第4話 邂逅と暴力
竜人族に似た特徴を持つ女は、棍棒を片手で受け止めたまま、顎だけでロウの方をしゃくった。
なぜ俺の名を、と喉まで出かかった問いは、声になる前にその容姿に圧されて呑み込まれる。正面から改めて彼女を見た瞬間、ロウは息を奪われていたのだ。
深紅の長い髪は血と煙を孕んだ夜風に揺れ、炎のようにゆらめいている。鋭く冴え冴えとした黄金色の瞳は、闇の中でも一寸の迷いなく光を放っていた。
黒のクロップドタンクトップは豊かな双丘を申し訳程度に覆うばかりで、月光に照らされた鍛え上げられた腹筋の陰影が、否応なく視線を誘う。肩にかけられた金属のショルダーガードは頼りなく思えたが、それが装飾か本気かなど、どうでもよかった。
そもそも、この女に鎧など必要ない。誰もがそれを直感するはずだ。
角と尾、それから背の翼が、彼女が常識を超えた存在であることを雄弁に物語っており……そしてその美は、畏怖と同時に抗えぬ魅力をも放っていた。
ロウは唾を呑み込み、頷いた。
「そいつはよかった。人違いだったら、どうしようかと思ったよ」
亜人の女は猫のように目を細め、唇の片端を上げて笑った。まるで旧知にでも再会したかのような軽さだ。
だが、その背後では単眼巨人が両腕で棍棒を引き戻そうと唸り、地面ごと抉っている。しかし、その棍棒はぴくりとも動かせなかった。
「……どうして、俺の名前を?」
あまりに異質な光景だからだろうか。意外にも、言葉がすんなりと出てきた。
いや、彼女の存在そのものが、ロウに安心感を与えていたのだ。
亜人の女は言った。
「同胞から、ちょいと頼まれてね」
「同胞?」
ロウには意味がわからない。
ただ、彼女は肩を竦めるだけで、話題をあっさり放り投げた。
「まあ、あたしもちょうどあんたに用事があったんだ。ちょっとした相談ついでに、夜のお茶会と洒落込みたいところだが──ここはハエが鬱陶しい」
横目でちらりと向けられた視線に、単眼巨人の一つ目がびくりと揺れる。わずかな仕草だけで、圧が伝播するのが見えた。
「ハエだって……? こいつらが?」
信じがたい言葉だった。
Sランクパーティーでも相手にならなかった化け物を、女はただの虫けら呼ばわりしているのだ。
「ああ。虫けらどもがテーブルに群がってちゃ、せっかくの紅茶が台無しだろ? ただ、生憎とあたしはストレート派だ。砂糖をご所望なら、あいつらの歯でも砕いて砂糖代わりにしてやってもいいが……どうする?」
八重歯を見せて、彼女は楽しげな笑みを浮かべていた。
ただの、ちょっと品のない軽口。それでも、この異様な光景の前では、冗談とも思えなかった。
「まあ、いいさ。積もる話は害虫駆除の後だ」
次の瞬間、彼女の細い指が棍棒の先を軽く握り直した。
ぐしゃりと木材が潰れ、繊維が裂ける嫌な音が夜気を走る。単眼巨人の眼孔が大きく見開かれ、反射的に仰け反った。
女の踵が地を蹴る。深紅の髪が炎の尾のように翻り、腰布の奥から伸びる綺麗な脚が巨体の顎先を蹴り上げた。
「そんな……バカな」
ロウの口から、吃驚の声が漏れる。
あの巨塊が軽石のように持ち上がっていた。単眼巨人が空を泳いでいるなど、あり得ない光景だ。
しかし、それでは終わらない。彼女はその巨影を追い越すように同時に跳び、月を背に両手を組んだかと思うと、ハンマーのように振り下ろす。
めり込む鈍音。地面が波打ち、衝撃で野鳥が驚いて飛んで行った。
続けざまに、彼女は空中で体勢を捻った。撓る尾がバランスを刻み、女の両膝が落雷の如く巨人の首元へと降りた。
骨の折れる嫌な音が響き……単眼巨人の全身から力が抜けていく。
(あの単眼巨人を秒殺だと……? 俺は、夢でも見ているのか?)
喉が乾く。だが、戦いはまだ終わっていない。
ミノタウロスたちが、一斉にたじろいだ。このミノタウロス・ロードは頭も切れる。劣勢になると、すぐに退路を決め込むのだ。
案の定、ミノタウロス・ロードが吠え立て、退路を指示した。闇に紛れて逃げようとしたのだが──そこで、彼女の姿が、ふっと消えた。
次に見えた時には、既に逃走方向の先頭に回り込んでいた。音を置き去りにする速さ。深紅の髪が、風に揺れながら夜の帳をほどき、彼女の周囲だけを別の舞台へと切り変わる。
「よおよお、牛コロども。あたしからケツ捲って逃げれるとでも思ってんのか?」
女が嘲笑を浮かべ、首を傾げた。
劣勢に立つミノタウロスたちに、怯えが見える。
「グモオオオオオッ!」
ミノタウロス・ロードががなり立てた。躊躇う部下に、命令を叩き込む声だろうか。
刹那、武器を握り直す音が重なり、牛頭たちが覚悟を決めて吶喊した。
女は鼻で笑った。
「こいつは笑えるぜ。牛コロにも上下関係があったなんてな。ただ──あたしに盾突こうなんざ、百年早え」
女が一瞬でミノタウロスの懐に飛び込み、その牛頭に拳を叩きこむ。鈍い音とともに首があらぬ方向に曲がり、巨躯が側転していた。
続いて、二体目の処理に取り掛かっていく。斧が振り下ろされる軌跡へ彼女の肘が短く差し込まれ、柄ごと腕が逆方向に折れていた。続けざまに悲鳴が上がるより早く、その頭蓋ごと手刀で叩き折る。
瞬く間に、死体が積み重なっていった。
その時の彼女の表情が、よりロウの視線を引く。
(あいつ……笑ってやがる)
そう、彼女は笑みを浮かべていた。純粋に戦いを楽しんでいるかのように、ただ暴力を振るう。いや、それは暴力というよりも、舞踏に近かった。
深紅の髪が血も焼け焦げも寄せつけず、炎のように踊る。まるで、彼女にとって戦いとはずっと軽いもので、ただ楽しく踊る程度のものでしかないのだと思えてくるほどに、その戦いはロウの知るものとは異なっていた。
ロウは、胸の奥で引き攣るような寒気を覚え──同時に、抗いがたい憧れに似た感情が芽吹くのを感じた。
圧倒も蹂躙も、生ぬるく思えるほどの強さ。こんな強さが、自分にあれば……そう、思わされてしまったのだ。
最後のミノタウロスを屠ったところで、女は小さく息を吐いた。
「無能な上司を持ったら、それで終いだ。労災は地獄の先でボスに請求しな……って、あれ?」
女が片眉を上げる。
そこにいるはずのミノタウロス・ロードがいない。二、三体の骸の向こう、気配がぷつりと途切れていた。
(隠れやがった!)
そうだ。あいつは、昼間もこうして部下を犠牲にしている間に、おめおめと逃げ果せたのだ
(させるかよ……!)
ロウは反射的に瞳を細めた。
途端に、夜の闇で体温が赤く浮き上がってくる。
スキル〈暗視〉――ロウが使える数少ないスキルのひとつだ。プチを従魔にして以降、知らぬ間にこうした小技が身についていた。
闇に慣れた視界で、茂みの縁に微妙な揺れを捉える。湿り気を帯びた草の葉が、一ヶ所だけ不自然に寝ていて……その中に、赤い体温がしっかりと象られていた。
「あそこだ! あそこの草の中に隠れてるぞ!」
ロウはその方角を指差した。
バレた、と言わんばかりにミノタウロス・ロードは駆け出した。
「へえ……いい目してるじゃねえか。ナイス援護だ。助かったよ」
女が手のひらを、逃げ背を晒した影へ向ける。
空気が一瞬、乾いた気がした。次いで、白熱の光球が弾丸のように走る。
〈火球〉だ。詠唱はなかった。しかし、その威力は、シーラが放ったものとは比べものにならない。
なんと、彼女は無詠唱でSランクパーティーの魔導師の魔法よりも強力なものを放ったのだ。
火の球は真っすぐにミノタウロス・ロードの背を襲い……草むらの奥で炸裂する。爆ぜる音、大気の震え、焼けた獣の臭い。悲鳴は、上がらなかった。上げる暇すらなかったのだ。
視界に残るのは、黒い影と、赤く舐める火。戦いは、終わった。
「……家畜は家畜らしく、屠殺場にってな」
女は手のひらに残る煙を消すように、ふっと息を吹きかけた。
ロウは呆然と腰を落とした。喉が音を忘れ、胸の鼓動だけがやけにうるさい。
圧倒的な虐殺劇。
恐怖がある。畏怖がある。だが、それでも目を逸らせない。
守るものの前で立ちはだかるべき『強さ』とは、こういうことなのかと、思い知らされた。
女が、こちらを振り向く。そのままロウの目の前まで歩み寄り……手を差し出した。
「夜の乱痴気騒ぎはこれで終いだ。さあ、約束のお茶会といこうぜ。テーブルクロスは血染め、キャンドルは骨。最高にロマンチックだろ?」
血飛沫ひとつ纏わぬ笑みを浮かべて、彼女は言った。
深紅の髪が夜風に舞い、黄金の瞳が月明かりを弾く。
血と死の匂いの中で差し出されたその手だけが、不思議なほど清らかに見えた。
ロウは息を呑み──その手を取る。
こうして、ふたりの物語は始まったのだ。