番外編 落ちぶれ男の終焉
翌日も、その次の日も、ガリウスたちの状況は変わらなかった。
朝いちでギルドへ行けば、まともな札はすでに剥がされている。残るのは下水清掃のスライム剥がし依頼だけ。今は低級の魔物があまりいないのか、魔物討伐依頼そのものが少なく、毎日が奪い合いになっていた。そして、奪い合いの一番後ろにいるのが、〝マッドドッグ〟だ。
日銭は心許ない。銅貨が掌でからからと鳴るたび、指の皺の間を抜けていくように減っていった。
邸宅を売ったので賠償金はかなり賄えたが、それでもまだ足りない。足りない分は依頼の報酬から差し引かれているので、残るのはその日暮らし分のみだ。安い飯を胃に入れて風呂に入って寝泊りできる、ギリギリの金額。
肉体の疲れは夜に沈むが、金銭不足の悩みは朝になっても抜けなかった。魔物が大量発生でもしない限り、〝マッドドッグ〟にまで金回りのいい依頼は回ってこないだろう。
その日も、結局は下水清掃のスライム剥がしだった。長靴の口からしみ込んだぬめりが足首にまとわりつき、棒で剥いだスライムの袋は重いのに、受け取った報酬袋は、情けないほど軽い。
湯屋でざっと臭いを落とし、銅貨を二枚失い、さらに軽くなった財布を指でつまんで宿へ戻る。
階段を上がる足取りは鉛のようだった。扉を押し開けると、部屋は薄暗い。敷き藁が湿り、机の上の銅貨が心許ない明るさで光る。
どれほど働いても、日が変わればまた雑用の列の最後尾。進んでいるのか、すり減っているだけなのか、もう自分でもわからなかった。
椅子に腰を落とすと、背骨がきしんだ。息を吐く。鉄の味は、とうに勝利のものではなかった。
しばらくの沈黙が、部屋の天井に張り付いた。外の路地を走る子どもの足音が遠のき、そこへ薄い風がカーテンをこすった。
シーラは寝台の端で背を向けたまま、目を閉じていた。
あの夜以来、彼女とはまともに話していない。ただ無言で過ごすだけの日々。仕事中も、殆ど話していなかった。
だが、今日はその肩の筋がぴくりと震え、やがて布団の皺が苛立つようにうねった。彼女は振り返り、濡れた髪を払い、じっとこちらを見た。
「ねえ。私、もうこんな惨めな生活やってられない」
シーラが言った。
以前にも似たような言葉を聞いたことがある。だが、今日のはさらに棘が増えている気がした。
ガリウスは、窓の外の夜の黒を睨み、言葉を返す。
「俺だって好きでこうなったわけじゃねえ」
吐いた息は、鉄の味がした。下水の酸と汗と、古びた鍛冶場の土埃が、全部ひとつに混ざったような味だ。
返答の代わりに、布の擦れる音。寝台の端に座り直したシーラが、白い指先で乱れた髪を梳く。
「てかさ……もう無理だと思うんだけど」
シーラの瞳は暗く、冷えていた。
その瞳に、思わずぎくりとする。
「無理って……何がだよ」
「全部よ。この前の夜だってそう。せっかくその気になってくれたと思ったらスライム棒って。私ってそんなに魅力ないわけ? 一応、そこらの男の誘い全部断ってあんたの傍にいたつもりだったんだけど」
「そ、それは俺が疲れてたからで──」
「そう? その割に、あれから全然求めてこなくなったけどね。疲れだけじゃなくて、使い物にならなくなってるだけじゃないの?」
胸の奥で、何かがきしむ。
ガリウスは振り返った。声を荒げる前に、喉が先に焼けた。
「それは言い草が過ぎるぜ。俺は、本当に……」
「言い草? じゃあ言ってやるわよ、はっきりとね」
シーラは立ち上がり、荒く息を吐いた。
白い指先が、もう一度、刃物のように向け直される。
「あんたがリナなんかに入れ込むからこうなったのよ! あんな女入れてなかったら、私たちは最強のSランクパーティーでいられたのに!」
痛烈な批判だった。
それは、ここ最近ガリウス自身も心の奥底で感じていた。
そう。〝マッドドッグ〟の過ちは、リナとロウを加入させたこと。これ以外になかったのだから。
だが、そんな言い分を今認めるわけにはいかない。少なくとも、今だけは。
「あ、あん時は前の治癒師が抜けて、優秀な人材が他にいなかっただろ!? リナがテイマーのクソ彼氏も一緒じゃないとっていうから一緒に入れるしかなかった。それは話したじゃねえか!」
返しながら、自分でも言い訳だとわかっていた。
最初の一手を誤ったのは、ガリウス自身だ。リナの噂を聞きつけ、彼女を見た瞬間、一目惚れした。ロウと付き合っていようが、腕が確かであれば引き抜いてやろう。あの女の笑顔をこちらに向かせればいい。そう思ったのだ。
「はっ、どうだか。最初っからデレデレしてたじゃないの」
シーラは、そんなガリウスの本心を見抜いたように鼻で笑った。
それにはさすがにガリウスもカチンとくる。
「は、はあ!? 何言ってやがんだ! もとはと言えば、お前があの野郎の従魔をブチ殺したのが原因じゃねえか! あれのせいで〝黒の森〟でだってああなって──」
「言い訳なんて聞きたくない。それだって、もとを糺せばあの女欲しさにふたりを入れたからでしょ。私にしとけばいいのにさ、何であんなのがよかったわけ? 惚れられてたわけじゃなかったじゃない」
「ぐっ……」
喉の奥が詰まり、言葉が途切れた。
自分が不利な話題は『言い訳』で済まし、攻撃だけを向けてくる。こういうところの性格の悪さを感じ取っていたからこそ、ガリウスはシーラに手を出さなかったのだ。
しかし、シーラの追い打ちはまだ続いた。
「あいつだって、本当はあんたのこと好きでも何でもなかったんでしょ? ただ身体だけの関係で、あの女はずっとロウのこと好きだった。そんなの、傍から見てればすぐにわかるわよ? それなのに必死こいて略奪したふりしてさ、ロウの前で見せつけようとして。惨めじゃないの? どうせ夜の方も、あの女を満足させられてなかったんでしょ? そのスライムみたいな棒で満足できる女なんていないものね」
「て、てめええええ!」
拳が勝手に上がった。拳は空気を切り裂き、シーラの頬まであと指二本分のところで止まった。
そこで止めたのは、理性ではなく、頭の奥で鳴り出した警鐘だ。私闘は一発退場。既に、パーティーメンバーの救難義務違反で罰せられている。パーティー内で揉めたなら、ギルドは余計にガリウスの評価を落とすだろう。
シーラもそれがわかっているのか、強気な姿勢を崩さない。
「殴るの? いいわよ、殴りなさいよ。そうしたら私、ギルドに言ってやるから。そしたらあんた、終わるよ」
「くそが……!」
その通りだ。ガリウスは拳を下ろすしかなかった。
シーラは鼻で笑うと、寝台の脇に置いていた袋を手繰り寄せる。それから、中身を荒っぽく放り込み始めた。装飾の取れた留め具が、乾いた音を立てる。
「おい、どこ行くんだよ」
「もうこんなとこで寝れやしないわ。挿れもできないものこすられて夜這いされるのも迷惑だしね。他で寝れる場所探しにいくわ」
「なっ──か、勝手にしろ!」
口だけが先に走り、残った体温は膝の裏から抜けていく。
シーラは振り向かずに扉を開け、夜の廊下へ消えた。扉の蝶番が、ひゅっと短く鳴る。
その日の夜はやけに長かった。窓枠の木は、額の汗を吸い切れず、冷えと温さを交互に返してくる。
ガリウスは、枕に背を預けることすらできなかった。目を閉じれば、シーラの表情が瞼の裏に突き立つ。
(戻ってくる。どうせ、あいつは戻ってくる。あの女だって、他に居場所なんてないんだからな)
何度もそう言い聞かせた。
だが、廊下の向こうから聞こえてくる足音は、どれも彼女のものとは違った。隣室の酔客が床を踏む音、宿の主が桶を運ぶ音、夜明け前に起きる職人の靴音。
シーラの軽い足取りは、一度も戻ってこなかった。
*
その翌朝は、気配で目が覚めた。シーラが戻ったわけではない。
扉が二度小さく叩かれ、間を置いて、金具が鳴る。宿の主人の影に続いて、もう何人かの足音がした。
扉を開けると、灰色の上衣を着た男が立っていた。薄い眼鏡、淡々とした口元。査定官だ。
その背後には、護衛の冒険者が三人。いずれも見覚えのある顔だった。確か、Aランクパーティーの連中だ。
喉が鳴った。胃の底の冷えが、背骨を伝って上がってくる。まともな状況ではないことは、すぐにわかった。
「よ、よぉ査定官さんよ。なんだよこんな朝っぱらから」
ガリウスは体を起こしながら、剣へ視線を走らせる。
査定官は一歩だけ踏み込み、書板を胸の前で開いた。
「昨晩、シーラさんから密告がありました。ガリウスさん、あなた、借金を踏み倒して逃げるつもりだそうですね?」
言葉が乾いた杭のように床へ刺さった。意味がわからない。どこからそんな話が出たのか、想像もつかなかった。
ガリウスは思わず声を荒げる。
「な!? そんなこと、俺はしようとしてない! 今日だってDランクの雑用をするつもりだった!」
「私どもは、申告を無視できません。ギルドでも、今のあなたならやりかねない、という意見でまとまっておりますので」
淡々とした抑揚のない声は、怒鳴り声よりも厄介だ。護衛のひとりが前へ出て、剣へ視線を落とす。
査定官が指先で合図すると、赤い布札が差し出された。
「念のため、仮差押えを」
査定官の指示に従って、背後の男たちが部屋の中に踏み込む。
ガリウスの剣は、寝台の脇に立てかけてあった。唯一、手放せなかったもの。剣士としての誇りだ。
「ま、待てよ! 待ってくれ。それだけは……それだけはッ」
言い終わる前に、柄に赤い布が結ばれた。小さな札がひとひら、赤に縁取られて揺れる。
札の角が、わざと鋭く切られているのかと思うくらい、目に痛かった。
「返済の目処がつくまで、こちらはギルドで預からせていただきます。使用ももちろん不可能です」
査定官はそれだけ言い、筆先で帳面に印をつけた。
「なっ……じゃあ、俺はどうやって魔物と戦えばいいんだよ!」
「それは私の知ったことではありません。武器屋で剣を買えばいいのでは?」
後ろの冒険者たちが、「当たり前じゃねえか」と鼻で笑った。
その日暮らしがやっとの今に、剣を新たに買う余裕などあるはずがない。買えたとしても、一番安いナマクラ剣が限界だ。皮膚や鱗が硬い敵なら、先に剣の方が折れてしまう。
「……シーラは、どこ行きやがった」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
査定官は眼鏡の縁に指を添え、短く答える。
「お答えする義務はありません」
査定官はそれ以上は言わなかった。だが、それで充分だった。シーラは、本当にガリウスから離れたのだ。
扉口に退いた査定官が、ガリウスの剣を持ったまま姿を消す。護衛もその後順に部屋から出ていき、最後に宿の主人が申し訳なさそうに会釈してから扉を閉めた。
部屋に静けさが戻る。窓の外から、遅れて鍛冶場の槌音が、また一発鳴った。
部屋には、静寂だけが残っていた。
寝台の片側は、昨夜からずっと空いたままだ。そこに置かれていた袋も、女性物の小物もない。
(あいつは……俺を、裏切ったのか……)
地面に落ちた赤い札の前で、がっくりと項垂れる。
その時、ふと自分が吐いた嘘が脳裏を過った。
『よ、予想外の敵に囲まれたんだ! でも……ロウとリナが自分たちが囮になると志願してくれた。俺たちは、そのお陰で生き延びられたんだ!』
ロウとリナの死を、あの一言で処理した。死人は反論しないと思って、都合よく並べた言葉だ。
今、それと同じ種類の言葉が、こちら側へ飛んできている。シーラから放たれた矢は、真っすぐガリウスの胸に突き刺さった。
そして同時に、頭の内側で別の女の声が蘇ってくる。
『嘘はね、必ず自分に返ってくるものなの。私は、お祖父ちゃんからそう教わったわ』
それはリナの声だった。彼女との夜伽は多くはなかったけれど、唯一、そんなことを言っていた記憶がある。
自分はあの時、何と返しただろうか?
そうだ。確か、こう返した。
『嘘は、バレなきゃ真実なんだよ。死人の嘘は、誰も見抜けやしねえ』
リナは『……そういう考えも、確かにあるわね』とだけ呟いて、ガリウスに背を向けた。
あの時は何とも思わなかった。今もそう思っている。
まさか……その嘘が自分に返ってくるなど、誰に想像できようか。
ガリウスは、ゆっくりと立ち上がった。足裏に、床板の節の感触。指の骨が微かに鳴る。
窓を半ばまで開けて、小さくぼんやりと景色を眺めた。
朝の空気が入ってきて、頬の痕を撫でる。痛みは薄くなっているが、ずきりと別の痛みを感じた。
遠くで犬が一声、短く鳴いた。誰かがからかうように口笛を返す音が続く。笑い声が、路地のほうへ流れた。
「何でだよ……何で、こんなことになっちまったんだよぉ……」
何もない部屋、誰もいない部屋の中に、男の啜り泣きが響いた。
残ったのは、ひとりぼっちの負債者。宿の壁は薄く、街の音はやけに遠い。
〝マッドドッグ〟はこの日、完全なる終焉を迎えたのだった。




