第11話 夢より還る
薬がミラの唇に触れた瞬間、光の殻の奥でかすかな波が生まれた。
その揺らぎは水面に落ちた一滴のように広がり、地の底の空気を静かに震わせた。
イオルは妹の手を包んだまま、息を詰めてその変化を見守った。
ガルンは少し離れた場所で、二人の姿を固く見つめていた。
彼の胸にも不安はあったが、それを言葉にすることはなかった。
やがて、ミラの身体が震えだした。
熱に浮かされた額からは汗が滲み、呼吸は浅く、途切れがちになった。
まるで深い闇の底で、細い糸を手探りでたぐり寄せているかのようだった。
イオルの喉がひきつり、声にならない声が漏れた。
ガルンは拳を握りしめ、ただ見守るしかなかった。
そのとき、光の中から柔らかな声が満ちた。
――不安な気持ちは分かります。
――けれど、これは悪い兆しではありません。
――彼女の内側で、長く暴れていたものが弱り始めています。
ルウナの声は、夜明け前の風のように静かで、優しかった。
説明というより、寄り添うための言葉だった。
イオルはその声に導かれるように、ミラの胸元へ視線を落とした。
浅い呼吸の合間に、ほんのわずか――胸が深く動いた。
その小さな動きは、闇の中に差し込む一筋の光のようだった。
イオルは息を呑み、光の御方を信じた。
ガルンは目を閉じて短く祈った。
夜が明ける頃、変化は確かなものになり始めた。
熱はまだ高く、皮膚に残る黒い痕も消えない。
だが、昨日のように広がり続ける気配はなかった。
ミラは朦朧としたまま、時折、誰かを呼ぶように唇を動かした。
そして――
「……母さま……」
そのかすかな声は、地の底の静寂を震わせるほどの力を持っていた。
イオルは涙をこらえ、ミラの手を強く握り返した。
ガルンは目を伏せ、肩を震わせた。
光の殻が淡く揺れ、ルウナの気配がそっと二人に触れた。
――峠を越えつつあります。
二日目の朝、ミラの呼吸は少し深さを取り戻し、汗は熱を逃がすように静かに流れた。
イオルはほとんど眠らずに看病を続けていたが、ガルンはその姿を見て静かに立ち上がった。
「……イオル。食べ物を取ってくる。水も必要だろう。」
イオルは顔を上げ、かすかに頷いた。
ガルンは裂け目の外へ向かい、森の奥へと消えていった。
村には戻れない。戻れば捕らえられる。
だから彼は森の影を縫うようにして獲物を探し、小さな獣を仕留め、冷たい湧き水を汲み、夕暮れ前に静かに戻ってきた。
「……これでしばらくは持つ。」
そう言って火を起こし、肉を焼き、イオルに食べるよう促した。
イオルは感謝の言葉もうまく口にできず、ただ小さく頷いた。
ガルンはそれ以上何も言わず、二人の様子を遠くから見守った。
三日目、ミラの瞳は閉じたままだったが、「……水を……」と短く言葉を紡いだ。
イオルは震える手で水を口元へ運び、ミラはそれを少しだけ飲んだ。
そのわずかな行為が、二人にとっては奇跡のようだった。
命の灯は確かに揺らぎながらも消えずにいた。
ルウナは殻の奥から静かに見守り、必要なときだけ、そっと言葉を落とした。
――焦らず、見守りましょう。
夜、ミラがイオルの手を握り返したとき、
イオルはその温もりを確かめるように何度も握り返した。
地の底の静寂の中で、イオルとガルンは初めて、”救い”という言葉を現実のものとして感じ始めていた。
四日目の朝、地の底に満ちる冷たい空気が、どこか柔らかく変わっていた。
ミラは長い眠りの底から浮かび上がるようにまぶたを震わせ、ゆっくりと目を開いた。
イオルはその気配に気づき、息を呑んで身を乗り出した。
「……ミラ?」
ミラはしばらく天井を見つめ、それから兄の顔を確かめるように目を細めた。
「……お兄様……苦しさが……嘘のように薄れました……」
その声はまだ弱かったが、確かな意識の灯が宿っていた。
イオルの胸に、張りつめていた何かが静かにほどけていった。
ミラは周囲を見回し、ふと不思議そうに眉を寄せた。
「私は……今、死者の国にいるのですか?
なんだか……長い夢を見ていました。
母さまが……お別れを言いに来る夢です。
母さまは……今どこにいるのですか?」
イオルは言葉を失い、喉が震えた。
ガルンは焚き火の向こうで、静かに目を伏せた。
しばらくの沈黙ののち、イオルはかすれた声で答えた。
「……母さまは……旅立たれた。
……ミラ……すまない。
……私のせいだ……」
ミラの瞳に、一筋の涙が光った。
「……夢の中で、母さまは光の方へ向かっていきました。
それに……兄さまのところへ戻りなさい、と言われました。
私は……きっと兄さまに繋ぎ止められたのですね……」
イオルは首を振り、ミラの手を包んだ。
「そうか……。
だが……お前を救ったのは私ではない。
光の御方の力だ。」
その瞬間、光の殻が淡く揺れ、二人の頭の奥に柔らかな声が満ちた。
――私の力は、ほんの些細なものです。
――あなたを繋ぎ止めたのは、イオルとガルンの意志の強さ。
――あなたを失いたくないという想いが、闇の底からあなたを呼び戻したのです。
ミラの頭の中に、静かな光がそっと満ちていった。
それは景色ではなく、形ある記憶でもなかった。
ただ、温度と震えと祈りが溶け合ったような、深い心の流れだった。
兄の胸に宿っていた焦りと恐れ。
眠らずに寄り添い続けた夜の重さ。
「失いたくない」という叫びにも似た願い。
ガルンの心に沈んでいた、静かな決意。
仲間を守るという揺るぎない意志。
言葉にしないまま抱えていた、ミラへの気遣いと、イオルへの支え。
それらが光の粒となって、ミラの内側へ流れ込んだ。
――これは、二人があなたに向けていた想いです。
――私はただ、その想いをあなたに届けます。
ルウナの声は、深い水底から響くように柔らかかった。
ミラは胸に手を当て、涙をこぼした。
「……お兄様……ガルンさま……
そして……光の御方さま……
本当に……ありがとうございます……」
その言葉は、地の底の静寂に溶け、
三人の心に、確かな“生”の温もりを灯した。




