第5話 穢れの夜
イオルが檻に閉じ込められて五日が過ぎた。
昼は乾いた風が木の格子を鳴らし、夜は冷えた土がイオルの背を奪った。
集落の男たちは交代で見張りにつき、通りがかる者たちは、かつて同じ焚き火を囲んだ仲間であっても、
今は“異物”を見るような冷酷な目をイオルに向けた。
ガルンは何度も檻へ近づこうとしたが、見張りの男たちは「生贄に近づくな」と、まるで穢れを避けるように彼を追い払った。
彼の歯ぎしりだけが、イオルの耳にかすかに届いた。
五日目の夕刻、薄い雲が空を覆い、村の影が長く伸びたころ——
イオルの家の近くに住む男が、檻の前を通りかかった。
その男は、かつてイオルの父と狩りを共にしたこともある人物だった。
だが今、その目には温かさの欠片もなかった。
「……おい、お前の妹もとうとう病を発したらしいではないか」
イオルの胸が跳ねた。
男は続けた。
声は嘲りを含み、夕暮れの色を吸ったような、乾いた冷たさがその声に宿っていた。
「兄が死者の国なんぞに足を踏み入れたからだ。
妹まで呪われたんじゃないのか?
……この罰当たりめ」
イオルは格子にすがりついた。
「……何だと……?
妹が……? 本当なのか……?」
男は肩をすくめ、興味を失ったように去っていった。
イオルは見張りに向かって叫んだ。
「頼む! ここから出してくれ!
妹が……それに、母が……どうしているのか……!」
だが見張りは、石のような顔で吐き捨てた。
「黙れ。
生贄が騒ぐな」
イオルは格子を握りしめた。
手のひらに木の棘が刺さっても気づかない。
父はすでに病で亡くなっている。
残された母と妹だけが、彼の世界のすべてだった。
なのに——
母も妹もこの五日間、遠くから姿を見せることすらなかった。
不安が胸を締めつけ、イオルは声を震わせて懇願した。
「頼む……!
私を出せないのなら……
せめて……家族の様子だけでも見てきてくれないか……!」
見張りの一人が、面倒そうに鼻を鳴らした。
「……お前の母親なら、俺たちの村の長老様の屋敷に閉じ込められたと聞いたぞ」
「……なぜだ……?」
「お前が生贄になると決まったあと、泣き叫んで暴れたらしい。
それに長老様が言っていた。
“死者の国に触れた者の家族は祓いが必要だ”とな」
イオルの喉が乾いた音を立てた。
「……妹も……?
妹も長老の屋敷に……?」
「そこまでは知らん。
だが……お前の家族ってんなら、多分そうなんだろうよ」
イオルは格子に額を押しつけ、声を張り上げた。
「その長老と話をさせてくれ!
頼む、話がしたい……!」
だが見張りは、冷たい目で言い放った。
「生贄が長老様に会えるわけがないだろう。
黙って明後日の満月を待て」
その言葉は、刃のようにイオルの胸に突き刺さった。
その夜、イオルが檻の中で絶望している頃、見張りの男たちは長い夜の半ばを過ぎて疲れと眠気に肩を落としていた。
イオルは檻の中で、家族のことを思いながら、かすれた声でなおも叫び続けていた。
「……頼む……誰か……母と妹の様子を……!」
その声は、夜更けの静寂にひどく響いた。
見張りの一人が苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「黙れと言っているだろう……
夜中じゅう叫びやがって……」
そのときだった。
闇の中から、大きな影がひとつ近づいてきた。
「……誰だ?」
見張りたちが身構える。
影はゆっくりと焚き火の残光に姿を現した。
広い肩、獣皮をまとった逞しい男。
だが隣村から交代で来た見張りたちはその男の事を知らない。
ガルンは、まるでこの場の空気を押し下げるような重い声で言った。
「ただの通りすがりだ。
……だが、ずいぶん騒がしいな」
見張りの一人が警戒を解かずに言う。
「関わるな。
こいつは生贄だ。
死者の国に触れた穢れを持つ」
ガルンは檻の中のイオルを見下ろし、冷たい声で言い放った。
「……なるほどな。
こいつが噂の男か。
死者の国に足を踏み入れた者が、まだ息をしているとは……
不気味なものだ」
“呪われた存在を確認する者”のような、重く、威圧的な響きだった。
イオルは目だけでガルンを見る。
ガルンはほんの一瞬、見張りには分からぬ角度で”黙っていろ”という鋭い合図を送った。
イオルは反論せず、ただ檻の中から叫び続けた。
「出してくれ……!
頼む……家族が……!」
ガルンは見張りに向き直り、低く、重く問いかけた。
「……おい、お前ら、
この声をずっと聞いているのか?」
見張りの一人が疲れた声で答えた。
「そうだ。
夕方からずっとだ。
耳がどうにかなりそうだ」
ガルンは一歩踏み出し、声をさらに落とした。
「……愚かな。
死者の国から戻った者の声を夜通し聞き続けるとは……
穢れが耳から染み込むぞ」
見張りたちの顔が強張った。
「……穢れが染み込む……?」
ガルンは焚き火の灰を足で踏み、低く唸るように続けた。
「そうだ。
魂に染み込む穢れだ。
それに昔から言われているだろう。
“死者の国の者の声は、夜更けに最も強く穢れを運ぶ”と」
見張りの喉が鳴った。
ガルンはさらに畳みかける。
「それに……
お前ら、身体を清めていないな。
近くで穢れを浴びたまま夜明けを迎えれば、
影の神の呪いがかかるぞ」
焚き火の灰がぱちりと弾けた。
その音に、見張りの一人が肩を震わせた。
「……どうする……?」
「だが清めの水は……長老の屋敷に……」
ガルンは、あくまで“助け舟”を出すように言った。
「短い間なら、俺が代わりに見張っていてやる。
お前らはさっさと身体を清めてこい。
そのほうが……安全だ」
見張りたちは迷ったが、恐怖が理性を押し流した。
「……すまない、頼む。
すぐ戻る。
絶対に檻からは離れるなよ」
ガルンは静かに頷いた。
見張りたちが闇に消えると、ガルンはすぐさま檻へ駆け寄り、低く囁いた。
「……イオル。
今だ。立て」
イオルは震える手で格子を掴んだ。
ガルンは腰の狩人の刃を抜き、縄を切り、檻の扉を押し開けた。
「行くぞ。
ここにいれば……
お前は満月の夜に殺される」
イオルは息を呑んだ。
ガルンの瞳は、ただひとつの決意だけを宿していた。
「……友を見捨てる気はない。
俺はお前を信じている。
どんな掟があろうと、お前を殺させはしない」
二人は闇へと走り出した。
背後で、檻の格子が風に揺れ、かすかな音を立てた。




