第7話 闇の森の加護
イオルは、長老屋敷の奥にぽっかりと開いた黒い穴へ足を踏み入れた。
そこは階段と呼べるほど整ったものではなく、地面を粗く掘り下げただけの斜面で、湿った土が足裏にまとわりつき、獣の巣穴へ潜り込むような圧迫感があった。
壁には乾いた枝を束ねた松明が差し込まれ、弱々しい火が揺れ、影が不規則に踊っている。
斜面の底に広がっていたのは、隣村が狩りや採集で得たものを雑然と積み上げた粗末な貯蔵の空間だった。
天井から吊るされた獣肉は干からび、木の実を盛った木皿はほとんど空。
飢えと病が村を締めつけていることが、その荒れ果てた光景だけで理解できた。
イオルは妹の姿がどこにも見えないことに胸を締めつけられ、踵を返そうとした――
そのとき。
奥の闇から、かすかな、しかし確かに人のものと思えるうめき声が漏れた。
イオルは息を呑み、音のする方へ慎重に歩みを進めた。
松明の炎が揺れ、影が壁に長く伸びる。
やがて、粗い木材を縄で縛って作られた小さな檻が現れた。
その中に、膝を抱えるようにして横たわる少女がいた。
「……ミラ……?」
イオルは震える声で妹の名を呼んだ。
返事はない。
イオルは短剣を抜き、檻の扉を縛る縄を一息に断ち切った。
縄がほどけ、扉が軋んで開く。
ミラの体に触れた瞬間、イオルは思わず手を引いた。
火のように熱い。
額には汗が滲み、足の付け根は黒紫に腫れ上がっている。
息は浅く、胸が上下するたびに苦しげな音が漏れた。
「ミラ……! しっかりしろ……!」
イオルが必死に呼びかけると、ミラはうっすらと瞼を開いた。
焦点の合わない瞳が、兄の顔を探すように揺れる。
「……お兄……さま……?」
その声は、風に消え入りそうなほど弱かった。
「大丈夫だ。もう怖くない。
すぐにここから出す。無理をするな。」
イオルは妹の手を握りしめ、必死に言葉を重ねた。
だがミラは首を振り、涙をこぼした。
「……お兄様……わたし……穢れて……しまいました……」
イオルの胸に、冷たい刃が突き立つような感覚が走った。
怒りと悲しみが渦巻く中、彼は妹の肩を抱き寄せ、静かに囁いた。
「ミラ……大丈夫だ。
何も恐れるな。
光の神が、お前を救ってくださる。」
ミラの瞳が揺れた。
イオルは続けた。
「病を治すには“病に冒された者の血”が必要だと
あの方は仰っていた。
だが……もう血を運ぶ必要はない。
お前を――直接、あの方のもとへ連れていく。
死者の国へ行くことになる……
それでも、良いか?」
ミラの唇が震えた。
「……お兄様と……一緒……なら……
どこへでも……
それに……わたしの……血で……
みんなが……救われる……なら……」
言葉はそこで途切れ、ミラの瞼はゆっくりと閉じた。
呼吸はある。
だが意識は深い霧の中へ沈んでいった。
「ミラ……! ミラ!」
イオルは妹を抱きかかえ、立ち上がった。
その腕の中の体は軽く、あまりにも脆かった。
彼は振り返ることなく、斜面を駆け上がった。
血の匂いの残滓が満ちる屋敷を後にし、夜の闇へ――
イオルは妹を抱いて走り出した。
夜気は冷たく、妹の熱を帯びた身体が腕の中でかすかに震える。
ここから死者の門へ向かうには、森の縁を抜けるしかない。
しかし、村外れのその道は、イオルを追う松明の光が無数に揺れていた。
イオルは見つからないよう息を殺し、闇に沈む木々の間を慎重に進んでいた。
そのとき——。
足元で乾いた枝が、ぱきりと折れた。
「……今の音、聞こえたか!」
隣村の男の怒声が闇を裂いた。
松明の光が増え、複数の影がこちらへ向かってくる。
イオルはとっさに茂みに身を沈め、ミラを抱き寄せた。
土の匂いが鼻を刺し、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
「おい、こっちだ! 何かいるぞ!」
松明の赤い光が木々の間を揺れ、イオルの隠れた茂みのすぐ手前まで迫ってきた。
その瞬間——。
背後の闇が、ゆっくりと膨らんだ。
大地が低く震え、重い息遣いが夜気を押しのける。
イオルが振り返ると、そこに巨大な影が立っていた。
月明かりに浮かび上がったのは、黒褐色の巨体。
肩は大人の胸ほどの高さがあり、長く湾曲した角は松明の光を受けて赤く光る。
その姿は、闇そのものが形を得たかのようだった。
オーロックス!
イオルは息を呑んだ。
だが獣は彼を襲わず、ただ一度、深く低い息を吐いた。
その吐息は温かく、地面がわずかに震えた。
そして——
イオルのすぐ横を、ゆっくりと通り過ぎた。
「……お、おい!な、なんだあれ……?」
「でかい……! 角が……!」
松明の光が巨体を照らし出した瞬間、男たちの顔が恐怖に歪んだ。
影が揺れ、角が赤く光り、獣の足音が地面を震わせる。
「オ、オーロックスだ……!」
「悪しき獣だ! 逃げろ!!」
叫びが森に響き、男たちは武器を落としながら散り散りに逃げていった。
オーロックスは男たちを追わなかった。
ただ、イオルと男たちの間をゆっくりと横切り、そのまま森の奥へと消えていった。
闇が再び静けさを取り戻す。
イオルは動けなかった。
胸の鼓動が激しく、腕の中のミラの呼吸が弱く上下している。
——今だ。
言葉にならない衝動が、イオルの背を再び押した。
彼はミラを抱き直し、茂みから飛び出した。
死者の門へ。
夜の奥へ。
妹を救うために。




