逃避
秋の夜、雨上がりの大学構内。
ひっそりとした中庭のベンチに、ひとりの学生が座っていた。
白色の弱い光だけが、その場所をぼんやりと照らしている。
「……なぜ、勉強しなければならないのか」
その呟きに答えるように、ぼんやりとした人影が現れる。
学生服――なのか。黒い詰襟に袖章、青白く照らされた顔は凛と整っていた。
齢は同じか少し下……
十七、十八ほど。
「勉強が、義務になっているのか?」
「……え?」
「我々のころは、そうだな。学ぶことは生きることだったよ」
どこか懐かしむようで、しかし力強い言葉だった。
「君たちは飢えを知らぬのだろう。学ばねば食えぬ時代に、人は必死に学ぶ。だが飢えが無くなれば、学びは退屈になる」
現代の学生は、怪訝な表情を浮かべる。
「……確かに、食うには困っていないな。そしてそれ故に、学ぶ理由が分からない。ただ、将来が見えない。いや……つまらない未来ばかりが見えてしまうんだ」
幽影は夜空を見上げた。切れ長の目を細めて、力のこもった視線を向ける。
「我々も同じだったよ」
「え?」
「よい未来など見えなかったさ。ずっと分からなかった。今学んでいることが正しいのか、金になるのか、役に立つのか、飢えをしのげるのか。分からないまま学び続けることは、やはり怖かったよ」
その声は、少し震えていた。幽影は視線を落として微笑む。
「怖いからこそ、分からないからこそ、人は知を求める。もしかしたら私は……何かから逃げるために勉強をしてきたのかもしれない」
白色の光がチカチカと点滅を繰り返す。
「ただその日々は……とても充実していたよ」
幽影の姿はもう消えていた。
ベンチの上に古い教科書が一冊残っている。
『倫理學概論』――裏には幽影の名が墨で記されていた。
学ぶ理由が見えぬこの時代、なんとなく未来が見えてしまうこの時代にこそ、僕らは学び続ける必要があるかもしれない。
それが例え現実からの逃避だとしても、それこそが、真の勉強の始まりである。




