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番外編 落ちぶれ男女の床事情!?

 その翌日は、前と同じギルドの依頼の下水清掃だった。

 以前よりも深い管に潜る。湿気が顔に張り付き、苔の膜が呼吸の端に渋い味を残した。壁一面に薄いスライムが蠢き、棒で剥ぐたびに泡立った。袋に入れて石灰をかけ、蓋を結ぶ。

 もしロウがいれば、こんな仕事は全部奴にやらせていた。こんな誰にでもできる仕事を、どうして自分がやらなければならないのか。そんな不満ばかりが募っていくが、もはや誰も代わりに盾になってはくれない。雑用をやってくれる人間も、もういない。気を利かせて一歩前に出てくれる奴も、いなかった。

 風向きが変わった瞬間、天井の亀裂から水が落ちた。

 頬に飛沫が散って、皮膚がじゅっと音を立てて縮んだ。水と思ったが、違った。酸だ。

 指先で拭えば、ぬるりと薄皮が動く。痛みが遅れて追いつき、歯を食いしばっても小さく声が漏れる。


「────……っ」

「ガリウス、大丈夫!?」

「……大丈夫だ、大したことねえ」


 シーラが慌てて駆け寄るが、ガリウスは手で制した。

 こんなことで心配されていては、何が元Sランクだ。ふざけるな。

 しかし、気持ちとは裏腹に、頬の皮が燻り続けていた。冷水で流し、布で押さえる。熱がいつまでも抜けなかった。

 仕事を終えて地上に戻る頃には、痛みは消えていたが、鈍い石の塊になって頬骨の下に居座っていた。

 教会は金を取る。冒険者カードを使えば多少はギルドの保険が効くが、今のガリウスにとって安くはない。昨日もシーラの頬の腫れを治すだけで、えらく金を取られた。

 迷った末に、ガリウスは治癒を受けなかった。今日の日当が、この傷の治療に消えるのはごめんだ。

 それからシーラと大浴場に寄って、汚れを落とす。本当はこんなことに金など使いたくないが、さすがに下水清掃の後は身体を洗わないときつい。ガリウスひとりなら耐えられるが、同室で暮らすシーラがうるさいので、仕方なかった。

 彼女は風呂が長いので、先に宿へと帰る。宿に戻る道すがら、店のガラスに映る自分の顔を見た。

 右頬に黒ずんだ痕。表面が歪み、薄い革のように光っている。

 見慣れた面構えのはずなのに、そこにいるのは別人のように、薄汚れていた。ここ数日で、ガリウスの表情は驚くほどやつれ、そして老けていた。

 宿に戻って目を瞑っていると、ほどなくしてシーラが帰ってきた。彼女はこちらを見て、ため息をひとつ吐いた。


「……顔、結局治さなかったの?」

「こんなのに金を使ってられねえだろ」


 短く返すと、シーラは肩を竦めた。

 ガリウスは瞳を開けて、卓の上の銀貨と銅貨をちらりと見る。

 これが、今ふたりが使える金。宿の支払いを考えれば、もっと少ない。


「……こういう暮らしをしたくなかったから、冒険者になったのにね」


 固いベッドに腰を下ろし、シーラがぼやく。

 彼女はそのまま上着を脱いで、やや湿った髪をふわりと撫でた。

 そんな彼女を見ていて、ガリウスの中で何かが蠢く。

 ――欲。

 風呂上りの姿を見たからか、妙に今日の彼女はガリウスをそそった。

 いや、昨日も本当は抱いていた。だが、あまりの疲労感から、眠気を優先させてしまったのだ。

 ガリウスは立ち上がった。寝台の縁に腰を下ろしているシーラの横に、黙って座る。


「……ガリウス? ──んっ」


 怪訝に眉を上げるシーラの唇を、奪う。もちろん、拒まれなかった。

 シーラはどちらかと言えば美人だ。目鼻立ちは整っているし、体つきも悪くない。昔から、彼女が自分に向けている眼差しに、薄い火が混じっているのはわかっていた。

 だが、これまでガリウスはシーラには手を出さなかった。何より、性格が悪い。言葉が刺々しいし、すぐに癇癪を起す。そういった心の棘は、顔にも滲むものだ。顔立ちを整っているのに、どうしてか歪んで見えてしまう。それがシーラという女だった。要するに、恋愛の対象にするには、どこかが引っかかるのだ。

 リナに嫉妬していることも、その嫉妬からロウに当たっていたことも、知っていた。そういったところを見て、やっぱりこの女には手を出さなくてよかったと思ったものだ。

 しかし……今はもう、贅沢が言えない。金もなく、娼婦にさえ相手にされないのだ。であれば、この女で満たすしかない。どのみち、この女だって他に行く宛がないのだ。もう一度這い上がるまでは、この女で我慢しよう。

 そう思い、肩に手を置き、首筋に口を寄せる。風呂上りだからか、シーラの肌は温かかった。微かに香油の匂いがした。


「……やっと、その気になってくれたのね」


 シーラがぽそりと言う。

 ガリウスは何も答えなかった。ただ彼女の身体を貪り、愛欲を埋める。

 彼女の口から艶めかしい声が漏れ、秘密の園から蜜が溢れ出してきたところで、ガリウスもズボンを脱ぐ。

 そして彼女の秘口に自分のものを当てがい、シーラを見下ろした瞬間──脳裏に、別の夜の顔が浮かんだ。

 リナ。

 行為の最中、一切ガリウスの顔を見ることなく、天井をぼんやりと眺めていた女。彼女はどこか遠くを見るように瞬きをして、小さく吐息を漏らしていた。

 キスには応えていた。拒絶もされなかった。しかし、その瞳は空っぽで、艶めかしい声など聞いたことがない。たまに声を漏らす時もあったが、それはどちらかというと振動で漏れ出た声、といった感じだった。

 ただただ、時間が過ぎるのを待っている顔。

 ガリウスが果てるまで、自分からは殆ど動こうとしなかった。たまに上に慣れと命令したけれど、全然一生懸命さもなく、ただ無表情で身体を前後に揺らすだけ。こっちの方が萎えてしまいそうで、結局ガリウスが上になった。

 リナのその空虚な目を思い出してしまったからだろうか。

 刹那、ガリウスの芯からふにゃりと力が抜けた。

 腰が前に進まない。前に進めても、ふにゃりと曲がってしまって入っていかんかあった。

 どうしてだ、と思う。先ほどまで、ガリウスは興奮していた。果てたいという想いは、今も持っている。それなのに、全く言うことを聞いてくれない。

 喉の奥に、酸っぱいものが浮いた。

 当然、快楽がくるものだと想定していたシーラにも、戸惑いが走る。先ほどまで恍惚に満ちていたその表情がふと冷静なものになって、身を起こす。そしてガリウスのそれを見ると……言葉を、漏らした。


「え……嘘でしょ?」


 その短い台詞は、刃物だった。

 胸骨の隙間に滑り込み、ガリウスの心臓の表面を浅く裂く。


「は、はは……ま、まあこういうこともある」


 ガリウスは無理やり笑ってみせた。口角が引きつる。笑っているつもりなのに、喉の奥から出たのは掠れた呼気だけだった。


「昨日から働き詰めだったしな。つ、疲れてるだけだ」


 言い訳は安かった。自分で言って、自分で傷ついた。

 シーラは、しばらく黙っていた。目だけが細くなり、頬の筋肉が小さく痙攣した。その表情に、ほんの僅かに軽蔑が混じる。


「……そう」


 そうとだけ言って、彼女は寝台の端へずれると、ガリウスに背を向けた。

 ガリウスは立ち上がり、窓を開けた。夜風が頬の痕を撫で、熱がわずかに引いた。遠くで犬が一声鳴いた。

 窓枠に額を押し付けて、木の冷たさが皮膚に移る。

 男としての自信は、誰よりも持っていたはずだった。いつでも女を求めていたし、これは握れば応えてくれた。

 今一度、握ってみた。

 ふにゃりと今日清掃したスライムみたいに柔らかい。そこには一切の硬さがなかった。一切も、だ。

 笑い声が、記憶の底から浮かぶ。


『テメェみてぇな粗チン早漏じゃ一生味わえねえような快楽に身悶えしてやがったよ。なんだ、悔しいのか? 女を喘がせられなくてよぉ!』


 ロウに向けて、自分が吐いた言葉。あいつをとことん傷つけてやるはずだった言葉の刃だ。

 しかし今、その刃はブーメランとなって、大きな弧を描いて自分の胸に戻ってきていた。

 リナは一度も喘がず、そして妥協した女(シーラ)の中に入ることさえできなかった。それが、今のガリウス。

 女を喘がせられなくて悔しいのは、自分だった。

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