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番外編 落ちぶれ女の終焉

 夜明け前の風は、石畳の隙間に溜まった冷えをそのまま舌に乗せて吹き上げてくる。路地の奥で誰かが桶を蹴ったのか、水がざぶりとこぼれて流れ、薄暗がりの中で鈍い帯になって足元を横切った。

 少し離れた方角から、乾いた犬笛の音が二度、短く鳴る。応える吠え声は一度だけ。すぐに、町はまた眠ったふりを再開した。


(もうこの町にはいられないわよね……)


 シーラは肩を竦め、外套の襟を指先でつまんだ。白い指は、夜気でほんのり赤い。

 やってしまった。ついカッとなってしまって、シーラはもう後戻りができない状況のことをしてしまった。

 虚偽報告──ガリウスが、借金を踏み倒して夜逃げする気だと査定官に伝えたのだ。


(だって、仕方ないじゃない。あんなインポ野郎なんかと一緒に借金地獄なんて、御免だわ)


 シーラは心の中で毒を吐く。そう思うことで、胸の中で苦い膜が少し薄くなる気がした。

 実際に、ガリウスはもうダメだと思う。剣を握る気もないし、夜の方も使い物にならなかった。もはや心が折れている証拠だ。あんな男と一緒にいれば、こちらの心まで折れてしまう。いや、もう一緒にいる価値さえなかった。


(私は間違ってなんかない。そもそも、嘘かどうかなんて、誰にもわからないしね)


 シーラは自分にそう言い聞かせた。

 そう、間違ったことは言っていない。あくまでも可能性の話である。

 あのガリウスがいつまでこんな生活に耐えられるわけがない。少なくとも、彼が夜逃げする可能性は間違いなくあった。


「そう、可能性よ。私はギルドにそれを教えてやっただけなのよ」


 独り言は、路地の壁に吸い取られていった。

 周囲は暗い。空は生乾きの灰色で、東だけがわずかに薄かった。町が目を開けるまで、まだ少しかかりそうだ。


(毎日毎日スライムのドブ掃除なんて、やってられるわけないじゃない。ここでこんな暮らしをさせられるくらいなら、新天地でやり直したほうがマシよ)


 そう、きっとどこかに、自分を正しく評価してくれる場所がある。こう見えて魔導師としての素養は確かだし、顔だって悪くない。いくらでもやり直せる──はずだ。

 ただ、問題がひとつあった。


(どこかに行くにも……お金がないのよね)


 宿を飛び出してから、ほとんど考えもせずに歩き続けた。

 いつもなら慎重に手順を踏む自分が、今夜に限っては足の向くまま。薄い財布と、昼のうちに売り払った装身具の残り銭。背には、着替えがひと包み。寝泊まりする場所もあてがなかった。


「あら……?」


 石段を下りると、表通りに出る手前の角に灯りがひとつ、揺れていた。小さな携行灯。持ち主は背の高い男で、白衣を纏い、肩に革の書板を下げている。月のない闇に白はよく目立っていた。


「お困りですか?」


 男の声音は柔らかく、手元の灯りが顔の下半分を温かく照らしていた。黒目がちの瞳が、冷えた空気越しにも濡れて見える。


「……誰?」

「ギルド医務院の派遣です」


 白衣の胸元で、細い鎖に通された小さな金具が光った。紋章は、見覚えのある天秤──ギルドのものに似ている。似ている、けれど、同じかどうかまでは、シーラの目は確かめようとしなかった。『ギルド』という単語が耳に入った瞬間、肩から力が落ちたのだ。


「ギルドの人が、こんな時間に何してるの?」

「宿を失った冒険者に休養所を斡旋しているんです。仮眠と入浴、軽い粥、医師の問診が受けられます。明るくなるまでの間だけでも、どうですか? 顔色が優れないご様子ですが」


 事務的な口調だった。書板を片手に、項目をなぞるような話し方。それは、受付で聞くそれに似ていた。

 高圧でも、馴れ馴れしくもない、仕事の声。

 警戒心は、確かにあった。だが、『ギルド』という言葉と白衣、それからその話し方は、今のシーラの信用には十分だった。


「私は平気よ」

「平気な人は、夜明け前に荷を背負って路地に立ち尽くしたりはしません。〝マッドドッグ〟のシーラさん、ですよね? あなたのように優秀な方を、ギルドが放っておくわけないじゃないですか」


 優秀、という二文字が、胸の真ん中に落ちる。

 そこだけがじん、と温かい。誰も言ってくれなかった言葉だ。最近は特に。


「……本当に、ギルドの派遣施設なの?」

「ええ。すぐそこです。歩いてすぐ」


 灯りが、道の先をやさしく切り取り、彼の白衣の裾を縁取った。

 シーラは息を飲み、こくりと頷いた。


「じゃあ……案内して」


 男は礼を取り、先に立った。裏通りを一本、それからさらに一本。馴染みのない角を折れると、街外れに近い緩い坂道に出た。

 夜明けの色が少しだけ強くなっていて、家々の影が青みを帯びる。

 やがて、板壁に『医務院』と墨文字で書かれた古びた建物が現れた。入口には薬草を干す棚。棚からは馥郁とした乾いた匂いが流れてくる。扉の横には木製の十字架。見慣れた意匠で、安心できた。


「こちらです」


 男が扉を押し開けた。

 中は静かで、薄い灯火がいくつかある程度。簡素なベッドが並び、帳面が積まれ、棚には包帯や瓶が整然と置かれていた。草の匂いと煮た粥の匂い。どこにでもある医務室の匂いだった。


(ようやく、まともな場所にありつけたわ……)


 シーラの肩から、さらに重さが抜けた。


「ここで少し休んでください。手続きはあとで。外套をこちらへ」


 白衣の男は、奥の小部屋を示した。


「ありがとう」


 シーラは外套を手渡し、示された寝台の縁に腰を下ろした。薄い布団。木の脚が床板をきしませる。

 ふと、部屋の隅のもう一つの寝台に目が行った。そこには先客がいた。髪を顔に垂らし、俯せに横たわる女冒険者。外套は掛けられておらず、袖から覗く腕は青白い。


「……大丈夫?」

「あ、う……」


 シーラが問いかけると、女は小さく呻いた。

 目は開かない。唇が乾いて、ひび割れている。水の椀が床の近くに置かれていたが、手が届かないらしい。シーラは無意識に椀を取って女の唇に当てようとした。

 すると、白衣の男がすっと横から手を伸ばす。


「寝ている間に水を流し込むと、むせますからね。ありがとうございます」


 男は穏やかに礼を言い、椀を棚に戻した。

 棚の上に、鉄の鎖が畳まれているのがちらりと見えた。輪と輪を繋ぐ鎖は、治療用の器具に似ている。手術の際、四肢を固定するためのものだ。冒険者なら誰でも見たことがある。


(治療用ね。よくあるやつ)


 シーラは自分で自分に頷き、寝台に背を預けた。

 藁の下に板があり、固い。眠れるかどうかは知らないが、ひとまず横になれるだけでも十分だ。こんな時間に保護してくれる場所があるなら、まだ世界はそれほど捨てたものじゃない。


「失礼。消毒だけ」


 白衣の男が、薬布の包みを持って戻ってきた。

 草の匂いの中に、刺すような揮発の匂いが混じっている。


「なにそれ?」

「喉の炎症予防です。最近、下水の依頼をこなしていたのでしょう? あそこは病原菌の棲まいですから。風邪をひいては、元も子もありません」

「まあ……確かにね」


 彼はギルドの人間で、ここは医務院だと表示されている。棚の瓶には、見慣れた薬草のラベルが貼られていた。それに、シーラたちがどんな依頼を受けているのかも知っている。

 疑う理由は、どこにもなかった。


「口を、少し開けてください」


 言われた通り、口を開けようとした。その瞬間、男の手首が素早く返り、薬布が口元に押し当てられた。


「なっ!? ちょっ──ッ」


 鼻孔に強い匂いが流れ込む。頭の奥で火花が弾けるように、視界が白んで、すぐに黒へと落ちていく。

 体を起こそうとしたが、肩を押さえる手は思っていたよりもずっと強かった。指先に魔力を集める暇もなく、白衣の袖が目の前で淡く揺れ、天井の梁が遠ざかっていく。


(ガリウス──助け、て……)


 最後に思い浮かんだのは、そんな短い言葉だった。


       *


 揺れで目が覚めた。固い板の上に転がされている。腹に食い込むのは縄。両手首は後ろ手にして鉄の枷で繋がれていた。肩がじんじんと痺れて、肘の内側が冷たい。

 中は薄暗い。窓は塞がれているらしく、光は入ってこなかった。馬車の車輪が凹凸を乗り越えるたび、壁がきしみ、鉄が鳴る。息をするだけで、乾いた埃が喉を引っかいた。


「ここ……どこなの?」


 自分の声が思っていたよりも弱くて、情けなく響いた。

 すぐ近く、同じ板の上に誰かがいる気配を感じた。微かな体温と、女の匂い。甘くはなかった。疲れと恐怖の匂い、というのだろうか。

 目が暗闇に慣れてくると、同じように手枷をはめられた女が三人、見えた。誰もこちらを見ない。いや、目に生気がないのだ。俯いた顔は影の中で均されて、年齢もわからない。

 外から男の声が、聞こえてきた。


「最後の女もいい値で売れるぞ」

「顔は整ってるし、まだ若いからな。最後の最後に、いいものが手に入った。待った甲斐があったぜ」


 喉の奥が、嫌な音を立てて震えた。胸の中に重い塊が落ちる。空気が薄くなって、指先が汗ばんだ。


「あ、開けなさいよ! 私を誰だと思ってるの!? 私は冒険者ギルドの──」


 喚いた声は、板に吸い込まれて消えるだけだ。

 外の男たちは笑った。


「ギルドだってよ。聞いたか?」

「ああ。あの白衣に引っかかる奴は、大体そう言うんだよなぁ」


 笑いは短く、すぐに消えた。

 馬車は速度を落とさない。何度か大きく右に曲がり、坂を下り、また上がった。どこへ向かっているのか、見当もつかない。


(落ち着け、私ならやれる。喋れるなら、詠唱だってできる。こんな手枷ぐらい、魔法でどうとでも──)


 指先に魔力を込めた。しかし──魔力が一切、発生しない。

 そこで、はっとする。今シーラの腕に付けられているのは、封魔の魔道具だ。これをつけられると、魔法を一切行使できない。


「た、助けなさいよ! 誰か!」


 叫ぶと、向かいの女がぴくりと肩を震わせた。だが、誰も返事はしない。外からも応答はなかった。

 馬車は一定のリズムで揺れ続ける。まるでどこへも行かないまま、永遠に揺れる箱に閉じ込められているような感覚だ。


「開けろって言ってるのよ、このクソ野郎!」


 枷が擦れて手首の皮膚が痛んだ。金属の冷たさが肉に貼りつく。怒りは恐怖の薄布の上で滑って、すぐに消える。

 苛立ちで胸が熱くなるのに、指先は氷みたいに冷たかった。

 外の男たちは、何かを数えていた。荷の数か、取引の額か。


「港まではあと二刻だ」

「船は昼の満潮で出す。まだ間に合うな」


 港、という言葉が、膝小僧から上へ這い上がるようにしてシーラの皮膚を撫でた。

 港へ出たら、海に出る。その先は……。


(いや、そんなはずないって。私は悪くないし。私は──何も、悪いことなんてしてないじゃない!)


 舌先に、知らない苦味が広がる。脳の奥が少しずつ熱を帯びていくが、上手く考えがまとまらなかった。まとまらないままで、言葉が漏れる。


「私が何をしたっていうのよ! 私は悪くない! 何でこんな目に遭わなきゃいけないのよ!? ねえ、出して! 私と寝たいんだったら相手してあげるから、出しなさいよ!」


 叫びは、厚い板にぶつかって戻り、暗闇に吸い込まれていく。返ってきたのは、荷馬車の床下で鳴るささやかな軋みと、外の男の短い吐息だけだった。


「うるせえな。まあ、客の前で口が利けるなら、それはそれで値がつくってか」

「やめとけ。声の良し悪しを決めるのは俺らじゃねえ。買い手だ」


 足元で、別の女が嗚咽を飲む音がした。布で口を塞がれているのか、泣き声は喉の奥で潰れ、湿った空気になって漂う。

 馬車が大きく揺れて止まった。扉が外から外され、軋む音とともに、隙間から細い光が差し込む。

 夜明けの光はすでに色を持っていて、塵の粒をいくつも輝かせた。

 シーラは目を細め、光を睨んだ。光は、何の答えも持っていない。ただ、狭く、冷たかった。

 扉が半分ほど開く。外の空気が流れ込んで、潮の匂いを運んできた。

 遠くで、犬笛がまた二度、鳴る。応える吠え声は、やはり一度だけだった。

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