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第5話 半竜のルヴィア

 差し出された手を取って立ち上がった瞬間、ぐっと世界の傾きが戻った気がした。

 ロウは女の顔を探るように、見つめる。胸の鼓動はまだ戦いの余波を引きずって速い。だがそれ以上に、目の前の存在がもたらす異質さの方が、思考を掻き乱していた。


(こいつは……何者なんだ? どうして俺を助けた? それに、同胞から頼まれてって……?)


 深紅の髪はまだ風に踊り、黄金の瞳は月光を受けて硬質に輝いている。血の匂いの渦中で、彼女の手だけがあり得ないほどに清らかだった。

 助けられた安堵と現実離れした光景への戸惑い、その両方が言葉を奪い、ロウは知らず怪訝な目で女を見返していた。言葉を探すが、どうしても見つからない。助けられたという事実と、この異様な存在感が、却って問いを遠ざけていた。

 女はそんな視線を受けても気に留めた様子もなく、片方の肩を気安く竦める。


「そういや、自己紹介がまだだったな。あたしはルヴィア。〝半竜のルヴィア〟って言えば、あんたにも伝わるかい?」

「〝半竜のルヴィア〟……? 〝半竜のルヴィア〟だって!?」


 その名を耳にした途端、背骨の内側を冷たいものが駆け上がった。

 竜人でもなく、人でもない。両方の血を宿した希少種──〝半竜〟。

 数年前から、ふらりと戦場に現れては一度だけ加担し、その場を地獄に変えて忽然と消える。主も所属も持たず、誰もその行方を追えなかった。

 その常識外れの暴力は敵味方を問わず畏怖を呼び、畏怖は沈黙を生んだ。やがて噂だけが独り歩きし……半ば伝承のように語られる存在となっていた。冒険者の中でも語り草だ。

 その噂の名が、今、自分の眼前で息をしている。とても信じられる話ではなかった。だが、あの力を見せつけられた後では、否定の余地などない。


「まさか……本当に実在していたなんてな」

「そりゃこうやって生きてるんだから、実在はするだろうさ。まあ……あたしだって、好き好んでこんなけったクソ悪ぃ身体に生まれてきたわけじゃねえけどな」


 ルヴィアは自嘲気味に口角を歪ませ、尾をひと振り、翼をぱたりと開閉して見せた。

 軽口には聞こえる。だがその瞬間の瞳の奥、どこか水底のように冷えた色を、ロウは見逃さなかった。

 人と竜人族の混血……そんな種族は、この世界にそう何人といない。もしかすると、彼女には彼女なりの、苦労や絶望があったのかもしれない。圧倒的な武力を持っているからと言って、幸せな人生を送れるというわけではないのだろう。

 そう思った途端、胸にひやりとした同情が生まれかけ──視界の隅に、倒れ伏した影が滑り込んだ。


(そうだ、リナ!)


 全身の血が一気に逆流する。

 現実が、容赦なく戻ってきた。あまりに非現実的な流れで、すっかりと状況を忘れてしまっていた。


「なあ、あんた! 〝半竜のルヴィア〟なら〈治癒魔法(ヒール)〉くらい使えるんだろう!? 薬を持ってるなら、それでもいい。仲間が死にかけてるんだ……俺にできることなら何だってする。頼む、助けてくれ!」

「……生憎と、あたしは戦闘タイプだ。〈治癒魔法(ヒール)〉は使えねえ。それに──」


 言いながら、ルヴィアは視線だけで倒れた少女へと目をやった。

 黄金の光がわずかに陰り、眉間に浅い縦皺が寄る。


「そいつはもう……手遅れだ。()()()が来ちまってる」


 彼女の言葉に、耳の奥で何かが凍りついた。

 世界が、音をやめた。


「えっ……?」


 信じられない。いや、信じたくなかった。

 ロウはふらつく足取りで駆け寄り、膝から崩れ落ちるように倒れた身体のそばへ落ち込む。

 名を呼ぼうとしても、声が出なかった。震える指で、そっと頬に触れてみる。それから、手首へ、喉元へ。皮膚はもう、森の夜より冷たい。脈も……見つからなかった。

 彼女の深緑色の髪に、月の白が落ちる。胸が動くことも、もちろんなかった。


「あたしが()()()()()()()頃には、もう息はなかったよ」

「そん、な……」


 口から零れたのは、意味を持たない破片の音だけだった。

 視界の端が揺れる。足下から、地面の支えがひとつひとつ抜け落ちていく感覚がした。


(嘘だ。まだ、まだ生きてるはずだ。だって、さっきまでちゃんと脈はあった。生きていた。俺の頬に、手で触れてくれていた)


 そう思い込んでみるものの……現実は待ってくれない。

 先ほどまで熱を持っていた身体はもう冷たく、重かった。

 沈黙は、ひとときの夢でさえない。ロウはリナの身体をそっと抱き寄せた。

 頬に頬を寄せる。冷えが、頬骨の奥まで沁みてきた。


(何で……何で、こんなことになるんだよ。何で……最後に、あんなこと言うんだよ! 俺は……俺は──)


 喪失が、形を持って胸に差し込まれていった。理屈も、誇りも、約束も、全部が砂のように零れていく。

 幼い頃、一緒に遊んで一緒に叱られたこと。互いを異性として認識し合った頃のこと。彼女の祖父の病が発覚して、冒険者になると決めた夜のこと。初めての依頼で、てんやわんやになって笑いながら空を仰いだ帰り道。ふたりで想いを伝え合い、初めて結ばれた時のこと。それから……ロウの胸に顔を埋め、「幸せ」と言ってくれた時のこと。

 それらが一斉に駆け出し、目の前の冷たさにぶつかって砕けた。


「あぁ……あぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」


 肺の底から引き剥がした叫びが、黒い梢の天蓋へ突き上がり、夜に散った。

 もちろん、森は答えない。風は灰を運ぶだけだ。どこかでフクロウが一度だけ鳴き、すぐに黙った。

 足元で、風が草を撫でる音がした。視線を上げると、隣でルヴィアがこちらを見ていた。さっきまでの豪胆な気配は鳴りを潜め、言葉を探しているかのような間が、ほんの僅かに生まれる。

 彼女はわずかに顔を顰め、次いで、気まずさを隠しきれないように視線を逸らした。

 深紅の髪が横に流れ、月が毛先を細く縁取るように照らす。尾が土を撫で、黒い翼が重みを確かめるように小さく震えた。

 夜は深く、冷たく、なおも長かった。

 ロウの慟哭は、続いた。

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