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影の神と光の大地  作者: 遊歩人
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第2話 邂逅

若者が「死者の門へ向かう」と告げたとき、

焚き火の炎がわずかに揺れ、その場にいた者たちの息が止まった。


最初に声を上げたのは、長老たちの中でも、伝承を何よりも重んじる男だった。


「それは、ならぬ。」


その一言は、夜気よりも冷たく落ちた。


「死者の門は、祖より伝わる禁足の地。

門の奥に何があるか、誰も知らぬ。

ゆえにこそ、何人も踏み入ってはならぬのだ。」


その隣に座るもう一人の長老も、深い皺を寄せて首を振った。


「伝承を破れば、その身に何が起こるか分からぬ。」


だが、長老たちの間でも、反対の声ばかりではなく意見は割れた。


「このままでは、いずれ村は病に呑まれる。」


「神に直接願うのも……ひとつの道かもしれぬ。」


「誰かが行かねば、何も変わらぬ。」


焚き火の周りで声がぶつかり合い、夜の空気は張り詰め、炎はまるで息苦しげに揺れた。

その揺らぎの中で、村人たちの表情もまた揺れていた。


伝承を重んじる長老が、再度若者に鋭い眼差しを向けた。


「お前はまだ若い。

死の重さを知らぬから、そんな言葉を軽々しく口にできるのだ。」


若者はゆっくりと首を振った。


「死は……知っている。

病に倒れた父も、仲間も。

だが、このまま何もしなければ、村は影に呑まれるだけだ。」


その声は弱くはなかった。

焚き火の光よりも静かで、しかし誰よりも強かった。


「もし影の神が怒っているのなら、私がその怒りを鎮め、許しを乞うてきます。

行くのは私ひとりでいい。

村は何も手助けしなくていい。

もし私が戻らなくても……助けに来なくていい。」


その言葉は、禁忌よりも重い覚悟として人々の胸に沈んだ。

反対する二人の長老はなおも口を開こうとしたが、もっとも年長の長老が静かに手を上げて制した。


「……よかろう。

この若者の意志は、もはや誰にも折れぬ。

ならば、行かせよう。

ただし——村はお前を助けぬ。

戻らぬなら……それまでだ。」


こうして、数世紀ものあいだ誰ひとり踏み入れなかった禁忌の地へ、初めて“生者の足”が向かうことになった。


夜明け前、空はまだ群青の底に沈み、世界の輪郭だけがかすかに浮かび上がっていた。

親族とのささやかな別れの儀を済ませた若者は、村の焚き火を背に境界の道を進んでいた。

その背には、広い肩と逞しい腕を持つ男が、黙って付き従っている。


この時、この若者の名を正しく知っている者はほとんどいなかった。

後の世の歌はただ語る。

「病の時代に、死者の門へ向かった者」と。

その名をイオルと呼ぶ。


その背後を歩く逞しい男は、村で最も力強い狩人であり、イオルの友であった。

彼の名は ガルン。

やがて彼もまた、別の歌の中で「門を開けし者」として語られることになる。


二人は、禁足地の縁に辿り着いた。

そこには、数世紀にわたり積み上げられた石の封印があった。

祈りと恐れと年月が幾重にも重なり、まるで“時”そのものが凝り固まって壁になったかのようだった。


ガルンが、低く問うた。


「……イオル。

本当に、ここから先へ行くつもりか」


イオルはしばし石積みを見つめ、その奥に広がる闇を思い描き、静かに答えた。


「行かねばならぬ。

このままでは、村は病に呑まれる。

誰かが——影の神に言葉を届けねばならない」


ガルンは鼻から大きく息を吐いた。

その息には、恐れよりも、友を失う未来を悟った者だけが持つ重さがあった。


「ならば、せめて道は俺が開けよう。

お前が闇へ向かうというのなら、その最初の一歩だけは、この腕で支えてみせる」


彼の指が石を掴む。

石は祈りの重みを宿したまま、動くことを拒むように沈黙していた。

ガルンは歯を食いしばり、全身の筋をきしませながら力を込める。

やがて、長く閉ざされていた石が、ひとつ、またひとつと音を立てて外れていった。


石が崩れ落ちるたび、裂け目の奥から冷たい風が吹き出し、二人の肌を刺した。

それは、地の底から漏れ出る古い息遣いのようでもあった。


最後の石をどけたとき、ガルンは荒い呼吸を整えながら言った。


「行け、イオル。

だが——必ず生きて戻れ。

戻ってきたとき、村はきっと、お前にふさわしい名を与えるだろう」


イオルは友の瞳をまっすぐ見返し、短く頷いた。


「もし戻れなければ……

せめて歌だけは残してくれ。

“病の時代に、死者の門へ向かった愚か者がいた”とな」


ガルンはわずかに笑った。

その笑みはすぐに、深い決意の色へと戻った。


「愚か者の歌は、長く歌われるものだ。

行け、イオル。

お前の踏み出す一歩が、この闇の時代の形を変えることを信じよう」


イオルは石積みの裂け目へと身を滑り込ませた。

背後で、ガルンの気配がゆっくりと遠ざかっていく。

——もう戻れぬ。

そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。


裂け目の内側は、地の底へと続く巨大な喉のようだった。

岩の壁はところどころ金属の光を帯び、ゆっくりと、呼吸するように脈打っている。

イオルは松明を掲げ、慎重に一歩ずつ進んだ。

足音が響くたび、地の奥から低い反響が返ってくる。


やがて、伝承で「決して開かぬ」と語られた黒い扉が姿を現した。

だがその扉は——

わずかに、口を開いていた。

イオルは息を呑んだ。


「……開いている……」


扉の隙間からは、見たことのない白い光が漏れていた。

炎の赤でも、月の青でもない、冷たく澄んだ光。

震える手で扉に触れる。

岩のように冷たい。

だが同時に、生き物の皮膚のように微かに脈打っていた。


ゆっくりと押し開ける。


その先に広がっていたのは——

彼がこれまで知るどの世界とも異なる光景だった。

壁は滑らかで、継ぎ目がない。天井から降り注ぐ白い光が、

影すら許さぬほど均一に空間を満たしている。

床には、意味を持つのかもわからぬ線と紋が走り、金属とも石ともつかぬ物体が規則正しく並んでいた。


イオルは立ち尽くした。


「……ここが……

本当に、死者の国なのか……?」


死者の国と聞いて想像していた暗く淀んだ世界ではなかった。

ここにあるのは冷たく、整いすぎた秩序。

人の手ではない何かが、長い時間をかけて積み上げた“仕組み”。


それは、彼の言葉にはまだない概念——

“技”と“知”が極まった場所だった。

本能だけが告げていた。

ここは、自分たちの世界とはまったく別の理で動いている。


施設の奥へ進むにつれ、空気はさらに静まり返り、音という音が消えていった。


やがて、ひときわ強い光が漏れる部屋に辿り着く。


その中央に、透明な殻のようなものが据えられていた。

殻の内側には、淡い光をまとった“何か”が横たわっている。

松明の火がかすむほどの光。

イオルは目を細め、一歩、また一歩と近づいた。


それは——

一見、人の形をしていた。

だが、よく見ると人ではなかった。

身体の一部は薄い膜のようなものと繋がり、細い線がそこから伸び、殻の奥へと消えている。

まるで、見えない胎内に半ば沈んだままの、生まれかけの存在のようだった。


伝承に語られる“影の神”とは違う。

影ではなく、光。

恐怖ではなく、静けさ。

怒りではなく、深い悲しみと、遠い場所への憧れ。

理解は追いつかない。

だが——

胸の奥で、何かが確かに告げていた。


「……あなたが……

死者の門の奥に眠る……神……」


彼がそう呟いた瞬間、殻の内側で光がわずかに揺れた。

まるで、彼の声に応えるかのように。


イオルは膝をつき、頭を垂れた。


「どうか……

どうか、我らの村を……

この病を……収めてください……」


その祈りは、まだ幼く、粗かった。

だがその言葉は、この世界で初めて、“神へ届こうとした声”だった。


殻の内側で、光がわずかに揺れた。

その脈動が、イオルの胸の鼓動とどこかで重なったように思えた。


——この邂逅が、後の時代にどのような物語として語られるのか。

その時のイオルは、まだ知らない。


ただひとつだけ、確かに感じていた。


自分は今、人の世界と、人ならざる世界のあいだに立っているのだと。


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