番外編 見捨てた者たちの逃亡劇
森が鳴っていた。
湿った根の下から鳴るような低い唸り、どこからともなく漂ってくる酸い匂い。今まで何度も潜ったはずの〝黒の森〟が、今夜だけは別の場所にすり替わったかのようだった。
ガリウスは呼吸のたびに、肺の奥が焼けるように感じた。鎧はない。裸同然の上着は枝に裂かれ、汗と血で貼りついている。剣だけが頼りだった。
背後で枝が弾け飛ぶ音が聞こえた。それから低い唸り声……ワーウルフだ。
暗がりに黄の目が二つ、四つ、六つと増える。前方の茂みがのそりと持ち上がり、オーガの影が木立の間に姿をのぞかせた。あの拳をまともにもらえば、骨が粉になる。
「クソがッ! 昼間はこんなにいなかっただろ!?」
サムソンが歯を剥いた。巨斧を振り上げ、迫ったワーウルフの顎先を叩き折る。
手応えはあった。だが、それでは戦闘が終わらない。実際、敵は溢れ出していた。群れが切れてもすぐ別の影が押し寄せ、森そのものが牙を剥いているかのようだった。
行きが楽勝だったから、つい忘れていた。
ここは〝黒の森〟。本来、Aランクパーティー以上でないと、入ることさえ許されない危険地帯だ。荷物もなく、ましてや防具もない今のガリウスたちで乗り切るのは、極めて困難だった。
どうしてこんなに──と思ったところで、用済みと切り捨てたお荷物テイマーが脳裏を過る。
そうだ。あいつの従魔だったプチドラゴンの索敵スキルのお陰で、昼間は無駄な戦闘をしなくて済んだのだ。
ガリウスの苛立ちが募る。
「てめぇが考えなしにあのプチドラゴンをぶち殺すからこうなるんだろうが、シーラ!」
怒鳴った声が森の湿気に弾かれ、耳にやけにうるさく突き刺さった。
「あんただって、ロウを追放したじゃない! それが発端でしょ!?」
シーラの返しは甲高い。
肩で息をしながらも、目だけはぎらついていた。だがその手は震えている。詠唱の節が乱れていて、魔法の発動が安定していない。
「うるせえ! 俺は『こっから帰ってから』って言ったんだ! 森から出る前に追放するとは言ってねえ!」
「ハァ!? そんなの屁理屈よ!」
「屁理屈じゃねえ、事実だ!」
「おい! 仲間割れしてる場合じゃねえだろ! 口より手ぇ動かせ!」
サムソンが、ガリウスとシーラの口論を正論でぶった斬る。
仲間割れの声は敵の足音よりも早く膨らみ、三人の空気をさらに悪くしていった。
(クソが……クソがあああッ!)
ガリウスは舌打ちした。
昼間は、こんなにも敵に遭遇しなかった。ロウが地図を頭に入れ、従魔のプチドラゴンが〈索敵〉で危険を嗅ぎ分けていた。最短とは限らないが、最も安全な道筋を、あのうすら寒い慎重さで調べてくれていたのだ。
今は、それがない。
地図は荷に入れたまま置き去り、〈索敵〉のスキルも、治癒師の回復魔法や強化魔法も、ひとつもなかった。
結果……こうして、敵とぶつかる。
ワーウルフの爪が横から飛ぶ。ガリウスは紙一重で退いた。
鎧のない腹をかすめた風が、骨に沁みた。鎧さえあれば、と喉元まで上がりかけた言い訳を飲み込んだ。
着ける暇がなかったのは事実だ。だが、呑気にテントの中で全裸になろうとしていたのは自分だ。敵が近づけば知らせてくれるだろうと思い、気を緩めていた。それが今、この事態を引き起こしている。
オーガが咆哮し、木を柱のように振り下ろす。
「おらぁ!」
サムソンがそこに割って入り、巨斧で軌道を弾いた。柄が軋み、歯を食いしばる音が聞こえた。
ガリウスは脇に回り込み、オーガの膝裏へ低い斬りを差し込む。膝が抜け、巨体がぐらついた──はずだった。
次の瞬間、刃が肉に噛み込む感触の薄さに、背筋が冷える。厚い皮膚と異様な筋繊維が、刃の進みを拒んでいた。
「シーラ、火だ! 足元だ、足を焼け!」
「わかってる、わかってるわよ!」
彼女は慌てて詠唱に入る。だが、声が上ずっていた。
「根源の理、無窮の……あれ? 魔法が発動しない!?」
嫌な汗が背を伝うのを、ガリウスは自分で感じた。
まだ魔力が切れる程、魔法を使っていない。焦りだ。精神が乱れて、詠唱が途切れている。
リナならこの場を鎮め、同時に〈加護〉と〈強化〉を回して、前衛の負担を軽くしてくれたのに。
そのリナも、今はいない。
ワーウルフの群れが円を狭める。背中に冷たい気配が走った。
「ちくしょう!」
ガリウスは一歩踏み込み、首筋へ斜めに刃を滑らせた。
血が散って、二体が倒れる。しかし、その空白はすぐ別の敵で埋められた。
小傷が積もっていく。二の腕に熱。脇腹に鈍い痛み。頬から流れた血が顎を伝って滴る。〈治癒魔法〉がないというのは、こういうことだ。傷は塞がらず、疲労も抜けない。呼吸はどんどん浅くなっていった。
その最中、不意に深緑の髪と瞳が脳裏に浮かんだ。濡れた睫毛で微笑む、治癒師の女。
(俺のものになったはずなのに……!)
ガリウスは奥歯を噛み締める。
確かに、ロウからリナを寝取ったはずだった。最初からそのつもりであのふたりをパーティーに入れたのだから、当然だ。
しかし……リナがロウへ向けていた、あの柔らかい眼差し。庇うように一歩前へ出る癖。名前を呼ぶ声の温度。
全部、ガリウスに向けられるそれとは異なっていた。
それが、許せなかった。だから、あの女も見捨てた。あの女が自分で選んだ先にロウがいるというなら、そこで潰れるのも勝手だ。
(あいつらを犠牲にするのは、正解だったはずだ)
自分に言い聞かせるように繰り返した、その時だった。
胸の奥に、誰のものとも知れぬ声が残響する。
『お前は、ロウに勝てないと思ったんだろう?』
はっと顔を上げる。もちろん誰もいない。ただ森の闇と、嗤う魔物の影だけだ。
武力では、確かにロウに勝っていた。だが、あの女から常にガリウスに対して「あなたではロウに勝てない」と言われていた気がした。
それを示すように……あの女は、ガリウスとの交わりでも、決して感じている素振りを見せなかった。
(そんなわけあるか! そんなわけあるか! 俺は〝マッドドッグ〟のガリウスだぞ!!)
ガリウスは心中で舌打ちをして、踏み込んで斬る。
考えるな。斬れ。前を見ろ。死んだ女などもう要らない。
「おい、俺ひとりじゃもう持たねぇぞ! どうすんだよ、これ!」
サムソンの声が枯れていた。肩で息をし、汗がひかない。
それはガリウスも同じだった。
「どうして!? あんな女がいないだけで、私たちがこうなるなんて……!」
シーラが半ば泣き声で叫ぶ。
「リナだけじゃねえだろ、どう考えても……!」
サムソンの吐き捨てる声に、ガリウスの神経が逆撫でされた。
「黙れ! 俺たちはSランクパーティ〝マッドドッグ〟だ! あんなお荷物とクソビッチがいなくても、何とでもなるはずなんだ! 気合が足りねぇんだよ、おめえら!!」
怒鳴ると、喉が裂けるように痛んだ。言葉の熱は、冷え切った森に吸い取られていく。
返事はない。風が枯葉を転がし、ワーウルフが低く笑うだけだ。
押し返しきれないと悟るのに、時間はかからなかった。ガリウスは舵を切る。
「東に行くぞ! 川の音がするだろ!? 川沿いに下れば出口がある!」
正しいかはわからない。だが、決めなければ皆ここで死ぬだけだ。
サムソンが先頭で薙ぎ、ガリウスが横を裂き、シーラが後ろで火花を散らせる。
詠唱は短く、弱い魔法ばかりだ。長い詠唱の強力な魔法は避けて、弱い魔力だけで乗り切ろうというのだろう。焦りが焦りを呼び、効かない魔法で体力を削る。
茂みをかき分けるたびに棘が肌を裂き、靴底にぬめりが絡みつく。泥に取られた足を引き剥がす動作ひとつがとても重かった。
そこで、差が生まれる。ワーウルフの牙が肩を掠め、熱が走った。
サムソンの背にオーガの棍棒が当たり、彼が膝をつく。治癒も加護もなくずっとひとりで前衛を任せきりなのだ。もうサムソンの体力も限界だ。
「立て! 死にてぇのか!?」
ガリウスは腕を引き上げ、サムソンに檄を飛ばした。
大丈夫、まだやれる。生き残れる。
そう、自分に言い聞かせた。
やがて……木々の間へ、細い風の帯が走り抜けた。水の匂いだ。耳の底で、かすかに音が転がる。
「こっちだ!」
三人は息を合わせ、最後のひと塊を振り切って斜面を駆け下りた。苔が滑る。踏み外したシーラの腕をガリウスが掴み、強引に引き寄せた。
彼女が舌打ちしたが、文句は言わなかった。いや、言う余裕がないのだ。
川沿いは幾分か開け、月が水面に白い魚の腹のように揺れていた。その光が、群れの足を一瞬鈍らせる。〝黒の森〟の魔物は、光を嫌う。そこを一気に渡った。
対岸の土を蹴り、さらに走る。足音が背から遠のくたび、肺が悲鳴を上げても走り続けた。
いつの間にか、木々の背が低くなり、風が通り、夜の匂いが変わった。湿り気が薄くなる。暗闇の密度がわずかに落ちる。
抜けたのだ。〝黒の森〟が、背後に遠ざかっていく。
「はーっ! はーっ! や、やっと抜けたか」
「い、生き残ったぁ……」
「くそがァ……!」
三人諸共、その場に倒れ込んだ。土が冷たい。吐く息が胸を焼き、視界が揺らいだ。
全身の傷がズキズキと痛んだ。左肩は噛み痕で裂け、サムソンの脇腹は青黒く腫れ、シーラの指先は血で黒く染まっている。
ガリウスは、笑った。乾いた笑いだった。
(ほら見ろ、俺たちだけで何とかなるじゃねえか……! ざまぁ見やがれ、クソどもが! 仲良く魔物どもの餌にでもなりやがれ!)
心の中で吐き捨てる。勝ち誇る気持ちの熱は、自分でもわかるほど薄かった。
顔を上げると、サムソンがこちらを見ていた。
「何だよ?」
「……何でもねえよ」
何かを言いかけて、やめたように口を閉ざした。その顎の動きだけが、夜気の冷たさを伝えてくる。
「荷物も金も、全部あの中じゃない……最悪」
シーラは震える指で血のついた髪を耳にかけ、ぼやいた。唇を噛み、視線を森のほうへずらす。
「金ならギルドに預金してるのがあるだろ。荷物は……諦めろ」
ガリウスは吐き捨てるように言った。けれどその声も、自分に返って空しく響くだけだった。
荷物を取りに戻りたいが、もう戻れない。体制を整えて挑むにしても、最後の野営地がどこだったのかさえ、ガリウスたちにはわからないのだ。
夜風が、森の縁を渡っていった。冷たさが肌を掠める。
背後では、黒い木々がざわりと揺れ、その奥に潜む何かが、啀み合う犬のように低く喉を鳴らした。
それでも、三人は生きていた。
死ななければ、勝ちだ。
そうは思うものの……一抹の不安を感じるのも、また事実だった。