第六章 涙と決意と舞台裏
授業の終わり際に私は黒板に大きく書いた。
【家族の仕事を理解し、支えること】
「淑女教育の成り立ちから見ると、淑女教育はただ礼儀を学ぶだけではありません。結婚した後に夫の仕事を支え理解することも妻の大事な役割です。政務や商談でも、共に歩む者の支えは大きな助けになるのです」
「わぁ……素敵!」
リディアが無邪気に笑った。
「じゃあやっぱり――結婚するのは淑女にとっても幸せってことですよね?」
胸に小さな棘が刺さる。
私は笑顔を崩さず答えた。
「結婚を望む人にとっては、それも素敵な幸せね。でも――人の数だけ、生き方があるのよ」
◇
そのやり取りを、扉の外で耳にしていた影があった。
リドルは妹リディアを迎えに。
サイラスは授業報告の書類を届けに。
レイスは巡視の途中。
リアンは怪我の予後を確認しに――。
それぞれ別の用件で同じ時間に集まってしまったのだ。
廊下では覗き見る侍女たちの囁きも流れてきた。
「本当に素敵な先生ね」
「でも……縁談に響かないのかしら、心配ねえ」
称賛と同時の心配。
文官たちの笑い声も続いた。
「女がどれほど学んでも職は限られている」
「美貌ゆえに出会いの多い王宮の教師に据えられたのさ」
四人は互いに言葉を失った。
ここで何日も勤務してきた彼女がこの声を耳にしていないはずがない、と直感したからだ。
◇
夕暮れの教室。
エリスはひとり机に腰を下ろし、窓から見える夕暮れをぼんやり見つめていた。
(母も……母も、そうだった)
病弱な体を押して薬草を学び続けた母。
薬師並みの知識を持ちながら、「女にそのような知識は不要」と家族にも社交界でも笑われた。理解し支えたのは父だけ。
今は女性薬師も珍しくない。母が生きていれば、この時代ならば…夢を叶えていたかもしれない。
(でも、母は私を産んで死んだ)
(私が生まれなければ……母は薬師として…)
「母の夢……女性の学びの自由や…職業の自由を実現したい……」
声にした瞬間、胸が軋んだ。
「……私を産んだせいで…私が、母を殺したんだもの…」
涙が頬を伝い落ちる。
「それなのにどうして、私はお母様みたいに優秀じゃないの」
「評判も、ぜんぜん、良くない」
「教師になったって女学校を作る未来なんて……」
止めたいのに涙は全く止まらず、声を殺し肩を震わせた。
◇
先程のことが気になってやってきた四人が揃って言葉もなく立ち尽くす。
互いの姿も目に入らずただ一人を見つめている。
リドルは暗い気持ちで拳を握りしめる。
(……お気楽で能天気な侯爵令嬢だと思っていた。妾腹で王太子の兄に虐げられてきた俺には彼女がただ無邪気で能天気に見えていた。
だが……こんな重い夢を背負っていたなんて。俺は…何も見えていなかった)
サイラスは眼鏡の奥で視線を伏せる。
(理路整然とした強さを見せた人が……今は自分を責め泣いている。あれ程までに学問に真摯なのはそんな過去があったのか…それなのに私は、あんな事を彼女に言ってしまった…悔やんでも悔やみきれない…)
レイスは胸に手を当てる。
(教師として頼もしく、よく恐いと言われる俺にも全く物怖じしないような彼女が……今はこんなにもが弱く小さく見える。守るべき相手というのはきっとこういう存在なんだ。強がる子猫のように可愛く、放っておけない)
リアンは喉を詰まらせた。
(僕を庇って跡になるかもしれない怪我をおっても“大丈夫”と笑ってみせた彼女が……泣いている。罪悪感でこんなに苦しんで……僕が支えなければ。彼女のために、恐れを捨てて…助けてあげられるようになりたい)
誰も声を掛けられなかった。ただ、無力さに立ち尽くすしかなかった。
◇
やがてエリスは袖で涙を拭き、深呼吸をした。
「……泣いたらすっきりした!考え込んでも私は私だもの。やるべきことをやるだけよ!
明日の準備もあるし、帰らなきゃ」
扉の前で一瞬立ち止まって俯きもう一度深呼吸すると、顔を上げていつもの微笑み作り、背筋を伸ばして扉を開けた。
王城の回廊、夕陽に照らされた背中は、いつも通りのはずがどこか儚く見えた。
四人はその姿を胸に焼き付けた。
――無邪気で自由で真っ直ぐで。悪役令嬢と噂されても跳ね除ける強さがある。そして、少女たちの理想を一身に受ける先生。
けれども彼女は、苦しみや悲しみを背負ってそれでも夢に向かって立ち上がる、少女の一人でもある。
その姿は彼らの心を深く揺さぶった。




