非常に近く、メローの足でも八日半あれば往復できます。今は十月の終わりですから、気温にもよるものの冬眠の時期までまだ余裕があります。
メローはいつ転んでもおかしくないような勢いで、花籠を抱えて森の中を走っていました。時間に余裕があるといっても、油断は禁物です。そしてただ単に、メローが親友の晴れ姿を早く見たいと思っていることも、彼の短い足を急かす要因の一つでした。
ヤマネの森の外側までくると、人間のために整備された不思議な道が街までずっと連なっています。狭い道、広い道、曲がりくねった道など、メローはいちいち目が回りそうになりました。
人間の道は森とは違って堅く、とても汚いものでした。メローは何度も捨てられた缶にぶつかっては、顔をコンクリートで擦りむきました。ねばねばしたものに足をとられることもありました。おかげでメローは、森の外に出ただけですっかりへとへとになってしまいました。
もちろんその程度でへこたれるヤマネではなかったので、メローは街の方へと駆けていきました。時間が惜しかったので、昼間でもなるべく薄暗い道を選んで走りつづけました。
時期が悪かったのか、街には雨が降りしきっています。メローの足はつるつると滑り、何度も花籠の花をぶちまけてしまいました。悲しいことに、いくつかの花はもう商品にはならないほど濡れてしまいました。
それでもメローは負けませんでした。セリヌスの結婚式のためにも、セリヌスとの友情を守るためにも、くじけるわけにはいかないのです。溢れそうな涙もぐっとこらえて、喧しい街を駆け回りました。
しかし、生臭いクマネズミの巣を訪ねても状況は一向に良くなりませんでした。クマネズミたちはびしょびしょの花に興味を示さなかったので、花は一輪も売れなかったのです。
それだけではありません。メローは病気になったのです。頭はぐるぐると熱くなり、関節はバクバクと痛んで歩くどころではありません。
クマネズミの巣というのは、この街の汚いものを全てかき集めたかのような場所にあります。ですから、怖いばい菌が漂っています。その内のいくつかが、メローの千切れた尾から感染してしまったのです。クマネズミが開いている病院を見つけましたが、メローはお金がないので入れませんでした。
メローはしおれた花が詰まった花籠を引きずりながら、這うように路地裏をゆきました。誰か親切なネズミが自分を見つけて、いくらかお金を恵んでくれることを期待していたのです。
ざあざあと降りしきる雨にうたれ続けたメローの体は、すっかり冷たくなっていました。秋にはいつも羽織っていたコートも、セリヌスにあげてしまったので持っていません。
(ここで倒れたら、ぼくは本当の裏切り者だ。ぼくとセリヌスの友情は、何よりも尊いんだ。ぼくは倒れるわけにはいかないんだ。お金を集めて、親友の結婚式を成功させるんだ。)
メローは何度も自分にそう言い聞かせて、どこかに飛んでいきそうな意識を必死に繋ぎ止めました。自分の体に鞭打って、汚らしいアスファルトの上を這いずり続けました。
(セリヌス、ああ、ぼくの大親友! どうか、ぼくを信じて待っていてくれ。)
空が突然、かぁっと明るくなりました。
乾いたように白く眩しかったので、メローはくるくるとめまいがしました。遅れて大きな雷が轟いた頃には、メローは増水した溝の中に滑り落ちて、どこかへ流され始めていました。
◇
夜が明け、ひっくり返されたバケツの水のような勢いで空は明るくなり始めました。雨上がりの、気持ちの良い朝です。
メローがいつまでたっても帰ってこなかったので、セリヌスはぷりぷりしながらメローの家を漁っていました。
「ちぇっ、メロー君というのは、役に立たない奴だなあ。酒しか入っていないじゃあないか。俺は酒なんて大嫌いなのに、何にも分かっていないのだから」