第8話 病を抱えし者たち
イオルは、ミラを抱えたまま、地の底の胎へ通じる裂け目へと戻ってきた。
追手の松明は付近には見えず、風の音すら途絶えている。
イオルは短く息を整え、闇の口へと身を滑り込ませた。
ミラの熱は腕の中で燃えるように強く、その呼吸は浅く、弱い。
イオルは歩みを止めず、ただただ前へ進んだ。
死者の門をくぐり、光の通路を進み、やがて、あの部屋――
透明な殻に包まれた“光の存在”が眠る場所へと辿り着く。
イオルはそっとミラを床に降ろし、膝をつき、深く頭を垂れた。
「……光の御方。
あなたの力をお借りするため、戻ってまいりました。
望まれた“血”そのものではないが……病に伏した妹を連れてきました。
どうか……病の解明とともに、妹も……救ってはいただけないか。」
祈りの言葉が空気に溶けた瞬間、殻の内側の光がゆるやかに揺れた。
――戻られたのですね、イオル。
その声は、前よりも柔らかく、どこか深い痛みを含んでいた。
しばし沈黙が落ちる。
ルウナは、イオルの心の奥に渦巻くもの――
疲労、喪失、怒り、闇、そして妹を救いたいという必死の願い――
それらを“魂の震え”として感じ取っていた。
殻の光が、涙のように揺らめいた。
――辛かったのですね。その歩みは、どれほど重かったことでしょう。
イオルは言葉を返せなかった。
胸の奥が熱くなり、喉が震えた。
――ミラを助けられるよう、できる限りのことをしてみます。
――まずは……彼女の血を、少しだけいただきます。
――解析は……私たちの文明が用いる“人工知性体”に任せます。
イオルはその言葉の意味をよく理解できなかった。
ここには彼女の他にも誰かいるのか?
胸の奥に困惑が生まれたが、問い返すことはできなかった。
ルウナはその心の揺らぎを、静かに読み取った。
――難しいことは、今は考えなくて大丈夫です。
――ただ、私は身動きが取れません。
――ですから……あなたに、私の“声”を伝えるので、少し手伝ってほしいと思っています。
イオルは深く頷いた。
「……望まれることなら、何でも。」
――ありがとう。
――では、まず……ミラを隣の部屋の“ベッド”へ寝かせてください。
――そこは、治療のために整えられた場所です。
「……ベッド……?」
言葉の意味は分からない。
だが次の瞬間、イオルの意識に、隣室の位置、扉の開け方、柔らかな寝台の形状――
それらが淡い光の像として流れ込んできた。
イオルは驚きに息を呑んだ。まるでルウナの手が、直接心に触れたようだった。
しかし、その不思議さよりも、妹を救いたいという思いが勝った。
彼はすぐにミラを抱き上げ、光の導きに従って隣室へ向かい、示された寝台へそっと横たえた。
ミラの呼吸は浅く、熱は依然として高い。
イオルはその手を握りしめ、離れがたい思いに駆られた。
だが、ルウナの声が静かに頭の中で告げる。
――イオル。
――あなたは、ひとまず……部屋の外へ。
イオルの胸に、かすかな疑念が芽生えた。
妹を置いて離れることへの恐れ。
だが、イオルは疑念を振り払い、妹を一度だけ見つめ、ゆっくりと部屋を後にした。
部屋から出ると、ルウナが頭の中に語り掛けてきた。
――イオル。
――心がざわついているのですね。けれど、大丈夫。
――ミラは今、“人工知性体”が状態を診ています。
――応急処置と、これからの最適な治療法を探っていきます……
――ただ……そのために少し時間が必要です。
――どうか、待っていてください。
「……わかった。待とう。」
イオルは静かに息を吐き、壁際の影の中に腰を下ろした。
その姿は、長い旅の果てにようやく辿り着いた戦士のようであり、同時に妹を案じる兄の弱さも滲んでいた。
しばしの静寂。
――イオル。
――よければ……少し、お話をしませんか?
イオルは顔を上げた。
闇の奥で揺れる光の殻が、まるで呼吸するように淡く脈打っている。
イオルは軽く頷いた。
――前にも少し話しましたが、私は……空の彼方、遠い星より来た者です。
――ただ、この地に私だけが残っているのは、はじめから意図したことではありません。
――私自身もこの地で“病”に侵され、回復のために……ここに留まらざるを得なかったのです。
イオルはその話を聞き驚きの表情を見せた。
「……では、病が癒えれば、あなたも……光の神の待つ天へと旅立たれるのか?」
――そうですね。
――できれば……そうしたいと思っています。
ルウナの声は、どこか遠い星の風のように寂しげだった。
――ただ……私が乗ってきた“舟”は、もうここにはありません。
――帰りたいのですが……実は帰る術が、今の私にはないのです。
その瞬間、イオルの胸に、深い悲しみと絶望の感覚が流れ込んできた。
まるで自分の心が裂けるような痛みを感じる。
イオルは胸をおさえながら、静かに言った。
「……そうなのか。……もし、私でも何かできることがあるのなら……言ってほしい。」
ルウナの光が、柔らかく揺れた。
――そうですね……。
――私が完全に癒えたとき、“アーシャ”――あなたがたが光の神と呼ぶ者を、ここに呼んでいただきたいのです。
――その役目を……お願いできますか?
イオルは息を呑んだ。
「……どうやって、光の神を呼べばよいのだ?」
――その時が来れば、お伝えします。
――今の私はまだ不完全で……もし今、彼を呼べば、彼にも危険が及んでしまう。
――だから……その時まで、待っていてください。
イオルは深く頷いた。
「わかった。その時が来れば……必ず手伝おう。」
静寂が再び落ちた。
だが今度は、イオルの胸に別の疑問が芽生えていた。
「……光の御方。
あなた方が、我らの大地とはまったく異なる場所から来たことは理解した。
そして、我らには想像もできぬほど莫大な知恵を持っていることも。
だが……一体なぜ、この地に来られたのだ?」
イオルの声は、畏敬の念と、真実を知りたいという願いが混じり合っていた。
光の殻が、静かに、深く脈動した。
それは、ルウナの内に眠る遥か昔の記憶を呼び起こしたかのように。




