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有刺鉄線

掲載日:2010/06/15

 わたし達を隔てているのは、棘の錆びかけた有刺鉄線だ。

 多少の傷を厭わなければ、どんなに血を流したとしても手を伸ばし、相手に触れることが出来る。痛みより相手への気持ちが勝るのなら、何も怖がらずに腕を伸ばせば良い。

 なんて残酷な隔たり。

 どうせなら完璧に相手など手の届かない、その存在すら確認できないようなコンクリートの壁でも立てられてしまえば良いのに。そう思ったら、唇が微笑の形を作っていた。

「……なに、」

「え、有刺鉄線」

 夜の雨はギターソロのように美しく切ない甘さを伴う。建物を、ポストを、電信柱を、視界に入るすべてのものを濡らす、静かに。わたし達の車もまた、水分を含んだ空気によって世界から遮断されているように見えるのだろう。雨の檻、わたし達は見詰められる為の動物。

「有刺鉄線?」

 気を利かせているのではなく偶然なのだろう、車内にはわたしの好きな音楽が小さな音でかかっている。そういえば趣味が似ていることを忘れていた。

「あなたがくれた薔薇が枯れた」

「ああ、……ああ、そう、枯れたのか」

 恋人のことで愚痴があり、彼も彼で気になっている人がいると相談があり、わたし達はこの夜を共にしていた。何杯かのアルコールがそれぞれの胃に収まっている。それは唇のすべりを良くし過ぎていて、きっと余計なことまでを喋らせてしまっているのだろう。昔の恋人だ、わたし達は。ノアの箱船に乗れなかった恋人達、だから上手に収拾がつかなくてさようならをしてしまった。もう、何度目かの夏をさかのぼらないとならない前の話ではあるのだけれど。

「で、有刺鉄線?」

「うん、わたし達の間にあるのは、有刺鉄線だと思ったの」

「そんなにトゲトゲしい関係?」

 驚いたように彼が少し大きな声を出した。わたしはゆっくりと首を振る。周りから見れば、親友と呼べるような仲の良さなのだ、元恋人同士にしては、わたし達はほぼ完璧な友人関係にありすぎる。彼の驚く理由が、勘違いした理由からによってでもたしかにその通りでわたしにもよく分かったのだけれど、本当の気持ちの方は言いたくないので黙っていた。違うわよ、と、だけ告げる。

わたしの腕など血まみれになっても構わないからあなたに触れたい、などと言ったら。

 すべてが終わってしまう。

 わたし達は、完璧な友人関係にあるのだ。

 たとえ、昔の恋人同士であっても。

「酔ってる?」

「今日は質問ばかりね」

「質問?」

「ほら、」

「今日のあなたははぐらかしてばかりだ」

「それはいつもと同じじゃないの、」

 疲れているの、と心配した手が伸びる。有刺鉄線を、越える。駄目だと言いたいのに、わたしは彼が気付かないうちに傷だらけになった手を避けることができない。わたしの髪に触れる、体温が高すぎるのではないかといつも驚かされる掌。撫でられて、それは反則だと、それはわたしにしてはいけない部類の行為なのだと、言いたい唇がけれどもそこで止まる。あなたは他に好きな人がいるのでしょう、と。わたしにはあなたではない恋人が存在するのよ、と。

言わないのはその手をいつまでもわたしのものだと錯覚しておきたいからだ、そしてその身勝手さに自分でも呆れてわたしは自身に対して腹を立てる。

「明日も雨かな、」

 遠くの信号機が塗れたアスファルトの上で伸びて赤く滲んでいる。もう少ししたら緑に変わるかもしれない。

「明日も雨だと良いのにね」

 どうして、と今度は口にしない彼へ、わたしは言い訳のように、告白のように続ける。

「そしたら今夜会っていた証拠も匂いも消えてしまうのにね」

 まるで、と彼は遠くを見る目で窓の方をちらりと見てから、まるで動物みたいだね、と言った。

「あなたは僕と逢うことに罪悪感がある?」

「どうして?」

「……僕は、あるから」

 その罪悪感は、彼にとっては好きな人の為へのものなのだろう。友達とはいえ、異性と夜遅くに車内へ閉じこもっている、その空間に対する痛み。

わたしにも罪悪感はある。

 けれどもそれは恋人の為ではなく、可哀想な自分の為へのものだ、もしかしたら彼がまだわたしを好きかもしれないと、そう思ってしまう可哀想な自分へ対する。

 わたしがまだ、彼を好きでいるように。

「……いやだ、何を言うの、またそんな、」

「……うん、冗談、あなたがなんだか今日は深刻そうな顔を、していたから僕も真似をして少し、」

 有刺鉄線が、わたし達を阻んでいる。それだけなのだ、だから簡単に手は届く、多少の傷と痛みを我慢できるのなら。そして、わたしにとってそんな傷も痛みも、恐るるに足らないものなのだ。

 わたしが男ならよかったのに、と思う。

 力があるのなら、黙って彼を犯してしまう事ができるのに。無理やりひとつになり、有刺鉄線など払いのけられただろうに。わたしは静かに欲情している、背中からゆっくりとあたたかく、下半身の方まで包み込むように欲情は翼を広げてわたしを包み込みはじめる。ギターソロのような静かな夜の雨の中で、わたしは彼を抱きたいと考えている、刻印をするように。わたしのものなのだと、印を、刻みたいのだ、本当の気持ちは、本当のことを言ってもいいのなら。

「……どうしたの、」

「なんでもないわよ、」

 わたしも手を伸ばす。彼のざらざらとした髪を撫でる、有刺鉄線の傷は痛むけれども気付きたくないので気付かない振りをする。心をぎりぎりと掴みあげて、悲鳴を上げているけれども何も言わない、わたしは意地っ張りなのだ。

 あなたを好きだと言うくらいなら。

 あなた今でも好きなのだと言うぐらいなら。

 この唇は二度と開かなくてもいい、わたしはわたしの想いに対する彼の答えをもう知っているのだから、それは聞きたくないことだから、だから。答えを聞きたくないのなら、質問をしなければいいのだ。想いを、告げなければ、いいのだ。

「……雨が強くなると嫌だから帰りたいの、」

「ああ、……そうだね」

 あなたの髪の匂いも、手も、温度も、声も、すべて手を伸ばせば届くのに。

わたしが一人占めすることは、もうできないのだから。

「有刺鉄線を、越えたら何が見えると思う?」

「え、」

「……愛する人がその向こうにいるとして、あなたなら有刺鉄線を越えようとする?」

 彼が口を開きかける前に、わたしは車のドアを開けた。

 雨の世界、水の檻。

 濡れるのは構わないので、そのまま歩き出す、彼の声が聞えて車のドアが開く音がする。追いかけるのはずるいです、とわたしには言えない。彼は友達としてわたしを追っているだけだから。

「おい、」

 酔っているのだと思われているだろう、そしてわたしはそれを否定しない。

 有刺鉄線を、わたしは越えたくなくてもがいている。

 血まみれになることも傷も痛みも、なにひとつとして厭わないのに、という自分の声に気付きたくないまま。

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