第3話 絶望と、微かな救済の予感
(無茶だ……ひとりで切り抜けられる相手じゃない)
リナの背を見て、ロウは歯を噛みしめた。
さっきまでの戦いで思い知ったばかりだ。単眼巨人と、ミノタウロス・ロードの連携は、準備も隊列も整わない奇襲下では、ほとんど理不尽に等しかった。
Sランクパーティー〝マッドドッグ〟がフルメンバーでも、まともに打ち崩せなかった。準備が整っていても勝てていたかどうかは怪しい。
それに、リナは有能と言っても本来は後衛のサポート職。前に出て勝てるはずがない。これは、ただの無駄死にだ。
(くそッ……せめて俺が動ければ!)
足を動かそうとするが、未だにぴくりとも反応しない。足首に巻きつく〈拘束魔法〉の鎖は、まだ冷たくロウの足を絡めとっていた。膝が土に沈み、焦りが胸をせり上がる。
「リナ、頼むよ! 頼むから、逃げてくれ! もう俺のことなんかいいからッ」
喉が裂けるほど叫んだ。
それでも、リナは振り向かない。肩幅の狭い背中が、月の白光を受けて震え、なお前へと進もうとしていた。
「光の女神ファシエルよ……我に光の加護を」
短い祈りが、夜気に溶けた。
リナの足元に淡い輪が生まれ、薄布のような光が身を包む。
防御系の〈加護〉と、自身にかける〈強化〉が重なっていた。治癒師が自分に纏うそれは、前衛や弱き者を庇うための薄い盾でしかないのに──彼女は逃げる気など、欠片も持っていないのだ。
ミノタウロス・ロードは、鼻面から荒い息を吐き、嗜虐の笑いで牙を見せる。取り巻きのミノタウロスたちも、斧を肩に担ぎ、にやにやと眺めるだけで近寄ってこなかった。
完全に、舐められている。いや、嬲り殺しにする気なのだ。
昼間、自分たちが追い詰められた屈辱を、何倍にもして返すつもりで。
(何でだよ……何で逃げないんだよ!? 俺のことなんかどうでもいいから、ガリウスと付き合ったんじゃないのかよ……!)
胸の内で毒のような叫びが渦巻く。
理解できない。どうしてだ。どうしてここまでして、彼女は頑なにロウを守ろうとするのか。さっぱり意味がわからない。
単眼巨人が、地を踏み鳴らして一歩、また一歩と近づいた。大地が低く唸り、枝葉が振動でざわめく。ひとつしかない大きな眼が、ぎょろりとリナを射抜いた。
「光の女神ファシエルよ……光りて敵を蹴散らせ!」
リナの手のひらに光が凝り、眩い球となって飛翔する。
神聖魔法の〈光球〉だ。〈光球〉は一直線に単眼巨人の顔面──巨大な眼球へと吸い込まれ、白い閃光が弾けた。その眩さに、巨体が半歩、仰け反る。
その隙を見逃さず、リナは足指で土を掴むように踏み切り、跳び上がった。
「はああああああッ」
悲鳴のような気合が夜を震わせ、鉄槌を振り被る。
だが──その柄が眼前に迫るより早く、黒い影が横から差し込まれた。単眼巨人の棍棒が、音速で横薙ぎに走る。
「がっ……ッ」
鈍く、骨の軋む音とともに、リナの細い身体が小石のように宙を吹っ飛んだ。
鉄槌が彼女の手から離れて、草むらに消えた。その次の瞬間には大木の幹に背中から叩きつけられ、葉がざわめいて降りかかる。
距離にして十数歩。人間の体重など、巨人にとっては投げ捨てる小石に等しい。
「リナ~~~~~~!!」
ロウの喉が裂けた。返事はない。地面に崩れたリナの身体は、痙攣するように指先がわずかに動くだけだった。
肩の関節が不自然に曲がり、胸が掠れるように上下していた。息はもう、途切れ途切れだ。
ひと振りで、祈りごと粉砕されてしまった。防御や強化の祈りなど、圧倒的な膂力の前にはまるで意味をなさないのだ。
のし、のし、と単眼巨人がゆっくりと歩を進める。ミノタウロス・ロードは腕を組み、部下は肩で笑いながら見物するだけだ。逃げ場など与えるつもりはない、という余裕。リナを嬲り尽くしてから、最後にロウを踏み潰すつもりなのだろう。
「クソ、クソッ! さっさと外れろよ、この鎖!」
爪が食い込むほど足首の鎖を掴み、魔力を逆流させる。歯を食いしばったその瞬間、縛っていた冷たい感触がふっと緩んだ。〈拘束魔法〉がようやく解けたのだ。
「リナ!」
ロウは土を蹴った。単眼巨人の足元を掠めるように走り抜け、リナのもとへ膝から滑り込む。
「おい、大丈夫か!? 立てるか!?」
肩に手を回し、身体を起こそうとする。
リナの睫毛が微かに震え、唇の端から濃い血が溢れて、顎を伝った。
ダメだ。きっと、肋骨が折れて内臓に刺さっている。とてもではないが、走って逃げるなど不可能だ。
彼女は喉の奥で咳き込み、ようやく瞼を開く。
「ロウ……ごめん、ね?」
耳を寄せなければ届かないほどの、細い囁きだった。
「私のお祖父ちゃんのせいで……こんな、危険なこと、させちゃって。嫌な思いも、たくさんさせちゃって……ごめん」
「何を……何を言ってんだよ、こんな時に! 頼む、早く自分に〈治癒魔法〉を掛けてくれ。あいつら、余裕ぶっこいてるから逃げようと思えばまだ何とかなる!」
焦りで言葉が暴れる。正直、何とかなるかどうかは怪しかった。でも、最後まで生きることを諦めたくない。
しかし──その願いは届かず、彼女の瞳の焦点が合う気配はなかった。身体に力が戻る気配も、もちろんない。
「ロウに……つらい思い、してほしくなかった。もう、ロウが、酷いことされてるの……見て、られなかった。だから……私と別れたら、出ていって、くれると、思ってたのに……ッ」
それは懺悔の独り言のように、途切れ途切れに零れた。
熱いものが、ロウの胸の内側で破裂する。知らなかった。知りたくなかった。まさか、ロウを守るために、ガリウスと付き合っていただなんて。身を捨て、心を捨て、彼女はロウを守ろうとしてくれていたのだ。
涙がリナの目尻に溜まり、月の光で震えた。
「お祖父ちゃんのこと、諦めて……お金なんて稼がなくて。あの町にいたら、私たち……きっと、それで幸せ、だったのにね……? 私の我儘に、付き合わせて……ごめん」
冷たい指が震えながら上がり、ロウの頬を撫でる。微かに、微笑んだようにも見えた。
「ロウ……? 私、あなたのことが──」
リナは何かを言い掛けた。
だが……その言葉を言い切る前に、ぽとりと手が落ちる。まるで糸が切れた操り人形のように、力を失っていた。彼女の身体から力が抜けて、ずしりと重みが加わってくる。
「リナ……? おい、リナ!! 何寝てんだよ! そんなことはいいから、さっさと自分を治療しろよ!」
返事はない。脈を確かめようと手首を掴む。鼓動は、あまりにも弱い。呼吸はある。けれど、このままでは、すぐにでも……。
背後から、地面の底を拳で叩くようなどしん、という振動が押し寄せた。影が、すべてを覆う。
単眼巨人が、仁王立ちでロウたちを見下ろしていた。後ろには、ミノタウロスたちがだらだらと列をなし、血に飢えた笑い顔を並べる。
「く、くそ……くそが! ふざけんな、お前らに殺されて堪るかよ!」
ロウは立ち上がり、腰の剣を引き抜いた。足の震えを押さえ込み、単眼巨人の腰と太腿に向けて全力で斬りつける。
「ちくしょう、どっか行け! リナに、リナに近寄るんじゃねええ!!」
何度も何度も斬りつけた。
刃が風を裂き、確かな手応えと共に当たるはずなのに──感触が、ない。皮膚を切り裂いた抵抗さえもなかった。
まるで巨大な革の盾を薄紙でなぞっただけのように、刃は弾かれ、火花すら散らない。単眼巨人は首を傾げ、一つ目をぱちりと瞬かせた。後ろのミノタウロスたちは、下卑た笑いをこぼす。
単眼巨人の大きな手が、ふっと伸びた。次の瞬間、ロウの剣の刀身が、その手のひらに鷲掴みにされる。金属が悲鳴を上げる間もなく、握力だけでゆっくりと、確実に、潰されていく。
パキン──乾いた音が森に響き、刃が二つに折れた。残った柄の重みが、哀れに手のひらへ落ちる。
「あ、ああ……」
視界の端が、暗く沈んだ。絶望が形を持って胸に圧し掛かる。本当に、どうにもならないのだ。この世界の何を捧げても、今この状況は覆らない――。
(それでも……!)
ロウはリナの前へと歩を進め、仁王立ちになった。
両腕を大きく広げ、巨人と彼女の間に、布切れのように頼りない自分の身体を差し出す。
守れないのは、もうわかっている。だが、それでも、一瞬でいい。棍棒が彼女に届くのを、ほんの一拍でも遅らせたかった。その一拍の間に、何か奇跡が起きるかもしれない。そんな愚かな期待を、最後まで捨てたくなかった。
単眼巨人が、棍棒を頭上に掲げた。月の光を浴びた木目が、冷たく白んでいる。振り下ろされれば、肉も骨も区別なく砕けるだろう。逃げ場は、もうなかった。
(ちくしょう……ちくしょう。誰か、誰か助けてくれよ! 何でもするから……誰か、誰か!)
目を瞑る。声にならない祈りが、喉を上下させた。
ここは〝黒の森〟深くだ。助けなど来るはずがない。ガリウスたちが助けに戻ってくるはずもなかった。
意味のない願いだと、知っている。祈ることだけが、ロウに許された最後の抗いだった。
空気が裂ける音。棍棒が落ちてくる風圧が、皮膚にぴりぴりと刺さる。
終わりだ……そう、確信した。
しかし、その時──目の前で巨大な何かがぶつかった轟音が鳴り響いた。
棍棒が振り下ろされ、ロウの身体を砕かれたのだと思った。だが、痛みはまだない。いや、むしろ即死したのだろうか? そんな理解の方が、早かった。
恐る恐る、瞼を上げる。
「え……?」
最初に視界に飛び込んできたのは、夜の闇でも鮮烈に映える、深紅の長い髪だった。緩やかな癖を帯びて波打ち、月光を受けるたび炎のように揺れ、視線を奪う。
目を奪われる一瞬で、ロウはそれが女のものだと理解した。
背丈はロウと同じかそれより少し低いくらい。決して大きくはない。それにも関わらず、そこに立つ姿は、圧倒的に大きく見えた。
そう……それはまるで、竜を彷彿とさせるかのように。
ロウがそう思ってしまったことには、理由があった。それは、彼女が持つ特徴だ。
尖った耳の上、左右対称に黄金色の角が生えていた。腰のあたりからは、鞭のようにしなやかな竜の尾が伸び、地面を撫でる。肩甲骨の辺りには、一対の小さな黒い翼。
(竜人族……? いや、違う)
彼女の持つ特徴は竜人族のものに酷似しているが、その輪郭はどちらかというと人間に近い。
そして、彼女は……片手で、単眼巨人の棍棒を受け止めていた。まるで傾いた柱に、そっと支えの手を添えるみたいに。巨人の筋肉が縄のように盛り上がるのに、女の腕は微塵も震えない。足は一歩も退かず、土に浅く靴先を沈めただけだった。
女が、ゆっくりと振り返った。
鋭くも美しい黄金色の瞳が、まっすぐロウを捉える。目が合った瞬間、胸の中の喧噪が止まり、音が吸い込まれていくのを感じた。
美しい、と思った。気付けば息すら止めていたほどに。
女の唇が、にやりと上がった。
「よお……あんたが〝ロウ〟で、間違いないか?」